第3章 「我らは己が何者であるかを知っているが、何者となり得るかは知らない。」
青年は、
ゆっくりと瞼を開いた。
気づけば彼は、古びてはいるが、驚くほど柔らかな寝台の上に横たわっていた。
「……知らない天井だ……」
視界に映るのは、黒ずんだ染みがあちこちに残る、木造の天井。
埃はない。
だが、どこかくたびれた印象だけが、静かに漂っている。
「……やっぱり、あれはただの悪夢じゃなかったみたいだ……」
青年は、そう小さく呟いた。
「目、覚めたのね。
ほら、これ。
喉、渇いてるでしょう?」
そう声をかけながら、一人の女が、寝台の傍らに置かれた机の上へ、水の入ったグラスをそっと置いた。
「……あ。
あ、ありがとう……」
青年は礼を言い、すぐにグラスを手に取って、中の水を一気に飲み干す。
水を飲みながら、彼は視線を横へと動かした。
そこには、木の床に腰を下ろし、四振りの刀――四本の刀身を丁寧に手入れしている、先ほどの女の姿があった。
彼女の肌は白く、整った顔立ちは、はっとするほど美しい。
腰まで届く赤い長髪は、乱れ一つなく、丁寧に整えられている。
銀色の瞳は冷たく見えるが、先ほどの口調からは、不思議と冷淡さは感じられなかった。
血のように深い赤の衣装も相まって、彼女はどこか強い“謎”を纏っているように見える――だが、やはり、近寄りがたい感じはしない。
「なあ……
もしかして、俺を助けてくれたのって……君か?」
青年は、そう問いかけた。
「ん?
……ちょっと待って。
まさか、自分を助けた相手を、忘れたっていうの?」
女は、膝の上に置いた一本の刀から視線を外すことなく、淡々とそう返した。
「覚えてはいるんだけど……
その時は、意識も視界も、かなり曖昧でさ。
だから、念のため聞いただけだよ」
「……そう」
女は短く、それだけを答えた。
一本の刀を手入れし終えると、女は次に、四振りすべての刀の柄に、小さな鈴を一つずつ結びつけていった。
ちり、と。
ちり、と。
控えめだが、澄んだ音が、静かな部屋に小さく響く。
その間――青年は、寝台の上に腰掛けたまま、いつまでも返ってこない答えを待っていた。
「なあ!
いい加減、答えてくれよ!
俺を助けたのは、君なんだろ?」
青年は、もう一度問いかけた。
「へぇ~、すごいわね。
自分を助けた相手を忘れるなんて。
立派な才能よ。
正直、ちょっと羨ましいくらい」
鈴を結び終えた女は、そう言って肩をすくめた。
「ふざけるな!
今は冗談を言ってる場合じゃないんだ!」
青年は、思わず語気を強めた。
その瞬間――女は、ふいに片手を前へと伸ばした。
まるで、そこに“誰か”がいるかのように。
「ああ、誰か助けて~。
お願い、まだここで死にたくないの~」
どこかやる気の感じられない、白々しい演技だった。
「……そういうことかしら?」
女はそう呟きながら、再び意識を鈴へと戻し、一つ一つ音を確かめる。
その様子を見て、青年の顔は、一気に赤くなった。
「……ちっ。
もう、その話は忘れてくれ。
それと……さっきは助けてくれて、ありがとう。
いつか必ず、その恩は返す」
青年は、照れ隠しのようにそう言った。
「ははは。
いいわよ、そんなの。
それより――」
女は、窓の方へと視線を向けたまま、穏やかな日差しを体に浴びながら続ける。
「もう、前よりはだいぶ良さそうじゃない?
だったら、そろそろ家に帰った方がいいんじゃないかしら。
あなたがいなくなって、家族も、街の人たちも、今ごろ結構な騒ぎになってると思うわよ」
「……は?
家族?
俺の家族も、この世界にいるのか?」
青年は、戸惑いを隠せない表情で尋ねた。
「はぁ!?
冗談でしょ?
当然じゃない。
まさか、家族だけ都合よく消えるとでも思ったの?」
女は呆れたように言い放つ。
「ほんと、ひどい話ね……。
さあ、もう準備して。
さっさとここを出なさい」
「はぁ……。
正直言って、あなたの家みたいな金持ちの上流階級の家族と関わるの、私いちばん苦手なのよ」
「……は?
俺の家族が、上流階級?
しかも……金持ち?」
青年は、さらに困惑した。
「ええ。
だから、もう行きなさい。
私には、まだやることが山ほどあるの」
女はそう言いながら、手のひらをひらひらと振り、追い払う仕草をする。
「うーん……。
行く、のか?」
青年は頭をかきながら、気の抜けた声を出した。
「……はぁ。
今度は何?」
女は深く息をつく。
「あ、いや……ごめん。
実は……自分の家の場所、分からなくてさ……。
へへへ……」
女は、しばらく黙り込んだ後、もう一度、ため息をついた。
「あなたの家は、聖都の中心部よ。
皇帝の城の、すぐ近く」
女は、一切こちらを振り向かずに答えた。
「いや、そうじゃなくて……
俺、その“聖都”がどこにあるのかも、皇帝の城がどんなものかも、知らないんだ」
「それに……
今の俺は、自分の家がどこにあって、どんな形をしてるのかすら、分からない」
「……」
「……冗談、よね?」
女は、ゆっくりと問い返した。
「いや。
本気だよ」
青年は、妙に自信満々に答えた。
その返事を聞いた瞬間――青年が横たわっていた部屋は、一瞬にして、静まり返った。
「はぁ……今度は何なのよ。
予言の英雄が消えたってだけでも大騒ぎなのに、まさかその英雄――ウォレスが、自分の家への帰り道すら分からず迷子でした、なんて知られたら……街中が大混乱でしょうね」
女は、容赦なく吐き捨てるように嘲った。
「……は?
ごめん、誰?
ウォレス?
予言の英雄?」
青年は、完全に状況についていけていなかった。
「それが“あなた”よ」
女は深くため息をつく。
「……もういい。
さっさと出て行って。
正直、あの時そのまま死なせておいた方が、こんな面倒を見る羽目にならずに済んだのに」
そう呟きながら、女は四本の刀のそば、床にそのまま寝転がった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。
そんなに冷たくしないでくれ」
青年は慌てて声を上げる。
「さっき、俺の家族は金持ちの上流階級だって言っただろ?
だったら安心してくれ。
ちゃんと、あんたの仕事には報酬を払う」
青年は、胸を張って言い切った。
その言葉を聞いた瞬間――女は跳ね起きるように体を起こし、すぐに床に座り直した。
「……本気?
本当に、私に払うつもり?」
「もちろん本気だよ」
青年は即答した。
「見た目はこんなでも、俺だって、働いたのに騙されて報酬をもらえなかった経験がある」
「……はぁ。
思い出すだけで、無償労働って本当にきつい」
「しかもさ、家族の誰かが『お金を送ってほしい』って必死に頼んでくるのに、こっちはずっと送金してて……」
「その結果、自分はゴミ箱を漁って食べ物を探す羽目になるんだ」
「ははは……」
青年は頭をかきながら、乾いた笑いを漏らした。
その言葉を聞き、女は視線を床に落とし、小さく呟いた。
「……偉そうに聞こえたらごめんなさい。
でも……あなたの言いたいこと、少し分かる気がする」
「ん?
ごめん、今なんて言った?」
青年は笑うのを止め、聞き返した。
「……気が変わったって言ったの」
女ははっきりと言い直す。
「準備しなさい。
外で待ってる」
そう言って、女は立ち上がり、服についた埃を軽く払った。
「待つ?
……ってことは、もしかして俺を家まで送ってくれるのか?」
青年が尋ねる。
そして――長い会話の末、ついに初めて。
銀色の瞳を持つその女は、青年の方を振り向いた。
「ええ。
送ってあげる。
だから急ぎなさい。
外に出る時は、その服のフードを被って頭を隠すこと」
そう言い残し、女は家の扉を開け、先に外へと出て行った。
青年はすぐに、ベッドの横にきちんと置かれていた、すでに洗われ整えられた服に袖を通した。
「ん?
そういえば……あの巨人のせいで、こっちの世界に来た時、自分がどんな服を着てたのかちゃんと見る余裕もなかったな……」
「……って、この服、普通にかっこよくないか?」
「最後に、自分の好きな服を着たのがいつだったかも思い出せない」
「大抵、親に選ばれた服を無理やり着せられてたからな……」
青年は、目の前の服を見つめながら小さく呟いた。
それは、白いフード付きの黒い長袖の服。
黒のズボン。
そして、金色がかった黄色のアーマー。
手袋と靴も、すべて同じ意匠で揃えられている。
「……これ……俺には、かっこよすぎるだろ……」
小さく、そう漏らした。
「…」
「……いや、いや、いや。
過去の情けないことを今さら考えるな」
「今は、この新しい人生を楽しめばいいんだろ?」
青年は、自分自身に言い聞かせるようにそう呟いた。
そうして、以前の世界の服よりもずっと複雑な構造の服を、必死に着込んでいく。
「なんだこの服……
金持ちって、こんなアーマー付きの服を普通に着るのか?」
不満そうに愚痴る。
だが、先ほどの女の姿を思い出し、青年は首を傾げた。
「……いや、あの人も同じようにアーマーを身につけてたな」
悪戦苦闘の末、ようやく着終える。
「……よし、多分これで大丈夫だ」
「…」
「……あ、そうだ。
鏡」
家の中を歩き回り、古びた木造の家のいくつもの扉を開けて回り、ようやく――頭から足先まで映せる大きな鏡を見つけた。
「うわ……やっぱり、この服めちゃくちゃかっこいいな!」
青年は、素直に声を上げた。
だが――
「でも……」
「この顔は……」
青年は、しばらく黙り込み、自分の顔をそっと触った。
「……俺の顔じゃない……」
傷一つない、整った顔立ち。
空のように青い瞳。
朝日のような金色の髪。
指先に伝わる感触は、あまりにも現実だった。
そして――考えるより先に。
青年は、自分の頬を思い切りつねった。
「痛っ!?
馬鹿か俺!」
思わず叫ぶ。
その時――
「ちょっと、大丈夫?
もう出発するって、忘れてないでしょうね?」
外で待っていた女の声が、家の中に響いた。
「あっ、今行く!
ちょっと待ってくれ!」
青年はそう返し、慌てて髪を整え、すぐに家の外へと駆け出した。
家の外では、赤髪の女がベンチに座り、家の前に集まっていたたくさんの子供たちと遊んでいた。
「遅いわね。
まさか、寝てたんじゃないでしょうね?」
家から出てきた青年に、女は皮肉っぽく言う。
「……ごめん」
「どうでもいい。
行くわよ」
女はそう言って、ベンチから立ち上がった。
「ところでさ、子供と遊ぶの、好きなのか?」
青年は、遊ぶのをやめて自分の顔をじっと見つめてくる子供たちを見ながら尋ねた。
「ありえない」
女はそう言い捨て、青年を置いて先に歩き出す。
「ちょ、待ってくれ!」
青年は慌てて追いかけた。
その時――背後から、先ほど一緒に遊んでいた子供の声が聞こえてきた。
「お父さん!
予言の英雄がこの村に来たよ!」
「やったー!
ウォレス様が僕たちを守りに来てくれたんだ!」
別の子供が叫ぶ。
「……予言の英雄?
ウォレス様?
それって……俺のことか?」
青年は、心の中で呟いた。
次の瞬間、子供たちは一斉に歓声を上げ、それぞれの家へと走っていった。
そして同時に――青年を案内していた赤髪の女が、突然立ち止まった。
「ぐえっ!」
気づかずにぶつかった青年が声を上げる。
「ちょっと!
なんで急に止まるんだよ!」
だが、女は何も言わず、再び歩き出した。
「お姉ちゃん!
この村にウォレス様がいるって!」
幼い少女が姉に向かって叫ぶ。
「見ろよ!
七騎士の長がうちの村に寄ったぞ!」
村人の声が上がる。
ほどなくして――小さな村の子供たちや住民が、次々と家から出てきて、予言の英雄――ウォレスの姿を一目見ようと集まり始めた。
「ははは……
まさか、こんなに有名だとは思わなかったな」
青年は、少し照れたように笑った。
「……は?
だから、外に出る時はフードを被れって言ったでしょう」
女は振り返りもせず、不満げに呟く。
「え?
なんでだよ。
雨も降ってないし、日差しも強くないだろ?」
青年は、夜の月のように明るい笑顔で言い返した。
「……好きにしなさい」
女は、短くそう返した。




