二、二つの玄関
二、二つの玄関
日々精進。それが親父の口癖だった。元は祖父の口癖だった。元々は曾祖母の口癖だった。とにかく我が扇ヶ谷家は『日々精進』が信条として受け継がれてきた。
それに由来して俺の名前は尚仁となった。家系図を開けば出るわ、出るわ。尚仁丸に尚仁ノ介。はたまた尚仁衛門に尚子に仁子。漢字を変換させたり読みを変えたりして使い回すそのセンス。
俺は期待に応えなければならなかった。長男なら尚更である。特に苦ではなかった。さすが扇ヶ谷家代々の血筋といえよう。テストも九九点取っても心底悔やみ、百点満点を取れるまで勉強し、逆上がりも飛び箱も二重飛びも、俺の目に見えない仙人より免許皆伝されるまで練習した。俺はやればできる男であると誇りすら感じていたし、目に見えない仙人もよくできた弟子だとほめてくれた。
ところが周りの影響とは凄まじい。中学高校と進むにつれて妥協というスキルを会得した。満点を取る必要はない。平均点さえ越えていればいい。マラソンだって百人中五十人以内にゴールすればいい。いいや、リタイアせずにゴールさえすればオーケー。びりっけつが、それもおデブちゃんが豚骨スープをほとばしらせながらゴールへと突き進むあの間ときたら。ロッキーもエイドリアンと叫びたくなる。THE感化。
一位になればその上はない。現状維持は大変なのだ。努力が当たり前なのは誰よりも承知していたつもりなのだ。
しかし俺は悟った。精進すると消尽すると。別にダジャレが言いたかった訳ではない。あの子はいつもがんばっていて偉いねえ、さすが精進家の子ねえ、と先生やご近所さん、そして親戚中に褒めちぎられていると、人目を気にするあまり本当の自分を見せるタイミングを逃す。何人いるのだろうか、輪に溶け込むためにキャラクターを偽り続け、一日の表裏に悩まされている同世代の若者たち。悲しきかな。
俺はボクシングチャンピオンの防衛戦の不戦敗を選んだ。親父は俺が腑抜けた男に成り下がったことを気に食わなかっただろうが、俺は勉強をきちんとこなし、運動もなまらぬ程度にやっていた。従って親父は叱ろうにも叱れず、一言「精進しろよ」とだけ言い続けるだけであった。
俺は『日々精進』に束縛された世界から抜け出すため、県外の泰京大学の受験勉強に励んだ。皮肉にも机の前で精進した。
そして三月下旬。蛍雪の功で泰大に合格した俺は実家を出ることになった。
「忘れ物はないか?」
それが玄関口で投げた親父の台詞である。俺は「ねえ」と答えた。母さんは駅まで見送ってくれたが、親父は一歩も外へ出ようとはしなかった。俺の踏み入れた世界の空気を吸いたくなかったのだろう。
俺は電車の中で遠ざかる田舎町と海浜公園に言った。
「あばよ日々精進。ざまあ味噌汁」
これで親父の『日々精進』を聞くことはない。そう思うと清々した。
◇◇◇
仕送りは月に一度、母さん名義で送ってくれることになっていた。六万円前後の変動制であり、あまり期待はするなと釘を刺されている。弟と妹がいるので金は俺ばかりに注げないのである。その上このご時世、奨学金返済を目的とした貯金を言わずもがな強いられている。
学生寮は満員。俺は泰大か駅ないしバス停に近くて安い部屋を探した。あらかじめこの新しい土地に足を運んで決めておくべきだったのだが、気持ちが先走っていた。
「あの、外に貼ってあった築二十年のアパート四万円の奴っスけど」
俺は向かいでずっしりと腰かけている脂ぎった男に言った。
「ああ、あれですか? あれはもう契約済みです」
「じゃあ、はがしといてくれませんか?」
「これからそうしようと思っていたところでして」
俺は眉をひそめる。脂の臭いと、湿ったハンカチで額を拭う様は生理的に受けつけられない。豚骨スープをほとばしらせていたおデブちゃんの方が愛嬌はなみなみとあってよかった。彼の爆弾おにぎりを頬張る様子を思い出すと多少の苛立ちは収めることに成功。デブは男女問わず癒し系に限るということだ。
非癒し系の男はノルマを達成すべく次々と物件を紹介してきたが、この目に留まることはない。俺は富裕層に属さないごく一般な学生であって、学生が所持する金額の全国平均をリサーチしたうえで商品を提供するべきだとは思わないか?
「もう結構です」
俺は早々と退出した。どの不動産屋も空回りに終わった今日は漫画喫茶で寝泊まりに確定した。
翌日の物件巡りでは、あるところは寝台列車の個室のごとし、あるところは風呂なしでトイレは外。あるところは夜な夜な何かが部屋を歩き回るだのと不発の連続。金がなければ相応の生活を強いられ、そして楽しまなければならないが、ホラーの類は特に遠慮したかった。
道すがら、炭酸飲料が飲みたい気分となる。早咲きの桜を風情も感じずに眺めつつ、いっそのこと漫画喫茶に入り浸ろうかという名案を浮かばせながら自動販売機に小銭を入れた。
そこで携帯電話に着信があった。曲は甲子園の定番『コンバットマーチ』である。
「もしもーし」
「もしもしオギー?」
軽薄な声の主は中学からの友人。サンシンこと、真水良介。中学で野球部だったこいつは、生まれたての小鹿のごとき腰の弱いフォームで空振り三振を披露し、グラウンド内外を騒然とさせた。だからサンシン。初めはマミーと呼ばれていたのが、それを打ち消すほどに奴のプレーはまずい印象を人々に植えつけたのだ。そんなこいつの着信に対し『コンバットマーチ』を設定しているのは皮肉のつもりであるが、本人はけろっとしている。
「今はもうそっちにおるげんろ? 住むとこ決まったんが?」
「なーん、全然見つからん」
俺はレモンサイダーのボタンを押す。ペットボトルの落ちる音がサンシンの間抜けた「そっかー」とかぶる。俺と同じ泰大の教育学部に合格。まんまと学生寮に入居。これは推薦入試と一般入試が始まる時期の違いのせいに違いないのだが、けしてスポーツ枠で推薦されたのではないことを強調しておきたい。
「じゃあさー、オギ。トウキョウスカイホームって知っとっけ?」
「スカイホーム?」
「トウキョウ、スカイホーム。試験受けに行ったあと超絶に暇持て余してぶらぶらして見つけてんけど。結構安い奴あった記憶あるげんてなあ」
友人の記憶力を頼りにその不動産屋を探した。表通りから外れ、コンクリートの高架下にあるラーメン屋や居酒屋を抜け、コンビニエンスストアと古びたゲームセンター、昔ながらのタバコ屋を通過し……危うく通過しそうなところ発見したのが小高いビルに挟まれた平屋であった。
レモンサイダーが喉を小気味よく刺激する。日陰の下、ローソンのそれにも似た、テカテカの青い下地に白のポップな横文字で『トウキョウスカイホーム』というレトロチックな看板が掲げてある。木製のプランターが並び、影から逃れて膨らんだ赤い蕾はそろそろ咲きそうで。
透明なガラスブロックの中は暗い。窓辺には陶器のカエルの置物がミニチュアのベンチに座り、つぶらな瞳で俺を見つめている。ドア横の掲示板には――
定休日は月曜日と祝日、他不規則だよ
営業時間は大体午後1時から大体午後10時までだよ
――とある。なんて曖昧な。俺は携帯電話で時刻を確認し、引き返した。さっき見つけたチェーン店らしきエリザベスドーナツの二階の窓際で音楽ゲームアプリを使って時間を潰し、再び足を運んだ。
まだ中は暗かった。しかしドアにははっきりと営業中とあったので遠慮なくドアを開けた。チャイムが鳴ると同時に明かりがつくシステムのようだった。
「はいはーい」
少し遅れて素っ頓狂な声が奥からした。暖簾をくぐって顔を出したのは、キューピーのように髪が薄く丸顔寸胴の、店のロゴが入った青いエプロンを着たおっさん。名札には『東京』とあった。
「はいはい。学生さん?」
「大学か、駅に近いとこ探してるんスけど」
「どちらの大学ですか?」
「泰京大学の川蝉キャンパスです」
「紅茶とコーヒー、どちらがよろしいですか?」
「え? あ、コーヒー」
本当は紅茶の方が好きなのだが、つい言いやすさで滑らせた。東京のおっさんはカウンターで手早くコーヒーを入れる。香りがインスタントではないと物語っていた。
「これサービス。じゃあ、ちょーっと待っててね」
おっさんはラジオをかけ、「んふふ」と小気味悪く笑い、いそいそと奥へと引っ込んだ。俺は丸椅子に腰かけ、シュガースティックを二本、コーヒーフレッシュを一つ器から取った。コーヒーをかき混ぜながら周囲を見渡す。
窮屈だ。不動産屋とは思えない物が所狭しとある。壁には南米にありそうな木彫りの仮面や人形。真実の口のレプリカ。天井には確か曼荼羅だったか赤い壁紙。部屋の角には象頭の神様の置物。吐くものがないマーライオン。サインポールに初期のペコちゃんまでいる。
かなりひどい収集癖があるらしい。趣味を仕事場に持ってきてどうするのか、呆れつつもコーヒーに口をつける。ほどよい酸味が甘ったるくなっていた喉を通る。汗まみれのペットボトルを視界の片隅に、こぶしをきかせまくった演歌に耳を傾けおっさんを待った。
「おまたせしましたー」
おっさんが薄いファイルを二冊持って戻ってきた。
「こちらは泰京大学まで十キロ以内で、自転車で通える距離です。徒歩一分の所に駐輪場も自転車屋さんもありますよ。こちらは南大藤駅とバス停まで徒歩十五分以内。どちらも家賃三万円以下になっておりますんで、はい」
俺は頁をめくり吟味する。野草の臭いに目を向けると、おっさんもファイルをのぞきこんでいた。額がつきそうなほどの距離だったので俺は少し後退する。口臭がないだけましだが。
「ありませんでしたか?」
一冊目を閉じる俺に「むふふ」と営業スマイルするおっさん。気持ち悪く感じながらも二冊目を開き、目を疑った。
写真が載っていないその物件は、ビルの二階にある5LFKで、ルームシェア。水道、光熱費、敷金礼金なしの家賃十二万円。『店長おすすめ!』と書かれた吹き出しがあり、その下にも一つ吹き出しがあった。そこにはこうあった。
空を飛んでいるお家だよ!\(^o^)/
何が『\(^o^)/』だ。ふざけているのかこのキューピーは。俺は次の頁をめくることにしたが、おっさんはニコニコしながら頁の角を押さえ、話をふっかけてきた。
「こちらはわたくし、店長おすすめのお家です」
「空飛ぶ家、スか」
俺の笑いは乾き、俺の目に見えない仙人が「手をど・け・ろ」とキューピー3分クッキングのテーマ曲に乗って弟子に変わって訴える。
「いえいえ、こちらは書いてある通りのお家です。既にそうなっておりますので、はい」
おっさんはこちらの顔色も仙人の徳が高き美声も気にしていなかった。
「飛行船か何かスか?」
「いえ、二階建てのお家です。お隣のビルの中にあります」
しかもお隣ときたものだ。ビルの二階の中に空を飛んでいる二階建ての家。仙人の智行をもってしても理解が追いつかない。
「ビルの中にあるのに、どう飛んでるんスか?」
「それは当店の企業秘密なので。家賃は十二万円となっておりますが、割り勘制ですね。只今お二人様がご入居済みなので、お客様がお入りになりますと四万円になります。基本的な家具はそろえてありますし、リビングにはエアコン。各部屋にも扇風機とストーブがあります。トイレとお風呂とキッチンは共同です。よくトイレとお風呂が同じ空間にあっては嫌だとおっしゃるお客様がおられますが、こちらはちゃんと隔離してありますよ。
ちなみに入口は正面玄関と勝手口の二ヶ所あります。ルームシェアリングも楽しいですよ。壁も厚いので大袈裟に騒がなければお部屋で一人プライベートな時間も過ごせます。あ、ネット環境も整っていますから、工事費はいらないですよ。バス停ならあっちの方の高架下くぐった先にありますよ。ちゃんと大学前にも止まってくれますし。おすすめです、はい」
揚げ足を取りにかかった俺に対抗し、饒舌に説明を繰り広げた東京のおっさん。
「ていうか、いくら何でも5LFKで諸々込みの十二万を割り勘って安くないスか? 何か訳ありスか? ものすごく古いとか」
「そーう、ですね。あえて言えば、ベランダがないので洗濯物は部屋干しになるってとこですかね。こちらはまだまだ新築そのものですよ」
その程度で訳ありになる訳がない。それに俺がわざと『5LFK』と言ってあげているのに対し無反応。とことん怪しかった。
「二人住んでるって言いましたけど、どんな人がいるんスか?」
「とっても素敵なお二方ですよ! それにお隣ですからね。何か問題があればわたくしにおっしゃってください。即座に解消いたしますから」
おっさんは住まわせようとしていた。このおっさんが常に隣で待機していると思うと気が引ける。しかし空を飛んでいるという釈然としない点や同居人の存在を除けばこの上ない物件。四万円は魅力的だ。仕送りのうち約二万円は食費や交通費に充てられる。このまま諦めるのはもったいない気がしてきた。
「一度見学したいんスけど」
「ご入居前の見学は残念ながらできかねますので、ご入居ご希望でしたらこの場でどうぞ」
「何で見れないんスか」
これでは勘所を押さえられない。
「こちらは特別物件なので。他社の耳にはちょっと。このご時世、取るか取られるかですから。うっふふ」
見学だけして吹聴する真似をされたくないらしい。そこまで大それたものをこんな変てこな店にあるというのだろうか。
万が一の時はサンシンを恨むことにして、俺はこの怪しい物件を契約することにした。もう不動産屋を巡るのが面倒で、つまるところ妥協である。そして何をどう空を飛んでいるのか、確かめてやろうという思いも事実。壁紙が空の模様だったというオチなら、おっさんの残りの大切な髪を引きちぎるつもりで契約を解除させてもらうと心に決めた。
そんなことを露知らず、きゃぴきゃぴ(実はオカマではないか?)と契約書を用意した。そこで、俺は契約書の最後の二行に不審を抱いた。
「イナワイ、ユナワイ、モラナサイ……?」
イナワイ ユナワイ モラナサイ
シリュート ターニン イウニイワレナイ
なんじゃこりゃ?
「そこにサインとハンコです」
言われるがまま、吸い寄せられるかのように謎の一文の下にサインし、認め印を押す。おっさんはすかさず契約書を引っ込め、洋風の金色の鍵を差し出してきた。
「では扇ヶ谷様。こちらが鍵になります。出て右側のビルにある階段を上がってすぐのドアになります。すぐわかりますよ」
おっさんは一人で行けと言っている。この人の他に店員がいる気配はなかった。
表に出て右の焦げ茶色のビルは、一階が税理事務所らしい。外階段の隙間からはアジサイが見え、梅雨には鮮やかな路地になりそうである。
俺は深緑色のドアの前まで上ってインターホンを押した。鳴らなかった。おいどうした、新築さんよ!
ノックをしても反応がなく、ドアは押しても引いても動かない。早速、鍵を使った。
予想以上に広々としていた。リビングは吹き抜けで、青や紫の寒色系の円形の絨毯が敷かれている。中央には白の円卓があり、それと同じ大きさの円形のシーリングライトが真上に設置されていて、俺が入った瞬間に点灯した。
「こんにちはー」
返事はない。和風の黒い靴箱を開けるとイギリス国旗のロンドンブーツがねじ込まれ、隣には俺の高校時代に使っていた体育シューズの黒いバージョンみたいなやつがある。もう一度、声を張ってみる。しかし何も返ってこない。
二階への階段は入ってすぐの左右にあり、左の方は収納スペースとしてくり抜かれている。確かに趣味の異なる二人が住んでいるらしく、特撮ヒーローと怪人、それに交ざって銀河鉄道999のメーテルのフィギュアが上段に、レコードと茶色に日焼けした文庫本が下段に固まっている。中段がぽっかり空いているのでそこに俺の私物を入れることになるだろう。
右の階段の中には『TOILET』と掲げられたドア。大型テレビは右の壁にはめられ、左のセミオープンのキッチンからも見える角度になっている。家電は一通りそろい、食器棚には地震対策がきっちり施されている。『BATHROOM』と積み重ねられた座布団は右にあった。
しかし、それらよりも目立ち、真っ先に俺が注目していたのは、巨人も出入りできそうな、正面の大きな扉だ。タイル張りされた半円型の土間床もあるし、まさかあれが正面玄関で、俺が入ってきたのは勝手口ということなのか。
扉の両側には嵌め殺しの窓があり、空が見えた。奇妙だった。このビルの隣にはさらにビルが密接していた。ならばそれが見えるはず。何より扉を開けるほどの隙間などなく、玄関の意味を成さない。
これはトマソンというやつだろうか。失われた機能性。まるで世界から切り取られたかのような得体の知れなさ。そんな超芸術の一つ。それなら納得できなくもない。
それでも不可解な気持ちは払拭されず、胸が圧迫されそうになる。あれを開けてしまえばそれは解放されるどころか絶対的なものになる気さえした。しかし足は先走る。土間床は嘘のように冷たい。
ドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。片側を押すが動かず、引いてみた。
ひゅう、と季節が逆戻りしたような寒風に二の足を踏み、目を閉じた。俺は覚悟の息を吸い、目を開けた。
視界一面、青。シアンだ。筋張った足をアプローチまで進ませ、はっとする。アプローチより向こうは宙しかなかった。遥か下では地上がかすんで見えていた。この青が顔に貼りつきき染み込んでくるような、圧倒的な高さ……。
落ちる夢なら見たことがある。試しに宙に身を任せたなら、はたしてベッドの上で目が覚めるだろうか。
心臓は驚愕と恐怖を通り越して、はたまた理解しきれていないのか静かだ。心停止しているのではないかと思ったほどだ。つまり夢である可能性も捨てきれない。
焼きついてしまった青に誘われてしまいそうになる。これこそシアンが有毒化した所以なのかもしれない。わずかな量で死に至る。わずかな力量で死ぬのだ……。
……一体俺は何を考えているのか。ここで死ねばドラマは幕切れとなるのだ。わずかばかりの冷静さを発揮して後ずさりする。
乱れた髪を整えるぐらいの落ち着きは戻ってきたようだ。それから一息つく。予想以上に声が怯えていた。
「な、何なんだよ、これ……」
「それは私に言っているのか?」
「わ!」
ぎょっとした。振り返ると変な男が腕を組み立っていた。西洋人とも東洋人とも取れる顔立ちのノッポで、オレンジ色のポンチョを着て、真っ青なパンタロンをはいて、頭にはラッパスイセンのような飾りがある。眉毛、まつ毛、腰まである髪は銀色。極めつけとして背中には立派な白い翼があった。
「誰?」
「それは私のセリフだ。勝手に人の住居に侵入してはいけないと習わなかったか?」
「いや、俺は新しくここに住むんです」
俺は鍵を見せた。変な男は真顔で鍵を見下ろし、俺に目を合わせた。解約したくなった。
「……名前は何という?」
「扇ヶ谷尚仁です」
「オーギガヤツ……。覚えたぞ、オーギガヤツ。私は川中島白桃だ。ハクトーさんと呼ぶがいい。そして扉を閉めろ。中が冷える」
横柄な態度に苛立ちを覚えたが、俺は簡単に苦を面に出すほど子どもではない。俺は豚骨スープをほとばしらせていたおデブちゃんを思い出しながら天空に通じる扉を閉めた。
「あの、一体これは何なんスか? どうなってんスか?」
「そんなもん私は知らん。作った本人に聞くがいい」
「じゃあ……、それはコスプレっスか?」
「これは私服だ」
「その翼も?」
「これはオプションだ。その方が人間は私が天使だとわかるからだ」
「は?」
「翼なんかなくても飛べる。どうせ天国は雲の上にあると思っているんだろう? だから翼が必要だと思っているんだろう? 馬鹿め。上に行っても宇宙しかないぞ」
「ちょちょちょ、待てや。さっきからあんた何言うとるがん?」
「何? もう一度同じことを言えと言っているのか?」
「いやだから。つまりあんたは」
「ハクトーさん」
ああもう、細かい奴だな。
「ハクトーさんは、自分は天使だと言いたいんスか?」
「私は天使だ」
真顔で言い切るこの男に、めまいがしそうだった。シアンが尾を引いている。
「天使のコスプレ?」
「コスプレではない」
「でも翼はオプションねんろ?」
「その方が人間は喜ぶからだ」
この男の思考はシアンによってお陀仏しているらしい。人をからかって何が楽しいのか。
とにかく状況を整理しよう。ここは半分、空の上にある。勝手口の外は地上。正面玄関の外は空。確認しなければ断言できないが、二階建ての家が浮いているのかもしれない。
「これは夢か、幻か……」
「夢じゃないぞ。そうやって安価に私の存在を否定してはいけない」
俺は常套句を言ったにすぎない。ここはビルで、一軒家。地上で、上空。そんな摩訶不思議な空間に住まう自称天使。それから、次はこれを聞かなければなるまい。
「もう一人住んでる人は?」
「ハナミドーなら今、喫茶店で働いている。深夜までには大体帰ってくるが、会いたいなら案内してやるぞ」
「いやまだ結構。空いてる部屋はどこっスか?」
「こっちだ。ついて来い」
俺は川中島の翼を観察しながら二階に移動した。二階は左右対称、二部屋ずつ分かれ、俺は右手前の部屋を使うことになり、奥の部屋が川中島の部屋のようであった。
居間より小さい白い円卓とベッド。戸棚は壁一面にあり、収納には困らない。扇風機とストーブは戸棚の中にあった。日当たりは抜群だ。
俺は内倒しの窓から改めて下をのぞいてみた。
「そんなに下をのぞくのが好きなのか?」
と、後ろで川中島が言った。
「ほんと、どうなってんだろうなって思ったんス」
「気にしてはいけない。オーギガヤツはこの家に住みたくて住むんだろう?」
「別にそういうんじゃないんで。友だちがお隣の不動産屋を勧めただけなんで」
「ではその友人に感謝するんだな。なぜなら天使と住めるんだからな。光栄に思え」
似非宗教家、川中島は退室し、噂をすればとサンシンから着信がくる。
「もしもしオギー? どう、見つかったけ?」
「めちゃくちゃ変なとこだった。ペコちゃんとか飾ってあって」
「うはっは! それでいいとこあったん?」
「なーん、まあまあいいとこ。一軒家で共同だけど」
「マジで? うわーいいなー」
「眺めはいいよ、かなり。すんげぇ空が無限大に見えとれん。シアンブルーやぞ」
ちっぽけな人間界。俺が今どこで話をしているのか、言っても本気にはしないだろう。
「えー、いいじゃん! 都会ってビルビルしてて閉塞感あるもんな!」
「なんじゃそりゃ」
ここは世界一天国に近い家だ。ああ、そういえば、上に行っても宇宙しかない話だ。俺はくすりと笑う。
サンシンとの通話の後、まとめておいた荷物を送るよう母さんに連絡し、トウキョウスカイホームへ顔を出す。
「あれ、扇ヶ谷様。もう解約ですか?」
「インターホンが壊れてるみたいなんスけど」
「ああ、そうですか」
おっさんは安堵の表情を浮かべた。
「修理もそっち持ちなんスか?」
「はい、こちらの方でやらせて頂きますよ。このわたくしが管理してますから。すぐに直した方が?」
「実家から荷物を」
「ああ、そうですか! そうですよね。じゃあ後ほど。コーヒーでもいかがですか?」
「いや、いい。バイト探すんで」
「入学式は四月でしょう? もう少し春休みでいたらいいのに」
「少しでも奨学金の足しにしたいんで」
「わぁ、偉いです!」
おっさんは拍手をした。
「そっかぁ。僕は手が足りてるし……」
手が足りているのは意外だが、おっさんのところではけして働かない。俺は質問する。
「あの、川中島っていう奴なんスけど」
「白桃様ですか?」
「初めてここに来た時、どんな感じだったんスか?」
「普段通りにご来店ですよ」
「翼は?」
「はい、翼もちゃんとつけて」
「マジかよ……」
生粋のコスプレイヤーだったとは、これ以上に質問を重ねても時間の無駄だろう。
「ところでいかがですか? お家は」
「いや何かもう、びっくりしたとしか……」
「それは良かったです。どうか落下だけには気をつけて。生命保険には入っていますか?」
俺は口角を引きつらせた。このおっさんなら保険の手続きすらやってくれそうだ。まさかそれが真の目的なのか。
「でも一体、アレどうなってんスか?」
「特殊効果ですね」
「特殊効果ってどんな?」
「詳しい話は企業秘密で」
おっさんは人差し指を口元に持ってきて『ないしょ』のポーズをした。やはり気持ち悪い。
俺は近所のコンビニエンスストアでカツ丼を買い、求人情報誌を手に取ってビルへと戻った。家に入る前に、さらに階段を上がった。三階のドアが気になったからだ。普通に考えれば、空を飛んでいる家の二階がビル三階に値しているが、家の二階にはそれらしきドアはなかった。
入居者募集の貼り紙があった。ここもトウキョウスカイホームの物件で、どこかに繋がっているのか。俺は頭をひねるしかなかった。
帰宅し、台所の水道のレバーを上げてみた。水が出た。カツ丼を冷蔵庫に入れた。中は冷えていた。IHクッキングヒーターのスイッチを入れてみた。音はなった。携帯電話の電源が切れそうだったので、自室で充電器をセットする。電波はばっちり繋がっていて、充電モードになっている。
一体どこから水と電気が来るのか。電気回路、配水管、下水管は地上のビルの一部として成り立っているということなのか。
明確な答えは出ない。ベッドの上で求人情報誌を開いた。何件かめぼしいところに連絡したものの、この情報誌は既に古い情報になっていた。雑誌を放り投げて寝転がる。
ポロン、ポロンと、ハープの音色が聞こえてきた。川中島が演奏している。虹の向こうへと連れ出してくれそうな幻想的なメロディー。聞き心地が良く、リラックスできた。
目が覚めた。部屋は暗く、携帯電話で確認すると九時を過ぎていた。
カツ丼を電子レンジで温めている間、ふと、しょぼしょぼする目で正面玄関を見た。気になって仕方がなく、窓に近寄る。街明かりが粒子のように地上に広がり、上では星が金平糖のように散らばっている。
幼少期に乗った夜の飛行機を思い出した。名残惜しいクリスマスの家族旅行からの帰り、とろとろとしながら窓に顔を傾けていると、ろうそくの灯火に似た温かな光が一つ、ぽつんと夜空に浮かんでいるのが見えた。気がついた時には空港に到着して、親父に揺さぶられていた……。
電子レンジがチンと鳴ったのは聞こえたが、俺は視線をそらせないでいた。光が遠くで横切っている。飛行機にしては遅い。その発光体はモーター音を出し、大きくS字を描きながらこちらへと向かってきた。
U・F・O! ユーフォー! 俺は本能的に携帯電話を出した。興奮のあまりうまくカメラ機能を起動できない。
「オーギガヤツ。扉を開いておいた方がいいぞ」
「あっ! てんめぇ何俺のカツ丼食っとれん!?」
川中島が勝手に俺のカツ丼を立ち食いしていた。
「ハクトーさんだ。食われたくなければ名前を書いておけ。わからんではないか」
「書いてなくても自分のじゃないことぐれぇわかんがいや!」
「おい、ぶつかるぞ」
言う否や豪快に音を立て扉が開き、俺は瞬時に防御した。両腕の痛みに歯を食いしばりながら扉を押し戻すと、紫色の物体が勝手口の前で横転していて、その隣では黒のライダースーツを着た奴が、尻を突き出した体勢でへばっていた。
紫色の物体は、スクーターのタイヤ部分が一枚の円盤になっているという奇妙な乗り物。円盤部分の側面には丸いくぼみが並び、中で灯っていた明かりは消え、モーター音も止まった。
「あいたたたたた……」
ライダーは腰をさすりながら立ち上がった。どうやら男のようだ。
「そろそろ真面目に部品の買い換えを検討した方がいいですね。安全運転でもブレーキがうまく利きやしない。家壊れてませんかね?」
「壊れてないぞ。この前も壊れなかった」
「あたたた、えてて……。おや、ハクトーさんの客人ですか?」
「新しくここ住むことになったオーギガヤツだ」
川中島が紹介した。俺のカツ丼を食べ続けながら。金を、払え。
ライダーはヘルメットを外し、俺はそのみょうちきりんな風貌に愕然とした。
紫色の肌をしていた。頭部は長く、申し訳程度のごとく頭頂にしかない黒髪はベッタリとてかり、耳がないのに黒縁眼鏡をかけていた。かけているというよりも顔にはさんでいると表現した方が正しいか。もう、はっきり言おう。ナスビである。
「花御堂地球です。これから末永く、よろしくお願いします」
花御堂は握手を求めてきた。俺が「ああ」と生返事すると、こいつは親しみを込めたように言う。
「心配しなくて結構です。この前ようやく念願の地球星籍を取得できましたんでね。だから堂々と気兼ねなく言えます。お聞きください。僕は立派な、地球人です。素晴らしい!」
「おいオーギガヤツ。扉を閉めろ。冷えるじゃないか」
川中島が言った。ビルの中で空を飛んでいる家に自称天使と自称地球人。そこに加わった俺は空腹で、腹がギュウッと鳴った。
◇◇◇
二日後。荷物が三箱届き、部屋に運び込んだ。一つは俺がまとめておいた物。もう一つは調味料とインスタント食品、缶詰。最後のもう一つが、ベースの入ったソフトケース。
太古の昔にバンド部に入る、ベースがいい、と親父にせがみ、翌日には買ってきてくれた中古の赤い七弦のアコースティックベース。ずっと神聖な押し入れに仕舞って、ドラえもんに見張らせておいたのに。
三箱とも母さん名義だったが、ベースだけは親父の字だ。ご丁寧に緩衝材で包み、箱にも取扱注意のラベルが貼られている。続けられるものは続けろとでも言いたいのだ。日々精進はもううんざり。
俺は段ボール箱を閉じ、液体のりでガムテープを貼り直し、クローゼットに押し込んで再度封印してやった。ざまあ味噌汁、たくあんポリポリ。




