EP 9
週末B棟103号室の泥酔テロ! 芋ジャージ女神と魔王の夜食要求
泥沼農園の家庭崩壊危機を無事に解決し、夕暮れ時のポポロ・コーポへ戻ってきた俺は、今日という日の平和な終幕を確信していた。
午後五時半。
定時退勤という名の、前世では都市伝説に等しかった果実が、いま我が手のひらにある。
大浴場に浸かって汗を流し、サウナでじっくりと芯まで温まり、地下水風呂でキュッと引き締める。風呂上がりの肌は、朝方にネギオから食らったあの理不尽極まりない超高圧カンチョウの副産物で、ゆで卵のようにツルツルだ。
管理人室に戻り、小さな丸テーブルに晩酌の支度を整える。
今夜の酒は、ニャングルが約束通りタローソンから差し入れてくれた、ドンガン名産の芋蒸留酒『イモッカ』の長期熟成ボトル。それにタローマートで買った燻製チーズと、薄切りにした肉椎茸の網焼き。
青箱のハード煙草に火をつけ、氷を入れたグラスを傾けようとした――まさにその瞬間だった。
ドォォォォォンッッッッ!!!!
地響きとともに、コーポの中庭を挟んだ向かい側――女子棟(B棟)の壁が派手に震動した。
続いて、夜の静寂を暴力的に引き裂く、耳慣れた甲高い金切り声と、瓶が激突して割れる破裂音。
『うっひゃひゃひゃひゃ! 見た!? 今の月人君のウインク見たぁぁ!? 全銀河の心臓止まったでしょ今ので!! はいビールもう一本開けろオラァッ!!』
『くっ……不敬であるぞルチアナ! 余の『ダークネス・エール』の王冠を勝手に歯で噛みちぎるな! それより月人君のファンクラブ限定生配信の録画魔導水晶はどこじゃ! 早く再生せぬか愚神めが!』
『まあまあお二人とも、お酒は逃げませんわよ〜。ほら、あたしの特製・灰汁まみれ焼き鳥でもつまんで……あ、焦げすぎて炭になっちゃった♡ まあ17歳だから失敗もしちゃうよね〜!』
部屋を揺らす重低音のアイドルソング。
床をドタバタと踏み荒らす足音。
手元のイモッカ・ロックのグラスが、怒りの微振動でカランと鳴った。
「……おいおいおい」
俺は深くため息を吐き出すと、グラスを置き、愛用の便所スリッパを左手に、棒状に硬く丸めた『ルナミス新聞』を右手に握りしめた。
女子棟(B棟)一〇三号室。
昨晩の豚骨テロと爆音パチンコを乗り越えたと思ったら、今度は週末恒例の泥酔騒音テロである。
スリッパをパチンと鳴らし、管理人室の引き戸を開けたところで、廊下から涙目で駆け寄ってくる小柄な影があった。
「さ、佐伯さぁぁぁん……っ!」
B棟一〇二号室に住む見習い神のリリスだった。
清楚な白いローブを着崩し、耳を両手でギュッと塞ぎながら、今にも泣き出しそうに震えている。
「お隣が……一〇三号室がまた……! 明日は神界の『第3種初級奇跡執行士』の昇格試験なんです……! 過去問を解かなきゃいけないのに、壁の向こうからずっと『月人きゅん尊い〜!』って雄叫びと地響きが聞こえてきて、頭がおかしくなりそうで……!」
「よしよし、よく我慢したなリリスちゃん。受験生の邪魔をする奴は、神だろうが魔王だろうが昭和の管理人が許さん。部屋に戻って耳栓をして待っていなさい」
「は、はいぃ……! お願いします……!」
リリスを自室へ戻らせ、俺はB棟の薄暗い廊下をズカズカと進み、一〇三号室の前に立った。
ドアノブに手をかけるまでもなく、隙間から立ち上る強烈な酒気と、炭化した得体の知れない煙の臭い。
俺はマスターキーを差し込み、躊躇なくドアを一気に引き開けた。
「佐伯の認印、入りまーす」
ガチャリ!
室内の惨状は、前世で幾度となく遭遇した「大学のサークル崩れが起こした深夜の泥酔宅飲み」そのものだった。
散乱するビールの空き缶とワインの空き瓶。
部屋の真ん中には、小豆色の芋ジャージを着崩し、頭に『月人命♡』と刺繍されたハチマキを巻いた金髪の女――この世界を創った最高神、世界神ルチアナが胡坐をかいて缶ビールをラッパ飲みしている。
その隣には、豪奢なゴスロリ調の漆黒ドレスに身を包んだ銀髪紅眼の美少女――アバロン魔皇国の頂点に君臨する魔王ラスティアが、顔を真っ赤にして空になったワイングラスを振り回している。
そしてキッチンでは、エプロン姿の豊満な美女――B棟一〇一号室の住人であり、ヒエンの母である自称17歳の不死鳥フレアが、フライパンから黒煙をモクモクと立ち上らせていた。
「……あ? 誰よ人の聖域に土足で踏み込んでくるヤツはー! 今ね、月人君の福岡ドーム公演のアンコール曲のイントロ――って、げっ!? 健太!?」
ルチアナが目を丸くして缶ビールを取り落としかけた。
俺は無言のまま部屋の敷居を跨ぎ、足元から白銀の幾何学陣をスッと展開した。
――【敷地内絶対平穏】適用。
――事象:深夜の無許可泥酔集会および受験生への騒音公害。
――神気および魔気による音響増幅を強制シャットダウンします。
ピタリ、と部屋を満たしていた爆音のアイドルソングが霧散した。
「な、なんじゃ!? 余の魔導蓄音機の電源が落ちたぞ! 無礼者め、この余を誰と心得る! アバロン魔皇国を統べる絶対魔王、ラスティア・ヴァン・アバロンなるぞ!」
千年に一人の暴君と恐れられる魔王が、紅い瞳を吊り上げて立ち上がろうとした。
だが、その頭頂部へ向かって、俺の持っていた便所スリッパが容赦なく振り下ろされた。
パッコーーーンッッ!!
「ふぎゃっ!?」
魔王の小さな悲鳴が響き、ラスティアはその場にペタンとヘたり込んだ。
頭を両手で押さえ、涙目で俺を見上げてプルプルと震えている。
「な、何を……この余の絶対障壁を紙のように貫通して……頭を叩いただと……!? 余の父上にも殴られたことなどないのにッ!」
「夜中の十一時過ぎに集合住宅で騒ぐ奴があるか! 魔王だろうが神だろうが関係ない、ポポロ・コーポ管理規約第1条『夜間静粛の遵守』だ! 隣のリリスちゃんが明日の昇格試験の勉強で泣いてるぞ!」
さらに俺は、あぐらをかいて固まっていた最高神ルチアナへ向き直り、丸めたルナミス新聞を容赦なくフルスイングした。
バシィィッッ!!
「痛ぁぁぁぁぁッ!? ちょっと健太ぁ! あたし創造神! あんたをこの世界に転生させてあげた恩人なんですけどぉ!?」
「戦闘力1馬力の初期値で放り出しやがった恩人をありがたがる奴がいるかバカ野郎! ほら見ろ、空き缶と吸い殻で畳がベタベタじゃないか! 敷金を全額没収されたいのか!」
「うう……っ! な、何よぉ……だって今週、天界の業務が激務すぎてマジでやってらんないんだもん……。月人君のライブ配信見ながら飲まなきゃやってらんないのよぉ……!」
芋ジャージの膝を抱えてグズり始める世界神。
そこへ、フライパンから炭化物をモクモクと立ち上らせていた不死鳥フレアが、オロオロと割って入ってきた。
「ま、まあまあ管理人さん……! あたしが全部悪いのよ〜! あたしがおつまみの用意を失敗しちゃったから、二人が機嫌を損ねてお酒が進んじゃって……! ほら、まだ17歳だから、お料理の手際とか未熟で……♡」
「フレアさん」
「は、はいっ?」
「ヒエン君から聞いてますよ。息子が二十歳なのに母親が永遠の17歳を自称するのは、戸籍法上も倫理的にも無理がありすぎます。だいたい、フライパンから出てるそれ、ただの炭でしょうが」
「うっ……! だ、だってぇ、美味しく焼こうと思って不死鳥の神聖業火をちょっとだけ込めたら、お肉が一瞬で消滅しちゃってぇ……!」
神と魔王と神獣が、六畳間の片隅で揃って正座し、縮こまっている。
完全に、深夜の見回りで見つかった悪ガキ高校生トリオの風情だった。
俺は深くため息を吐き出すと、作業着のポケットから胃薬を取り出して二粒噛み砕いた。
「はぁ……腹が減ってるから悪酔いして暴れるんだ。すきっ腹にアルコールを流し込むな。……ヒエン君! いるか!」
廊下に向かって声をかけると、階段の踊り場で息を潜めていた男子棟二〇一号室のヒエンが、恐る恐る顔を出した。
「さ、佐伯さん……! すげぇ、母さんと魔王と創造神を同時に正座させてる……! お袋がまたご迷惑を……」
「ヒエン君、すまないが手伝ってくれ。この酔っ払いどもに、胃に優しい夜食を作るぞ。台所の換気扇を回して、米を研ぎなさい」
「うっす! 喜んで!」
俺とヒエンは腕まくりをして、B棟一〇三号室の狭いキッチンに立った。
まずは散乱していたフライパンと焦げ付いた五徳を『管理人権限』で一瞬にしてピカピカに磨き上げる。
「健太ぁ……あたし、濃い味の肉が食いたい……。生姜焼き食わせろぉ……」
「余も……! 余も甘辛いタレの肉がよい……! 酒がすすむやつじゃ……!」
床で這いつくばるルチアナとラスティアの情けない注文に、俺は苦笑した。
「はいはい、わかったから大人しく待ってなさい。……ヒエン君、タローマートの豚バラ肉の薄切りと、おろした生姜はあるか?」
「あります! うちの母さんが無駄に買い溜めしてたやつが冷蔵魔導箱に山ほど!」
「よし。米麦草の白飯に合う、極上の豚の生姜焼きを作るぞ。ただし、夜食だから余分な脂は徹底的に落とす」
熱したフライパンに油は引かない。
豚バラ肉をそのまま投入し、強火でサッと炒める。
パチパチと弾ける音とともに、豚肉から大量の脂が滲み出てくる。
俺はキッチンペーパーを器用に使い、その余分な脂を丁寧に、何度も吸い取った。こうすることで、肉の臭みを消し、タレの絡みを劇的に向上させるのだ。
肉にこんがりと香ばしい焼き色がついたところで、特製の合わせ調味料を一気に回し入れる。
村特産の「醤油草」を煮詰めた天然醤油、酒の代わりのイモッカ、砂糖、そしてたっぷりのすりおろし生姜。
さらに隠し味として、今朝ネギオから譲り受けた『ネギカリバー』のすりおろしを少量投入した。
ジュワワワワァァァッッッ!!
立ち上る甘辛くスパイシーな蒸気。
醤油の焦げる香ばしいアロマと、生姜の鮮烈なキレが六畳間に一気に充満する。
床で項垂れていたルチアナとラスティアが、パブロフの犬のようにピクッと鼻を鳴らし、目を輝かせて立ち上がった。
「く、クンクン……! な、なんじゃこの暴力的なまでの美味そうな匂いは……!?」
「あ、あたしの魂が……生姜焼きの湯気に吸い寄せられる……!」
「まだだ、座ってろ。……ヒエン君、土鍋の方はどうだ?」
「バッチリです佐伯さん! 出汁が綺麗に引けました!」
隣のコンロでは、ヒエンが土鍋で夜食用の雑炊を仕上げていた。
昨晩デュークから分けてもらった澄んだ豚骨と昆布の合わせ出汁に、炊き立ての米麦草の白米を洗い米にして投入。
薄くスライスした月見大根をたっぷり入れ、透き通るまでクツクツと煮込む。
仕上げに溶き卵をふわりと回し入れ、蓋をして十秒。
刻んだ青ネギを散らせば、胃袋を優しく包み込む『月見大根の出汁雑炊』の完成だ。
「ほら、できたぞ。冷めないうちに食いなさい」
丸テーブルに並べられた二つの大皿。
照り照りに輝く豚の生姜焼きの山盛りと、千切りキャベツ。
そして湯気を立てる土鍋の月見雑炊。
お冷の代わりに、俺が丁寧に淹れたぬるい陽薬茶がコップに注がれている。
「い、いただきまーーーすっ!!」
ルチアナとラスティアは、我先にと割り箸を割って生姜焼きへ飛びついた。
大判の豚バラ肉を一枚、千切りキャベツごと箸で巻き取り、口いっぱいに放り込む。
「………………ッッッ!!」
二柱の神と魔王が、同時に雷に打たれたように硬直した。
香ばしく焼き上げられた豚肉の旨味。
余分な油が抜けているため、しつこさが一切なく、噛むほどに生姜と醤油のパンチが舌の上で炸裂する。
さらにネギカリバーの奥深い風味が肉の甘みを限界まで引き上げていた。
「んんんんん〜〜〜〜っっっ!! うっっっっま!! 何これ、タレが……タレが神がかってるぅぅぅ!!」
「美味い……! なんという濃密なコクじゃ! 魔皇国の宮廷料理人が作るどんなフルコースよりも、この一枚の肉の方が圧倒的に余の五臓六腑を支配しておる……!」
二人は猛烈な勢いで生姜焼きを貪り、続いてヒエンの作った月見大根の雑炊を木匙ですくって口へ運んだ。
「はふっ……はふ……。ああっ……優しい……。生姜焼きでガツンと殴られた胃袋に、大根とお出汁の甘みがじわ〜って染み渡っていく……」
「身体の芯から温まるわぁ……。ヒエンちゃん、あなた本当にいい腕してるわねぇ……あたしの息子にしてあげたいくらいよ♡」
「いや、母さん。俺は最初からアンタの息子だっつーの!」
ヒエンのツッコミに、部屋の中がドッと温かい笑いに包まれた。
ルチアナもラスティアも、酒で荒れていた顔つきがすっかり解け、幸せそうに腹を擦っている。
仕上げにぬるい陽薬茶をズズッと飲み干すと、体内のアルコール毒素が綺麗に中和され、心地よい眠気が二柱を包み込み始めた。
「ふぁぁ……なんだか、急に眠くなってきた……。月人君の配信の続きは……明日の朝見よっと……」
「うむ……今夜はもう、余も泥のように眠るのじゃ……」
芋ジャージの世界神とゴスロリ魔王は、並んで畳の上にゴロンと転がり、数秒後にはすやすやと穏やかな寝息を立て始めた。
泥酔テロリストども、完全鎮圧である。
「ふぅ……一件落着だな」
俺は散らかった空き缶や皿を手早く片付け、ゴミ袋にまとめた。
ヒエンが感服したように、俺の横顔を見つめている。
「佐伯さん、本当にすげぇよ……。あの二人があんなに素直に眠るなんて、天界の軍隊でも無理だぜ」
「胃袋を掴んで、温かい茶を飲ませりゃ、大抵の人間は大人しくなるもんさ。……神様も魔王も、中身はただの寂しがり屋の社畜と変わらんよ」
俺は作業着の袖を下ろし、一〇三号室の照明を落としてそっと引き戸を閉めた。
廊下に出ると、隣の一〇二号室のドアが少しだけ開き、見習い神のリリスが顔を覗かせた。
「あの……佐伯さん! お隣、すっごく静かになりました……! これで明日の試験、集中して勉強できます!」
「そいつはよかった。これ、夜食の雑炊の残りだ。しっかり食って、明日は頑張りなさい」
タッパーに分けた月見雑炊を手渡すと、リリスは目を潤ませて深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……! 佐伯さん、大好きです……!」
中庭を横切り、ようやく自分の管理人室へと戻る。
壁の時計を見れば、深夜の十二時を少し回っていた。
結局、今夜も定時退勤とはいかなかったが――まぁ、悪くはない夜だ。
俺はテーブルに残っていたイモッカのグラスを手に取り、静まり返った夜の空気の中、冷たい一口を喉に流し込んだ。
胃薬の代わりに、ぬるい陽薬茶を一口。
明日こそは、何事もない平穏な一日でありますように――そう願いながら、俺は畳の上に敷いた布団へと潜り込んだ。
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