【第18話】左手の記憶(ヘリオス視点)
夜の訓練場は、月光だけが頼りだった。
静寂の中、剣を振るたびに空気が震える。
(……また、来てくれていた)
弓張月の夜。
闘技場の観客席に、変装したセレナの姿を見つけた瞬間——
胸の奥が熱くなった。
本当は、もう出場するつもりはなかった。
剣の腕を磨くために始めた“レオス”としての戦いは、
数回で終えるはずだった。
だが。
(……彼女が、見てくれている)
その事実が、すべてを変えてしまった。
剣を握る左手に力が入る。
セレナが見てくれるのは、
ヘリオスではなく“レオス”としての自分。
(本当の僕は……彼女を苦しませてしまうだけなのに)
胸が痛む。
それでも、彼女の視線が欲しい。
「……情けないな、僕は」
自嘲気味に呟き、剣を構え直す。
明日は、王城主催の武術大会。
国王が優勝者の望みを叶えるという、特別な大会。
(この大会で優勝すれば……
堂々と、彼女に告げられる)
本当の気持ちを。
本当の名前を。
本当の自分を。
隠し続けてきた想いを。
だが同時に、胸の奥に重い影が落ちる。
(……セレナ嬢は、レオスを見ている。
ヘリオスではなく)
嫉妬と自己嫌悪が入り混じり、胸が締めつけられる。
それでも——
彼女の前で、最後に一度だけ正直になりたい。
ヘリオスは、そっと鎧の胸元に触れた。
そこには、彫り直したばかりのデルフィニウムの紋章。
セレナの誕生花。
彼女の瞳の色。
「……これが、僕たちの花だ」
月光が紋章を照らし、青く輝く。
そして、机の上に置かれた紙に視線を落とす。
そこには、
明日の大会で使う“仮名”が記されていた。
セリオス
(……彼女の名前から、一文字だけ)
声に出すと、胸が熱くなる。
「……ずっと、そばにいたかったんだ。
名前の中にでも」
不器用で、臆病で、情けない。
それでも——
彼女を想う気持ちだけは、誰にも負けない。
シュッ。
ヘリオスは静かに剣を収めた。
(……明日、すべてが変わる)
ヘリオスは月を見上げた。
「セレナ……
どうか、僕を——見ていてほしい」
その声は、夜風に溶けて消えた。




