八、水族館へ
八、水族館へ
連日のうざったい雨は終わり、うざ蒸し暑い季節の入り口に差しかかった。あの見事なアジサイの道も色あせてきて残念な気持ちになる。
その代わり、空は地上からでもシアンのどぎつさを感じ取れるようになった。押し潰されそうな有毒性の空。それらひっくるめて、憂鬱な夏の始まりである……。
……魔術愛好会の部室にて。窓際でぐったりと携帯電話で松先輩おすすめのマジック動画を薄ら眺めていると、彼女がそろりと近づいてくるのが気配でわかった。
動画を止めイヤホンを片方取ると数珠の音が聞こえる。どれだけ感情を抑え込んでいるのか、苛立っているのか不安がっているのか、数珠の鳴り具合で量れるようになってきた。おかげで「これであなたも松マイスターだ」なんて美池先輩にからかわれたものだが、松先輩はというと、まじめに動画を見ろと注意しに来た訳ではなさそうであった。
「ところでオギ」
「なんスか?」
イヤホンのもう片方も取る。松先輩のしかめ面で口をもごもごさせている様は入れ歯をなくした老人のようである。ABコンビは拳を作って後援している模様だ。
松先輩は思い切ったように口を開かせた。
「あ、新たな魔術を開発するため、そのインスピレーションを生み出すために普段行かない所に行こうと思っている」
「はぁ」
「常に同じ場所にしか行かないサイクルを送っていると、新鮮な運も入ってこない。だからいつもと違うサイクルの生活を行ない、運を吸収する」
「はぁ」
「水族館に行きたい。連れて行け」
「話の流れおかしくないっスか?」
ABコンビが「〇〇〇、〇〇〇」と愉快に口をぱくぱくさせてボディーランゲージ。
ああ、『デート』のお誘いね。マジックのためだなんて松先輩らしい言い訳だと思わないか? 江井先輩が『いけ!』と俺の方にジャブをする。会長思いの素敵な二年生だ。
「いいですよ」
断る理由は特に見つからず、快く申し込みを受けてやった。松先輩は晴れやかな顔をするもすぐに我に返ったように仏頂面。口元がぴくぴくとにやついている。面白い人だなあ。
「じゃじゃあ次の日曜日で。その日オギもバイトないでしょ」
「そうスね」
「あとで時間とか詳しく調べておくから。だから、教えて、アドレス」
「ああ、いいですよ」
メールアドレスと電話番号を赤外線で交換した。松先輩は目をギンギンに見開かせ、携帯電話を持つ手は震えていた。江井先輩は小躍りしている。
「そんな訳でね。今日は私は早退します訳でね」
松先輩は小走りで部室を去る。こっそり廊下をのぞくと、肩の揺れ具合が洋々として『やったー!』と万歳して喜んでいた。
「春ね」
「夏だけど春」
このコンビは単に面白がっているだけのような気がしてきた。
◇◇◇
土曜の宇宙喫茶。休憩室にて。
今までのアルバイトの経験からいうと休憩室といえばロッカーだのパイプ椅子だの、質素で面白みのない煙草臭い所というイメージがかつてあったのだが、さすがヨハネス店長率いる宇宙喫茶。テーマは「オーロラの下でくつろぎタイム」であるらしく、床は淡いピンクのガラスのタイル、家具にはクリスタルの装飾。地下なのにはめ殺しの窓があり、ピンクとレモン色の空とレースのような白いオーロラ、銀色の砂丘が見える。空飛ぶ家と同じ原理なのかと思いきや、単なる映像らしい。ここはメルヘンチックなのに廊下はSF映画にあるような宇宙ステーション風の造りという奇妙なこだわりだ。
大きなため息が一つ。チューリップチェアに腰掛けたアルファルドさんが悩ましげな様子である。まるでローマのカフェテラスで一人待ちぼうけを食らっているかのようで。普段からナイフのようにクールでサバサバしている彼女だから、憂いでいる瞳は珍しい。声をかけようにも、近寄ると怪我するよと言わんばかりの雰囲気を作っていた。
「男ってどうしてこうなの……」
髪をかき上げて独り言まで発する始末で、わざととしか思えない。それが洋画の一幕みないになっているからたまらない。
「何かあったんスか?」
アクベンスさんにこっそり聞くと、チョキチョキとダブルピースをしながら言った。
「元彼が寄り戻そうって連絡してきたらしいの」
「え? アルファルドさん、いたんスか彼氏?」
なぜ意外に思ったのかというと、アルファルドさんといえばプライベートを明かさず、恋愛話に興味がなく、男をないがしろにしているヒトだからだ。典型的な女尊男卑で、それがマゾヒストの男性客に受けているからいいとして、彼女の男に対する価値観はとにかく低い。女性陣としか飲みに行こうとせず、レズビアンじゃないかと疑ってしまうほどであった。
「それがいたの。宇宙をまたにかけた義賊でね、彼女はお姫様であることを捨ててまで彼を愛していたの」
「お姫様スか……」
「ロマンス映画みたいでしょ?」
「そうっスね……。何で別れたんスか?」
「そりゃあ、彼が星ごとに愛人を作ってたからに決まってるじゃない。一夫多妻制の生まれだったとしてもショック大きいわ。あんたはメスなら何でもいけるんかーっ、ってね。わたしだったら大事なとこ切っちゃってるところよ。イェイイェイ」
イェイイェイじゃない。彼女は調子づいてべらべらしゃべる。
「地球で言うと五年ぶりらしいわ。彼は全ての愛人と別れてアルを選んだのよ」
「なんかそれ、都合よ過ぎやしませんか?」
「でっしょー? 何を勝手にトーナメントしてんのよって感じよね。優勝はアルファルドでーす、この愛を受け取ってぇー、ってなんでやねん! って感じよね。あ、ちなみに漫才見るのがマイブーム・ナウなのね」
何言ってんだこのヒト。『大藤の母』の時のミステリアスは微塵もない。外見が良くてもアクベンスさんはちょっぴり苦手だ。今も仙人が見えているだろうし。
「また殴って追い返せばいいのよ。ま、ずっとアドレスを変えないでいた彼女も彼女だけど。どっか期待でもして」
「聞こえてるよ、アクベンス」
いつの間にかアルファルドさんはこっちをにらんでいた。
「アドレスを変更してないのは、いつか役立つと思ってるから。奴は盗人なの。身も心を弄ぶ、簡単に純潔を奪う最低な女の敵。繋がりを保っておけば、いつでも捕まえて牢屋にぶち込めるじゃない。そして賞金を手に入れる」
「おっしゃるとおりでっす!」
アクベンスは安っぽい土下座をして、けろりと顔を上げる。
「でも一回殴った時そのまま突き出したんでしょ? また脱獄」
「アクべーンス!」
「すっいましぇーん!」
アクベンスはまた額を床につけた。ちょうどそこへサンシンが休憩室の戸を笑顔で開け、土下座をしている彼女と険しい表情のアルファルドさんを見るや、笑顔で無言のまま戸を閉めた。コメディである。
「男なんて……。もううんざりよ。孤独を愛して酒を飲む方がクールだわ」
冷ややかに脚を組み直し、頬杖を突くアルファルドさん。今までずっと自棄になっていたのだろうか。ペーソス漂う大人の女性の美しさであった。
◇◇◇
日曜日は快晴。窓を開けて下を覗いても怪しい雲はない。てるてる坊主を作ってやった甲斐があった。
果たして服はどうしたものかと、俺はクローゼットを開けてしばし突っ立っていたが、深く考え込まずに普段通りにコーディネートした。それから。
「今日はお留守番だ。いいな?」
鏡越しに仙人に言うと、彼はつまらなそうにベッドでごろごろ。あの初老のベーシストが持っていたダンディズムはない。格好悪い。
支度をして下に行くと、見覚えのない顔がいた。
「おはようございます。オーギガヤツ君」
「えっ、花御堂?」
「そうですよ」
俺と同じ肌の色をして、耳もあった。ギンガムチェックのポロシャツにジーパン。ドングリのような髪型と黒ぶち眼鏡だけは変わらない。首には双眼鏡とカメラをかけている。
「一体どうしたん? まさかまさかで実はそっちがすっぴんとか?」
花御堂は「まさか」と耳がついたカチューシャを取ってみせた。俺は気持ち悪いと思った傍ら、正真正銘のリアル宇宙人で安心する。
「これは地球人なりきりキットです。地球人の現社会を混乱させずに表で生活できるかが今の地球星籍取得できるボーダーラインですからね。宇宙喫茶の皆さんもほとんどこれを身に着けていましてね」
「え、そうなん? アクベンスさんもアルファルドさんも?」
「ええ。郷に入っては何とやらでしょう?」
ちょっぴりショックである。
「店長とマッニホールドさんはあれが素顔ですけどね。ちゃんとキットは所持しているんですよ。ほらほら、僕。どこから見ても東洋人としてしっくりくるでしょう?」
「ああ。でも今日に限って何で?」
花御堂は眼鏡を光らせる。
「今日南マリン水族館でウルトラマンショーがあるんです。イルカとシャチとの共演は見ものですよ。変装をしてないと周りがビックリして集中して見れないですからね。敵の怪物だと思われそうですからね。子どもたちに泣かれるのは不本意ですよ」
予定が被るなんてどういうことなん……。今更に他の水族館に行こうだなんて、それは急過ぎるだろう。一番近場なのはそこなのに。
「へ、へぇ……。一人で?」
「いえ。仲間と一緒に。チャンスがあればツーショットを狙います」
「好きなんだな」
「小さい頃からよく地球から輸入された番組を見てましてね、バイオレットスワンも仮面ライダーに憧れて買ったんですよ。ヒーローに憧れて地球に来たと言っても過言じゃないです。真っ先にライダーのヘルメットを買いましたよ。ちなみにクウガですね、オダギリジョーですね」
地球のテレビ番組が他の星でも放送されているのだから、俺たちが見てきたSFのドラマや映画の中に、リアル宇宙人の作品が紛れている可能性もある訳だ。よく未確認飛行物体や生物を撮影した動画を世間は批評しているが……。
「ところでオーギガヤツ君の今日の予定は?」
「いや、えーっと……」
俺は首をさすった。
「俺も友だちと出かけんの」
「どこへ?」
間を空けず問いかけるナスビ。
「ま、まぁ……、その場その場の流れだな」
「計画性がないですね。ちゃんと男性側がエスコートするのが地球人の礼儀でしょうに?」
「へ?」
「僕の予想では、アキラさんとデートでしょ?」
「え! えっ何で?」
「何でって。君がシフトに入ってない時は我々に相談してますよ。君の趣味とか、食べ物の好き嫌いとか。オーギガヤツ君は丼ぶりとレモンが好きで、それでメンマが嫌いですよね。最後に眉間にしわ作って食べてますよね」
管理が届かぬところで個人情報は漏れている。
「ええー……。マジかよ」
「マジですよ。オーギガヤツ君はオッケーなんですよね?」
「な、何が?」
「交際ですよ、交際。まだ返事伝えてないらしいじゃないですか。ちゃんと言ってあげるべきですよ。彼女はピュアなんです。ツンデレ……、いやツンデレではない、ですけどね。『別にオーギガヤツ君なんか何とも思ってないんだからね!』っていう感じでもないですけどね。ええ」
「おおう……! ううん……」
途中に組み込まれた花御堂の再現率が高い変声にたまげつつ、心の中で首を傾げる。俺は彼女のことをどう思っているのだろう?
「ノーならノーだとハッキリしてください。このままズルズル行って変に期待させてると、呪われますよ。テレビ画面からずるずるワープしてきますよ。白い服を着て」
「それは嫌だ……」
俺は花御堂よりも先に出発し、駅中のコンビニで雑誌を読みあさって時間を潰した。いい頃合いに『前から二両目に乗ったよ。』とメールが来たのでホームに向かい、電車に乗るや視線がぶつかった。
「松先輩、ですよね?」
「うん」
「なんか、いつもと雰囲気違うっスね」
「え、変……?」
「ちょっと後ろ見せてください」
彼女は不安げに背を向けた。シャンプーの匂いがした。ポニーテールの彼女はすごく新鮮だ。生え際は逆U字を描き、束ね切れなかった短髪と産毛が色っぽい、松先輩の白いうなじ。誰の差し金だ?
「問題ないです」
この日のために買ったのか、デニムのジャケットと膝丈のスカート、その下に黒のタイツという見慣れない彼女のスタイル。唇はほのかにピンク色で、随分と頑張ったと思った。相変わらず数珠は首にかけて握っていたが、それが彼女だと確信づける目印になった。
「新たな魔術を生み出すために、気持ちを新たに変える。外見も変えてみた。ラッキーアイテムはデニムの生地」
「さっきコンビニで読んでた雑誌に書いてありました、占いのとこに」
松先輩は「な、なんだと……」と、何てこったという顔を逸らして呟いた。
ぱっと見で開いている席がなかったから、俺たちは移動せずに向かい合わせで壁にもたれ立っていた。彼女は外の景色を見ていて、ポニーテールが揺れるのを俺は直視。視線に気づいた彼女は、また不安げに「やっぱり変?」と片手を後頭部に向けた。俺は至極真面目に「ほどいたら! 駄目っス」と声を出した。
電車からバスに乗り継ぎ、南マリン水族館に到着する。南マリンは埋め立て地で、この水族館も海に面していた。泰京ベイブリッジも見え、その先の海上遊園地も肉眼で確認できた。
浮き輪を腹にはめて直立しているイルカの像が門前にあり、そこで記念撮影するカップルに松先輩は前後左右と挙動不審。俺は気持ちをくみ取った。
「写真撮ります? デジカメあるんで」
「あのイルカにはスピリチュアルな空気が」
「はいはい。わかったっスから」
カップルが去ったのを見計らって松先輩の腕を引っ張る。彼女の腕は細かった。撮った写真を確認すると、そこには頬を赤らめ微笑む松先輩の姿。隣にいる実物は口をぽかんと開けて、陰険に眉間の溝を作って画像を見ていた。同一人物だとは思えなかった。
料金を支払い、淡いブルーの空間に入った。先輩の話によれば、数年前に大幅リニューアルしたらしい。天井が高く、ぼんやりと聞き流せるヒーリング系の音楽が響いていた。暗い通路にポツポツと明かりが埋め込まれていて、無邪気な子どもがしゃがみ込んでのぞき込んでいる。そういえばこんなに広い水族館に来たのは、高校の修学旅行以来だと俺は思い出す。
松先輩は頭をグルグルと動かしている。
「どれ見てんスか?」
「あれ」
「どれっスか?」
「あれ」
指の先を探した。銀色のオーロラが渦を巻く。彼女が操っているように見えた。
巨大水槽ではこんなやり取りだった。全体を見渡しては一匹の魚に注目して目で追い続ける彼女。その一匹の魚がどれなのか当てる俺。地味なゲームだったのに、楽しく感じたのはデイドリーマーの幻か、彼女の呪いか。
活動的な魚と静止している魚。稚魚と大魚。眩耀と暗躍。大群と孤独。プカリプカリと上昇する水泡。弾けている水面の外光。揺らめく鱗の色。生きている目。動かざる目。
この世界に時間の概念がないように思えた。もしくは極限に遅く流れているのかもしれなかった。外に一歩でも出たら、そこはもう数百年の時を流れていて、俺を知る者はいない。ただ一人、彼女を除いて。それとも、外光を浴びた瞬間に灰になるのだ。崩れ落ちて、崩れ落ちて。空に手を伸ばしながら叫んでしまう。一人は嫌だと。これぞドラマだと思う。シアンブルーの毒の犯された脳だと思う。性癖だと思う。
「可愛いっスね」
「どれが?」
「え? ああー……、あの魚とかどうスか」
俺は正気づく。松先輩が完熟トマトになって壊れる姿を拝むチャンスを逃した。
「私はあれの方がいい」
「そうっスね」
川中島が彼女の想いを暴きさえしなければ、俺は無知のまま、あるいは多少なりとも気があるのではと怪しむ程度で、のらりくらりと過ごしていたのに。いや、奴が自分を天使だと知らしめる最終手段として飛翔を行ない、お粗末な展開になっていたか……。
どうなっていたにしろ、俺は一年生で彼女は三年生。つまらないパフォーマンスをし続けるだけで結末を迎えていたかもしれない。そう考えれば、川中島はナイスパフォーマンスをしたと言えようか。
水族館の王者、サメ。ムードメーカー、ゴマアザラシ。そのライバル、ペンギン。魔法の絨毯、マンタ。
そして見覚えのある男、ジョンス。デートでもしているのだろうと勘ぐったが、それらしい彼女はおらず、またお一人様らしい。どいつもこいつも。
奴に気づかれては小恥ずかしい。俺は松先輩の手を取った。彼女は「えべべべべ」と奇語を発する。びっくりしたらしい。
「次行きましょ」
俺は構わず奥へ進んだ。次のエリアにはドーム状の水槽が天井にあった。
「わぁ……」
松先輩は感嘆の声を漏らした。瞳はチカチカと青き光華に照らされ、小宇宙が煌めいた。彼女の手首から熱い脈を感じ取った。
俺は胸を抑えた。じんじんと、刺されたかと錯覚してしまうほど痛くなった。体中の血がそこに集まったかのように熱い。血管が、振動しているようだ。
「すごいわ」
「はい」
クラゲのシャンデリアだ。プラネタリウムだ。個々が淡く光り、ひらひらと傘の部分を心臓が動くように開閉して優雅に動く。透明な体を持つ奴らは中身を見せびらかし、触手は流れに任せている。
俺はあのスカーフのような触手に刺されて痛いと感じているのではないか。クラゲの毒がシアンの毒を押しのけるようにして回ってきているのではないか。
「水槽の中にいるのに自由に見える」
「はい」
「クラゲにとって海も水槽も関係ないのかしら。広さっていう概念がないっていうか……」
「ええ」
「世界っていう概念がないのかもしれない。とにかく、自由があるだけなの」
先輩の声が心地よい。三半規管がぐにゃぐにゃだ。何もかも麻痺して、五感が支配されていくようだ。このまま胸に抱かれて死んでしまうかもしれない。それで魂は海へと……。
「サンシンが宇宙喫茶で言っていた。クラゲは宇宙の神秘」
はっと我に帰る。俺にとってサンシンというワードは現実に押し戻す強烈な作用があるらしい。マジなんちゅう話を彼女にしとんじゃ、サンシン。
「宇宙ねぇ……」
火星人か金星人か。太古の昔に宇宙からやってきて、地球に対応した姿に進化していった……だったり、ありえる話なのか。水槽という名の宇宙で、エイリアンたちは人間に囲まれながら生かされている。
「俺たちの実家、海が近かったっスから。よくあいつ学校帰りに海水を汲みに行ってましたね」
「今は飼えないわね」
「だからここでバイトしたいんかな」
サンシンはウハウハするだろう。そういえば、淡水に生息するクラゲなら、みたいなことを昔言っていたような記憶を持っているが、それはどうでもいい。
「今まで飼ってたのはどうしたの?」
「親には任せられないって言って、泣く泣く海に帰したって。そんでマジ泣きしたって。確か初めて飼ってたクラゲが脱走した時も一日中泣いたらしいっスね」
「脱走? どうやって脱走するの?」
「いや俺もそれにはツッコミ入れたんスよ。カメならわかるんスけど。帰った時にはいなくなってて、窓を開けたままだったからそこから逃げたんだ、って。小学生ん時だって言うからまぁ……、そう思い込んだのも無理ないスけどね」
松先輩は考え込む。
「……クラゲも空を飛ぶのかしら」
ポツリと。そこで隣にいた女児が「イルカさん見たい!」と親の手を引っ張る。
「そういえばショーがあるんけ……」
「イルカ」
松先輩は目を見開いて俺を見上げる。
「見に行きましょっか」
俺はまだ繋がっていた彼女の手を引いた。
野外プールへ移動すると、俺は花御堂に気づいた。正式には二番目に気づいた。一番目はがっしりとした腕にぴちぴちの七分袖(元は長袖だったのかも)を着た図体のでかい丸坊主の男。厳つく四角い顔をして、下から生える二本の歯が牙のように口からはみ出している。額には左右対称の二つのこぶがあり、角が飛び出してきそうだ。その隣に花御堂が座っていた。さらに隣には丸坊主の男ほどではなかったが、ハ虫類顔をしたひょろ長の大きな男がいた。
一見ヤクザに絡まれたオタクである。奴らの周りは不自然に空席で、それなのに松先輩は一列飛ばした前席に座った。おいおい……。
花御堂は彼女に話しかけようとはしなかった。奴も先輩に気づいていない……いや気づいている。俺を見て眼鏡を光らせ、ニヤリと怪しく笑った。あそこに変質者がいますよー。
俺はぎこちなく笑顔を返し、松先輩の隣に座る。後ろの三人が無性に気になる。
「チキュウさんチキュウさん。さっき連絡があったんですがねぃ」
独特の高い声。ハ虫類顔の男だ。
「地球さん?」
松先輩が反応して振り返ろうとした。俺は慌てて彼女の顔を両手で押さえた。
「あうあうあうあうあうあう」
キスされると思ったのか、顔を完熟トマトにしてうろたえた。本日一番の真っ赤っかです。
「ち、違いますよっ。知らない男衆を興味本位で見たら目ぇつけられますって」
後列に聞こえないように弁解した。やばい、俺も顔赤いかも。
「で、でででも地きゅきゅさんって」
「気のせいです。それは、気のせい、です」
笑いをこらえた。湯気が毛穴から噴き出すのではないかと思うほど、先輩の頬は熱い。解放すると彼女は「ふううううーう」と顔を両手で隠してうなだれた。俺も顔から火が出そうだった。
このやり取りの間にも後ろでハ虫類顔の男はしゃべっていた。
「時期的にもうそろそろ、月を通過するらしいんでねぃ。軌道をちょくちょく見といた方がいいですぜぃ」
「そうですか、了解です」
花御堂が答える。語調から察するに、花御堂の方が立場は上なのだろう。
「あとちょいと気になるんが。変な電波をキャッチしたんですよ。ああいや、ほんとちっぽけなもんですよ。それがちょうど軌道上に」
「解析はできたんですか?」
「へい。メーカーはムラタニ楽器店だと思うんですがねぃ。音声の方は地球全言語と該当しない、と思っていると、途中で日本語が入ってましてねぃ」
「ほう」
「みなさま。大変長らくお待ちいたしました!」
女性アナウンスによってリアル宇宙人の会話は中断された。俺は続きが気になったが、松先輩が「イルカ! イルカが出た!」と無邪気にさすってきた二の腕に集中してしまった。リアル宇宙人らも水族館のアイドルにちょいちょい歓声を上げ、子どもに負けず劣らず興奮していた。
「今日は、私のわがままに付き合ってくれてありがとう」
電車の中で松先輩は言った。
「いえ、俺も楽しかったっス」
会話が途切れ、風景を見た。揺れる音が何かしゃべれと急かしているように思えた。
「また」
静寂が耐え切れなかったのか、松先輩は真顔で渇いた声を出した。
「また私。私は会長だから、わがまま言うかもしれないけれど。その時は、よろしく、はい」
「ああ、はい。もちろん」
「これも魔術愛好会の活動の一環だから」
「それだとあの二人も呼ぶ必要がありますけど?」
「しまった……」
無理やり会長の権限を濫用しようとした松先輩に、俺はくすくすと笑った。彼女は「え?」と気の抜けた声を漏らす。
「先輩って、こうやって接していると面白い人っスね」
破顔したままの俺に「おもしろい……?」と怪訝な顔をする無自覚な松先輩。
「うん。つまらなくないってことっスよ。それって人間関係に大事なことじゃないっスか?」
「そう、ね……。でも私、オギのこと面白いだなんて思ったことない」
悲しかった。
「じゃあ何て思ってます?」
「オギは……、オギよ。オギは、オギよ」
何か言おうとしたのは確かだった。西日で彼女は目を細め、まばたきの回数が増え、まつ毛が震えている。
「それじゃあなんか寂しいんで、もう一言追加しましょうよ」
「それ、じゃあ……。オギは、優しい男よ。今まであった奴の中で、一番」
無難な答えだったが、飾り気のない言葉だと思う。
「私は、アスター女学院に通っていたから、男子と関わったのは小中だけだったし。それに、怖いし。本当は女子大に入りたかったけど、落ちたし。泰大に入ってからも、できるだけ男子を避けてたんだけれど。オギは、優しいから」
「優しいっスかね? 俺」
「オギは覚えてないかもしれないけれど。あの時、チラシ落とした時、オギは拾って戻ってきてくれたから、優しいと思った」
俺は勧誘期間の記憶を巡らした。確かに、俺は紙を一枚拾った。勧誘なんてどうでもよかったから表も見ないで、しゃがみ込んで紙を集めていた彼女の足元にそれを置いたのだ。『はい、これ』と顔も見ずに素っ気なく。
「ああ、あの時っスね! 思い出しました。あれ松先輩だったんスね!」
俺は慌てた。あの時はかなり気だるい態度を取っていたはずだ。悪い印象を彼女に与えてなくてほっとした。
「優しいなって思ったから、名前だけでも知りたいって思った。だからオギの出る講義にこっそり入った」
「え!?」
「それでサンシンがオギのことをオギって呼んだから、名前は『小木』なんだと思った。それでストーカー行為をしてはいけないって、このパワーストーンがスピリチュアルな忠告をしてくれたから、先生が来る前に出て、お手洗いに入って顔を洗った。ついでに水で髪のぼさぼさを直した」
「んんん?」
何で顔を洗う?
「ごめんね。ストーカー行為をして」
本当に申し訳なさそうに言うから、俺は困った。
「天罰が下ったのよ。私的な感情で……。天使が私の前に現れて、公衆の面前で私の思いを晒したのが罰。恥ずかしくて死ぬかと思った。公開処刑になるかと思った」
川中島が来たのは俺のせいです。これもまた本気で言っているようだったから、俺はツッコミを入れることもできず、肩を震わせて笑いを堪えるしかなかった。
南大藤駅に着いて、俺だけが下車した。
「それじゃあまた、明日。新しい魔術、浮かぶといいっスね」
挨拶をすると、松先輩は微妙な表情をして手を振った。
「まさかウルトラマンがシャチにまたがるなんて予想外ですね」
珍しく勝手口から帰ってきた花御堂は耳カチューシャを外しながら言う。
「残念ながらツーショットは諦めました。子どもが優先ですからね。これが大きなお友だちのモラルです」
残念と言う割には満足げだ。
「あの後、あの二人とどうしたん?」
他人丼を食べながら俺は尋ねた。
「カラオケでウルトラマンシリーズを歌いまくってました。盛り上がりましたよー」
水族館の件を知らない川中島が「む? なぜウルトラマンがシャチにまたがるんだ?」と疑問を口にするが、俺は無視した。
「ところでオーギガヤツ君。あの後アキラさんと発展しましたか?」
「あ、いや……」
「なかなかいいムードで。ボディタッチもしてて。あのままキスするのかと思いましたよ。しちゃえば良かったのに、なんて煮え切らない」
「いやいや、アホかお前。人前でできるか」
「そうですか? まぁ初デートですから? 手はちゃんとドッキングしてましたね。キュンキュンしちゃいました」
「まぁ……」
川中島が「む? オーギガヤツ、マツアキラとデートしたのか?」と言うが、俺は無視した。
「告白したんでしょ? もちろん」
言葉を濁すと、花御堂は呆れ顔になる。
「まさか愛してるのアの字も言えてないんですか?」
「いやいやいやそんな。重いだろ」
「言葉に重力はありませんよ」
水族館でお土産を買い、その後は適当な喫茶店で昼食を取り、ウィンドウショッピングをし、最後まで他愛もない会話をすることができただけでも褒めてほしい。いざとなって素直になれないのは俺も先輩も同類のようだ。
花御堂の眼鏡が光った。
「さらにまさかですけど。うぶですか?」
「ち、ちっがうし!」
「何だオーギガヤツ。両想いじゃないか」
「お前は黙ってろや」
「年上にお前と言うな。ハクトーさんと言え」
「ほら、いるじゃないですか。『言葉にしなくたって、わかるだろう……?』っていうパターン人。通じる人と通じない人がいるでしょう? ね? オーギガヤツ君だってまずは言葉にしてくれないと結局はどうなのかモヤモヤするでしょ? テレパシーができるというならともかく、できないでしょ?」
「童貞なのかオーギガヤツ」
「ああもううるせえええええええっ!!」
俺は喚いたがマイペースなリアル宇宙人と自称天使には効果がない。
「別に恥じることではないですよ。やっぱりそういうことはもっと愛と信頼を深め、攻撃性をなくしてからですもんね。ええ、君は正しい」
「今まで付き合っていた彼女はいないのか?」
「彼女ぐらいおったし! 二人交互してうぜぇーぞ、あほんだらぁ!」
俺は羞恥心のあまり、花御堂にハ虫類顔のリアル宇宙人が話していたことを詳しく聞くことをすっかり、本当にすっかり忘れていた。それどころか仙人をベッドから蹴り飛ばし、布団の中で悶え苦しんだ。




