六、雉子
六、雉子
えんじぇるすの初ライブが終わって早数週間。梅雨。
サークルが終わり、棟の軒下で水色の傘を差す。高校二年のこの時期に手に入れた傘である。バスや電車での忘れ傘の最終処分だろう、束になって捨てられていたのをバイト仲間とで選びっこになったのだ。骨組みが十本の丈夫そうなやつを俺は取った。
この話をすると大抵の女子は卑しいだのゴミ捨て場荒らしだの酷評する。確かにそうかもしれない。けれども、すっかり水を弾かなくなり黄ばみ始めているのを未だに使ってやっているのだから、この古傘だって感謝しているはずだ。手元は木製で握り心地もなかなかいい。
松先輩はまた数珠を握って棒立ちしている。
「行かないんスか?」
「傘、忘れた」
「え? 今日、朝から降ってましたけど?」
「じゃあ盗まれた」
「なんじゃそりゃ」
「だから入れさせて。さもないと雷が落ちる」
にらみを利かせてくる。もっとマシな表現をしてほしい。相合傘をしたいならそう言えばいいのだ。
俺が「どうぞ」と古傘を少し傾けてやると、彼女は二の足を踏む。やっと入ってきたかと思えば目を微妙に見開かせ、肩を変に突っ張らせる。積極的なのに緊張しいというのかなり面倒な組み合わせである。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「オギは助かった」
「そうっスね」
「いい傘ね」
「そうっスか。ゴミ捨て場から拾ったやつっスよ」
「生き延びたわね」
この人は適当にしゃべっているのではないかとたまに思う。
「とりあえずコンビニまで行きましょか? 傘売ってるでしょうし」
「うん。……コンビニまでか」
「何か言いました?」
「言ってない」
残念そうな表情が面白かったので声に出さず笑ってやる。
彼女の歩幅に合わせる。古傘は相合傘に打ってつけの大きさで、どちらとも肩を濡らすことはなかった。それなのに、互いの腕が触れるたびに先輩はびくりとして無駄に外にはみ出して濡れた。何だか悪いことをしているような気分にさせられる。
じめじめとした感覚はシャツ越しに、気温も暖かいのか涼しいのか判断しにくいのが気持ち悪い。
言いしれない嫌な予感……。そんな不穏な気持ちを抱いてしまう。これは単なる五感を第六感に関連づけてしまっているだけなのだ。うん、間違いない。
松先輩は口をへの字にして黙っている。湿気のせいで似非ソバージュはダイナミックになり、山姥の娘のようだった。
俺は適当に話題を仕掛けることにした。
「先輩は就活してるんスか?」
「……ん、え?」
彼女はぼうっとしていたのか、はっとする。
「就職活動、してるんスか?」
松先輩は三年生なので青田買いの時期に入っている。そういえば、言葉の意味から誤って青田刈りと言ってしまう人が多いらしい。どちらが正しいにせよ、俺は就職活動に時間を割くよりも勉学に費やした方がいいと思っている。そうでないとまるで大学は手頃な仕事をもらう時間稼ぎのためだけにあるみたいで、もしそうなら高卒で手際よく就職しておけばよかった話ではないだろうか。
俺が通っていた高校では、およそ半数が進学しないで就職する。十年ほど前までは不良であふれ返り、廊下をバイクで暴走するといった事件も珍しくはなかったという。
俺がいた頃でさえ一年で一クラス分の生徒が退学。それらも関連していたかは定かでないが、学校の後ろ盾があるから内定も取りやすいシステムだった。……とか何とか、思い出すだけでもむなしくなる。
俺を笑ったバンド部の奴らは今頃どうしているのだろうか。ここだけの話、泰大を受けて合格したのはなんと俺だけである。バンドに夢を見続け惚けていたらそうはならなかっただろう。
「ううん。してない」
先輩はあっけらかんと答える。
「そうなんスか」
「でも、履歴書送ってみようって思ってる」
「どこに?」
「芸能事務所。プロの魔術師になるために。事務所に入れば営業させてもらえると思うし、オーディションのチャンスももらえると思うから」
「へぇ」
松先輩のリクルートスーツ姿なんて、想像し難い。制服のある企業は似合わない。自由に着飾って小指の爪を伸ばしている方がふさわしい。
「でも、本当は英語をどうにか勉強して、アメリカに飛び込んで私の魔術を披露したいと思ってる。マジックバーをいくらでもはしごしてやるつもりよ」
「先輩ならやれそうっスね」
「そう思う?」
「うん思う。別に英語ができなくたって力は十分伝わりますよ」
「オギがそう言うなら……、がんばる」
たった今決心したかのように松先輩は前を向いたままうなずいた。俺の言葉が彼女の人生の選択を左右させたみたいで嫌だ。底知れない実力を持った彼女なら一人でやっていけるだろう。
「オギは?」
「はい?」
不意に振り向かれてドキリとした。
「オギは将来何になりたいの? 先生?」
「教育学部に入ったのは、教員免許取っておいた方が最終的に役立てそうだったからで」
「保険ってこと? ミュージシャンにはならないの?」
「ならないっス」
「そう。もったいない。音楽の先生とか、教室を開くとか」
「先輩まだ俺が演奏してるとこ見たことないでしょ」
「まだってことは、これから見せてくれるの?」
「見せないっスけど」
「恥ずかしいの?」
「はい。下手くそだから」
「内緒にしてあげるから、私にだけ……じゃなくて」
唐突に顔を赤らめる松先輩。どういう展開を想像したのだか。
コンビニエンスストアに到着し、俺は五百円のビニール傘を購入する。古傘に馴染んでいるせいでかなり軽量に感じる。当然ながら安っぽい。
「どうぞ」
古傘を差し出すと、彼女は目を丸くした。
「そっちじゃないの?」
と、ビニール傘を指差す。
「俺はこっちでいいっスから」
古傘を差した先輩は肩を丸め、手元を両手でぎゅっと握りしめる。その仕草が妙に可愛らしかった。
「大事に使うわ」
「別にゴミから救ったやつなんで」
「そんなの関係ない。ちゃんと返すから」
古傘に守られるようにして、先輩はとことこ去っていった。
バスを降りると、高架下が今までとは一風変わっていた。中間地点にぽつんと見知らぬ明かりがあるのである。人が背を丸めて座っているのがぼんやり見える。
反響する生ぬるい空気。近づくにつれてそれは占いの屋台だとわかった。白黒の幕にぼんぼり、占い師自身も黒で統一していて、葬式を連想する様式をしている。いかにも胡散臭く、興味もなかったので素通りしようとした。
「いいことあったみたいだね。オギー?」
しゃがれた老婆の声にぎくりとした。
「ウフフ。わたしよ、わ・た・し」
背筋を伸ばしヴェールをまくる老婆。俺はぎょっとする。そこには黒い口紅を差したアクベンスさんの顔があったのだ。
「こんなとこで何やってんスか!」
「見ての通りよ」
いつもの声音に戻したアクベンスさんは立て看板を指差す。
「元々は遊び半分だったんだけど。レースで負けちゃってさあ! 罰ゲームで占い師のふりして地球人十人相手しなきゃなんなくなって」
花御堂の話によると、彼女は単なるレースクイーンから転身し、宇宙喫茶☆銀河団イン地球日本支部代表のレーサーとして宇宙で活躍した異色の経歴を持つ。
「それで俺で何人目になるんスか?」
「ううん。罰ゲームはとっくの昔に終わっちゃってんだ。ウーン、かれこれ五年? なんだかはまっちゃて! 板について今じゃ巷では『大藤の母』なーんて呼ばれちゃってんだーこれが。実はこっちがこっそり天職って感じ?」
と、ピースサインを横向きに額へ寄せる。
「宇宙喫茶はどうするんスか」
「ウーン、どうだろ。みんなでキャッキャッワイワイするのも楽しいし。でも時々我に帰っちゃうっていうか。何でわたしこんなとこでうるさくやってんだろーって思っちゃうっていうか。大勢でがやがや相手するより一対一で対話している方が気は楽だって思うっていうか。でもみんなのことは大好きだし、みんなで楽しくやっていきたいしー。なんかわかんないや、ウフフ、ゴメンネー」
お茶目に舌をちろりと出してくしゃりと笑った。アクベンスさんといえばいつも明るくふるまっている、宇宙喫茶のムードメーカー的存在だ。しかし今の彼女は印象が少し違っていた。メイクのせいもあるかもしれないが、おとなしめで影を感じる。髪の赤がまるで血の赤のようだと連想させる。やはりリアル宇宙人はミステリアスであるべきなのだ。
「で、どう? 占い。泰大生にも好評だよ。この前も一人占ったし、黄色い眼鏡の。ほら、喫茶の常連さん」
ジョンス富里だ。
「オギーには社員割引しちゃったりなんかして」
「俺正社員じゃないっスよ」
「ノリ悪いねー。仙人の方は結構ノリノリみたいな感じ?」
息が詰まった。彼女の言う通り、仙人は看板に書かれた三つのコースをまじまじと見て悩んでいた。テレパス能力は占いに打ってつけという訳だ。
「一週間コースと一ヶ月コースと一年間コースがあるんだけどね。目先のことが知りたいならお気軽一週間コース。長い目で見たいならざっくり一年間コースがおすすめね」
「じゃあ、間を取って」
「一ヶ月コースね。はいはい、そこの若いの。そこにお座りんしゃい」
ヴェールをかけるや老婆の声になり、背も縮まった。心なしか黒のマニキュアの指がしわだって見える。ミステリアスだ。
弱みを握られたかのように俺は席に着いた。
「ちなみに何占いっスか?」
「カニ占いだよ」
「カニっスか?」
「そうだよ」
テーブルに置かれたのはカニの甲羅。器の役割であるらしく、そこに焦げ茶色の何かを二摘まみしてマッチで火をつけた。葬式の焼香のにおいがする。一筋の煙がアクベンスさんの鼻息で渦を巻く。二摘まみの何かはチリチリとかすかな音を立て、炭になりながら歪な塊を作っていく。火が消えそうなところでまた別の何かをスプーン一杯分。
「何入れたんスか?」
「馬油」
炭の塊は白く溶け出し、火は復活する。蝋のような白い液体はやがて無色になり蒸発していく。化学実験を見ているかのようだと思った瞬間に火は消え、甲羅にひびが入った。
「はい、出ましたよー」
「今のでわかるんスか?」
「わかるんすよー」
可笑しそうに大きくうなずいてから、「さて」と改まって指を組む。
「一ヶ月、といっても多少の誤差は許しておくれよ。宇宙からすれば一ヶ月なんてちっぽけなもんさ」
「ああ、はい」
「嫌な予感しているだろう?」
「え、何がですか?」
「それは、当たるよ」
「あの、俺さっき、なんとなく嫌な予感するなとは思ってたんスけど」
「うんそれ。それが当たる」
「マジすか」
「まじ」
焼香の匂いで頭がくらくらする。
「何があるんですか?」
「嵐があるよ」
「嵐……?」
「嵐にぶち当たるよ。それで精神が参っちまう」
「マジスか」
「まじ。でも心配はいらないよ。嵐はあっという間に過ぎ去っていくものなんだからね」
「具体的にどんなことが起こるんスか?」
「過去を清算する時の訪れ……。思わずついてしまった嘘が嵐を作ることになる」
「嘘をつかなきゃいいってことっスか?」
「馬鹿正直になれるかどうかがこの一ヶ月を左右するんだ。しばらくは過去に悩まされて憂鬱気味になるけど、それが過ぎれば嘘みたいにエンジンがかかるからね」
「はあ」
「ラッキーカラーは赤」
「ニュース番組の占いじゃないんスから」
「そう言われてもそう結果に出てるんだよ」
「もっとなんか参考になるような」
「安物のカニだからその程度しかわからないの。社員割引使ったからね」
「何なんそれ……」
「はい、千五百円」
本来なら一ヶ月分ということで三千円取られるところ。占い界の相場ではそれくらいの額なのか、渋々払った。
「はい、毎度あり。今度かに道楽でカニ鍋おごってあげるね」
「マジスか?」
「まじ」
ちょっと得した気分になった。ラッキーカラーはアクベンスさんの髪のことなのか。
トウキョウスカイホームの横は知らぬ間に見事なアジサイの細道と変貌していた。青にピンク。雨に濡れてより色が鮮やかに浮かび上がり、どんよりとした街にアクセントを与えている。
帰宅して束の間、シャワーでもしてしまおうと考えながら差し心地の悪かったビニール傘を傘立てに入れるのと同時のこと。
ずどん! と、重苦しい物音が天井から聞こえ全身に緊張が走る。
「おーい。川中島……?」
奴のロンドンブーツとババ臭い花柄の傘はない。花御堂も仕事中のはずだ。
ズチャリ……
水気を含んだ硬い音が正面玄関の方で聞こえた。花御堂ではない。俺はゆっくりとビニール傘をバットのようにして構える。
何者かがノックをする。一回、二回、三回と。
神経を集中させる。すぐ逃げられるように鍵をかけず、そろりそろりと玄関に近づく。
ノックを繰り返す。怖々と窓から相手をのぞけば、そこにいたのは革の鎧を装着したヒトであった。
「……マジかよ」
まさかこれが嵐の訪れだとでもいうのか。宇宙喫茶のおかげで免疫(麻痺ともいうが)になっていたものの、困惑せざるを得なかった。
俺に気づいたそいつは恐縮めきながら扉を指差す。
開けてくれないか。顔でそう言っているのだ。
もしかしたらあの二人の知り合いかもしれない……。悩み抜いてそいつを招き入れることにした。
「ありがとう」
渋く格好良い男の声を発した相手にダーウィンの進化論に異議を唱えたくなった。ずぶ濡れのそいつは人間の体形をしていたが、むき出しである頭部と手足はまるで異なり、エメラルドグリーンの翼を生やしていた。長ったらしいことを抜きにするなら、鳥人間である。
「しばらく雨宿りしても構いませんか?」
ブーツをはいた川中島ほどあるのではなかろうか、スタイルのいい鳥人間は青と赤の頭を垂らし、上目遣いで俺の顔をうかがってきた。
「どうぞ」
俺は急ぎ足で傘を戻し、タオルを用意した。
「ありがとう」
受け取ったその両手はごつごつしていて、鋭い爪があった。これでぶっ叩かれてはひとたまりもないだろうが、タオルの扱い方、体を拭う姿からはまるで攻撃性を見出せなかった。優しい性格なのかもしれない。
「あのう、川中島か花御堂の知り合いですか?」
「へ? いや、あの、どうしよう」
鳥人間は思い出したかのようにおろおろし始める。ただの通りすがりだったのだ。居留守を使えばよかったような気もしてきたが、このまま追い返してしまうのも気が引けた。俺はなんて優しい男なのだろう。
「いやあの、困った時はお互い様なんで。俺は扇ヶ谷です。あなたは?」
「ぼくは雉子といいます」
「一体どこから来たんスか?」
「天界です」
「天界?」
「はい。天界です」
「天国?」
頭をひねってうなる雉子。まあ、呼び方はどうでもよろしい。花御堂と同じ何らかの星からきたのかと思いきや、川中島の部類らしい。それともそういう名の星なのだろうか。
俺は念のために聞いておく。
「神様?」
「いやいやいや、とんでもない!」
雉子は強く首と手を振って否定した。
「ぼくはただのキジなんです。ええそうです」
黄色い目玉はどこか思い詰め、悲愴感を漂わせていた。とにかく悪いヒトではないのは確信したので、ひとまず座布団を用意して座らせることにした。彼はタオルを丁寧に折り畳み、座布団の上に敷いて(そんなことをしなくとも洗濯をするのに)正座した。首を上下に伸ばし、落ち着きなく家の中を見回す様は失礼ながら滑稽である。
はっきり言って、アルバイト以外で接客はあまりしたくなかった。こんな時に川中島がいれば、代わりに相手をするよう押しつけていたのに。雨だから路上ライブもないだろうに。もしや近所のレコード店で物色しているか、はたまた古びたゲームセンターでインベーダーゲームでもしているか。どっちでもいいが。
冷蔵庫にはおっさんからお裾分けしてもらったレモンティーもあったが、鳥人間の舌に合うのか不明で無難そうな麦茶を出した。鳥なのだから麦は好きだろう。たぶん。
「ありがとう。見ず知らずのぼくに」
また上目遣いだ。こんなにへりくだられてはせっかくの渋い声がもったいない。
俺は向かい側に腰を下ろす。雉子は客人用のカップの中にくちばしを突っ込み、器用に麦茶を飲む。俺の視線に気づいた雉子は目玉を瞬く。俺は目を逸らし、麦茶を飲む。
「天使とは知り合いなんスか?」
「天の使いってことなら……、ぼくも」
「そうなんスか? 川中島って知ってます?」
「はい。武田信玄と上杉謙信が戦った場所ですよね」
やっぱりあいつとは他人らしい。
「雉子さんも人間界に用があるんスか?」
「え、その……、はい!」
嘘だろう、何となく悟った。とはいえ初対面のヒトにあれやこれやと詮索するのも失礼だ。人生は一期一会という題の絵巻でありドラマなのだ。
「……何かおやつあったかな?」
接客業をしていながら間が持たないと判断した俺は腰を上げた。
「ええっ、いやあの、いいです結構です。すぐにでも出ていきます!」
雉子はわたわたと手を動かし、「あ!」と窓を指差す。
「ほら! やみましたよ! 雲間です!」
その下はまだ暗雲が広がっている。地上はまだ雨天に違いない。
「それじゃあぼくはお暇します。ありがとうございました」
雉子は速やかに立ち上がり、深々と頭を下げる。止める理由は特になかったので「どうぞ」と扉を開けた。
彼は翼を広げた。閉じていた時には気づかなかったが、右の翼が焦げついていた。
「それ、どうしたんスか?」
「え? ああ、これ? さっき雷雲の中に入っちゃいまして」
「え?」
「運が悪かっただけです。打たれる前に何か大きなものにぶつかったんですけれど、何だったんだろう……? あはは」
待てよ? 最初の物音は着地した音ではなく墜落した音だったのか? 松先輩の雷の呪いがここにきて効果が表れたか?
俺がそうこう考えている内に、雉子は「よし!」と意気込んで助走をつけた。
「おい待て!」
「アララララララララ……」
羽ばたくことがかなわなかった雉子は、洗濯機の中の衣類のように回転しながら落ちていった。
「えぇーっ!? うわわわわっ!」
俺は愕然と下をのぞいたが、そそっかしい雉子は雲に消え、風はむなしく吹いていた。
俺は勝手口から飛び出した。
「あっと鍵鍵鍵!」
空足を踏んでから鍵をかけ、トウキョウスカイホームに駆け込んだ。
「おっさん、やばい!」
東京のおっさんは小走りで現れた。
「どうしました扇ヶ谷様っ?」
「あああっととと鳥っ! 鳥人間が家から落ちた!」
「あらららら! あらら!」
おっさんもどたばたとハンティングトロフィーの角にかかっていた金色の双眼鏡を手にして表へ出た。
「任せてください! あの家はちょうどこの真上です! しばらくしたら見えます!」
おっさんは空を見上げ、ここに落ちてくるはずのジンブツを探すだけ。じわじわと雨が服に染み込み重くなっていく。
「ああああアレアレアレ!」
俺は指差す。体勢を立て直そうと、雉子は宙を蹴りながら翼を動かしていた。そのあがきでビルより落下地点がずれていた。おっさんは「あららいけない!」と駆け出し、俺も後を追う。あんなのが人前に落ちたら一大事だ。
「あの方のお名前は!?」
「雉子だ!」
「ジューカテイカ、ソクカテイカ! 雉子!」
「えっ何て!?」
「ジューカテイカぁ! ソクカテイカぁあーーっ! 雉子ぉおおーーっ!」
意味不明な言葉を裏返った声で叫びながらぜいぜい走るおっさん。角を曲がって裏通りへ。地上に近づく雉子。心なしか彼の落下速度が若干遅くなっているように見えた。
雉子は建物の陰に消え、ほどなくして激しい音が聞こえた。
「わっ大丈夫なんか!?」
「大丈夫ですよ!」
雉子が落ちたのは四階まで建設された未完成のビル。ここは殺風景で、車の音も届かなかった。
「ここは二、三年ほど前から工事が中止されてそのままになっているんです」
おっさんは息苦しそうに説明した。
侵入する。天気が天気なだけに不気味な暗さだ。お化け屋敷よりもドキドキする。
不意に空き缶を蹴った。軽快な音は暗がりに吸い込まれていく。目を追うと酒の空き缶やら煙草の吸い殻などで散らかっている。
「早く保護しましょう」
「おっス」
自然と声量が抑えられる。エレベーターはあるはずもなく、階段を使った。おっさんが小さな悲鳴を上げる。くしゃくしゃのブルーシートだった。
四階は雨漏りが酷く、染みやカビが広がっていた。鉄パイプが転がっている。
「いた! 雉子!」
風穴の下で、彼は仰向けでぐったりと倒れていた。
「雉子! おい雉子!」
揺さぶるとウーンとうなった。あの恐るべき高さからよく無事でいられた。おっさんは彼の胸などに手を当て、状態を調べる。
「骨折はしていないようですね。早く手当てしないと。ここは雨漏りが酷いから、まずは下まで彼を下ろしましょう」
「よし」
二人がかりで鳥人間を運んだ。筋肉質なのか、予想以上の重さに二階の踊り場でおっさんはへばってしまった。
「少し、休ませてください扇ヶ谷様……」
座り込むおっさん。畑仕事をこなしている割には体力がなさ過ぎではないか。
「でもおっさん。下まで運んだとして、そこからどうやって家まで連れてくんスか?」
「ひゅるまハェ、ハィますんで(車がね、ありますんで)」
「そう……くっしゅん! くそーぅ」
そうか、と言い切る前にくしゃみが出てしまった。
「これは大変!」
おっさんが勢いよく立つ。
「このままじゃ先に扇ヶ谷様が風邪ひいちゃいますね! 今から着替えとタオルとそれから傘も持ってきますね! 勝手に扇ヶ谷様の部屋から衣類を持って来ても構いませんか?」
「ああ、右側の手前の部屋だから」
「ではすぐ戻りますんで! そういえばお店に鍵をかけてませんでした!」
おっさんは顔色よく「えっほえっほ」と階段を下りていった。なんだ、元気ではないか。
あっという間にしんとなり、それからゴロゴロと雷鳴が聞こえた。
しばらくして雉子がまたうなった。
「大丈夫か? 怪我してたんなら無理して飛ばんでもよかったんに」
「長居は迷惑だと思って……」
彼は目を開けて、はっきりとした意識で言った。かなり丈夫な体をしている。
「ここは、地上ですか……?」
「そうだけど」
ああ、と雉子は嘆く。
「落ちている時、まるで夢を見ているようで……。僕がまだ現世にいた頃は、野や山や、田畑がいっぱいで……。こんなことなら、降りなきゃよかった……」
ため息混じりで。彼は参っていた。
「ここはもうこんな感じだけど、世界にはまだ緑たくさんあるげんよ?」
慰めにもなっていない。
「君は優しいんだね。でもね、その土地にはその土地を愛するヒトがいるんだ。どうして生き物は天に召されるのか、よくわかったよ。時が経てば、自分の居場所を取られるからなんだね。野や山も、居場所がなくなったんだね」
悲しいことを言うではないか。彼の言う通り、地上は極限に緑が減り、便益の下コンクリートやアスファルトで埋め尽くされている。上には電線が交差し、街路樹は人間が植えたもの。自然は飛躍せずと言うが。果たしてここにはその自然はあるのだろうか。ここは人間の世界。雉子の故郷はもうこの時代にはないのだ。
雨がやんだようである。天気予報によれば一日不安定の空模様らしい。雷鳴もまた聞こえる。また降りだす前に帰らないといけない。
「おっさんが戻ってきたみたいだ」
物音が下の階から聞こえてきた。思ったよりも早い。
「おっさん……? もう一人の人? それならまだいないよ」
「え?」
「五人いるみたいだけど」
聞こえてきたのは複数の少年の声だった。
「本当に鳥人間なんているのか?」
「ホントだって! ちゃんとこの目でここに落ちるとこを……。ホラ! 写メだって」
「ぶれてんじゃん!」
ますます厄介なことになりそうだ。ああいう人種に関わるとろくなことにはならない。人の事情など知ったことでないとばかりに土足で荒らしに来る。携帯電話にカメラ機能がついてからはプライバシー侵害が顕著になった。
「立てるか?」
これは見世物ではないのだ。俺は雉子を支え、立たせようとした。翼の重みのせいか雉子はふらつき、片膝を落とす。
「見ろよ、足跡」
「誰か先に来たんじゃね?」
無数の無邪気な足音が近づいてくる。俺はとっさに雉子を踊り場の角にやった。
「お?」
学ランをルーズに着こなした少年Aが現れた。ここは適当に太郎と命名しておこう。
「後ろにいんの何?」
癇に障る馴れ馴れしさだ。川中島が至って全うに感じるほどだ。
太郎の後から続々と四人の少年が集まってきた。もてあそんだ茶髪。ピアス。サルエルパンツのごとく腰までずり下げたズボン。でかさを強調したブーツ。俺も歳を取ってしまったのか悲しきかな、みんな同じ顔に見えてきた。
「俺の連れだ。腹痛くてうずくまってんだ。俺らも何か落ちてくんの見て来たけど、なんも見つからんかった」
欺いてみようとした。しかし写メを取った奴らしき少年B、次郎は落ち着きがなく、踊り場まで駆け上がってきた。
「ホラ! やっぱり鳥人間だ!」
次郎は興奮し切っていて、鼻の穴を馬鹿のように膨らませる。よく見れば顔面ニキビだらけで白いぶつぶつが気持ち悪い……などと思うのはほんの一瞬で、俺はこいつにはねのけられていた。
「隠してんじゃねーよ!」
リアル鳥人間だと確かめようと、ニキビ次郎は雉子の頭を荒々しくつかみ上げ揺さぶった。
「痛い痛い痛い! 痛いーっ!」
雉子はたまらず立ち上がった。突き飛ばされたニキビ次郎は盛大に尻もちをつき、勢いのまま頭を床に打った。途端に太郎らの目は暴力的になった。
「マジか!」
「てめぇ!」
「鳥コラァ!」
一斉にかかってきた。太郎が傘を雉子に目がけて振り上げる。
「ケェエエエエエエエエエエエエッ!!」
雉子は甲高い声を上げながら機敏に跳躍し、少年らの上を行った。
「雉子!」
「待てコラァ!」
かなりまずい展開に、俺も慌てて追いかけた。雉子は外へ飛び出し、一車線の道沿いを疾走。俺が外に出た時点で既に二百から三百メートルほどの差を作っていた。
とにかく足が速い! 義務教育の九年間、短距離走ではほぼ負け知らずで『韋駄天のオギ』と言わしめていた俺ですら追いつくことができない。雉子はどんどんスピードを上げながら丁字路で右折する。この時点で俺から二百から三百メートルほどの差を作っていた。とにかく速い!
「おいオーギガヤツ!」
なぜか川中島が左の道にいた。だが俺は足を止めない。
濡れた衣類が体に吸着して満足に走ることができず体力が奪われていく。ヘルメットもかぶらず自転車やスクーターに乗る阿呆共があっという間に横を通り過ぎていった。スクーターは二人乗りだった。お前ら危ないっつうの!
「おいオーギガヤツ。なぜ返事をしない?」
追いかけてきた川中島は平然と『韋駄天のオギ』である俺と並走する。背筋はピンと伸び、傘を持つ手も一切ぶれない辺りがすごい。
「何でお前がおるげんや!?」
「ハクトーさんだ、ハクトオさん。ゲームセンターにいたら鳥人間うんぬんと学生がはしゃいでいたからな」
鳥人間には興味を抱いて天使には興味を抱かなかったというのか。俺は阿呆らに対し疑問を抱いたが、確かインベーダーゲームは隅の方にあり、死角になっている。天のご加護があるのか運がいい奴だ。
「天界から来た鳥人間があの家から落ちたんだよ。翼をやられていて飛べない。あの阿呆共よりも先に見つけないとフルボッコにされる!」
「フルボッコ?」
「ボッコボコにリンチだよ! 面白半分に!」
「む。それは罰当たりだな」
髪をなびかせながら眉根を寄せる川中島。
「扇ヶ谷様ぁーっ!」
後ろからレトロチックな青緑の三輪自動車に乗った東京のおっさんが手を振る。俺は早々と助手席に、川中島は後部座席に乗り込んだ。おっさんは俺にタオルをかけてくれた。
「雉子が逃げた! 不良五人が追いかけてる!」
「まぁーっ」
おっさんはギュッとアクセルを踏んだ。
息が切れ、ふくらはぎがきつい。人騒がせなキジ男め。あれだけ目立つ姿で走り回ったらどうなるか理解しているのだろうか。花御堂だって自重しているというのに。後ろのこいつは例外だ。
「そうだ傘は? また降るかもしれないし」
「雉子さんを運ぶ時の動きやすさを考えてカッパにしました」
「よし!」
俺は着替え、その上におっさんのレインコートをはおり、いつでも車から出られるように構えた。
隅々まで捜索したつもりであるが、あの阿呆共を見かけただけで肝心の雉子が見当たらない。事件が起きることだけはどうしても回避しなければならない。
「おいオーギガヤツ。上にそれらしいのがいるぞ」
俺は窓から身を乗り出し、反対側の景色を仰いだ。建物の上を飛び石のようにどんどん渡っていく雉子の姿。このまま突き進めば人通り多い所に出てしまう。
「止まれ雉子ぉ! とぉーまぁーれぇー!」
声は届き、彼は足を止めた。俺は車に乗るよう指示しようとした。
破裂音がした。同時に雉子は目にも留まらぬ早さで何かを目前で掴む動作をした。何事かと思えば、地上にて阿呆のC、三郎が銃を持っていた。
「BB弾だ。ゲームセンターにあったぞ」
川中島が言った。
「エアガンかよ! おいやめろや!」
俺は降車して憤慨したが、また三郎は撃った。二発目をつかんだ雉子はわなわなと身を震わせる。赤い顔がさらに赤くなっている気がした。
彼は手のひらにある二個のBB弾に息を吹きかけた(ように見えた)かと思うと、弾は緑色の光に包まれた。雉子は大きく息を吸い込み、胸を膨らませた。
「ッケァッ!」
奇声が空に響き、弾が二手に発射された。三郎の両端を緑の炎を立ち上げながら突っ切り、背後でギュン! と埋まった。それはレーザービーム、いや隕石に似ていた。
「エネルギー弾だ! 凄い!」
おっさんは声を弾ませ頬を紅潮させる。道筋は焦げつき、弾が埋まった箇所にはひびが入って煙が立つ。三郎は顔面蒼白でエアガンを落とす。集合した他の阿呆らも唖然となっていた。ムービーを取ろうとしていたのだろうニキビ次郎の手からは携帯電話が滑り落ちる。
雉子は物悲しそうな目で、背を向けて去っていく。俺は車に戻った。
「おおお、おいおい! おっさん!」
「はいはい!」
サイドミラーに映る阿呆らは未だに立ち竦んでいた。
「キジコは男なのか。小野妹子のセンスだな」
こんな時でも川中島は悠長に発言する。
引き続き追跡したが、信号が赤になりやむなく停車。車は大通りに出て、今度こそ姿を見失ってしまった。
「キジコは一体どこへ向かっている?」
「わかれば苦労しない」
どうにかして先回りしなければ。俺は思考を巡らした。
「そうだ。近くに緑が密集してる所って」
「例えばアレか?」
川中島が指差したビルのモニターには天気予報が流れ、背景には泰京市の中央にそびえる霊峰、白霊山が映っていた。落下の最中、雉子には見えていたはずだ。
「もしかしたらあそこに逃げ込むかも。何だか元々そういう……」
「扇ヶ谷様は頭がいい!」
大袈裟に賞賛するおっさん。
「では行きますよ! チビラキチツナグ、ミチノリショーリャク! いざ、白霊山!」
おっさんはまた意味不明なことを言って車を左折させた。雨が降った。前後左右の景色をうかがえば、街並みが明らかに変化していた。
「おっさん、さっきから言ってんのって」
「見ろオーギガヤツ。山だぞ山」
後部座席から身を乗り出す川中島。前方には霧で見え隠れする神妙な山があった。
おっさんは山麓付近で駐車し、俺は携帯電話で宇宙喫茶に連絡を取り、アルバイトに遅刻する旨を伝えた。ラッキーなことに相手は話がわかるエッキゾーストマッニホールドさん。相変わらず言葉は遅いが、今日は来なくていいと許可をもらった。
細雨がレインコートの上を伝い、飛沫が顔に当たる。じめじめするどころか肌寒い。
「お前傘でいいがん?」
「ハクトーさんだ。たったの六文字だぞ。私は傘でいい」
「滑った時知らねーよ?」
足元に注意しながら緩やかな山道を進む。おっさんはやっぱりぜいぜい言い出す。
「扇ヶ谷様、白桃様。先に行ってください……」
小さな祠があって、おっさんは「無事に見つかりますように」と手を合わせた。先に進む俺と川中島。
大声で雉子を呼んでみた。雨音、川音しかしない。
自信はなかった。本当に彼はここに逃げ込んだのか。負傷した翼をちゃんと治さないと、天界にだって帰れないのだ。
「いつになく必死だなオーギガヤツ」
川中島が後ろで言った。
「そりゃ必死になるだろ」
「いつもなら周りがオーギガヤツを引っ張っている」
「それとこれとは違うっつうの」
上っていく。川中島は独り言のように「そうか」と言った。
どこまでも続く深みある緑。いきなり左の草藪が震え、黒い物体が飛び出てきたかと思うと右へと消え失せた。「タヌキだぞ。ネズミを加えていた」と川中島が言った。俺はずっとタヌキに化かされているのだろうか。
やがて天を隠す白い霧を貫く石塔が見えた。最初の中間地点だ。周囲を探ったが鳥人間の影はなく、不安だけが空回りする。
石塔の段に座って休憩した。なぜ俺ばかりが奇怪な状況に巻き込まれてしまうのか。空を飛んでいる家に住み、リアル宇宙人のいる店でアルバイトをし、お次は鳥人間探しだ。誰かの策略だろうか。陰謀だろうか。
「何やってんだかなぁ……、マジで……」
うなだれていると、川中島が見下ろしてくる。
「変だと思うな、特別だと思え。ものは考えようだぞオーギガヤツ」
「特別なぁ……」
「そうだ。オーギガヤツは特別だ。天使の私が言っているから間違いないぞ」
真顔で決めつけられては苦笑いするしかない。そんな時。
ケェーーーーーーン……
「雉子……?」
山奥から鮮明に響いてきて雨音に溶け込んでいく。やっぱりこの山にいるのだ。思わず「俺天才……」と自賛を漏らしてしまう。
ケェーーーーーーン……
雉子が鳴いている。俺の胸にも溶け込んでいく。
「よし!」
俺は気を吐き、尻を叩きながら立ち上がる。そして急になってきた上りを進んだ。
息を切らす。
上る。
息を切らす。
上る。
息を整え、俺は山寺の屋根の上を見上げた。
「雉子!」
彼は寺の裏側へと飛び降りた。何で隠れるげんてま。
怯えているのか、頭を抱えながら座り込んでいる姿はちっぽけに見えた。
俺は彼用で持っていた傘を差す。もう意味はないが。
「ほら、戻るぞ。おっさんが手当てしてくれるってさ」
「人間は鬼より怖い」
哀愁を帯びた目玉を俺に向けた。
「狩人に狙われたことを思い出したよ。いつまででも追いかけ回すんだ。……妖怪になっても雉はおいしいのかなぁ?」
「俺はしねーよ。何も」
「それはわかるよ。君はいい人だもの。それが地上に降りて良かったと思えること」
下山し、おっさんと合流した。
「どんなご用で天から降りてきたんですか?」
おっさんは車のエンジンをかける時にそう質問した。タオルで顔を隠している後部座席の雉子はぽつりぽつりと答えた。
「ぼくは昔、少しだけ力を持つようになってから、ある御仁と協力して悪事を働いていた鬼の衆を退治していたことがあります。その功績があって、天に仕えるようになってからも何かと護衛役や御供役を任されていたんですけど、段々嫌になってきて」
「仕事をほっぽり出してきたのか?」
川中島が言った。俺はちらりとバックミラー越しに雉子をうかがう。
「ぼくなんかよりも腕が立つヒトはいくらでもいるんだ。買いかぶり過ぎなんだ」
あのエネルギー弾よりも凄いことができる奴がいるとでもいうのか。俺はくしゃみをした。
未知なるトウキョウスカイホームの暖簾の向こう。物件のファイルが保管されている棚の他に、こけし、マトリョーシカ、紙人形、土偶。等々。一つ一つ上げてもきりがないほど奇妙な物が飾られている。それをシャンデリアのように並ぶトルコランプが優しく照らしてまだらな影を作っている。
おっさんの趣味のトンネルを抜けると嘘のように片付いた平凡な部屋があった。尋ねたことはなかったが、他に誰かが住んでいる気配はなかった。
六畳の和室に雉子を連れ込んだ。ふすまの丸窓から色彩豊かな庭が見えた。和洋折衷に造られた綺麗な庭で、アジサイもあった。ビル横のアジサイの道もおっさんが手がけたのだろうか。
桐ダンスの上には写真立て。息子が一人いるようだ。
おっさんは大活躍だった。雉子には早く治るという軟膏を、刷毛で翼の焦げた部分に塗り込み、俺と川中島には温かいハーブティーを用意してくれた。俺の鼻水はぴたりと止まった。
手当てを受けている間、雉子はずっと頭を垂らしていた。
「毎日朝晩と塗ればすぐ飛べるようになるよ。それまでは僕のところにいましょ?」
おっさんはにこりと微笑みかけた。
「天まで戻れる自信がない」
雉子はずっと元気がない。
「なぁ川中島。お前なら連れて帰れるんじゃないん?」
俺は自称天使に尋ねた。
「ハクトーさんだ、ハァクゥトォーさん。私が来た所とキジコが来た所は違うぞ。天は天でも広いからな。仕えているところも違うはずだ」
「そうなのか?」
雉子は小さくうなずいた。目を合わせてくれない。
「飛ぶのが苦手なのもそうだけど……。何も言わずに来たから、きっと上様にこっぴどく叱られちゃうよ」
「それは自業自得だ」
ぐちぐちと言う雉子に対して厳しい川中島。仕方ない気もする。しかし俺は雉子の気持ちを理解できる。『彼ならやってくれる』というイメージ。期待に応えようと頑張り、積み重ね、積み重ねの結果、重くなり崩したくなった。その方法が逃亡だっただけのことだ。
「嫌なら無理して帰ろうとかしなくていいぜ?」
「無理はよくないが、ズルズル物事を引っ張るのもよくないぞ」
板挟みで、雉子は余計に困った目をした。そこでおっさんが、
「ねぇ、一緒にハーブとか野菜とか育ててみない? 楽しいよ、とても」
と、幾になく優しく言った。




