七、嘘
七、嘘
忘れ去る前にイロハ 正しておこうか俺のルール
扇投げるならけして 枕に当ててはいけないんだ
勝負はここぞの場面 平均超したら褒めてくれよ
高得点ならもっと 天にも昇る抱擁ください
……俺は古びたステージの隅でアコベを弾いていた。俺が作詞した曲である。作曲は誰がしたのか忘れた。インターネット上で落ちていたものを適当に拾って無許可にリリックを落とし込んだだけに過ぎない。
作詩をしてみたのだけどいかが? と、今更になって報告しに行こうにもホームページは閉鎖され、残されたトップページに今まで来てくれた人々へのお礼の一曲がしんみりと流されていたのみであった。
なぜ閉鎖したかは諸事情の三文字で済まされていた。楽曲作りは続けていくらしく、いつかどこかでお会いしましょうと締めくくられていて、置いてきぼりを食らった気がした。何にせよ、このリリックはこの曲に乗せて世に出ることはないので、わずかばかりの悔いが残った。
なあ、いつまでも 浮き足立ってなんかいられないさ
洗い直す俺のいかしたスニーカー
なあ、いるから 言葉が欲しいなら言うさ
いくらでも君の心 焦げつくほど
あらかじめ一言残しておけば何か変わったのではないか。何日かはそれを考えた。一体何を変えることができたのか、そんなものは机上の空論に過ぎない。何らかの変化をもたらすほどの影響力が俺の詞にあったか。当時の俺は余程の自信家だったらしい。
その有り余る自信のせいか、俺は音楽を思いのままに操ることだってできる。エレキギターやドラムやキーボードや、トランペットにトロンボーンにサックス。宙に浮かせて音を奏でさせることができる。
――お前、マジでプロ目指してんの?
幻聴である。
俺には影響力などない。音を響かせているのは影だ。人影がある。こいつらは楽器の影を演奏しているようでもあり、踊っているようでもあり、あやしているようでもあった。俺が演奏を止めてもこいつらは勝手でやめないだろう。
この影は誰で、そして誰が歌っているのか。マイクスタンドの足に絡みついている影は何だ?
二重にも三重にも聞こえてくる声。トールのような気もする。そう思うと影にヒョウ柄が浮かんでくる。ヒョウがマイクスタンドにじゃれているように見えてくる。
――マジでプロなんか目指してんの?
曲を遮るように客が野次る。部活動を共にした奴らだ。奴らはにやにやと俺の孤独を拝んでいやがる。
夢を共有していたと思っていたのに、上辺だけだったというのか。俺の夢は絵空事で、砂上の楼閣だったというのか。
ケラケラ笑っている。
もてあそびやがったのだ。どこまで本気だったのか試して嘲笑っていやがったのだ。
ゲラゲラ笑っている。
許せなかった。俺を裏切り、いつまでも恥をかかせようとしているこいつら。
ピックを持つ手は震え、演奏がままならなくなってくる。俺は覆没した夢想家だというのか。
大爆笑だ。
それなのに、トールは歌っているのだ。
夢幻か開錠した空中楼閣
指図はすんな! 輝かしい朝日を手に入れて
立ち止まらず 振り返りもせず 燃やせ俺の魂
赤く青く闇を照らして
ステージが赤ヒョウ柄に染まる。声援が聞こえる。でもまだ笑い声が聞こえる。
俺はとうとうアコベを振り上げる。爆発した感情に任せて奴らに向かって投げつけた。勢いよく飛んだアコベはスローモーションになった。前列から奴らは消え、天使がアコベを受け取った。奴の所にスポットライトが当たった。
「オーギガヤツのベースに何をしている」
「もうそんなもんいらねーよ!」
楽器は演奏をやめて一斉に床に落ちた。背景は砂となって崩れ去り、真っ青な空が現れると楽器たちは彼方へ吸い込まれていく。
「オーギガヤツにいらないと言う権利はないぞ。これはオーギガヤツのベースだ。勝手に捨てるな」
俺は歯を食いしばる。どこまでも上から目線の奴だ。怒りは蒸気となって顔から噴出しそうになった。
バックステージから誰かが来た。
「返せま。それは俺んだ」
そいつの顔を見た。
「何だ、お前」
俺と対して変わらない年のようだったが、姿は色あせていた。
「俺はオーギガヤツだ」
知っている。写真で見たことがある。
「親父……」
俺は空に引っ張られた。扇が閉じるように昼と夜がぐるぐる回って、仕舞いには夜が双方から押し寄せて潰された。
コツリ。
◇◇◇
……世界がさかさまだ。クールに思いながらの『犬神家の一族』の湖さかさま死体の状態。部屋が明るい。まだ七時過ぎだった。
額の汗を拭う。床にぶつかった衝撃で首が寝違えてしまったらしい。嫌な夢を見た気がするが思い出せない。とにかく思い出せない。
トゥデイ・イズ・サタデー。アルバイトもない。だらけて二度寝を楽しむべきところをすんなりと諦め、ベッドからずり落ちている重い半身を起こさせた。
また誰かがあの玄関をノックしている。そんな気がしたからだ。脱いだシャツで汗ばんだ上半身を拭き、着替え、廊下に出るとリビングを見下ろす。
確かに客人は中にいた。なぜ誰も玄関の鍵をかけておかないのか、現在のセキュリティ意識に欠けている。
今度は女のヒトであった。金細工の髪飾りと指の装身具。朱色と青色、そして灰色をあしらった衣装を着込んだ黒い顔の女。黒い顔といっても、日焼けサロンで焼いた肌よりも、テレビで見るような民族の肌よりも黒い、炭のような黒。これが黒色なのだと紹介すべき決定的黒をした女……。
彼女は中をじっくり観賞していた。その佇む姿、風格。上流階級である。鼻唇溝でさえ気品に満ちあふれ、おばさんと呼ぶのは大変失礼厚かましく、貴婦人と呼ぶのが正解だろう。知る映画でいえば、『ラストエンペラー』といった歴史映画に出てきそうな存在感といえよう。
黒顔の貴婦人は俺の方を向き、黒唇の端を流麗に吊り上げた。俺は碁石のような瞳に圧倒され、背筋を伸ばした。
「その者、雉子をこの場に連れてきなさい。あの扉、我の力では開けられん」
「は、はい」
只事じゃあ、ない。彼女は雉子よりも断然に格上だ。俺は早々と階段を下りると、花御堂が眠気眼をこすりながら二階から顔を出してきた。
「オーギガヤツ君、客人ですか?」
「ああ。お茶頼んだ! ちょっとばかしお待ちください」
俺は彼女に愛想笑いを浮かべた。
トウキョウスカイホームは営業前。俺は「ああもう、ああもう」とその場で心急いてから、アジサイの道を通って裏へと回った。ほんのりと花の香りがする。ハグロトンボを手で避けて木のドアを開けた。
「雉子おっけ!?」
「扇ヶ谷様! おはようございます。雉子さんならお水をやっています」
はたきを持って縁側に現れたおっさん。探すと、雉子はジョウロを頭の上に抱え込んで緑の陰に隠れていた。
「やぁ、扇ヶ谷君……」
だから何で隠れるげんてま。
「真っ黒い顔の女のヒトがお前を呼んでんぞ。迎えじゃないがん?」
「真っ黒い顔の……、女の、ヒト……?」
雉子の赤い顔がさっと青くなり、嫌嫌期に入った。とにかく怯えて首を振るので、説得するのに十分。やっと立ち上がってくれて、家の前まで連れ出すのに五分。待たせているのにまずい。
おっさんの麦わら帽子で顔を深々と隠し、勝手口から中の様子をおっかなびっくりのぞいてすぐ閉める雉子。彼は揺々として、情けない声を出す。
「うわわ、やっぱり……。鷽姫様だァ……」
「ウソヒメ?」
「ぼくの上様に当たる天女です。まさか地上に降りてこられるなんて……」
正式には家の中は地上に当たらないと思うが、そんなことはどうでもいい。なるほど、天女か。またとんでもない者が訪れたものである。あの玄関はあらゆる世界の存在を招くことができるのだろう。
「上司なら待たせたらまずいですね。さ、雉子さん」
おっさんの優しい鬼畜な後押しで雉子は家の中に入る。
「雉子」
「は、はいィッ!」
麦わら帽子を取った雉子は直立不動。翼の先までピンと伸ばしていた。
「後ろの者らがつっかえている。もっと中に入るがよい」
鷽姫様の命令に、雉子はぎくぎくと前進。俺とおっさんが靴を脱いでいると、花御堂が近寄り「一体何者ですか?」と俺に耳打ちする。俺も「天女だ。雉子の上司。鷽姫様だ」と小声で返す。
川中島は台所にいて、小皿を片手にトーストを立食している。おいこら。
「翼を見せよ」
川中島の無礼なんか眼中にないらしく、鷽姫様は威厳あふれる笑みで雉子に言った。雉子は翼を広げる。
「翼は治っているようだ。なぜ戻らない?」
おっさんの献身的な手当ての甲斐あって、雉子の右の翼は完治していた。彼の身に何かあったということは鷽姫様も知っていたのだろう。
「翼はあちらの方に大事に懸けて介抱して頂き、お陰で良くなりました。で、でもまだ飛ぶ練習の」
「練習〝の〟ぉ!? 練習〝を〟ではなく!?」
にわかに鷽姫は目を見開かせ、笑顔を崩さず怒鳴った。叱咤は疾風となって襲い、俺の髪を乱暴にする。荒肝を抜かれた雉子は麦わら帽子を手放し、麦わら帽子は風に乗って花御堂の顔に引っかかる。これが天女の力。ていうかこのヒトマジ怖っ! てか、何で今怒ったん!?
「れ、れれれ、練習〝を〟してませんッ!」
雉子は上擦った声で修正した。彼の背中が恐縮し震えている。
「雉子よ。我の一番良しとしないものは、何だ?」
「あ、あの、えと……。う、嘘を、つ、つかれるの」
「ではなぜ嘘をつく!?」
風に加えて横雨が吹き荒れた。アクベンスさんの言っていた嵐というのはまさかこれなのか?
「お前は正直に話して怒られるよりも嘘をついて尚怒られる方がましだと思っているか!?」
猛威を振るう雨風。神々の世界となると説教の規模も大きい。こんなヒトにこっぴどく叱られるとわかっていたなら、誰だって帰るのをためらう。俺とおっさんと花御堂は鷽姫様の轟然たる怒鳴り声を恐れ、台所まで避難した。雉子は身動き一つ取れず戦いている。
「雉子よ。訳を話すがよい。なぜ天に背くような真似をする? お前は雉の中でも選ばれし雉だというのに」
穏やかな天候。がんばれ雉子。俺は握り拳を作る。
「ぼ、ぼくは、自由になりたいんです……」
上様に目を合わせられず、俯いたまましゃべる雉子。
「お前の言う自由とは何だ?」
「四六時中、相手に気を使うのは、あ、わ、辛いです……。皆ぼくを過大評価します……」
「過大評価などしてはない。これまでの良心的な行いを称えているのだ。お前は人々が後世に語り継ぐほどのことをした」
雉子はやはり思いつめた目をしていた。
「皆そうやって持て囃しますけど……。ぼくが活躍しているところ、ちゃんとその目で見てくれた方はどれくらいいるのでしょうか? 天はご覧になられたのでしょうか? 現に話は、あらゆる説にまみれて、飲まれています。本当にこのぼくが必死の思いで、決死の覚悟で行なったことなのか、わからなくなるほどです。ええアレは遠い昔のお話です。人々にとって、その物語に出てくる雉はただのお伴の雉で、誰でもいいんですよね?」
重荷になっている過去。頭を垂らしたまま告げる彼に、鷽姫様は静観している。
「誰でもいいなら、ぼくは何なんでしょうか? また昔のように自由に緑の中を飛び回りたかったんです」
「その姿で自由に飛び回れる場所など高が知れている。本来の姿に戻ろうとも、けして他の雉はお前に寄りつきはしないだろう」
「それでも、だ、大丈夫です」
「大丈夫だと!? これから延々と孤独でいれると言うか!?」
「大丈夫です!」
鷽姫様は「フィイイイ!」と甲高い奇声を発し、空気が震えた。
「お前は床としゃべっているのか!? 己が意志を伝えたければ前を見ろぉおお!!」
暴風雨が怒濤に雉子を打ちつけた。浮姫様の瞳はブラックホールの如き。雉子は必死に耐えている。
「功名心に欠けているのはよい! だがお前のそういった逃避主義がさらに自分を偽るということになぜ気づかない!? 自由が欲しければもっと己を主張しろ雉子ぉおお!」
「うううううううっ……ウビャアッ!」
雉子はぴゅんと吹き飛ばされた。頭を下にして勝手口に叩きつけられて失神し、羽根が舞う。湖さかさま死体の状態である。
暴風雨はやみ、水浸しになった居間は束の間の静寂に包まれる。
「うわ、壮絶ですね……。店長でさえキーキー鳴いて物投げてふて腐れる程度なのに……。ああ、メーテル……」
倒れたコレクションに対し気の抜けた声で言いながら、花御堂は眼鏡の水滴を拭う。ていうか、人の家で何やっとんげん……。そんな文句一つ、竹中直人以上に怒り笑いする天女に言えるはずもなく。
「おい、ちゃんと床を拭け」
「おいだらっ」
こともあろうに川中島。鷽姫様は黒顔を毅然とした自称天使に向ける。
「だらではないハクトーさん。土足で人の家に上がり込み、家の者でない奴に向かって怒鳴り散らし、挙句に床をびちょびちょにした奴に向かって注意して何がいけない?」
ぶれることなく鷽姫様を見据えながら、川中島は言う。土足かどうかは足元が隠れているので不明だが、もはやこの自称天使、心臓に毛が生えているとしか思えない。どうなっても知らないぞ。
「いえいえ川中島様。ここは僕がきれいに致しますから。絨毯も交換しますよ」
おっさんもこれ以上の天災を阻止したいのだろう。怖いもの知らずのこいつの前に出て取り繕う。
「トーキョーは被害者だぞ」
「しかし」
「よい」
鷽姫様が言葉を挟む。
「その者の言う通りだ。我が元通りにしよう」
俺とおっさん、花御堂は一斉に「えぇっ」と目を丸くした。鷽姫様が右手を差し出すと、床に溜まった雨水の一粒一粒が宙に浮き上がり、逆流した。大量の雨水はゴォゴォと竜巻のように、彼女の口の中に吸い込まれていく。まるで排水溝のようだなんて口が裂けても言えない。
吸い込み終わると、おっさんは絨毯に触る。
「わぁ、乾いてる。あとは本当に僕がきれいに致しますから。大丈夫ですよ」
「手間をかけさせる」
俺たちの髪や服までも乾いていた。一滴残らず回収したらしい。神業だった。俺は目を回して気絶している雉子に近づいた。
「おい、雉子」
「そのままでよい。起こすな」
鷽姫様は笑みこそ浮かべているが、呆れているようだった。
「雉子をこれほどまでに叱ったのは初めてだ。あれほど嘘はつくなと、口を酸っぱくして言うていたのに。まだ本音を隠すとは。性懲りもない男だ」
「え、正直にしゃべってないんス……、あ、いや、ないんですか?」
あの状況で包み隠さず話したとばかり。鷽姫様は雉子の元へ歩み寄る。
「本当にやりたいことは何か。孤独のままでできることでもないだろうに。それでも我には到底、言えないことなのだろう」
雉子の本当にやりたいこと。怒られると承知の上で閉ざしているもの。それは何なのだろう。
「その者は雉子とどのような関係だ?」
「え? あ……、まぁ、いい関係?」
至近距離で攻撃されないかとハラハラした。
「友だからこそ言えることもあるだろう。どうか、この雉の頑固で硬いくちばしを開けておくれ」
腰を屈められて、俺はあたふたした。鷽姫様のお帰りに、おっさんは小走りして彼女を追い越し、扉を開けた。
「邪魔をした。今しばらくの間、どうか雉子を宜しく頼みます。あなた方の全ての不幸が嘘となり、真の幸福となるよう……」
彼女は可愛らしい鳥になり羽ばたいた。鳥は膨張し、光と風になってはち切れ消えた。
「台風のようなおばさんだったな」
また物騒な発言を川中島はした。
おっさんが掃除をしている間、俺は隅に座布団を並べてから雉子を寝かせ、額には水で濡らしたタオルを置いた。花御堂はフレンチトーストを作ってくれた。トッピングはきな粉と蜂蜜で茶トラのネコのアートだ。朝食の間はおっさんがうちわで雉子を扇いでいた。
「ワァーッ! ごめんなさいごめんなさい!」
目覚めた雉子はじたばたしながら謝る。「鷽姫様はいないですよ」とおっさんが落ち着かせると、「怖かった……」と雉子は胸を押さえて一息。
「あの、何か、ありましたか……?」
「キジコは性懲りもない男だと言っていたぞ」
川中島が答えた。トーストだけでは飽き足らず、フレンチトーストまでお呼ばれしている。お前は食いしん坊か!
「そう……」
雉子は肩を落とし、目を伏せる。
「まだ何か隠しとるん?」
俺は頬張りながら問いかけた。
「隠してる……、と言われても」
「キジコの夢はそんなに知られたくないのか?」
「夢……?」
自称天使の問いかけに、雉子は素朴な目をした。
「余程の悪だくみか?」
「悪だくみだなんて! そんな、とんでもないよ……」
「言ってみろ。馬鹿にはしない」
それでも雉子は「ウン……」と脱力して俯くだけ。
「まあまあ、雉子さん。あ、具合はどうですか? 今日畑に行くのやめときましょっか?」
「行きます」
おっさんの気遣いに雉子は首を伸ばす。
「畑って、田舎にあるっていう?」
俺はおっさんに尋ねる。
「そうそう。そこには僕の息子がいまして、一緒に野菜を」
「息子さんは鳥人間のことを知ってるんスか?」
「はい、もちろん。良ければ一緒に来ます? 川だってあるし。雉子さんは今日畑仕事じゃなくって飛ぶ練習しましょ。リハビリリハビリ」
雉子は「はい」と従順にうなずく。完全におっさんに懐いているようだ。
「おいオーギガヤツ。私は川に行きたいぞ」
「僕も行きたいです。地球ふしぎ大自然」
川中島と花御堂はウキウキの行く気満々で、俺は否応なしにピクニックに参加させられる羽目になった。
「じゃあ今日のトウキョウスカイホームはお休みということにしましょう!」
おっさんよ。自営業とはいえ、そのような調子でいいのかな?
ともかく、俺たちは準備をして三輪自動車に乗り込んだ。俺はもちろん助手席。バックミラーをのぞけば右からリアル宇宙人に自称天使に鳥人間と、とんでもない光景だ。仙人は……おそらく車上にでも寝そべっているだろう。
車を発進させたおっさんは例の言葉を発し、道を曲がった。
ここはどこなのだろう。青々とした山と田畑に囲まれていた。
「地面の上を直接走っているのを感じます」
タイヤをうっとりとのぞき込む花御堂。揺れながら農道を走る車。雉子はぼんやりと遠くを眺めていた。
「父さーん!」
男がトウモロコシ畑の中から手を振った。おっさんの息子、武彦は愛想も体格も良かったが、顔も声もおっさんに瓜二つだった。
「わぁ、ナスのようにいい顔をしてますね! いいツヤだぁ」
花御堂と対面してからの第一声に俺は笑いをこらえた。
東京親子が農作業をしている間、俺たちは自由行動を取った。川中島は小川で水遊びをし、花御堂は持ってきた立体映像の図鑑とにらめっこしながら生き物観察をした。俺は丘で寝そべった。
柔らかそうな綿雲。スズメが飛んでいる。ヨモギの匂いがする。シロツメクサは真珠のように白く、バッタがその上から跳ねる。
「よし!」
雉子は両翼を羽ばたかせながら丘を駆け下り、ジャンプ、ジャンプ。バランスを崩して転がっていく。
「ほれ、雉さん。がんばって」
農作業をしている腰の曲がったお婆さんが応援する。雉子は「どうも」と頭をかく。鳥人間がいても平然としているお婆さんに、俺は不思議な気分だった。
化け鳥になった雉子。昔の暮らしに戻れず、人間世界にも解け込めない雉子。川中島や花御堂を見習おうとしても、人工物に覆われたあの場所で生きるのは酷だろうか。でもここならどうだ。ここは姿を隠す必要がない。あるがままに、自然体でいられる場所なのだ。
ここは本当に俺がいた街と同じ世界にあるのだろうか。おっさんの例の呪文で、実は違う世界に来てしまっているのではないだろうか。電車の音もバイクの轟々たる響きもなければ、選挙の演説も音楽も聞こえない。あまりにも平和過ぎるのを肌身に感じて不安すら覚え、脳内にそれらが再生されてしまう。
雉子は練習を繰り返し、何度も転がり落ちた。彼は深い溜め息をつきながら俺の隣に腰を下ろす。草の匂いがした。
「調子はどう」
「うん。良い調子」
草まみれなのに。モンキチョウが頭に止まったから失笑すると「えっ、何?」と顔を動かす彼。離れるモンキチョウ。
「あ、チョウだ」
捕まえる気もないのに掴む仕草をする雉子。じゃれているように見えた。しばらくモンキチョウは彼の手の回りを逃げ回り、行ってしまった。
「……雉子の夢ってさ」
黄色い目玉がこちらを見る。
「……やりたいことって何?」
「やりたいこと」
雉子は正面を向いて、また遠くを見た。俺は言う。
「ここならさ、自由に飛べるだろうし。鷽姫様は高が知れてるなんて言ってたけど。故郷じゃなくってもここは自然いっぱいだし。別に奪う訳じゃあないんだから。共有っていう選択だってあるだろ。他に何があるげん?」
「鷽姫様が言っていたでしょう? ぼくは選ばれし雉なんだって。でもそうじゃないんだ。だって最初にぼくを選んでくれたのはあの人だもの」
あの人。
「鷽姫様や、他の上様方はとても偉大だし、尊敬するけど。……それでもぼくが最初に尊敬して、死んでも守りたいって思ったのはあの人だからね。だから他のためには死にたくないんだよね」
雉子は悲壮感を漂わせながら、遠い目をしたまま足元の影を見る。思い出しているのだ。
行きましょう 行きましょう
あなたについて何処までも
家来になって行きましょう
そんな風に。
「そんなに凄い人だったん?」
「うん。だからこんなこと、くちばしが取れても上様に言えないよ。怖かったなぁ、鷽姫様。死ぬかと思っちゃった」
そう雉子は吐露して、冗談めかすように笑った。風が爽やかに吹く度に、彼にまとわりついていた草が飛んでいく。
「また会えるんじゃないんかな?」
「そうかな?」
「ほら、何て言うんだっけな? ソウルメイトってやつ」
「そおるめいと?」
「魂の繋がりってやつ」
「魂かぁ」
しみじみと雉子は空を仰いだ。
「見たらわかるかなぁ?」
「わかるさ。出会う運命にあるなら自然に距離が狭まってるもんだよ。地上に降りたのも一つのステップで。それは次に繋がってる」
「へえ……。君はすごいや。達観しているよ」
「いや、それらしいことを言ってるだけやし。だって俺まだ生まれて間もないぜ? お前に比べりゃあ赤ちゃんみたいなもんさ。社会のことなんかこれっぽっちも知らないんだよ」
「魂に年齢は関係ないよ。年齢は肉体の問題だからね」
「なるほど」
「〝そおるめいと〟かぁ。うふふ、楽しみになっちゃった」
元気を取り戻したようでよかった。
「おいオーギガヤツ!」
川中島……? いやいやまさか。名前に〝桃〟が入っているだけではないか。俺は頭を振って否定する。
「見ろオーギガヤツ。ザリガニだ」
奴は丘をのしのしと上ってきて、泥だらけのザリガニを見せびらかす。ザリガニは大きなハサミで俺を威嚇する。泥臭い。
「見ろキジコ」
彼に近づける川中島。雉子はじっとザリガニを見たかと思うと、パクリと食べてしまった。
「うおおおおおっ!? おろろろろろうおうおうおう食うんかい!」
俺は驚いて上体を起こした。バキバキむしゃむしゃ。川中島はザリガニを掴んでいた手をそのままに呆気に取られている。憐れザリガニ。
「また飛ぶ練習しなくちゃ」
精力をつけた雉子は「よいしょ」と立ち上がる。
「おい、手本見せてやれよ」
川中島に言う俺。
「私は翼で飛んでいるんじゃないぞ。これは飾りだからな」
「えっ、それは飾りなの?」
と、雉子。
「そうだ。これはこのポンチョにくっつけてあるのだ。ちゃんとここにだな、クリーニングする時のタグが」
「えっどこいね?」
俺も気になって翼を見る。
「ほらここだ」
「どこいね? 白くてよく見えねー」
「あ、コレだよ扇ヶ谷君」
「マジかよ!」
貴重な休日が嵐のように過ぎて、穏やかに失われていく。爽やかな風を感じながらトウモロコシやトマトを食べ、川釣りを楽しむ。まあ、こんな日も悪くないと思った俺がいた。
……ところが、だ。アクベンスさんの言った嵐というのは過ぎ去るどころかまだ片足を突っ込んだばかりだったのである。




