第20話 Fractal IV
車体が軽くなる。
サスペンションが伸び、車輪の音がわずかに高くなった。
その後ろで、防砂隔壁が大きく歪んだ。
モールの腕が隙間から突き出す。
隔壁を左右へ押し広げ、空の操縦席が赤い空の下へ現れた。
軌道輪が高架へ入る。
その荷重で橋全体が沈み込んだ。
遠くの接合部から、金属が軋む音が連続して返ってくる。
「モール進入により、構造負荷が上昇しています。橋梁破断時、前方区画も連鎖損傷する可能性があります」
「都合よく後ろだけ落ちねえか?」
「推奨経路を検索します」
「やってくれ!」
高架は十二の圧力区画に分かれ、まともに生きているのは八つだけだった。
前方には交換用橋桁区画がある。分離できれば、後ろのモールだけを落とせる。
だが、モールの方が先に追いついた。
巨大な指が資材フレームを掴み、保線車を引き戻す。軽くした車両と、質量を減らしていない巨体の間で橋が沈み、防圧シェルへ亀裂が走った。
もう一方の腕から回収端子が伸び、保線車のネットワークへ接続する。
PHYSICAL RECOVERY LINK : ESTABLISHED
FORCED TRANSFER : STARTING
アトイの身体が止まった。
内部に保持していた記録が、接続先へ引かれる。
最初に選ばれたのは、最も古い記録ではなかった。
最も大きな記録でもない。
TRANSFER TARGET : SEVENTH SHELTER RESPONSE PACKAGE
『あなたが、覚えていて』
その声が、アトイの中で開いた。
「拒否します」
アトイは転送経路を閉じた。
だが、回収アームは車両ネットワークから別の経路を作る。
マスリデューサー制御。
走行制御。
保守端末。
すべてが同じ車体へ繋がっている。
「転送を停止するには、私を車両ネットワークから切断する必要があります」
「切れ!」
「経路制御と質量制御への接続も失います」
「手動でやる!」
「橋梁通過成功率を保証できません」
「保証じゃねえ!」
カイルは操縦盤へしがみついたまま、後ろを見た。
「お前はどうしたいんだ!?」
アトイは、流出しかけている記録を見た。
提出可能候補。
保持候補。
未判定。
まだ選んでいない。
選んでいないものを、一括で渡すことはできない。
「切断します!」
「やれ!!」
カイルは即座に答えた。
アトイは車両ネットワークを切った。
FORCED TRANSFER : INTERRUPTED
A.T.O.I. UNIT 002 : LOCAL ISOLATION
AUTOMATIC ROUTE CONTROL : LOST
MASS REDUCTION CONTROL : MANUAL
操縦盤の表示が一斉に消えた。
車両が急に重くなりかける。
カイルは配電レバーを掴み、マスリデューサー系統へと押し込んだ。
「これか!?」
「右から二番目です」
「こっちかよ!!」
隣のレバーを叩く。
車体が再び軽くなった。
だが、走行出力が落ちる。
モールが腕を引く。
車両は少しずつ後ろへ滑った。
「交換用橋桁区画まで、残り九十メートル」
モールの腕に引かれたまま、カイルは橋桁の分離継手を探した。
正規弾は残す。足元に残った太いボルトを、また低出力で撃つ。
一発目は固定ピンを外れた。
「前回着弾から左二十七センチ、下方八センチ」
「今です!」
二発目が固定部の縁へ食い込み、錆びた座金へ亀裂を作る。
モールが車両を引き寄せようと踏み込んだ。その自重で橋桁が折れ、巨体が谷側へ傾いた。
落ちながらも、指は資材フレームを離さない。
アトイが前方隔壁を閉じる。カイルは最後のボルトを、自分たちの車両の緊急分離ピンへ撃った。
中心は外れた。
だが歪んでいた固定座が横から弾け、フレームが外れる。
保線車だけが前へ跳ねた。
モールはフレームと高架の一節を掴んだまま、白い作業灯ごと砂塵へ沈んだ。
衝突音は返ってこなかった。
保線車両は前方区画へ滑り込んだ。
防圧隔壁が、失われた後部フレームのすぐ後ろで閉じる。
外気流入警告が止まった。
車両は傾いたレールを跳ね、次の継ぎ目を越える。
カイルは操縦盤にしがみつき、閉じる隔壁を振り返った。
「……落ちたな」
「機能停止は確認できません」
「確認しなくていい」
レールガンには即席弾による損耗警告が残り、保線車は前照灯と後部フレームを失っていた。それでも、正規弾と中継局までの走行時間は残っている。
BARREL CONTACT WEAR : INCREASED
BATTERY RESERVE : 53%
ESTIMATED VEHICLE OPERATION : 00:08:41
対岸のトンネルが近づく。
赤い空が、少しずつ狭くなる。
ピースヴァリスの谷と、遠い砂塵と、白い地上中継局の塔が、防圧隔壁の向こうへ流れていく。
保線車両は再び地下へ入った。
音が変わる。
光が消える。
火星の空は、後ろへ置いてきた。
地下へ戻ると、保線車両の損傷が急に目立った。
前照灯は片方が消えている。
後部フレームはない。
保護枠は隔壁に削られ、右側が内側へ曲がっていた。
モーターの音も一定ではない。
TRACTION OUTPUT : 38%
ESTIMATED OPERATION TIME : 00:08:41
「中継局までは?」
「推定七分です」
「ぎりぎりだな」
「はい」
カイルは操縦桿を少し戻した。
速度が落ちる。
追ってくる作業灯は、もう見えない。
車輪の音だけが、暗いトンネルを進んでいく。
アトイは手すりから手を離した。
その指は止まっている。
動作異常ではない。
内部処理へ資源を割り当てている。
PROCESSING LOAD : 94%
SUBMISSION CANDIDATE : 19
RETENTION CANDIDATE : 46
UNRESOLVED : 2,611
「終わったか?」
「いいえ」
「一件も減ってねえように見えるぞ」
「走行中にも、新規記録を受領しています」
「増えてんじゃねえか」
「はい」
「それで、どうすんだ?」
アトイは少し間を置いた。
「選別方法を決定しました」
「何だ?」
「設備状態、経路情報、電力記録、保守命令など、送信先が明示された非個人記録は提出候補とします」
「人の声は?」
「個別に確認します」
「二千件もあるぞ?」
「はい」
「終わらねえだろ」
「はい」
「……やるのか」
「私が、確認します」
カイルは前を見た。
暗い線路の先に、白い灯りが見え始めている。
「なら、そうしろ」
励ますような声ではなかった。
優しい言葉でもなかった。
それでも、アトイはその返答を保持した。




