十一、さよならクラちゃん(後篇)
川中島と俺は屋根に上がり、俺は身震いした。魔法で制御されていても木枯らしが吹いているようで縮み上がる。川中島のポンチョがあれば温まれるだろう、羨ましかった。だがサンシンはこれ以上に極寒に耐え、人間の限界を行こうとしているのだ。急がなければならない。
「弾くぞ、オーギガヤツ」
川中島がハープを奏でた。耳の穴をなでられ、頭が軽くなるようだった。甘美なさざなみは宇宙空間を歪ませ、星の配列をめちゃくちゃにする、そんな幻覚を見た。
「子クラゲの動きがストップしたようです! 降りてきます!」
花御堂が報告によって、俺は我に帰った。
「よし! サンシンを屋根の上に!」
子クラゲ兄弟が戻ってきた。サンシンが小さく手を振っている様子が確認できた。
「サンシン! 無事け!? どこも変じゃないけ!?」
顔面蒼白で、唇が花御堂のように紫色のサンシンは弱々しくてぎこちないオッケーサインを作った。ああ生きている。俺は袖の上からでも感じられるほどに冷え切った腕を引っ張り、足を屋根につけた。
「ああもう、取れない!」
子クラゲ兄弟は大人しくしていたが、サンシンを放すつもりは毛頭ないらしく、触手を解こうとしても滑り、指を入れる隙間がないほどがんじがらめになっていた。
その時だった。
ひゆおいいいいいいいい、おおおおおおおおおおんんんん――――
頭上から、非常に薄い空気を振動させるとても遅く長い重低音が、天空全体にぐわんぐわんと響いた。
「な、何だ……?」
「ボスクラゲです! 奴も降りてきます!」
花御堂が声を張り詰めた。星と信じていた無数の白い光は、実は一匹一匹のクラゲだと知るや血の気が引いた。
一際に目立つ赤い光があった。天使の旋律に反応したボスクラゲは群れまでも引き連れてきたのだ。
家は大きさ異なる大量のクラゲに囲まれ、ここは海中ではないかと錯覚してしまうほどである。今まで散々と非常識な光景を目の当たりにしてきたのに、浩浩とした宇宙空間で姿をむき出しにして生命としての活動を続けてやってきたこいつらにおぞましさすらあった。
クラゲたちは左右に避け、ボスクラゲを家の間近まで通していく。
「で……でか……」
俺は息をのんだ。家ほどではなかったものの、ボスと呼ばれるだけあって宇宙の主にふさわしい。何らかの病気か、奴の内臓が赤く光っていて、異常であることが他と比べて納得できる。
「今俺、クラゲに囲まれて超幸せ……」
「ヘロヘロなのに何言っとれんま……」
サンシンが紫の唇を吊り上げてニタニタと笑うもんだから、俺の非日常生活の犠牲者としていかれてしまったのかと同情せざるを得ない。
ボスクラゲは前のめりで俺たちを見た。といっても、目がどこにあるのかは知らない。
「ひゆうううううううん……」
根っこのように柔らかなとげが無数に生えた、長くびらびらとした触手が動いた。狙いはサンシンかと思ったが、その触手は自身の脚の付け根、口の中に突っ込んだ。何がしたいのか予測できず、俺は身構えるしかなかった。
口から取り出したのは手のひらサイズの石で、赤い光の正体であった。ボスクラゲは赤く光る石をサンシンに渡した。サンシンはルビーとは違う、きらきらと輝く石に魅せられ、みるみると血色が良くなっていった。
「一体それは何でしょう?」
花御堂がわからないものを俺たちが知るはずがない。
「ありがとう。クラちゃん」
サンシンは感動と懐古の眼差しをボスクラゲに送って、吐息を出すように言った。
「クラちゃん?」
「だって、『クラ』って書いてあるもん」
サンシンはボスクラゲの傘を指差した。へにゃへにゃで汚い字だったが、膨らみきった風船に書かれたような薄い黒の模様は『クラ』と読めないこともない。まさかマジックインキでペットの名前を書いていたのか。純粋虐待! 俺は呆れて何も言えなかった。
「すっげーでかくなったなー。あの頃はこれくらいだったんだぜ?」
と、サンシンは生き生きと俺に赤い石を見せる。
「でもなぜに石?」
「うーん……。わかった!」
サンシンは目を無邪気に輝かせる。
「俺あの頃セイレーンムーンにはまってたから! ほらこれ、変身アイテムに埋め込まれてる宝石みたいなのに似てね?」
「知らねーし!」
「俺ほしかってんけど、親が許してくれんくて。な、クラちゃん? いかしてるよな!」
クラちゃんは触手をドレスのように翻しながら回った。ペットは育ての親に似るというが、呑気な奴らめ。川中島が「せいれーんむーんって何だ?」と聞いてきたが、説明が面倒で無視する。
「つまりクラちゃんは、群れの大移動中にサンシン君へそれらしい物をプレゼントしたかったということですね? いやー感動ですな。もしも例の改造コンポがなければ、立った二体ではなく一斉に地上に降りてきたかもしれませんね」
花御堂はしみじみしていた。こいつの言う通り、実家にサンシンがいないとわかれば手分けして世界中を探していたかもしれないのである。皮肉にも宇宙人研究会はクラゲパニックを最小限に食い止めたということになるのか。
「でもなんでクラちゃん自身が降りて来なかったんだ?」
「そりゃあ、ボスとしての使命もありますしね。まずは使いとして送ったんでしょう」
「そんで結局それ何? 隕石なん?」
「地上に落ちていませんから隕石ではないですよ」
「それもそうだ」
傍目ではサンシンは石を宝石にうっとりする女の如く嬉々と眺めたり、クラちゃんの傘にぐりぐり押しつけたりしてじゃれ合っている。お前らはカップルか!
「ちょっと、失礼」
花御堂は真面目な顔つきでヘルメットの側面を押さえ、通信を聴いている。
「マッニホールドさんたちがミンパラの船を検挙したそうです」
「てことはあとナントカっていう」
「ヴァチイネです。ヴァチイネ率いる海賊団です」
花御堂はまだヘルメットの側面を手で押さえている。何やら深刻な雰囲気が漂い始めるのを感じる。川中島は「宇宙なのに海賊なのか?」と間の抜けたことを抜かしている。
花御堂はヘルメット越しに俺を見据えた。
「クラちゃんは奴らが目当てだったその石を先に取っちゃったんでしょう」
「何ぃ?」
「ヴァチイネはサルベージ他、化石エネルギーの無断採掘もしばしばですからね。マッニホールドさんたちも店長と合流に向かいました。ちょっとやばい状況らしいですね」
「やばいって?」
俺は店長たちの身の安全を増して危惧したが、心配すべきなのは彼女たちのことではなかった。花御堂は事態の重さに、わざとらしく肩をすくめた。
「かなりのスピードでこっちに向かっているみたいですよ。母船から離脱した船のうち五隻」
沈黙する俺たちに対し、追い打ちをかけるように「母船の方はまだ検挙中。こっちの方は他の支部も時間的に間に合わないそうですよ」と花御堂は言う。
クライマックスが近づいてきたようである。俺はサンシンに顔を向ける。
「……捨てよっか、その石」
「駄目ですよ! こんなとこで捨てたら」
叱られてしまった。冷静になって考えてみれば、捨てたら重力によって地上に落下する。化石エネルギーとくくっても何が起こるかわかったものではない。大爆発して巨大クレーターができあがるかもしれないし、実はこれは怪獣の卵で、衝突したことで新たな物語が生まれるなんてことも宇宙なだけにあり得てしまう。
「かと言って、俺渡したくないぜ?」
サンシンは臆面にも語気強めで、その気持ちには賛成した。渡してヴァチイネとかいう海賊団が素直に退散してくれるとは限らない。俺たちを人質にして銀河団から逃げようする可能性だってあるのだ。
「ひとまず、中に避難しよう。サンシンは……、子クラゲ一号ごと玄関から入るしかないな。もう少しだけ我慢してくれ」
サンシンと花御堂は玄関から家の中に入った。俺は地下に向かって叫んだ。
「おっさぁーーん! 海賊船がこっちに向かってる! 早く家を移動しないと!」
「それは大変です!」
「きゃっ!」
旭さんの悲鳴に、何事かと頭を上げればクラちゃんが我もと言わんばかりに扉を開けて中に入ろうとしているではないか。
「おおおお、おいおいおい!」
俺は押し出そうしたが傘に弾かれ、クラちゃんは傘を押し込みへこませながら、すっかり中にお邪魔してしまった。リビングは超満員。えんじぇるすの三人と旭さんは驚きのあまりに勝手口から地上へ避難した。「む、鍵をかけ忘れていた」と二階の川中島の呟きが聞こえた。
おっさんは暖簾をまくるようにしてクラちゃんの触手の下から顔を出した。
「白桃様、花御堂様、扇ヶ谷様、サンシンさんも早く外へ!」
サンシンは子クラゲ一号と勝手口から出ようとする。一号がつかえたので押し出した。あとは住人の俺たち三人と。
「おっさんも!」
「僕はこの家の管理人ですから。守らないと皆様が住めなくなるんで。音漏れしないように勝手口は閉めてください。鍵はかけてくださいね。そうすれば契約者以外の方は地上へ出れませんので」
おっさんは二コリと、営業スマイルとも家族愛に満ちた父性とも取れる笑顔で引っ込んだ。
「おっさん!」
俺はクラちゃんの足元の扉を手探った。ノックをしても反応がない。どんなに気張って引っ張ろうとも扉は硬くて開かない。
一人敵に立ち向かっていった。自分だけ犠牲になろうとしているのだ。俺は非日常生活の重鎮が消えてしまうと驚怖し、何度も声をかけ扉を殴った。
「おっさん! おい! うわっ」
家が横へ急発進し、俺はバランスを崩して横倒しになった。
「うわぁ! そいつは無理だろぉ!」
タケが騒いでいる。クラちゃんがサンシンを追って勝手口から出ようとしていた。
「これじゃあオギたちが出れないじゃない!」
「おいオーギガヤツ。水色の光が近づいているぞ」
二階から川中島に言われ、俺はクラちゃんの触手を押し退けて五つの水色の光を視野に捉えた。
あれが母船から離脱した海賊船団だ。ほんの米粒程度であるが、距離感が掴めない以上は規模がわからない。この家より大きいかもしれないのだ。
びゅうびゅうと空を切る音に、おっさんがわずかばかりの体力で必死に足踏みしている姿が目に浮かぶ。それでも光は小さくなるどころかじわじわ大きくなっていく。小指の爪ほどに達した時、一つの光の中に一点の赤が浮かんだ。花御堂が仰々と窓にへばりついた。
「トーキョーさん! 砲火してきました! 避けてぇ!」
赤い閃光が突撃した。
「旭さんドア閉めてえ!!」
「マブールマボール、エーボウビーボウ!!」
俺の絶叫とおっさんの呪文が同時に上がった。
「アカン旭ちゃん!」
「おい、ぶつかるぞ」
トール、そして川中島の言葉のあと。赤い光は家の中に差し込んだ。俺は目が眩み、気がついた時には体が浮いていた。
爆発的な音に叩きつけられる。クラちゃんがクッションとなり床に転がった。視界が赤黒白と点滅して火花が散り、意識が飛びかける。
「家は……? 無事なんか……?」
くらくらする。仰向けになると、何かがクラちゃんの上から滑り落ちてきた。座布団であった。目の前がはっきりしてきたのと同時に、全身の痛みに見舞われる。
どうやら家自体は無事らしいが、テレビは割れ、円卓は二階の手すりに引っかかっている。点滅するシーリングライトにはこともあろうにメーテルらしき黒い物体が突き刺さっているのをクラちゃんの傘越しに見えた。キッチンは特に滅茶苦茶だ。もうフィギュアのことを謝らなくてもいいんだなあ、などと気の抜けた思考がよぎる。家具が俺にぶつからなかったのもクラちゃんの巨体のお陰だろう。
そういえば他のクラゲはどうした? そんな思いも余裕が出てきた証拠なのだろうか。立ち上がるもよろめき、キッチンカウンターにすがった。ああ、まだまぶたの裏が赤くてちかちかする。ラッキーカラーだったはずの色が、今や真逆の意味を孕んでいる。
「本当に呪ってやる……」
旭さんがクラちゃんの足元から鬼の形相で俺をにらんでいた。
「勘弁してください……」
俺は困惑しながら彼女を引き上げて抱きしめた。
「呪文で勇気が出たのはいいんスけど……。無茶しないでください絶対に」
「私はオギが好きだから、本物の魔術が使えなくてもピンチの時は傍にいたい」
「旭さん……」
「何気に、下の名前で呼んでいるわね……。やっと……」
愛しさが込み上げる。彼女の真っ直ぐな瞳は俺を放さない。
「ここでディープキス……の場合じゃないですね。イタタ……」
窓際の花御堂がヨガのポーズで茶化す。この状況をはばからずにいちゃつくほど俺は惑乱していない。花御堂は軟質な脚を下ろし、頭をさすりながら起き上がる。
「今ので宇宙ゴミが分散しましたね。危なっかしいったらありゃしない……。しかしこれは、エネルギー反応が消えた腹いせでしょうか? 奴らは野蛮ですからね」
石を持つサンシンは地上。ある一定距離内のエネルギーを探知できるセンサーが船内にあるとするなら、その反応は途絶えているだろう。一体相手は何を考えているのか、家を破壊すれば進展があるとでもいうのだろうか。
「川中島は大丈夫か?」
「ハクトーさんだ。言ってみろ、ハクトーさんと」
川中島はその場から一歩も動かないまま、腕を組んで立っていた。
「みんな無事やろうな!? 旭ちゃんは!?」
トールが勝手口を開けた。俺が「はい」と答えて五秒も立たないうちに「また来ました!」と花御堂が叫んだ。
「トールさん閉めて!」
「えっ! そんな――えっ?」
勝手口を閉めたのはクラちゃんであった。おっさんは呪文を唱え、俺は旭さんに覆いかぶさって床に伏せた。床が赤に染まり、黒い影が伸びて、家が激動した。
「どうなっちゃうの……?」
旭さんの声は恐々と擦れていた。
「では僕が石を持って家から遠ざかりましょう!」
サンシンから石を受け取ろうと勝手口へ行く黒い脚が見えた。
「駄目だ花御堂!」
俺は止めようとクラちゃんを押し退けて追いかける。バイオレットスワンに乗って、囮になるつもりなのだ。
「ヒーローが来るまで何とかするのが僕たちの役目です、とか言ってみますかね」
「なんだよお前の言うヒーローって! 主人公か! スポーツのMVPか! お前まで犠牲になろうとすんなや!」
「犠牲は最小限に食い止めるものでしょう? 僕も銀河団の一員です」
「俺はあんたと家族の一員やねんぞ!」
「かぞく?」
足を止めて振り返る紫の地球人は渋い顔をしていて、眼鏡のフレームが歪んでレンズが傾いていた。
「ほうや! 一人にはでけん!」
「じゃあ、応援が来るまで耐えればよろしいと?」
「いや駄目や! ここは俺らの家なんやから!」
「宇宙間の争いごとにおいて君は初心者ですらないんです。存亡を見守るか知らぬまま過ごすのがごく一般市民としての在り方でしょう? 君が君にとって得体の知れないエイリアンに立ち向かうなんて賢明ではありませんし僕が許さないぞ」
俺をあしらおうと早口だった。目は厳しくつり上がり、唇は左右非対称に歪み、俺を指差す手は力を込めるあまり震えていた。
「俺だって許さんわいや。もうちょっと待って、考えるけえ!」
俺たちの魔法の家。逃げてもいずれ攻撃は当たる。一方的に攻撃されるだけだなんて絶対に嫌だ。おっさんの体力は無限ではない。こんな時に雉子がいてくれたなら、あの強烈なエネルギー弾をぶちかませられるのに。反撃はできないのか? 何か、攻撃を……。
「…………武器……。川中島の弓矢!」
初めて魔術愛好会の部室に行った時の、江井先輩とのやり取りを思い出した俺は川中島を見上げた。
「なぁおい! 天使の弓矢、部屋にあるんだよな!?」
「ハクトーさんの、天使の弓矢だ。あるぞ、私の部屋に」
「それで海賊船を撃てんがん!?」
「む。船を撃ったことはないが。言っておくが、私は撃たないぞ」
「何で!?」
「私にそこまでする権限がないのだ」
「じゃあ何のためにあるげん!?」
俺の激語の直後に旭さんが「来た!」と荒げ、おっさんが呪文を叫び、家が攻撃される。体勢を崩して見上げれば、川中島はまだ平然と立っていた。
「守護のためだ。今はトーキョーの力で全員守られている」
「でもさっきハープ使ったろ!?」
「それはサンシンの命が危なかったからだ。オーギガヤツが落ちた時も、命が危なかったから私は飛んだのだ」
このまま家が耐えてくれれば、銀河団が来て助かる。だから天使が出る幕はない、というのか。俺は唇を嚙んで俯いた。
「……それでも俺は」
「家を守りたいんだろう? オーギガヤツ」
はっとして俺は顔を上げた。
「私の代わりに守ってくれ。私たちの家」
川中島は天使としてではなく、一人の人間としての目をしていたように見えた。ほんの一瞬だけ、シロちゃんの面影が浮かび上がったかに見えた。
そうだ。あんたが言い出しっぺだ。俺たちは家族だって。川中島白桃。
「弓矢を貸してくれ。白桃」
「〝さん〟をつけろ。まあ、大目に見といてやる。ショージン」
親父と区別してくれた瞬間、俺のアコベに対する『やらなきゃ』という親父の無念から解き放たれ、アコベに対する情熱と扇ヶ谷家に対する敬意が昇華されたような気がした。
白桃のクローゼットの中に弓袋が立てかけてあった。
「矢は十本しかない。狙いを定めろ、ショージン」
「おう」
おっさんを説得して家を停止させてから、俺と白桃は屋根に立った。はたして様子を探っているのか、水色の光も一定の距離から動かず、絶好のチャンスである。
「しっかり構えろ、ショージン」
やる気だけは一人前。俺は弓道なんて知らないし、相手は二機。酷過ぎるハンデだ。本当に命中させることができるのか。
いいや、当てなければならない。コンパウンドボウに似た形状の、しかし仕組みは原始的の金の弓。手に取れば天下をこの手に掴んだかのような……いや委ねられたかのような重みが腕に来る。
ご先祖様もこんな気分だったのだろうか。彼らの方が守る人数は多かっただろうけれど。逃げるように実家を出て、住むことになったこの家。白桃たちに出会ったことで俺の世界が変わったのだ。かけがえのない人生の色となったのだ。この家を守らなければ。
俺は弦を引いた。弦はかなり堅く、指の関節にぎりぎりと食い込み、血流を妨げる。
「おい、ショージン。ブルブルしているぞ」
「わかってる!」
普段使わない筋肉は硬い。手の震えを最小限に抑え、矢を放つ。フォームからして不安定だった矢はブルンと釣られた魚のように真下に落ち、屋根の上で跳ね、金粉となって消えた。
「使ったことには変わりないぞ」
天使の言葉は重い。
「ほら、来たぞ」
赤い光が飛んできた!
「マブールマボール、エーボウビーボウ!」
「マブールマボール、エーボウビーボウ! オギとハクトーさんを!」
旭さんは玄関を開けてアプローチに立っていた。おっさんの呪文を力一杯に復唱した。俺は目を閉じた。耳元で落雷したかのような音! 足元がふらつき、白桃に腕を掴まれた。目を開けると目前で赤い電気が俺たちの周りをドーム状に避けて逃げていく。
そのドーム状のバリアを突き破るようにして、花御堂が飛び出した。
「花御堂!?」
「いつ接近してくるかわかりません! 僕が向こうで引きつけておきますからそのうちに!」
「一人じゃ無理だ! おい!」
半球の透明屋根がかかり卵型となったバイオレットスワンは唸りを上げて爆走した。その明かりは海賊船のそれよりもちっぽけで、やがて線状の赤とショッキングピンクの光が乱れ飛ぶ。ショッキングピンクはバイオレットスワンに搭載されたビームガトリングガン。銀河団として動く時は必ず装備させるのだという代物であった。
「ぼやぼやしている暇はないぞショージン」
「ああ!」
どんなに性能がよく、腕があっても花御堂は不利だ。
俺は体勢を直し、二本目を放った。矢はむなしく落ちて消えていった。
「オギ! 誰かが家に入りたいそうよ!」
下から旭さんが叫んだ。
「誰か!?」
「ツカサさんがそう言ってる! ……雉子さんよ!」
「ナイス! 入れてください!」
「早く! こっちよ!」
雉子が玄関から勢いよく飛び出し、家の周りを旋回した。
「五十彦さんから連絡を受け馳せ参じました! この邸第を脅かす敵とは、あの青く光るものでしょうか!」
おっさんは何らかの呪文で雉子を呼び寄せたらしい。彼の凛然とした声は頼もしい。リハビリによって飛翔能力は良好で、ぴんと広げられた両翼は雷なんぞも打たれても平気とばかりに猛々しい。彼の登場だけで一気に俺の中で勝機を見出した。
「雉子! こんなとこ飛んでて平気か!」
「経験済みです、問題ありません!」
「今花御堂が向こうで戦ってる! 急いでくれ!」
「ではぼくは左の四つを討ち滅ぼしましょう! 扇ヶ谷君は右の一隻をお任せします!」
恩人のおっさんを崇拝し切っている雉子は、黄色の目玉をじろりと精悍に打ち落とすべき敵を見定める。それが彼の妖怪としての、あるいは天に迎えられた時の聖なる姿だったのだろうか、エメラルドに輝いた気合いが背中から発せられ、鷽姫様の時と似たように盛大なる鳥の形を作った。雉子は光をまとい、矢の如くまずは花御堂に近い一隻に直進した。
あっちはすぐに決着がつくだろう。俺は三本目の矢を握る。三本目はさっきよりも飛んだ。しかし海賊船までには全く及ばない。
四本目。
「くそっ! 当たらん!」
「冷静になれショージン。せっかく相手は止まっている。当たるものも当たらないぞ」
白桃に言われなくとも。
「オギ!」
サンシンが顔を引きつらせながら、子クラゲ一号に運ばれて屋根の上に現れた。
「だ、ダラぁ! 危ねーじゃんかよ!」
「お前も危ねーよ、アホンダラ。一人でかっこつけんなや」
「ここは俺んちだ!」
「じゃあ俺は親友んちを守るよ。貸してみ?」
またおっさんと旭さんが呪文を唱えた。赤い光が激突する。その間にサンシンが俺から弓を奪った。
「おい! お前は運動音痴だろ!」
「問題ありません! 隊長!」
サンシンは軽々と弓を構える。さすが昔から運動部だった男。サンシンは真剣に矢の先端を水色の光に標準を合わせる。今まで得てきた漫画アニメの知識から弓使いのキャラクターを彷彿させているのだろう、フォームもしっかりしていた。
最初の一発が放たれた。五本目!
「うわ!」
反動でのけ反る。矢が光の尾を伸ばして真っ直ぐ飛び、水色の光の横を通り過ぎて消えた。
「ああっ、惜しい!」
「む。やるなサンシン」
「すげぇ。お前、弓道部に向いてたんだよ!」
人間には向き不向きがある。右から二番目の光がちらりと、火花らしい光を散らせた。向こうは順調だ。サンシンはもう一度構え、矢を放つ。のけ反りそうになるのを子クラゲ一号が支える。
水色の光が動いた。矢は外れた。
「ああっ、動くなよぉ!」
「大丈夫! 空振り三振はしない! 絶対に! 汚名返上といこうぜ!」
「それでも俺は〝サンシン〟だけどな!」
俺たちはにやりと笑い合った。
「バッター真水、渾身のヒットを打てるか! そして最後の投球をぉ――」
赤い閃光が来る。
「――撃ちましたぁーー!!」
サンシンは破顔していた。カキン! 軽快な音が聞こえた気がした。どこからそんな自信が湧いて出るんだと、かつての部員たちが阿呆らしく諦め顔で嘲笑したいつもの局面で。
ラッキーセブンの七本目、光の尾がさらに太くなり流星となった。場内がわっと沸く光景が目に浮かんだ。あの万年補欠、万年三振が!
七色の流星は赤い閃光を貫き、その威力は衰えることなく海賊船へと突き進んだ。「当たるぞ」と白桃が言った。七色の光は十字に、それから星のマークに変わった。
いいとこ取りの真水選手。奇跡の逆転さよならホームラン。本日のMVP。
「オギーもサミーも勇気がありますぅ!」
ヨハネス店長は俺とサンシンに抱きつき、きゃぴきゃぴと跳ねた。頬ずりされて毛がチクチクとくすぐったい。
「就職先はぜひワタシたち銀河団日本支部にお願いしたいですぅー!」
「うわ! やったなオギ!」
「いやいやいや、もう少し考えさせてくれ」
それに俺はパニックの中でジタバタしただけで、呆れるくらいに何も解決に貢献していないのである。
「他のみんなは?」
銀河団は全ての船を検挙したらしい。負傷者もいるというが、団員は全員無事。ようやく来てくれた応援の宇宙船が海賊船を牽引し、店長の船は空を飛んでいる家の前に止まっている。
その船はアクベンスさんの手が加えられていた。俺の知らないアニメのステッカーが貼られ、いわゆる痛車ならぬ痛船になっていた。アルファルドさんは元彼との通信で、船内でガミガミ怒鳴っているらしい。
クラちゃんは邪魔なので宇宙へ押し出してあり、雉子は汗だくのへとへとになっているおっさんの顔を甲斐甲斐しく濡れタオルで拭き、旭さんが団扇であおいであげている。
「ツッカー君」
店長はツカサに目を向ける。
「話は聞いたですぅ。例のコンポはぁ、撤去するですぅー。それから同じ品番は販売中止。売っちゃったのも回収するですぅー。パパーにも連絡するですぅー」
「はい」
ツカサは潔く聞き入れた。
「ツカサんとこのコンポがどないしたんです?」
トールはツカサと店長の顔を交互にうかがう。タケも状況を飲み込めずに眉根を寄せている。もう隠し通せないだろうと思ったのか、ツカサは嘆息を漏らし、嫌ってくれるなと懇願する眼差しを仲間に向ける。
「僕の父親は宇宙人だ」
「え! そうなん!?」
「てっきりカタコトの外人だとばかり。むーん」
タケは深刻気に顎をさすりながら俯く。受け入れ難いのかと思いきや「地球の男は飽きられているのか」とぶつぶつ言っている。
「つまり、ハーフや?」
ツカサは頭を垂らす。
「黙っててゴメン」
「いや、ええよ。言える訳ないやん、そんなん」
なおもがっくりと肩を落としているツカサに、トールは慌てた様子で、
「ああ、なあ、ツカサ。この家に初めて入った時から、いやハクトーさんと出おうた時から、世界はまだまだとてつもなく広いというか、ぼくは何もわかっとらんねやと思ってんな」
息を継ぐ間もなく言って、手を差し伸べた。ツカサは安堵でぎこちなく口角を緩ませ、二人は握手を交わす。
「刺激的な人生ってやつだな。うんうん」
タケが二人の肩を抱き体重をかける。『これからもよろしく』と三人は絆を確かめ合い、微笑ましい。
「俺たちえんじぇるす、飽きられない男になろうぜ!」
ウーム。タケも少々ずれている。実はトールが一番まともなのか……?
彼らの話は一段落して、花御堂は石をヨハネス店長に渡した。
「これが報告した赤い石です」
「スゴイですぅー。こんなに大きいのは初めて見たですぅ!」
店長は目を大きく見開かせ、赤い輝きをのぞき込む。瞳孔を広げたり狭めたりして、ちらちらと舌舐めずりする様は餌にありつける直前の猫だ。
「化石エネルギーの何か……、なんスよね?」
よだれを垂らされる前に、店長の気を俺に向けさせた。彼女は「んま」とよだれを唇で押し戻す。
「これはぁ、宇宙空間の狭間付近でごく稀に発見されるミステリーの原石なんですぅー。正体はまだわからないんだけどぉー、微量でも巨大戦艦やロボットを動かせるエネルギーを持っていてぇー、これで砲撃されるととんでもないんですぅー。だから悪用されないようにぃー、取り締まってるんですぅー」
興味ありげに、おっさんは雉子に支えられながら歩み寄り、謎の石をまじまじと見る。
「魔力の塊みたいな気もしますね。異世界から飛んできたのかも。これが人を惑わせるのもわかる気がします」
「魔法使いの視点ではそうなのね」
松先輩が何度もうなずく。
「えっ、魔法使いなん!?」
今更になって驚愕するサンシンに驚く俺。
「ていうか、やっぱり店長たちもリアル宇宙人!?」
「そうですぅー」
「花御堂さんも!」
「僕は立派な地球人となりました」
「ハクトーさんは!」
「私は天使だ」
「それでええと!」
「僕は雉子です」
「うわぁ! 気づかなかった全然!」
サンシンは頭を抱え悶え、俺をにらんだ。
「オギは最初から知ってたんだろ!? うわぁ、人生損した気分! ていうかここがお前の住んでる家なんだよな!? なんか豚汁んだけど! こっちから出たらナスカの地上絵だし! どうやって、え、なんで綱渡りしとるげん?」
「おいこれ以上言うな! アホになるぞ!」
見かねてタケが口を挟んだ。経験者は語るというやつだ。サンシンは「え?」と間抜け面を見せつけ、その鈍さに周りはどっと笑った。
「オーギガヤツ君」
花御堂が笑みをこぼしながら俺に声をかけた。
「さっき、家族と言ってくれましたね」
「おう」
「嬉しかったです。今度、久しぶりに会いに行こうかな……」
花御堂は宇宙の彼方に目をやり、分厚い唇を潰した。もしかすると俺と同じ、家族に対して意固地だったのだろうか。機会があれば聞いてみたい。地球星籍を取ってまで地球にいるのも、仮面ライダーやウルトラマンが誕生したこの星を愛したからではなく、昔の自分を断ち切りたかったからなのかもしれない。
ヒーローが来るまで何とかするのがするのが僕たちの役目……。本当は『僕の役目』と言いたかったのではないだろうか。ヒーローの引き立て役、花御堂地球という人間に生まれ変わろうと。だとすれば十分だろう。
俺とサンシンはまた屋根の上に移った。部屋を出たり入ったりする俺に、「天使の部屋はそう簡単に出入りできるもんじゃないぞ」と白桃はぼやいていた。
「大丈夫か、クラちゃん。一匹も仲間は減ってないな?」
サンシンが群れを数えるそぶりを見せる。敵の砲撃で散り散りになりかけるも集まってきた。
「ひゆううん」
「そうか! よかったな!」
何言っているのかわかるのか。そう問いかけるのは野暮なのだろう。
「気にすんな、クラちゃん。お前は全然悪くないからな」
サンシンはクラちゃんの触手を一本、握手するように握る。
「あの石は銀河団で管理されちゃうけど、お前の気持ちはちゃんと俺が受け取ったぜ」
「ひゆおおおおおおん」
傘をゼリーのようにぶるんぶるん揺らすクラちゃん。ずっとサンシンにまとわりついていた子クラゲ一号もついに離れ、「お前もありがとうな」とサンシンは傘をなでる。一号は「ぴゅおーんぴゅおーん」と鳴いて、俺はうかつにも可愛いと思ってしまった。
「俺はちゃんとあれから調べて知ってんだ。クラゲは空なんて飛ばんし、素手で触るとクラゲは火傷する。あの頃はマジでみんなに馬鹿にされたし、普通にクラちゃんを触ってたし。……だからいなくなったんかなって思った。違うんだな?」
「ひゆおおおおおうん」
サンシンは目を真っ赤にして涙ぐむ。こいつにとってクラゲは大切な友だち。だからクラちゃんがいなくなった時も、一人暮らしする時にクラゲを全て海に帰す時も泣いた。
ヨハネス店長は言っていた。まだ五百円玉が銀色だった頃にクラゲ売りは現れ、ハッコウソラクラゲを売っていた。あの頃の五百円玉はそいつらにとって理想の混合物で、母星では高値で売れたという。だが新五百円玉に切り替わるや、そいつらは密売をやめた。
ハッコウソラクラゲは成長に従って宇宙へ行く。どんなに愛していても飼い主から自立する。野生の世界でも、子は親から離れる運命。
迎えに来た子クラゲ二号と後方の群れに、サンシンは鼻をすする。鼻が両方から垂れて袖で拭う。こいつがここまで泣くのは小学校の卒業式くらいだった。
「お前は群れの超立派なボスだ。大出世だな。いかしてるよ。ちゃんと仲間を守れよ?」
クラちゃんはサンシンの手を引く。
「俺は行けねーよ。わかるだろ? 俺は地球でしか生きられないんだ。な?」
サンシンは下の青い星を指差し、子どもをあやすような語調でクラちゃんを見つめた。
「ひゆううううううんおおおおおおおおおん」
クラちゃんの触手がサンシンを包み、名残惜しそうに離れていく。握られていた長い触手は最後の最後に離れ、サンシンは「あ」と声を漏らす。クラちゃんは子クラゲ兄弟を連れて群れへ戻っていく。サンシンは一生懸命に手を振った。
「バイバイ、クラちゃん! うううっ。ううううバイバイ、クラちゃん!」
顔をくしゃくしゃにするサンシン。鼻を垂らして、ぼたぼたと落とす。
「バイバイ、クラちゃん」
場違いな俺も静かに手を振った。
「ひゆおおおおおん。ひゆおおおおおおおおん……」
クラちゃんも別れを言う。地球を離れ大移動していく群れ。クラゲの形は空に溶け込んで見えなくなり、光だけが見えた。それでも鳴き声はよく聞こえた。波音を感じた。何度も。
サンシンは感傷に浸っていたからその場でそっとしておいた。「わがまま言ってごめんなさい」と旭さんはおっさんに頭を下げた。おっさんは嫌な顔一つせず、家をそのままの高度にとどまらせ、見事なまでにごちゃごちゃになってしまった一階を雉子と元通りにしていた。
花御堂は通報されかねない変態な笑みを俺に見せつけ、店長と共に宇宙船に乗った。銀河団としても後始末はあるのだろう。ツカサも事情説明のために同伴だった。店長は「また明日ね」と帰り際にウインク&投げキッスをした。ワッと雉子がなぜか驚きの声を上げた。
残されたトールとタケは不本意ながらも終電に乗り遅れる前にと去った。白桃は湯を沸かす間にレモンを切って、インスタントの紅茶に一切れずつ添えていた。奴はおっさんを手伝う気がまるでないようだったが、俺に何かを指示するつもりもないようだった。
俺はそれに甘えた形で彼女と二人きり、操縦室で腹ばいになって地球を眺めていた。
嵐の後の静けさである。あの白桃の天使の旋律をそれとなく思い出せばとろけてしまい、すぐ傍にいる旭さんの存在が、メイド服で乱れたポニーテールというありえない組み合わせも相まって、幻惑に迷い込みそうになる。
「こんな夜遅くまで、いていいんスか?」
俺は形式的な言葉を旭さんに投げかけずにはいられなかった。まだ一緒にいたくて、手を重ねたい衝動に駆られるも、何だかためらってしまった。まだ俺の中には騒動の余韻があり、その興奮の対象が彼女へと転換する恐れがあったのだ。触れてしまえば、あっと電流がほとばしり、勢いに任せて襲いかねない。一度そう巡らせてしまうと余計に意識してしまった。
「いいのよ。……ねえ。今夜泊めて」
「えっ」
「部屋が一つ、空いてるんでしょう?」
ああ、そういう意味ね。マジでびっくりした……。彼女らしからぬいやらしい声に聞こえてしまっていよいよというところである。
スカートからのぞくしっか部が、黒のストッキングの下からくっきりと浮かんでいた。どさくさに伝線したらしく、肉感的なふくらはぎがあらわとなっていた。教えるつもりだったが、脱いでしまう様子が目に浮かび口にできなかった。
右にごろりと一回転すればぶつかる距離だったので、彼女が息をする度に上半身が浮き沈みするのが見て取れる。極め付きには大気の青が透明の床にまで届いてぼんやり明るく、彼女の瞳にはまた小さな宇宙が瞬いているのである。
「いいっスよ。俺の部屋でもいいんスよ」
「それは嫌」
冗談のつもり(本当に)で言った俺に、色好い返事をしないのが彼女の純情。旭さんはいつもの戸惑いをせず「ウフフ」とはにかみ、とろんと目を細めた。興奮が収まって眠気が襲ってきたのだろう。無自覚過ぎる扇情的な表情を注視できなかった。彼女は成人で、体は成熟して間もない女性であり、処女ならではの恥じらいを秘めている。そんな旭さんの羞恥心が俺にまで伝染して、同様に肩を強張らせてしまっていた。さっきまで呪文を絶叫したり、クラゲと格闘したりしたとは思えない。
「夢みたい。私たち、地球を見てる。日本を見下ろしてる。私たち、日本に住んでるのね。泰京はどこかしら?」
「そうっスね……」
濁らせると、旭さんは寝起きのような表情で言葉をつなぐ。
「天使がいて、正義の味方の宇宙人がいて、桃太郎のお供だったかもしれないキジがいて……。東京さんも本物の魔法使いだった……。私、この家のFが一体何なのか、わかった気がする」
これがピロートークというやつだろうか。俺は脱力させるのを意識させながら「操縦室じゃ?」と返した。彼女は小さく首を横に振る。
「ううん。〝FANTASTIC〟のFだったのよ。私の中の現実をオギが破壊した。オギがFをつれてきてくれたのよ。おかげで触発された。どんどん新たな魔術が生まれてくるような気がしてならない」
俺は目を丸くする。
「〝FANTASY〟のFじゃなくって?」
「うん。これが今の私の現実だから。幻想じゃなくて幻想的なのよ。空トンビの幻想的」
「なんか日本語としてどうなんスか?」
「幻想的……ほにゃらら」
「どういうことっスか?」
「なんでもいいのよ。続きがあるってこと。想像が膨らむじゃない」
なるほど、この不自然なまでにエロチックな空気は、Fの部屋の二次的な作用なのかもしれない。この操縦室にいれば、何でもかんでも操縦できてしまい、彼女のあられもない無防備さも、この俺が望んだからによる結果なのかもしれない。幻想的エロチシズムである。
「単なる長い夢だったらどうするんスか?」
「泣く。それはつまりあなたが存在しないということだから。いたとしてもそれは夢物語が構築されるためのモデルにすぎなくて、私とは何の縁もゆかりもない。そんなものを見た自分を呪い殺す」
「すいません、変なこと言って」
穏やかに言うもんだから、かえって有言実行しそうである。
「俺ってばいつもそうなんス。実はこの世界は空想で作り上げたもので、小さい頃の記憶は第三者から与えられたもので、何度も同じ出来事が途中っていうスタートラインから繰り返されているだけであって、実は俺の思考は誰かさんに読まれてて、だからごまかすために脳内ナレーションを……。趣味なんスよ! 別に神経症じゃなくて、ちょっとネットで調べた結果が幻想妄想すれすれだっただけで、えっとつまり、幻想妄想っていうのは――」
仙人を生み出しておきながらすれすれとは笑ってしまうが。とにかく俺の人格の方向性などお構いなしに、少しでも不安にさせたかもしれない申し訳のなさに早口で弁解しようとしてしまった。
「変じゃない」
その一言で、更なる言葉を失わせる。しくじったと思った。
「変じゃない。Fなんだから。楽しいことも、怖いことも。全て」
旭さんは寝返りを打った。彼女の上目遣いのにらみが文字通り目前にあった。俺はその眼光と薄らと開けられた唇にすくんだ。デートの時はほんのりピンクだったが、今日はリップクリームを塗っただけのようだ。しかし、本来の赤みが強調されて……。
「チンユーシュツ、ゴウユーシュツ。キユーキューイン」
彼女は口実を低く唱え、俺にキスをした。それから勢いよく反対側に寝返りを打った。白いうなじが丸見えにもかかわらず、上の階に天使がいることへの背徳感か、俺は吸いつくことはなかった。
「次は呪文がなくてもできるといいっスね」
冷静な声を出すことができた。旭さんはか細く「うん」と身を縮まらせた。けして心地よくはなかった、ハンコのように押しつけただけのキスは一生自分だけを愛するよう仕向けられた契約……呪いのように思えた。きっと当分の間、彼女自ら呪文を唱え誘うまで、手を出すことをはばかるに違いない。
「旭さん」
「何?」
「旭さん」
「そう何度も呼ばないで。……照れるじゃない」
「好きですよ」
「う」
「好きですよ、本当に」
「わ、わかったから。何度も言わないで」
旭さんは必死で小さくなろうとしている。やっぱり面白い。
「ふふふ」
「笑うのも禁止よ」
「ちゃんと口に出さないと伝わらないと思ったんで。人間の特権じゃないっスか。無限にある言葉の中から選ぶことができるんスよ?」
「求愛が自然界より難解になったせいよ。ミルクパズルのようにね」
「俺たちは奇跡のようにぴったりっスよね」
「離れちゃ嫌だから。……私も好きよ。本当に。そういうロマンチストなところもね」
「旭さんも結構ロマンチストっスよ」
「魔術師はそうでなければいけないの」
「俺も素質ありますか?」
「アシスタントとして雇ってあげる。野垂れ死にはさせないから」
恥じらいは消え、いつもの余裕が戻ってきたようだ。彼女となら、俺はどこまでもやっていけそうな気がした。これは幻想的ロマンスだろうか。




