EP 8
自称・未来予知のペラペラな自尊心と、昭和総務の便所スリッパ制裁
どれほど血筋を誇り、どれほど「未来が見える」と豪語するエリートであろうと、自らの犯したミスを隠蔽するために弱者をいたぶり、他人の敷地に泥棒に入った時点で、法と社会の尺度から見ればただの「下劣な犯罪者」に過ぎない。
前世の総合商社時代、親の七光りで取締役に就任し、インサイダー取引とセクハラをもみ消すために部下へ全責任を押し付けようとした二世役員を、人事・総務・法務の合同査察で逃げ場なく引きずり下ろしたあの日の光景が、まざまざと脳裏に蘇っていた。
午後二時十五分。
アルバード侯爵邸、大理石の大広間。
地下牢からシアンを託されたロードが、ママチャリの後部座席に特製ダンボール毛布を敷いて前庭へと退避したのを見届け、俺――佐伯健太(四十二歳・戦闘力1馬力)は、たった一人で階段を上がり、大広間へと戻ってきた。
上着をシアンに譲ったため、今の俺の姿は、くたびれた下着代わりの白シャツに紺色の腕カバー、そして足元には抗菌仕様の茶色い便所スリッパ。
右手には、丸めた『ルナミス新聞』。
およそ大貴族の邸宅に足を踏み入れる格好ではなかったが、現場の不祥事を片付ける総務課長の戦闘スタイルとしては、これで十二分だった。
「ひ、ヒィ……! 貴様……! シアンを……シアンをどこへやったぁぁぁッ!?」
広間の中央で、白ワインで濡れた純白の燕尾服を泥だらけにした侯爵リアク(二十五歳)が、血走った目を剥いて叫んだ。
その美貌は恐怖と屈辱で醜く歪み、床を這いずり回りながら、懐から細身のミスリル製魔導短剣を引き抜いていた。
「返せ……! あのガキを返せ! あれがなければ……あれに電流を流して泣かせなければ、私の完全犯罪が……私の『未来予知』が維持できないんだぁぁぁッ!!」
「……おいおい、まだそんな寝言を言っているのか」
俺は深くため息を吐き出すと、作業着のズボンのポケットから天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』を取り出し、二粒をポリポリと奥歯で噛み砕いた。
口いっぱいに広がる生薬の苦味を舌の上で転がし、冷徹に神経を研ぎ澄ます。
左胸の内ポケットの中では、キャルルから託された『人参柄刺繍ハンカチ』が、俺の安定した心音を感知して、トクン……トクン……と優しく、穏やかな微振動を返してきていた。
「リアクさん。……あんた、さっきから『未来予知』だの『完全犯罪』だの威勢のいい看板を掲げているがな。あんたがやってきたことは、未来を見通すことでも何でもない。ただの――『気に入らない結果が出たら電源コードを引き抜いて最初からやり直す、甘ったれた小学生のリセットボタン連打』そのものじゃないか」
「な……っ!? り、リセットボタンだと……!? 無礼な! 私はアルバード侯爵家の当主にして、選ばれし天賦の異能者だぞ! 神に愛されたこの私が、貴様のような泥臭い下層民と同列なわけがあるかぁぁッ!!」
「同列どころか、泥にまみれて汗水垂らして働いているポポロ村の住人たちの足元にも及ばんよ」
俺は便所スリッパをパタパタと鳴らしながら、間合いを詰めた。
「失敗から何も学ばず、自分の未熟さと向き合うこともせず、都合が悪くなれば三歳の子供に劇物を飲ませて泣き叫ばせ、時間を巻き戻して帳消しにする。……そんなペラペラな経験値で積み上げたプライドが、本物の修羅場で通用するわけがないだろうが」
「だ、黙れぇぇぇぇぇッッ!! 死ね! 死んで消え失せろぉぉぉッ!!」
逆上したリアクが、狂乱の形相でミスリルの短剣を構え、俺の胸元目掛けて突進してきた!
貴族の嗜みとして教え込まれただけの、腰の引けた、手先だけの突撃。
前世の満員電車で理不尽に体当たりをかましてくる酔っ払いの方が、よほど気迫も体重の乗り方も上だった。
スッ。
俺は半歩だけ身体を開いて短剣の切先を躱すと、右手で握っていた丸めたルナミス新聞を、リアクのプラチナブロンドの額目掛けて振り下ろした。
パシィィィィィンッッッッ!!!!
「ぎゃべっ!?」
見事な乾いた破裂音。
新聞紙の角で眉間を正確に叩かれたリアクは、突進の勢いのまま前のめりに躓いた。
そして――バランスを崩して宙に浮いたリアクの尻目掛けて、俺は左足の『厚底ゴム底・来客用便所スリッパ(抗菌・茶色)』を、電光石火の早業で脱ぎ捨てて右手に持ち替えた。
バッコォォォォォォォンッッッッ!!!!
「あぎゃあああああああああっっっ!?!?!?」
大理石の吹き抜けに木霊する、強烈な打撃音と貴族の絶叫!
昭和の現場総務が誇る、コンプライアンス違反者に対する最終制裁――魂の便所スリッパ・フルスイングである!
リアクは尻を押さえて床を五メートルほど滑走し、暖炉の前の大理石の柱へ背中から激突して止まった。
短剣はカラコロと虚しく転がり、鼻血と涙でぐしゃぐしゃになった顔を押さえ、情けなく痙攣している。
「い……痛い……! 痛い痛い痛いっ! な、何なんだその履物は……!? なぜ魔力すら宿っていないゴム板の打撃が、ミスリルの防護結界を貫通して骨に響くんだぁぁぁッ!?」
「日々の現場掃除とトイレ点検で鍛え抜かれた、生活衛生の重みだよ」
俺は何食わぬ顔で便所スリッパに足を通し直すと、出勤簿のバインダーを小脇に挟み、冷徹に見下ろした。
「リアクさん。……痛かったろう。だがな、あんたが地下牢でシアンちゃんに与えていた苦痛は、その何百倍、何千倍だぞ。……自分の流した一滴の鼻血に怯えるような男が、他人の人生や世界の時間をオモチャにするな」
ドォォォォォォォンッ……!
逃げ場のない、四十男のド正論。
リアクはガタガタと震え上がり、床に額を擦り付けて後ずさろうとしたが、背後の柱に頭をぶつけてそれ以上逃げられない。
その時だった。
――ザッ! ザッ! ザッ!
ガシャァァァンッ!!
大広間の壊れた正門から、整然とした軍靴の足音とともに、重装甲をまとった帝国親衛騎士団の一隊が雪崩れ込んできた。
先頭に立っていたのは、ダークグレーの執務スーツに銀縁のモノクルを冷たく光らせた、帝国内務省の最高実務官――オルウェルだった。
「そこまでです、アルバード侯爵リアク」
オルウェルの氷点下の声が、静まり返った大広間に響き渡る。
「ルナミス帝国内務省通信保安局、ならびに帝国中央騎士団の名において通告します。……貴殿が首謀した一連の『ナンバーズ』による経済テロ、ポポロ村に対する強盗・侵入未遂、ならびに太古遺物を用いた違法な児童監禁および因果律改ざんの容疑により、現時刻を以て貴殿の身柄を拘束いたします」
「お……オルウェル内務官……!? な、なぜ貴様がここに……!?」
「佐伯殿からの通報と、保全されたタイムスタンプ付きの暗号通信ログがあれば、帝国法廷が令状を発付するのに十分間もかかりませんでしたよ」
オルウェルはモノクルを押し上げ、冷ややかに羊皮紙の公文書を広げた。
「なお、皇帝陛下の直命により、アルバード侯爵家の爵位は即時剥奪。全財産は没収され、ポポロ村および被害者への損害賠償金に充当されます。……貴殿には、帝都の地下大監獄にて、生涯をかけて自らの犯した罪を精算していただきます」
「う……嘘だ……! 私の爵位が……私の財産が……っ!? 嫌だ、嫌だぁぁぁッ! 私は侯爵だ! 未来を支配する神なのだぁぁぁッ!!」
泣き叫び、床を転げ回るリアクの両腕に、魔導鎮圧手枷がガチリと嵌められた。
もはやそこに、冷酷な犯罪結社の首領の面影は微塵もなかった。
ただの、おもちゃを取り上げられて泣き喚く、哀れなエリートの成れの果てだった。
「……佐伯殿」
オルウェルが歩み寄り、俺へ向けて深々と最敬礼を送った。
「見事な現場鎮圧でした。貴殿の迅速な初期対応と、因果律タイムスタンプのロックがなければ、帝都は再び迷宮入りのテロに怯え続けるところでしたよ」
「いえ、俺は現場のルールに従って、スリッパを振るっただけですから」
俺は苦笑し、ポケットから青箱のハード煙草を取り出してジッポライターでカチリと火をつけた。
「オルウェルさん、あとの事務手続きと現場検証は任せますよ。……俺は、子供の様子を見に戻ります」
「ええ、重々承知しております。……シアン殿の今後の保護体制についても、内務省として万全を期すよう手配いたしましょう」
俺はオルウェルに軽く手を挙げて応えると、紫煙を燻らせながら、壊れた正門をくぐって前庭へと出た。
秋晴れのからりとした日差しの下。
ママチャリの横で、トカゲ人の配達員ロードが、俺の上着にくるまったシアンを不器用な爪先で抱っこしながら、あやしていた。
シアンはミルクハニーキャンディを頬張ったまま、ロードの緑色のトサカを「ぷにぷに……」と指先で突いて、楽しそうに笑っていた。
「おう、佐伯のおっちゃん! 終わったか?」
「ああ、きれいに片付いたよ。……さあ、村へ帰ろう。みんなが待っている」
時間を巻き戻して完全犯罪を目論んだ仮面結社ナンバーズの野望は、昭和の現場総務課長のド正論と便所スリッパによって、完全に粉砕されたのだった。
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