十一、さよならクラちゃん(前篇)
十一、さよならクラちゃん
大きな物音に慌てて振り向いた。アルファルドさんが豪快に席を立ち、チューリップチェアが倒れ弾んでいた。
セクハラ目的のハゲオヤジやマゾヒストを相手にしても眉尻を気だるげに吊り上げる程度で、手を出されたなら洒落にならない強さで腕をねじ上げ、敏腕ウェイターに丸投げ(本当にボールのように片手で投げる)……。あのクールな彼女が鬼の形相をしている。
穴を開けるかというほどに携帯電話の画面をにらみながら休憩室を飛び出していった。鉢合わせたサンシンは邪魔の一言で突き飛ばされ、クリスタルのテーブルに熱いキスを落とした。
「何なんスかね……?」
「もしかして、元彼だったりしてぇ!」
アクベンスさんはにやにやと浮き立って、アルファルドさんの後をついていった。俺も怖いもの見たさで行ってみようと思った。アクベンスさんがいれば大抵彼女に怒りの矛先が向くので、何かあれば盾にすればいい。我ながら非道な考えである。
ところが二人は早くも戻ってきて、アルファルドさんは「どけ地球人!」と荒い声音で俺を横に突き飛ばし、ずかずかと去っていく。壁に熱いキスをした俺は口元を抑えながらアクベンスさんに事情を尋ねた。
「元彼が情報提供したらしいわ! 今日は早めに帰されるかもね!」
さっきまでのお調子者の影はなく、アクベンスさんも俺を早々にあしらった。
彼女の言う通り、表看板には『作戦会議により、本日は三時までとなります』と書かれ、従業員の間にあった和気あいあいとした空気が消えた。花御堂の姿もない。
「一体何があったんですか……?」
俺は帰る直前にヨハネス店長を捕まえることができた。彼女は鼻息を吹かせて意気込む。
「ミンパラ一派とヴァチイネ一派がそれぞれ地球方面に向かってるらしいんですぅ」
「それは何スか?」
「ミンパラは密漁グループですぅ。ずっとちょこまかとネズミのように逃げ回っててぇ、逃し続けたこっちも悪いんだけどぉ、今度こそ捕まえて芋づる式に検挙するですぅ。これ以上、地球人から被害を出したくないですぅ」
「え? 地球人被害って……?」
「そうですぅー。そいつらはぁ、地球人を捕獲してぇ、売りさばいてるんですぅー。知らない人についてったらダメダメ! わかったぁ?」
お茶目にちょこんと人差し指で俺の鼻を突いた。しかし目はいつになく真面目で、俺はおっかなびっくり二度うなずいた。
「売られたらどうなるんスか?」
「これ以上はぁ、聞かない方が気持ち悪くならないですぅ」
「いやもう十分、精神に来てます……」
「早く帰って休むですぅ。ほら、サンシンが呼んでますぅー」
「出張サービスはどうなるんスか?」
思いのほかに焦りの声が滑り出た。俺たち地球人が得体の知れない宇宙人に拉致される危険性よりも、店長たちの身にもしものことがあったらという不安の方が勝っていた。宇宙喫茶の従業員としての面しか見たことがないが、だからこそ言い知れぬ危機感があった。信用していないという訳ではないのだが。
「それはまだ何とも言えないですぅ。ベストを尽くすですぅ」
ぶりっ子調の台詞ほど疑心暗鬼にさせられるものはなかった。
宙ぶらりんな思いのまま、俺はタイムカードを切った。サンシンは俺と違って何も訳を知らされなかったにもかかわらず、練習時間が増えることに喜び、そのまま仕事を上がることを受け入れていた。
俺たちはエリザベスドーナツでおやつタイムを過ごした後、店長の言葉を忘れるようにカラオケ店でサリーちゃんとメグちゃんを練習した。
◇◇◇
ついに川蝉祭前日。日没も早まり、前夜祭のムードが漂っている。俺たちのリハーサルは順調に終え、ダンス部と入れ違いに特設野外ステージから降りた。ダンス部の女子はみんなヘソ出しルックを決めている。蚊に噛まれたと言ってカリポリだらしなく腹をかいている子がちらほらいて幻滅させられる。
「なかなか様になってたね」
俺たちの様子を見ていたジョンスが両手に腰を当てて言った。
「だろ? 絶対盛り上がるぜ!」
サンシンはすっかりお祭り気分だ。
「例の魔術愛好会は? いなかったけど」
「さすがに同じ魔術は二度も見せられんよ。もう別んとこで全体リハーサル済み」
俺がしてやったりの顔でVサインをすると、ジョンスは鼻を鳴らして笑う。
「しっかし、噂には聞いてたけど」
ジョンスは川中島を上から下までまじまじと見る。
「天使なら輪っかもつければいいんじゃない?」
「まるで輪っかの蛍光灯を頭につけてろと言わんばかりの軽いノリだな。馬鹿め。輪っかはオーラだ。仏様の後光と同じだ。まるで仏様に向かってバックライトを当てないのかと言っているかのようだ」
川中島節にジョンスは呆然とする。トールたちがクスクスと笑い、ジョンスは眉根を寄せる。すぐ真面目顔に戻すとまた鼻を鳴らし、黄色い眼鏡に手を添える。
「それじゃあ僕はまだ実行委員会としての準備があるんで失礼。くれぐれも問題を起こさないように」
言葉尻を強く残し、ジョンスは立ち去った。
「気難しそうな奴だね」
小さくなっていく背中を見ながらツカサはぽつりと言う。
「でも宇宙喫茶の常連なんスよ」
「ああ、親近感を感じる訳だ」
「それはちょっと違うんじゃないっスか?」
「あの眼鏡どこで買ったのかなあ」
「さあ……」
えんじぇるすの中で一番常識人に見えていた彼だが、ちょっぴりずれているようだ。
ミス川蝉にエントリーした女子たちの最終チェックが始まる。一人一人ウォーキングしてポージングするのをタケ筆頭に男子泰大生は声援を送る。そんな中、俺は松先輩を探しに一人別行動を取った。
屋台が続々と完成しつつあり、にぎやかさが増していく。天気予報では明日は晴れ。東京のおっさんもおまじないをかけておくというのだから間違いない。
「オギ!」
前方から松先輩が息を弾ませながら駆けてきた。俺を意識してくれているのか、例のペンギン走りではなくなっている。それはそれで物足りなさを感じてしまう。
「どう? 三人で作った」
ゴシックロリータ風のフリルのエプロン姿の彼女はターンをしてみせた。ポニーテールだったからうなじを確認できた。
「可愛いです」
黒をチョイスしたところが彼女らしい。スピリチュアルな数珠も和洋折衷と言わんばかりにマッチしていて、三百六十度、愛らしい姿だった。彼女ならミス川蝉どころかミス泰大を狙えるのでは。言えば大袈裟だと言われそうだが。俺は好きだと自覚するととことんのめり込んでしまうタイプなのだろう。
なぜ彼女がこのような格好をしているのかというと、宇宙喫茶に交じって占いを提供することになっているのだ。喫茶メニューにプラス二百円払うことでタロット占い。これは松先輩が直々にヨハネス店長に交渉したものである。快諾した店長はさらにプラス五百円で『大藤の母』ことアクベンスさんの安いカニの占いを提案した。さしずめ先輩は謎の占い老婆のメイドという設定といったところだろうか。これは繁盛する。
松先輩は頬を赤らめ「へへっ」と無邪気ににんまり。せっかくのエプロン姿だが、ステージが終われば今度はノンちゃんの姿でウェイトレスをする予定であった。その方が宇宙喫茶に馴染むだろうし、ステージが宣伝となり集客も見込めるからだ。それで魔術愛好会入会希望者が増えれば万々歳。
とにかく俺は記念撮影した。彼女単体と、ツーショットである。これは携帯電話の待ち受け画像にしなければなるまい。
「コスプレしてる人、結構いるわね」
「前夜祭だからやっちゃってる奴もいるんじゃないスかね?」
「でも、当日もきっとこうだから、雉子さんも来れるんじゃない?」
「ああ! それはそうっスね!」
雉子は今あの田舎にいる。おっさんの知人の畑が荒らされる被害が連日続いていて、犯人を取っ捕まえてほしいと依頼されているという。彼は「がんばる!」と元気いっぱい。等身大の自分に戻ることができ、生き生きしているようで何よりだった。
「チンユーシュツ、ゴウユーシュツ。キユーキューイン」
やおら彼女が呪文を口にした。
「あ、緊張してるんスか?」
「だって明日だから。失敗したくない」
「大丈夫っスよ。俺が傍にいますから」
松先輩は照れ臭そうに「むふふ」とエプロンを揺らした。俺は今ものすごく幸せを感じている。
「さぁここでハグしましょうか」
「わーッ!」
ナスビがニュッと横から伸びて叫ぶ俺。
「なんだよ! びっくりすんがいや!」
「言ってみただけですよ」
「そうじゃねーよ」
「ラブラブの熱々っぷりに、僕も焼きナスになっちゃいますね。あっ僕今、結構うまいこと言いましたね。焼きナスだけにうまい。秋は間近ですからね。ハ・ハ・ハ」
ナスビを自覚していたのはさておき、松先輩まで焼きトマトで顔を両手で覆っている。呪文の効果が切れたらしい。
もう、こいつはいっそのことお化け屋敷にでも参加すればいいのにと思う。日が暮れてから様子を見に来た花御堂は変装をせず自然体。誰も振り向いたりはしない。奴の背後では怪獣の張りぼてが多人数で運ばれていく。てんやわんやの、まるで安上がりのSF映画の撮影現場ではないか。
「そうだ。店長たち、当日参加できるんか? まだナントカっていう奴を捕まえてねえんだろ?」
「ミンパラとヴァチイネです。アルファルドさんの元彼の情報が定かなら……」
花御堂は肩をすくめてみせた。それを解決してくれなければ魔術愛好会会員増加計画もガタガタになるし、松先輩も不安になって最高のコンディションで挑めなくなってしまうだろう。
「それにしても、にぎやかですね。ところで例のユーフォーはどこですかね?」
「ああ……、ユーフォーというか通信機械というか」
俺は陸上競技場に案内した。トラックに沿って屋台や飲食スペースが並ぶ中、宇宙人研究会はフィールドの中心を堂々と陣取っていた。
人工芝生の上にはてらてらと銀色に光る、アルミホイルでコーティングされた巨大な円盤があり、衛星のように見えなくもない。天辺には回転するパラボラアンテナ。一日で運び組み立てたというから俺は驚きを超して呆れている。円盤から伸びるコードの先にはいつものコンポーネントステレオにマイクがあった。
宇宙人研究会は「今日は星が良く見えるね」「次の流星群はいつだっけ?」と雑談していた。気が高ぶっているのか、声が大きくトラックの外の俺にも聞こえた。真ん中に巨大なアルミホイルの塊がなければありふれた天文部の会話なのだが。
宇宙人研究会以外の人間は退却していて、星たちは静かに陸上競技場を見下ろしている。ほぼ真上に見えるあれは夏の大三角形だろうか。今度のデートはプラネタリウムなんてどうかとふと思った。この夏は練習で会うばかりで、二人きりで遊びに出かけたのは水族館以降なかった。
そうこうと予定をめぐらせている間に、松先輩はユーフォーの出来栄えについて紫のリアル宇宙人に尋ねていた。花御堂は「ふむ」と腕を組み右手で顎をなで回す。
「まさに文化祭クオリティですね。学生の熱意を感じます。明日カメラ持ってきます」
花御堂は口元をほころばせていたが、どことなく怪訝な眼差しを送っていた。
「それでは皆さん! 今年の川蝉祭が成功するように祈りましょう!」
宇宙人研究会は例のヘルメットをかぶり、サイケデリックな曲に乗ってヨガのようなスローダンシング。膝を曲げたり伸ばしたり、蟹股で歩いたり、足の付け根がつりそうな動きをしながらユーフォーの周りを回る。パラボラアンテナもピーピー鳴りっぱなしだ。
しばらくして、ツカサが一人でやって来た。
「すごいね。泰大は毎年」
「他のメンバーは?」
花御堂が言う。
「コスプレしてる人がいるから写メってる。ハクトーさんは逆に写メられてるけどね」
俺は苦笑した。
「ツカサさんはいいんスか?」
「僕はちょっと気になることがあって」
ツカサは宇宙人研究会に近づき、邪魔にならないように陣の外側から何かを見ていた。そして。
「あっ、勝手に触らないでください!」
宇宙人研究会が声を荒げた。ツカサは陣の中に割り込んでコンポに手を触れたからだ。彼が場の空気を壊すような人柄ではないことを俺は知っている。彼が急な行動を取ったのには理由があるのだ。俺も遠慮なしに割り込んでツカサの様子をうかがった。
「いじってる……」
ツカサは青い顔で呟いた。
「これを改造したのは?」
「我々ですけど?」
三人の部員が不満げに挙手した。乱入者を追い出そうとしないのには、それだけ彼は焦慮の色を出していたのだ。
「ムラタニ楽器店の品にはちゃんと、改造するなと、はっきり注意書きしてる。見てないのか?」
「営利目的じゃないし」
ぶっきらぼうな彼らの返答に、ツカサの目には絶望的な色もにじんだ。
「これじゃあ波に変化が起きて、本能行動に影響を受けてしまう……」
深刻な状況を察した花御堂はせかせかと宇宙人研究会に歩み寄った。
「いつからですか? いつから改造機を使用していたんですか?」
「今年の春からずっと……」
花御堂の報道記者のような問い詰め方は、彼らをそろって萎縮させる。花御堂は下唇を荒々しく親指と人差し指で揉む。こいつがそんな仕草を見せるのは初めてのことである。ため息とともに揉む指を離すと、花御堂は諦めまじりに断言した。
「間違いなくぶつかっていますね。……そこのマイクは? 普段から何か吹き込んでいるんですか?」
「代々受け継がれてきた呪文を。でもそれは意味のない言葉の羅列で」
「ええそれは解析済みです。飛鳥時代の言語のようですね」
だらだらと聞きたくないといった具合にぴしゃりと話を遮る花御堂に、コンポを改造した一人が間抜け面で「へ?」と間抜けな声を発した。
「なぁおい、一体何がどういう事態なん?」
俺は花御堂に問いかけた。
「いわゆるデンパル現象が発生する可能性が」
「デンパル現象?」
「そろそろ地球を横切るんですよね? 何か連絡とかは?」
ツカサがそわそわと花御堂に尋ねる。
「かなりきわどい所を通過しますからね」
宇宙人愛好会は完全に会話についていけていない。少なくとも俺はツカサが花御堂の正体を知っていて、なおかつただの地球人でないことを理解した。
「ねぇ、既に使われていない言葉でも相手にとっては通じてしまっているということなの?」
松先輩が冷静に言う。
「言葉の意味よりも音に反応して降りてくるかもしれません。一時期は密売されていたみたいですし」
「あのさぁ!」
俺は痺れを切らして声を大にした。
「さっきから肝心のこと抜けとらんけ? 何がこっちに来るんね?」
「見て!」
宇宙人研究会の女子の指差した空には、複数の丸い光が不規則にふらめいていた。
「ユーフォー!」
「ユーフォーだ!」
「ついに呼び込みに成功したのか!?」
宇宙人研究会はどよめき立って、おろおろする。
「二体いるわ」
松先輩は俺の袖を掴んだ。
「二? 二体だけですか?」
花御堂が目を凝らす。その光は二手に分かれていて、それは回りながら下りてくる。その浮遊の仕方は水族館で見たことがあった。
光っていたのは内臓部分と何十本もの細い足の束と、その中心から生えた数本の長細い足だった。「クラゲだ」と、誰かがポツリと言った。夜に溶け込む透明のクラゲが二匹。クラゲといえば……。
「すげぇ! 空飛ぶクラゲ!」
陸上競技場の外にサンシンがいた。ジョンスまでいる。「★△◆だ……」と何かを呟いていたようだが聞き取れなかった。
「キタコレでっけぇ! エチゼンクラゲよりもでけぇ!」
サンシンは声を弾ませ駆けてきた。俺は嫌な予感がしてならなかった。
「待てサンシン! 止まれ!」
二匹のクラゲは軌道を変え、サンシンの方へと斜めに下降する。
「子クラゲだ……。わざわざ群れから離れて来たのか?」
ツカサの言葉に耳を疑った。クラゲはどちらとも全長三メートルは確実にあったのだ。
二匹の子クラゲは蛍のように体を発光させながら、サンシンの周りを泳いでいる。場がしんとなった。それはほんのニ、三秒だったのか、それとも一分だったのか……。
「食べられない……?」
松先輩の手が震えている。その手を優しくはがし、俺はそろりと近づいていった。残り五メートルほどという距離から、
「サンシン……!」
小声で、逃げるようにと手で払う動作をした。サンシンは当惑しながら俺を見て、またクラゲを見上げる。
「でも」
「ひゆおーーーー」
子クラゲが鳴いた。口がないように思えたが、傘をしぼませて空気が抜けるような音で鳴くようだった。
突然、一匹が触手でサンシンに抱きつくように絡みつき、松先輩が小さく悲鳴を上げる。子クラゲは傘の部分を開閉しながら上昇し始めた。
「えっ何何!? 何!?」
「サンシン!」
俺は飛びかかってサンシンの足を掴んだ。ジョンスも応援に来て、巻きついている子クラゲ一号の足を外そうとした。
「うわうわうわわぁっ!」
子クラゲ二号がジョンスに絡みつき、宇宙人研究会の方へと放り投げた。ジョンスの下敷きとなった宇宙人研究会のメンバーがうめき声を上げる。
どんなに体重をかけて引っ張っても、子クラゲ一号の浮上力は強く、傘を閉じる度に上へ上へと確実に体を運ばせる。あれよあれよと俺の足は地面すれすれになった。つま先を地面に引っかけるようにして、ずるずる引きずっている邪魔な俺を振り落とそうと、そいつはトラックに沿って大きく楕円を描いた。
「おおおおおいおいおいおいおいオギ! 後ろ来た!」
サンシンが両手をばたつかせる。二号が俺に巻きついた。
「オギ! 無理よ!」
「オギ君!」
松先輩とツカサが叫ぶ。俺は離さなかった。どんどん上昇する俺たちはまるでパラグライダー、いや気球であった。
「オギ。もういいって! 今ならまだ落ちても大丈夫だ!」
「あほんだらぁ! てめぇはいいんかい!」
サンシンの顔は、恐怖ではなく目の前の俺に対する心配しかなかった。小憎らしい奴め。
後ろに引っ張られ続けている俺の腕力は限界に近かった。悔しさに歯を食いしばった。
「くそ! 今に見てろやクラゲんがあッ!」
俺の手は宙をかいた。俺は後ろへ飛ばされた。追いかけていた松先輩の泣きかけの顔が視界にかすめた。
フウウウウウウウウウウン!
モーター音が急接近した。俺は両手を広げていた花御堂へと飛び込む形でぶつかった。バイオレットスワンは大きく揺れ、一回転しながら芝生の上に激しく横転した。俺たちは放り出された。
花御堂は尻を突き出した格好で頭をさする。
「イタタタタ! またやっちゃいましたね!」
「悪い。助かった」
俺は上体を起こす。背中を強打してしまった。
「オギ!」松先輩が俺に飛びついた。「大丈夫!? 腕と手は!? 指は無事!?」
「大丈夫です。弾けます」
アコベは弾ける。こんなことで全てを棒に振りたくはない。それなのに。
「どうしようオギ、サンシンが!」
「ああ……」
子クラゲはもはや手の届かない所にいた。一号を守るように、二号が警戒して周囲を回っている。
「でもなんでっ?」
「わかりません。でも春にあいつ、あのマイクで自分の名前を言ってたんだ……」
だとすれば子クラゲはサンシンの声に反応したということになる。だがあいつがしゃべったのは一度きり。それを道標にしてあの二匹は捕まえに来たとでもいうのか。
「やっぱり銀河団はリアル宇宙人だったのか!」
唐突にジョンスが叫んだ。宇宙人研究会は一斉に花御堂を取り囲む。奴らの視線など気に留めず、花御堂は愛車を起こす。
「良かった。今回も壊れてないです」
バイオレットスワンは無傷だ。なぜかジョンスは涙を浮かべて「やったぁ。やったぁ。ひとりじゃなかったよぉ」と声を震わせている。俺はそいつに構っている暇はなく、背中をさすりながら立ち上がり、走った。
「どこ行くの、オギ!」
俺は足を止めて松先輩に振り返る。
「サンシンを助けに行く」
「どうするつもりなんです? あてはあるんですか?」
「Fだよ」
それが花御堂への回答。俺は走った。携帯電話を取り出して、片手で操作する。正面からトールとタケ、川中島が歩いてくる。タケの興奮度はリーゼントの揺れ具合でわかった。
「さっきユーフォーが出たんだ!」
「何を急いでいるんだオーギガヤツ?」
川中島が怪訝な顔で言う。
「サンシンの大ピンチなんだ!」
俺はすれ違いざまにそう言い、おっさんに電話をかけた。バスなんか待っていられなかった。
「はい、トウキョウスカイホームです」
「おっさん、俺だ! 扇ヶ谷!」
「扇ヶ谷様?」
「サンシンがクラゲにさらわれた! 頼むおっさん! すぐ車で迎えに来てくれ!」
「わかりました!」
瞬間移動を見られないよう、走って五分にあるジャスコ川蝉店の裏駐車場で待ち合わせる。既に待機していたおっさんの車に乗り込んだ。
「一体何があったんですかっ?」
「エイリアンに連れ去られたんだ! だからおっさん! あの家を上に動かしてくれんけ!?」
「は、はい?」
「〝F〟ってそういうことねんろ!? 頼むよ、助けに行かんと!」
「わかりました! では急ぎましょう!」
おっさんは呪文を唱え、トウキョウスカイホームの裏まで移動した。空を飛んでいる家に入り、靴を靴下ごとはぎ捨てた。
「テーブルをどけてください!」
円卓をどかすと、おっさんは絨毯を一気に丸めた。俺は思わずあっと声を出す。そこには床下収納庫のような扉があった。
「こんな所に……!」
灯台もと暗しとはこのことである。扉の下には白い螺旋階段があった。まさか地下があったとは考えつかなかった。しかし、ビル三階の存在を無視してこの家の二階があるのだから、ビル一階の存在を無視して地下があっても不思議ではない。それこそがおっさんが言った『一見、外からじゃわからない』理由だったのだ。地下は外部から見えないもの。それと同じ理屈で、まるで空からは二階建て住宅に見えているのだ。
階段は下へ行くほど色が抜けていく。俺は怯えを殺して透明なタイルの床に足をつけた。
宙に立った気分になった。地下室は壁、床、天井までもが一辺ガラス張りの、家具も何もない空間で、足元で街明かりが煌めき、四方に満点の星空があった。
「ここが、Fの部屋?」
「はい! ここが〝FLIGHT DECK〟! 操縦室です! 操縦盤カモン!」
おっさんの声に反応して光の円がフロアの中央に浮かび上がり、そこに『足』という表記が出た。
「そこに立ってください」
俺は『足』の上に立つ。タイルの溝が光り、地図が浮かんだ。俺が立つ位置にこの家はあるらしく、表記では例のビルと重なっていた。
「まずは前に片手を出して指を差す!」
言われた通りにすると三角の矢印が表示される。
「足踏み! いっちにー、いっちにー」
景色と地図が遅く流れる。家が前進しているのだ。
「足踏みやめ!」
家は止まる。
「と、そんな風に指を差すことで進む方向を決めるんです。上も下も。スピードは足踏みで調整。正面玄関の向きを変えたい時は両腕を広げて回る。ラジコンよりも簡単でしょ?」
「オッケー、わかった」
俺は川蝉キャンパスの方角へ指差した。それに合わせて回る矢印。足踏みを軽く速めるだけでも速度のメーターがぐっと上がる。高度はそのままに、ぐんぐん移動する家。
「おっさん! 何か光ってる物体見えんけ!?」
おっさんはぱたぱたと忙しなく走り回る。
「わっ」
背後から飛行機。金属の巨体が頭上を越えていく。家を見られてしまっただろうか。
「見えましたよ! 右斜め下に白い発光物体がポツポツ!」
俺はバタバタと足踏みしながら両手を広げて家の向きを変える。滑稽な姿だったが、恥ずかしさを覚える暇はない。俺は少しずつ家を子クラゲに接近させた。
「おっさん! 俺が玄関からサンシンを引っ張っから、操縦お願いします!」
「はいはい!」
一階へ移動する際に、おっさんが「落ちないように気をつけて!」と下から警告した。
俺は扉の右側を開け、目一杯の大声で親友の名を呼んだ。すると表情こそ見えないが、顔がこっちに向いた。
「オギかぁーーーー!? お前、何に乗ってんだぁーーーー!?」
「空トンビだよ! 空トンビ!」
「ソラトンビィーーーー!?」
「今そっち行くから! 手ぇ伸ばせ!」
玄関の真正面にサンシンが来る。俺は手を伸ばすが、子クラゲ二号がそれを遮った。いらついた俺はそいつの弾力ある触手を掴み束ね、中へと引きずり込んでやった。
「こんのぉおおおお!」
渾身のジャイアントスイング! 手を離すと子クラゲ二号は階段の収納に激突し、フィギュアが何体かこぼれ落ちた。あとで花御堂に謝ろう。
子クラゲがぐったりと床に広がっているその隙にサンシンの腕を掴む。腰を落とし、綱引きの要領で少しずつ後ろへ下がる。子クラゲ一号は負けまいと引っ張る。
「おおい! オギあぶねーって!」
あわや右足がすべる。とっさに体をひねって左のドアノブに左手を引っかけ踏ん張った。おっさんも家の位置を微調整してくれているようだったが、かなり不安定な体勢になった。
「オギオギオギ! また後ろ来たぞ!」
弾力のある柔らかいものが俺の背中を押した。ぐりぐりと傘をひねらせ、強引に外へ出ようとしていた。俺は出すまいと背中で押し返す。さっき強打したおかげで背骨の辺りがずっと痛いし、サンシンを掴む伸びきった右腕もちぎれそうなほど痛いし、ドアノブを掴む左手のひらも指も痛い。
「オギ! いるんでしょ!?」
松先輩の声だ。勝手口を激しくノックしている。
「いまぁーーーーっす!!」
やべぇ。鍵かかってる! おっさぁん!
「いるんでしょ!? ここを開けて! 開けろオギ!」
そうだ! 中の音は外には聞こえないんだっけ! おっさぁん!
「今は……っ、無理っスぅーーッ!! わぁ!」
混乱に左手が滑った。体勢を崩し、前のめりにアプローチに倒れ、膝を擦りむかせた。
「わーっ! オギ!」
サンシンが叫ぶ。俺の上半身はかろうじて夜空にぶらりと垂れ下がっていた。両腕を使って体勢を持ち直すも、ジャイアントスイングの腹いせか、子クラゲ二号が脚に巻きつく。
「ハクトーさん早く鍵を!」
松先輩が催促している。とうとう俺は夜空で宙づりにされ、突然に凍てつくような寒さと風のどよめきと耳のつんざく痛みに襲われた。俺は見えない何かに助けを求めもがいた。恐怖で喘ぎ、酸素を求め、白い息が儚く消えていく。
「わわ、オギ!」
「わああああああああああああああッ!!」
絶叫した。恐怖がかき消されそうなほどに俺は振り回された。街明かりが何重もの円になり、目が回った。
呼吸ができない。窒息しそうだ。この拷問が永遠に続くかと思った時には既にハンマー投げの要領で捨てられていた。
「オギーーっ!!」
見よ、美しい弧を描いて落ちていく俺を。離れていく子クラゲと我が家。さらば、俺の中途半端なドラマ。ナイトスカイダイビングだなんてシャレてるではないか。
さて、走馬灯でもよぎらせようか。一体何から振り返ればいいのやら。
サンシン、助けられなくてごめん。松先輩、いや旭さん。最後に見た姿がメイド姿で嬉しかったです。
ちゃんとみんなで本番のステージをやりとげたかった。旭さんと江井先輩と美池先輩が魔術を繰り広げて、トールとサンシンが歌って、ツカサがキーボードを弾いて、タケと川中島がギターを弾いて。拍手喝采。
川中島、このまま俺も天使になれるだろうか。死んで幽霊になったら、あんたが推薦してくれないだろうか。天使になったら、俺は空を飛んでいる家に舞い戻る。名前も姿も変わって、記憶が消えても、みんなのことをあんたのように思い出してみせるから。
……さて、どこまで落下しただろうか。意外とそこまで落ちていないらしい。思考がフル回転しているせいで、時間の感覚が狂っているのか。できれば気を失って、地面との衝突の瞬間を感じたくはない……。
……さて。
さて、こんな場面で話を終わらせる訳にはいかないのだ。万人納得のハッピーエンドとはいかないが、良い結末を迎えなければいけない。そうだとも。俺にとって。
人影。そいつはアプローチから飛び降り、ポンチョを大きく広げ、モモンガのように滑空した。
「オーーーーギガヤーーーーーーツ!!」
川中島が俺に目がけて飛んできた!
「見ろオーギガヤツ! 天使が飛んでるぞぉおおおおーー!!」
唇をぶるぶる震わせながら、奴は下に回り込み、俺を抱き止めた。衝撃は吸収したのか、天使の抱擁は柔らかく、背中の痛みも優しく包み込み、春のような暖かさを与えてくれた。
「川中島!」
「アイアムハクトーさんだ。どうだオーギガヤツ、天使に助けられた気分は?」
「助かった……! あと、姫様抱っこが不満だ……」
「私も姫様扱いするのが不満だぞ」
「本当に飛べたんだな」
「信じてなかったのか? 私は本当に必要な時にしか飛ばないぞ」
不服そうな川中島の翼は、取り巻く風で揺れるだけで羽ばたいてはいなかった。一体どんな力で飛んでいるのか、俺を抱えている状態で家へと戻る川中島はスーパーマンであった。
「オギ!」
「扇ヶ谷様!」
旭さんと操縦を止めたおっさんが玄関から顔を出す。
「ハクトーさーん!」
えんじぇるすの三人も窓から手を振っていた。
「もう馬鹿! 心配させないでよ!」
生還した俺にまたもや松先輩は飛びつき、胸を叩いた。俺は疲労で後ろに倒れそうになったが、川中島の胸にぶつかって止まった。
「すいません」
申し訳なくて彼女の頭をなでた。ああ、生きていて良かった。
「凄いや! ハクトーさんは本当に天使だったんだ!」
タケはリスペクトの眼差しで頬を紅潮させ、握り拳を掲げた。
「話聞いたわ。クラゲとサンシン君は?」
空を仰ぐトール。子クラゲ兄弟は高く遠く逃げていた。
「おっさん、もう一度頼む!」
「わかりました、任せてください!」
俺がお願いするとおっさんは操縦室に戻り、トールとタケも興味津々について行った。家はぐんぐん上昇し、下界を覗けばやがて日本列島の本島が姿を現す。
「みなさーん! 玄関のドアや窓は開けていても構いませんがぁ、けしてアプローチや屋根から外へ離れないでくださーい! 陣地から外は制御してないのでぇー!」
おっさんが警告した。「いやいや、離れたら普通に死ぬやんけ」とトールのツッコミもかすかに聞こえた。離れれば当然落ちて死ぬ。しかしおっさんが言いたいのはそういうことではない。大気圏の温度変化は激しい。無防備で耐えられるほど、人間は高性能な生き物ではない。大気圏を出れば宇宙だ。落ちる以前の問題なのだ。
この家は魔法の家。家に足をつけている限りは安全で……。
「サンシンやばくねぇ!?」
俺の言葉に旭さんもあっと口元を押さえる。
「今は対流圏か」
ツカサが外を見る。
「気温はどんどん下がる。上部にはジェット気流もある。それ以前に低酸素症、高山病……あるいは低体温症で凍死する可能性がある」
俺たちは絶句する。そこで花御堂の姿が見えたので、俺は扉を開けた。
「いつもの場所に家がないと思ったら! Fを起動しているんですか!?」
ヘルメットをかぶっている状態でしゃべる花御堂。奴のライダースーツとヘルメットはいわば宇宙飛行士の着るそれと同じで、寒さも暑さもシャットダウンしている。
「ハッコウソラクラゲの群れが成層圏上部でストップしています! エッキゾーストさんたちから連絡がありました! ボスクラゲの内臓の発光色が異常だそうです!」
「異常ぉ!?」
「傘の部分にも謎の模様! 常に鳴いていて、どうも親を呼んでいるようにしか考えられないそうなんです! 成長段階からして親は死んでいる筈なんですが! デンパル現象のせいですかね!」
「もしかして!」
松先輩が俺の隣に並び声を張り上げる。
「サンシンが小さい時に飼ってて、それで逃げ出したクラゲがそうなんじゃない!? 親だと思ってるのよ、きっと!」
「ああ、そうでしたか! そうかもしれません! ソラクラゲは成長するに従って宇宙へ上昇しますからぁ!」
「サンシンに助けを呼んでるのかなぁ!? 異常なんだろぉ!?」
「可能性の一つですけど! それでですね! クラゲの群れによってミンパラとヴァチイネを見逃す恐れがあるので、店長からクラゲの動きを止めてまとめておくよう伝言があります!」
「止めてまとめるったってどうやって!?」
「ハクトーさんいけますか!?」
川中島は「止めればいいのか」と、合点といった具合に早足で二階へ上がった。俺も川中島の部屋に入った。川中島はハープを用意して、天窓を開けるところだった。
「ノックをしないか、オーギガヤツ」
「どうする気だ?」
「クラゲを呼んでみる」




