第11話 Descent III
カイルたちは、さらに下へ進んでいた。
下へ。
その表現が正しいのかは分からない。
通路は時々水平になり、時々緩やかに傾き、時々いつの間にか階層を変えている。
標識はほとんどない。あっても軍用略号ばかりで、まともな地名は書かれていなかった。
床面には、太い搬送レールが二本走っていた。
鉄道のレールではない。
もっと幅が広く、もっと無骨で、ところどころに固定用の爪が残っている。大型機材を載せて、地下の奥へ運ぶためのものだ。
そのレールの片側に、焼けた跡があった。
カイルはしゃがみ、指先で床をこすった。
地表にあるような赤い砂ではない。黒く炭化した粉が、薄く残っている。
「これは古いな……」
「はい」
「一体、何が燃えたんだ?」
「有機物、樹脂、軽合金、ナノマシン残渣。複数の痕跡が混在しています」
「まさか、人間も混じってるって言いたいのか?」
「可能性があります」
「……聞きたくねえことを、きっちりと言うなよ」
アトイは返答しなかった。
前方に、低いアーチ状の構造物があった。
ただの区切りに見える。だが、その手前だけ床の塵が不自然に薄い。壁の左右には、古い警告灯が埋め込まれている。
カイルは足を止めた。
「これは境界か?」
「はい。ここから先、都市側の記録密度が急落しています」
「つまり?」
「この先の記録は、ほとんど残っていません」
「……もう少し希望のある言い方は?」
「生還記録が極端に少ない、ということです」
「おい、悪化したぞ」
「表現を変更しました」
「意味が悪化してんだよ」
カイルはライトをアーチの向こうへ向けた。
何もいない。ドローンも、人影も、動くものもない。
だからこそ、嫌だった。
「前に潜った施設は、ここまでやらなかったぞ」
「前回の施設は、保管区画です」
「保管区画?」
「A.T.O.I. Unit 002の起動管理と保持を目的とした局所中枢と推定します」
カイルは眉をひそめた。
「待て。じゃあ、俺が最初に見たあのでけぇ端末は何だったんだ?」
「不明です。ただし、No.001本体ではなく、No.001系統に接続された下位中枢、または保管区画用の局所端末である可能性が高いです」
「あれが本体じゃねえってことか?」
「はい」
「母屋じゃなくて、受付と倉庫番を兼ねた端末ってことか?」
「近似です」
「じゃあ、あそこのドローンは?」
「防衛目的は、排除ではなく捕獲と保持に近いと推定します」
カイルは、あの時吸い込まされたガスを思い出した。
殺されなかった。
拘束もされなかった。
装備も奪われなかった。
ただ意識を落とされ、目が覚めた時には、アトイが起動していた。
「……俺は、殺されかけたんじゃなくて、捕まえられてたってことか」
「はい」
「どっちにしろ気分は最悪だな」
「ここは保管区画とは違います」
アトイはアーチの向こうを見た。
「保持ではありません。境界防衛です」
その瞬間、アーチの左右で古い警告灯が赤く灯った。
音はなかった。
警告音すらない。
ただ、その代わりに壁の継ぎ目が開いた。
「下がれ!」
カイルはアトイの肩を掴み、引き戻した。
直後、アーチの内側を横切るように薄い熱線が走った。
目に見えたのは一瞬だけだ。だが、通路の空気が歪み、床に落ちていた金属片が白く弾ける。
カイルはレールガンを構えた。
「どこを撃てば止まるんだ!?」
「制御中枢、特定不能。複数箇所から同時起動しています」
「最悪だな!!」
壁から小型の防衛ユニットがせり出した。
ドローンではない。
壁に埋め込まれた砲口。天井から降りる切断アーム。床面レールを走る遮断板。
施設そのものが、侵入者の形に合わせて噛み合わせを変えている。
カイルは砲口の一つにレールガンを向けた。
ミスリル合金のマスリデューサーが重量も反動も抑える代わりに、レールガンは常時電力を食う。
弾より先に、バッテリーが尽きる。
カイルはトリガーを引いた。
反動は小さい。着弾は正確だった。砲口は弾け、火花を散らして沈黙する。
だが次の瞬間、壊れた砲口ごと壁面パネルが内側へ引き込まれた。
別のパネルが滑り出し、同じ位置に新しい砲口が出る。
「んだよ、撃っても意味ねえのかよ!」
「破壊箇所が回収されています。長期防衛機構です。部品単位での撃破を想定していません」
「じゃあどうする!?」
「通過を推奨します」
「俺たちはいつも逃げてばっかだな!!」
遮断板が床を走った。
退路を切る動きではない。進路を分ける動きだ。
通れる隙間は一つだけ。アトイには抜けられる。カイルには、ぎりぎりだった。
壁面に、一瞬だけ文字が走った。
LOCAL HAZARD SUPPRESSION : EXTERNAL CLEARANCE
RECOVERY SYSTEM : ACTIVE
A.T.O.I. UNIT 002 DETECTED
EXTERNAL OBSERVATION INTERFACE : PARTIAL MATCH
ACCOMPANYING BIOLOGICAL SIGNATURE : LINKED
「何か出たぞ!!」
「照合反応です」
「通れるのか!?」
「私のみであれば、通過確率は上昇します」
「最低な回答だな!」
カイルは歯を食いしばり、アトイの手首を掴んだ。
「走るぞ!」
「距離制限を考慮すると、手を」
「分かってる。いくぞ、握れ!!」
アトイは一瞬だけ、カイルの手を見た。
それから、指を絡めるように握った。
細い手だった。
人間のように柔らかく、人間ではないほど正確に力を返してくる手だった。
「カイル」
「何だ!?」
「カイルも、手を離さないでください」
「離さねえよ。お前が倒れたら面倒だからな!」
「理由を記録します」
「するな! 後にしとけ!」
「保留します」
「そうしとけ!!」
二人は走った。
熱線が背後を焼く。
天井のアームが降りる。
壁の砲口が角度を変える。
カイルはレールガンを片手で支え、撃った。
狙いは敵ではなかった。遮断板の駆動部。完全破壊ではなく、一瞬だけ動きを遅らせるための射撃だった。
弾体が駆動部に穴を開け、遮断板が半拍だけ止まる。
その半拍で、二人は抜けた。
遮断板の向こう側に転がり込んだ直後、背後で隔壁が落ちた。
分厚い金属が床を叩き、熱と光と音をまとめて遮断する。
カイルは壁に背を預け、荒く息を吐いた。
「……建物が噛みついてきやがったぞ」
「境界防衛は継続中です。ただし、現在位置への即時攻撃は停止しています」
「なんで止まったんだ?」
アトイは答えなかった。
「おい?」
「不明です」
「本当に不明か?」
「はい」
声はいつも通り平坦だった。
だが、カイルの手を握る力だけが少し強くなっていた。
「アトイ」
「はい」
「手ぇ」
「接触継続中です」
「いや、ちょっと強い」
「修正します」
力が少し弱くなった。
それでも、離れない。
カイルは何か言いかけて、やめた。
境界の奥は、さらに静かだった。
だが、さっきまでの静けさとは違う。
空白ではない。
誰もいないのではなく、何かが息を潜めている。
アトイの青い瞳の奥で、観測レンズが細かく動いた。
一度、二度、三度。
焦点がカイルから外れ、通路の奥へ吸われていく。
「アトイ」
返事が遅れた。
「……はい」
「今、何を見てる?」
「観測端末群の応答です」
「見えてんのか?」
「一部のみですが」
彼女の声が、少し遠い。
カイルの胸が嫌な形で締まった。
ナノマシン同期の痛みではない。まだ痛みではない。だが、身体の奥で何かが引っ張られているようだった。
「おい、こっち見ろ」
「周辺危険検出を優先します」
「いいから俺を見ろ」
アトイの瞳が揺れた。
カイルの方へ戻りかけて、また奥へ引かれる。
「進行方向の観測精度が低下します。危険です」
「代わりに俺が見る」
カイルはアトイの手を強く握った。
「だからお前は、今は俺を見てろ」
「その判断は合理性を欠きます」
「知ってる。けど、お前が全部見ようとすると、俺の方が先に持ってかれる」
「カイルの循環反応が乱れています」
「それだよ」
カイルは短く息を吐いた。
「見えるもんを全部抱えるな。必要なもんだけ掴め。今は俺の手だけでいい」
「必要なもの」
「そうだ。全部じゃなくていい」
アトイはカイルを見た。
正確には、見ようとした。
その時、通路の奥で青白い光が走った。
壁面の古い観測端末が、ひとつずつ起きていく。
光は線になり、線は文字になり、文字はすぐに崩れて読めなくなる。
カイルには、壊れた表示にしか見えなかった。
だがアトイは、動かなくなった。
「何だ?」
「……照合不能」
「何が?」
「観測形式が一致しません。送信済みログではありません。通常保管ログでもありません」
壁の奥から、低いノイズが流れた。
音声ではない。
機械音だ。断線した通信の残骸。古い端末が勝手に鳴っているだけのように聞こえる。
だが、アトイは首を振った。
「違います」
「何が違う?」
「これは、受信ではありません」
青白い文字がまた浮かぶ。
観測端末。
応答待機。
未送信観測記録。
照合対象――不明。
それだけが、かろうじて読めた。
次の瞬間、文字は崩れ、壁面の奥へ沈んだ。
カイルはアトイの手を握ったまま、通路の奥を睨んだ。
「未送信、だと?」
「はい」
「中身は?」
「開けません」
「開けないのか、開かないのか?」
「現在の私には、分類できません」
アトイの声は、かすかに遅れていた。
だが、震えてはいない。震える機構があるのかも分からない。
それでもカイルには、彼女がどこか遠くへ持っていかれそうに見えた。
「アトイ」
「はい」
「戻れ」
「私はここにいます」
「なら俺を見ろ」
アトイはゆっくりとカイルを見た。
青い目の奥で、幾重もの観測レンズが収縮する。
その向こうに、まだ古い光が反射している。
「カイル」
「何だ?」
「聞こえています」
「……何が?」
「不明です」
「じゃあ聞くな」
「停止できません」
壁面の奥で、またノイズが鳴った。
今度はほんの少しだけ、声に似ていた。
意味はない。
言葉にもなっていない。
だが、誰かが何かを残し、それが長い時間を越えて、今ここで応答を待っているのだと分かる程度には、人間の形をしていた。
アトイはカイルの手を握り直した。
「カイルも、手を離さないでください」
「さっき聞いた」
「再要求します」
「しつこいな」
「はい」
カイルは通路の奥を見た。
逃げ道だと思って入った場所は、逃げ道ではなかった。
記録の外だと思った場所は、記録がない場所でもなかった。
ここには、送られなかったものがある。
誰にも届かなかったものがある。
届かなかったのに、消えずに守られていたものがある。
カイルは息を吐き、レールガンを構え直した。
「行くぞ」
「はい」
「聞こえるものを、全部持とうとするなよ」
「努力します」
「そこは約束って言え」
「約束の定義を要求します」
「後で説明する」
「では、保留します」
「ああ、そうしとけ」
二人は歩き出した。
背後の隔壁は閉じている。
前方だけが、古い光でかすかに開いている。
通路の奥で、もう一度だけ表示が浮かんだ。
SEVENTH SHELTER : SEALED
RESCUE STATUS : UNRESOLVED
SITE INTEGRITY : PRESERVE
カイルには英字のすべては読めなかった。
だが、その下に出た日本語だけは、かろうじて読み取れた。
第七避難所。
アトイはそれを見た。
読んでいるのか、聞いているのか、自分でも分類できなかった。
ただ、カイルの手だけは離さなかった。




