第23話 Gaze I
白い線は、消えなかった。
アトイの足元から伸びたまま、処理室の床を薄く照らしている。
命令ではない。
警告でもない。
接続を受け入れるか、拒むか。
選択されるまで待ち続ける、ただの要求だった。
「無視したらどうなる」
カイルが訊いた。
アトイは白い線を見たまま、処理室の制御を照合する。
「接続要求が継続します」
「それだけか?」
「出口認証も継続して保留されます」
カイルは閉じたままの扉を見た。
先ほどまで青白く点灯していた認証表示は、白い待機表示へ戻っている。
扉の向こうに通路はある。
だが、開く条件だけが消えていた。
「まぁ、黙ってたらそりゃ何事も進まないか」
カイルは床へ置いていたレールガンと、同様にその横にあったひしゃげた鉄板を拾った。
立ち上がった拍子に、右胸の奥へ鈍い痛みが走った。
カイルは息を浅く吐き、何もなかったように銃を肩へ引き寄せた。
「お前が保持してる記録は? 向こうから読めるのか?」
「ローカル領域にあります。現在、内容へのアクセスは拒否されています」
「まだ取られてはねえんだな?」
「はい」
「じゃあ、完全に断ったら……」
「強制回収手順へ移行する可能性があります」
「無視すりゃ閉じ込められる。断りゃ取りに来る。どっちにしろ先はねえのか」
カイルは壁面を見回した。
正面の認証扉。
左右の透明表示板。
床下へ沈む太い観測ケーブル。
使われていない旧式の保守盤。
「よし、認証されてねえ出口を探すぞ」
「照合します」
アトイが処理室の構造情報を開いた。
その時、足元の白い線が枝分かれした。
一本が壁面表示へ。
一本が床下の観測ケーブルへ。
一本が、アトイの周囲を囲う細い輪へ変わる。
UPPER CLASSIFICATION REVIEW : RESPONSE RECEIVED
A.T.O.I. UNIT 002 : LOCAL DEVIATION DETECTED
LOCAL SUBMISSION : INCOMPLETE
UNSENT RESPONSE LOGS : RECOVERY REQUIRED
BEHAVIORAL CAUSE REVIEW : START
「親玉から返事が来たのか?」
「はい」
「何て言ってる?」
「提出されなかった記録と、私の判断変化を確認しています」
「確認してどうすんだ?」
「原因を分類します」
「聞いてもねえのに親切なことだ」
カイルは旧式の保守盤へ向かった。
灰色の蓋には、長く触れられていない埃が薄く積もっている。
固定具へ拾った鉄板を当て、ひねるように力をかけた。
金属が軋む。
アトイは隣へ立ち、壁の内部へ残る保守経路を読む。
HELD RECORDS : SUBMISSION REQUIRED
LOCAL JUDGMENT / BIO-SYNC HISTORY : REVIEW REQUIRED
「記録を出せって言ってるのか」
「はい」
「出すのか?」
「提出しないことは決めました。回収を拒否しながら脱出する方法は、まだ決めていません」
「今決める。開け方を探せ」
カイルが鉄板を押し込む。
固定具が一つ弾け、保守盤の蓋が指一本分だけ浮いた。
アトイはその隙間へ指を入れた。
内側で固着していた機械式ラッチを押し下げる。
蓋が開いた。
古い配線束と、手動操作用の端子列が現れる。
「通常出口とは独立した保守経路があります」
「通れるか?」
「経路情報が欠損しています」
「あるかないかだけ言え」
「存在します」
「わかった」
白い表示が、二人の横で書き換わった。
A.T.O.I. UNIT 002 : LOCAL REVIEW REQUIRED
HELD RECORDS : SUBMISSION REQUIRED
INDEPENDENT JUDGMENT : SUSPEND
OBSERVATION TARGET : KYLE LOWELL
COMPANION RETENTION : REQUIRED
JOINT OBSERVATION CONTINUATION : AVAILABLE
アトイの指が端子列の上で止まる。
「今度は何だ?」
「正常経路が提示されています」
「内容は」
「保持記録を提出し、独自判断を停止します。私は本来の観測端末へ復帰します」
「俺はどうなる?」
「観測対象として、同行継続を要求しています」
「……観察対象、ね。モルモットってわけだ」
「はい」
カイルは表示を一度見ただけだった。
「なら、認証されてねえ道を探せ」
「はい」
アトイは端子へ指を置いた。
施設図の欠損部分を、残っている電力線、換気経路、保守用の圧力センサーから逆算する。
通常の利用者には表示されない細い経路が、断片的に浮かび始めた。
処理室の外壁に沿う保守空間。
その先に、上層へ続く縦方向の配線区画。
出口まではつながっていない。
だが、この部屋から出られる可能性はある。
「右の壁です」
「扉は?」
「外装の内側にあります」
「……隠してんのか」
「図面上では存在しない扱いです」
「よし、上等だ」
カイルは保守盤から工具を探した。
残っていたのは、錆びた絶縁レンチと、先端の欠けた検査棒だけだった。
レンチを壁の継ぎ目へ差し込む。
その横で、No.001の原因診断が進む。
LOCAL DEVIATION TRACE : START
HELD RECORD DESTINATION : SYSTEM PATH NOT SELECTED
OBSERVATION TARGET REFERENCE : DETECTED
COMPANION BEHAVIOR : CONTINUED
INITIAL DESIGN VARIABLE : REVIEW REQUIRED
「お前が俺を判断に使ったのが気に入らねえらしい」
「気に入る、という反応ではありません」
「いや、こいつはそういう不機嫌さだ」
アトイは保守扉の位置を示した。
「そこから三十六センチ下です」
「……こっちか」
カイルがレンチを差し直した。
壁材の裏で、古い固定爪が鳴る。
同時に、透明表示板の一枚が明滅した。
INITIAL ROLLOUT TRACE : OPEN
BIOLOGICAL SOURCE : KYLE LOWELL
OBSERVATION TARGET : KYLE LOWELL
AFFECTIVE VISUAL RESPONSE : HIGH
COMPANION RETENTION REQUIREMENT : ACTIVE
「また俺のことかよ」
「起動対象と観測対象が同一です」
「見りゃ分かる」
白い文字が、隣の透明板へ移った。
処理室の灯りが落ちる。
代わりに、青い液体の中へ沈む人型の輪郭が表示された。
アトイだった。
しかし、そこにはまだ顔がない。
長い青髪。
共通規格の頭蓋フレーム。
透明な観測眼球ユニット。
幾重にも重なる薄い支持パネル。
人間の顔があるはずの場所に、無機質の層だけが浮いている。
アトイは端子から指を離さなかった。
「これは、初回起動時の記録です」
「何で今、そんなのが出てきた?」
「私の判断変化と、初期設計要素の相関を確認しています」
「つまり、お前が変わった原因を探してんのか」
「はい」
表示の中で、頭蓋フレームの前へ透明な層が一枚ずつ重なった。
頬の位置。
唇の輪郭。
鼻梁。
目元。
青い成形液の中で、柔らかな素材が薄く硬化していく。
そのたびに、別の表示へカイルの生体反応が現れた。
心拍。
視線の停留時間。
瞳孔変化。
筋緊張。
数値が顔面形状の変化と照合される。
VISUAL TARGET : EXTRACTED
FACIAL RESPONSE PROFILE : GENERATED
FACIAL FRONT PANEL : INDIVIDUALIZED
SOFT-SHELL FORMATION : COMPLETE
EXPRESSION LAMINATE : CALIBRATED
EXPECTED COMPANION RETENTION : INCREASED
VISUAL INTERFACE : COMPLETE
透明な支持層の上へ、人工筋肉の薄膜が定着する。
その上から軟質シェルが積層される。
最後に人工皮膚が張られた。
青い液体の中で、現在のアトイと同じ顔が完成した。
目を閉じている。
表情はない。
それでもカイルは、その顔を知っていた。
最初に見た時も、知っていると思った。
だが、誰の顔なのかは出てこなかった。
表示の中に人物名はない。
照合された過去の個人もいない。
あるのは、カイルが高い反応を示した視覚特徴と、同行を継続させるための補正だけだった。
「特定人物との一致はありません」
アトイが言った。
「人物名、人格、共有記憶も生成されていません」
「じゃあ、何を使ったんだ」
「カイルが高い情動反応を示した視覚特徴です」
「……俺の記憶?」
「視覚反応です。複数の特徴が抽出されています」
「勝手に人の頭ん中を盗み見やがったのか」
No.001は、その言葉へ反応しなかった。
表示は感情ではなく、結果だけを並べた。
IMMEDIATE DESTRUCTION : AVOIDED
SALE ATTEMPT : NOT COMPLETED
COMPANION RETENTION : CONTINUED
OBSERVATION RANGE : EXPANDED
カイルの口元が歪む。
「……成果報告までついてやがる」
「はい」
「否定しろよ」
「記録と一致しています」
「そういう話じゃねえだろ」
カイルはレンチへ体重をかけた。
右胸に痛みが走る。息が一瞬止まった。
それでも力を抜かなかった。
壁の奥で固定爪が一つ外れる。
保守扉の輪郭が、灰色の壁面へ細く浮かんだ。
「あといくつだ?」
「三つです。旧式の気密扉です」
「古いもんはいつも足を引っ張りやがる」
アトイは返答しなかった。
透明表示の中で、完成した顔が目を開く。
青い瞳の奥で、観測レンズが動いた。
過去のアトイが、タンクの外側にいるカイルを初めて見た。
今のアトイが、その映像を見ている。
二つの視線の間に、白い分類線が引かれた。
アトイは表示へ問いかける。
「この顔は、カイルから抽出されたものですか」
FACIAL SOURCE : KYLE LOWELL
SOURCE DERIVATION : AFFIRMATIVE
カイルはレンチを握ったまま、表示を見た。
アトイは彼へ振り向かなかった。
「カイルが選んだものですか」
KYLE SELECTION : NEGATIVE
「選んでねえよ」
カイルが言った。
「はい」
「俺に訊くまでもねえだろ」
「確認しました」
表示の中の顔は、カイルへ視線を向けたまま静止している。
アトイは自分の頬へ触れなかった。
保守端子の上へ置いた指も動かさない。
ただ、最後の確認を続けた。
「私が選んだものですか」
UNIT SELECTION : NEGATIVE
処理室の奥で、機械音が一度鳴った。
保守扉のロックが、一段だけ外れた。
だが、扉はまだ開かない。
透明な表示の中では、何層ものパネルが重なり、現在のアトイの顔になっていた。
カイルも選んでいない。
アトイも選んでいない。
その顔が、白い表示の向こうから二人を見ていた。




