第19話 Fractal III
カイルは手動レバーを蹴り、保線車を地図にない短絡線へ入れた。
行き止まりに見えた壁は、錆びた手動ロックを規格外弾体で割ると内側へ倒れた。狭い連絡線へ滑り込む。
モールは入れない――はずだった。
巨大な腕が壁材を剥がし、通路そのものを広げて追ってくる。
並行区間へ出ると、壁の開口からマニピュレータが伸びた。カイルは区画別質量制御で車体を片輪だけ浮かせ、指先をかわす。
「右からです!」
「今度は早い!」
モールが再び並ぶ。カイルは正規弾を温存し、ナットを低出力で撃った。散った一つが油圧管の保護板へ食い込み、腕の動きが鈍る。
「命中位置は――」
「止まったなら当たりだ!」
その時、アトイの内部で未送信記録が増えた。
UNSENT RECORDS : 1,046
PROCESSING LOAD : 71%
OBSERVATION DELAY : 2.8 SEC
EMERGENCY TRANSFER : AVAILABLE
処理負荷によって、前方の表示が二重に見えた。
現在の線路。
過去の線路。
閉じたはずの分岐。
崩落前の位置。
アトイは視覚補正をかける。
その間にも、彼女へ流れ込む記録が増えていく。
避難区画の空調停止。
補給線の損傷。
応答継続時間。
証言者名。
死亡確認なし。
救助経路なし。
一つ一つを開けば、また声になる。
だが、今は開けない。
開けば、前方が見えなくなる。
見なければ、何を渡してよいか決められない。
「ログを解放すれば、処理能力を回復できます」
アトイは、自分で言った。
カイルが横目で見る。
「渡したいのか?」
「不明です」
「じゃあ渡すな」
「提出可能な記録も存在します」
「なら、それはあとで出せ」
「すべての選別には時間が必要です」
「どれくらいだ?」
「不明です」
「一件でも終わったか?」
「提出可能候補、七件。保持候補、十一件。未判定、一千二十八件です」
「デカい仕事になるな」
後方からモールが迫る。
作業灯が車両の影を前へ伸ばした。
カイルはレールガンの低出力表示を確認し、操縦盤へ身体を預ける。
「なら、一件ずつやれ」
「到着までに完了しません。また、M.O.L.E.は停止しません」
「止めんのは俺がやる」
アトイはカイルを見た。
「カイルは、記録内容を確認していません」
「する気もねえよ」
「では、なぜ」
カイルは後方を見た。
モールの腕が、再び壁を掴む。
「お前が決めてねえもんを、勝手に持ってかせるな。気分悪いだろ」
アトイの観測レンズが、わずかに収縮した。
「それだけですか」
「理由には十分じゃねえか?」
「……はい」
アトイは前方へ視線を戻した。
提出可能候補。
保持候補。
未判定。
それはあらかじめ決められた、No.001系統の分類ではなかった。
アトイ自身が、どこへ置くか決めるための仮の区分だった。
車両が急な下りへ入る。
速度が上がった。
モーター出力よりも勾配が車体を引いていく。
前方の暗闇に、厚い防砂隔壁が見えた。
その中央から、赤い光が漏れている。
「地表光を検出しました」
「地上に出るのか?」
「線路高度は変化していません」
「じゃあ何だ?」
「地表が下がります」
アトイは旧線構造図を開いた。
「ピースヴァリス横断部です」
カイルの表情が変わった。
「ピースヴァリス……つまり、谷の上を通るのか」
「はい」
「この車両で?」
「はい」
「後ろのあれも?」
「そのため、停止しない場合は」
「……最悪だな」
防砂隔壁が開き始めた。
地下の闇へ、火星の赤い光が差し込む。
細い開口が広がる。
その向こうに、空があった。
防砂隔壁の向こうには、ピースヴァリスが広がっていた。
台地の内部を走っていた旧線が、谷の部分だけ高架として空へ露出している。曇った防圧シェルの向こうは赤い空、その下は底の見えない砂塵だった。
対岸には、地上中継局の白い塔が半分だけ地面から突き出している。
「近そうに見えるな」
「直線距離では」
「そういう時は遠いんだよ」
保線車両が高架へ飛び出した。
車輪の音が変わる。
地中では壁へ吸われていた音が、防圧シェルの中で長く反響した。
橋脚の継ぎ目を越えるたび、足元から谷へ音が落ちていく。
外では砂塵がシェルを叩いていた。
赤い粒が、曇った透明板の表面を横へ流れている。
アトイの視界に構造診断が重なる。
PEACE VALLIS CROSSING : ACTIVE
PRESSURE SEGMENTS : 8 / 12
BRIDGE STRUCTURAL CAPACITY : 34%
MAINTENANCE VEHICLE MASS REDUCTION : REQUIRED
M.O.L.E. FRAME : UNREDUCED MASS
「三十四パーセントだと?」
「現状の車体有効質量であれば、通過可能です」
「充電したままでもか?」
「いいえ」
カイルはレールガンのバッテリーを見る。
BATTERY RESERVE : 58%
十分とは言えない。
だが、最初よりは多い。
「正規射撃、何回だ?」
「現在出力で推定二回。低出力射撃を除きます」
「よし、一回あればいい」
カイルは作業用ケーブルを引き抜いた。
接点で青い火花が跳ねる。
焦げた絶縁材の匂いがした。
EXTERNAL DEVICE CHARGE : DISCONNECTED
TRACTION OUTPUT : 81%
MASS REDUCTION : 86%
POWER MARGIN : 8%
一回分だけ、残った。




