食べる人の顔が見えない甘さ
王城からの使者が工房を訪れたのは、集落から戻って三日後だった。
革靴の音が、やけに大きく聞こえる。
「正式な依頼です」
そう前置きしてから、彼は巻物を差し出した。
そこには、数字が並んでいた。
「月に、五百個」
不器用なおじさんは、一瞬、意味を理解できなかった。
「……マカロンを、ですか」
「はい。王城内での常設提供と、貴族向けの贈答用として」
五百。
これまで一度に作った最大数の、何倍だろうか。
「材料費はこちらで用意します。設備の拡張も支援可能です」
条件としては、破格だった。
断る理由を探す方が難しい。
「名も、王城公認菓子として登録されます」
前世なら、喉から手が出るほど欲しかった話だ。
評価される。認められる。安定する。
「……少し、考えてもいいですか」
使者は意外そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「三日ほどで返事を」
扉が閉まり、工房に静寂が戻る。
甘い匂いの中で、不器用なおじさんは椅子に腰を下ろした。
「考える余地、あったか?」
自分に問いかけてみる。
王城専属。量産。名誉。金。
どれも、悪くない。むしろ、良すぎる。
だが、集落で聞いた声が、頭から離れなかった。
あまい。
評価でも、比較でもない。
ただの、感想。
翌日、試しに量産を想定した仕込みをしてみた。
卵白を大量に泡立て、計量を正確にし、作業を分業前提で組み立てる。
「……効率は、いいな」
失敗は減る。
作業は流れる。
だが、焼き上がったマカロンを見て、胸がざらついた。
どれも同じ形。
どれも同じ色。
どれも、間違いなく“正しい”。
味見をする。
美味しい。
はずなのに。
「……誰に食わせるんだ、これ」
王か。
貴族か。
贈られた先の、知らない誰かか。
顔が、浮かばない。
その夜、リーネが工房を訪れた。
最近は、装飾の仕事で王城に詰めているはずだったが。
「量産、始めるんですか」
視線が、並んだマカロンに向く。
「まだ、決めてない」
正直に答えると、彼女は少しだけ眉を下げた。
「……綺麗ですね」
「そうだろ」
自慢のつもりで言ったわけじゃない。
ただ、事実として。
「でも」
リーネは、一つ手に取ったあと、そっと置いた。
「前のほうが、私は好きでした」
理由を聞く前に、彼女は続けた。
「不揃いで、面倒で、効率も悪くて。でも……作った人の癖が見えた」
胸を突かれた。
「これは、誰が作っても同じです」
それは、褒め言葉でもある。
だが同時に、刃だった。
夜更け、一人で工房に残る。
オーブンの熱が消えたあと、静けさが重くのしかかる。
前世では、顔の見えない相手に仕事をしていた。
評価は数字。
失敗は報告書。
今世では、違うと思っていた。
違っていてほしかった。
だが、気を抜けば、同じ場所に戻れる。
安全で、正しくて、空っぽな場所に。
「……俺は」
呟いた声が、誰にも届かない。
甘さを作ることが、仕事になる。
それ自体は、悪くない。
だが。
食べる人の顔が、見えなくなったとき。
その甘さは、どこへ行くのだろう。
答えは、まだ出ない。
ただ、不器用なおじさんは知ってしまった。
この迷いから、逃げる選択肢はない。




