EP 6
時速120kmの二人乗りママチャリと、因果律タイムカードの打刻
どれほど世界を揺るがす神話の力や、歴史を改ざんする時間の巻き戻しであろうと、正規の現場責任者が押印し、公文書として登記された「タイムスタンプ付きの確定ログ」を後から勝手に破棄・改ざんすることは、公文書偽造および業務妨害の重罪に他ならない。
前世の総合商社時代、決裁済みの伝票をシュレッダーにかけて「そんな稟議は通っていない」としらを切ろうとした役員を、二重バックアップの電子ログと監査役の判子で逃げ場なく追い詰めた時と、本質は何一つ変わっていなかった。
午後一時半過ぎ。
木造モルタル三階建てアパート『ポポロ・コーポ』一階、管理人室。
六畳間の空間全体が、まるで古びた白黒映画のように色彩を失い、カタカタカタ……と激しいタイムパラドックスの軋み音を立てていた。
柱時計の長針と短針が狂ったように逆回転を始め、床の畳が、障子が、世界そのものが「一週間前の過去」へと強引に引きずり戻されようとしている。
「あ……あぎゃはははッ! 始まった、始まったぞ!」
神聖拘束鎖『メビウス』で簀巻きにされていたナンバー3『テレポート』のギリルクが、血走った目を剥いて狂喜の声を上げた。
「侯爵様の『時間リセット』だ! 世界が一週間前へ初期化される! 俺たちの侵入も、捕縛も、名刺で縫い止められた傷も、全部なかったことになるんだよぉぉぉッ!!」
勝ち誇る犯罪者の絶叫。
――だが。
その歪んだ逆流の真ん中で、俺――佐伯健太(四十二歳・戦闘力1馬力)は、老眼鏡の位置を指先で直すと、深いため息とともに作業着の胸ポケットから愛用のワンタッチ認印(インク内蔵式三文判)を取り出した。
「……おいおい。現場で起きた事故の始末書も書かずに、勝手にタイムカードを過去へ改ざんする奴があるか」
俺はちゃぶ台の上に広げられていた『ポポロ村公有財産管理・不審者現行犯逮捕調書』の右下、最終承認欄へ向けて、三文判の朱肉の先端を迷いなく垂直に押し当てた。
ポンッ。
――ユニークスキル『管理人権限(事象因果律登記&現況保全プロトコル)』執行。
――神界統括基本OS『LEX-LUCIANA』および聖獣機神ガオガオン司法中枢へ直結打刻。
――事象:ポポロ村敷地内における【現時刻(本日午後一時三十五分)の確定登記、ならびに過去改ざんベクトルの完全差押え】を因果律確定。
ガギィィィィィィィンッッッッ!!!!
白銀の神聖法廷光が、管理人室の床から奔流となって噴き上がった!
逆回転していた柱時計の針が、まるで超合金のストッパーにぶち当たったかのように、ギィィィッ!と火花を散らして『午後一時三十五分』の目盛りに力づくで固定される。
さらに――
「……やかましいんじゃ、下等な時間泥棒がワレェッ!!」
ゴォォォォォォォォォッッッッ!!!!
濡れ縁を蹴破らんばかりの勢いで咆哮したのは、ルナ・イーツのジャンパーを羽織ったトカゲ人配達員ロード――十万馬力の絶対覇者『始祖竜クロノ』だった!
ロードの全身の緑の鱗が、神話の黄金色へと眩く励起する。
背中から噴き上がった本物の始祖竜の因果律オーラが、ポポロ村の上空を覆い尽くし、帝都から押し寄せていた「偽りの時間逆流波」を、まるで巨大な津波を岩盤で叩き割るかのように、粉々に打ち砕いたのだ!
バッキィィィィィィィンッッッッ!!!!
「ぶ、ぶべらっっっ!?!?!?」
時間の反動をもろに喰らい、ギリルクとワンが鼻血をブシャッと吹き出して白目を剥いた。
柱時計の針はピクリとも戻らない。
傷も、捕縛の鎖も、畳の上の正座も、寸分の狂いもなく「確定された現在」のまま残されていた。
「な……っ!? な、なぜだ……!? 侯爵様のリセットが……三文判の判子と、トカゲの怒号一発で弾き返されただと……!?」
「当たり前やボケェッ!」
ロードが牙を剥き出しにしてギリルクの胸ぐらを掴み上げた。
「ワテの抜け殻をすり潰して赤ん坊に無理やり食わせた劣化コピーの時間魔術なんぞで、本家の始祖竜様と、佐伯のおっちゃんの正規決裁を覆せるわけがないやろが! ……おい佐伯のおっちゃん! 帝都のクソ侯爵の屋敷、座標は特定できとる! ワテのママチャリの荷台に乗れ! カチコミやッ!!」
ロードが中庭の愛車――深緑色のママチャリをバシッと叩いた。
……なのだが。
「待ちなさいロードさん」
「あぁん!? 何を悠長なこと言うとるんや、今すぐ行かんと――」
俺は作業着のポケットから、ホームセンター『タローマン』のロゴが入った黄色い安全ヘルメットを二つ取り出し、一つをロードのトサカの間にスポッとはめ込み、もう一つを自分の頭に被ってアゴ紐をキュッと締めた。
さらに、出勤簿のバインダーから一枚の申請用紙を抜き出す。
「道路交通法および労働安全衛生規則の遵守だ。公道での自転車の二人乗りは原則禁止。さらに時速百キロ超の走行となれば、重大な危険運行に該当する。……だから、事前に村役場と自警団へ『緊急治安維持・公用車臨時運行申請書』を提出し、決裁を通しておく必要がある」
俺は愛用のワンタッチ認印を、申請書の承認欄へポンと叩いた。
ポンッ。
『認可:公用自転車(ママチャリ号)の特例緊急走行を承認』
「……お、おっちゃん……。こんな緊急事態にまで、コンプラと申請書を通してから突撃するんか……!?」
ロードが呆れ果てて顎を外しかける。
「現場の総務課長を舐めるな。筋を通しておけば、後から警察や査察が入っても堂々と跳ね返せるんだよ。……キャルル村長、留守を頼みますよ」
「健太さん……っ!」
濡れ縁から駆け寄ってきたウサギ村長キャルルが、俺の作業着の裾をギュッと握りしめた。
その長い純白のウサギ耳が、ピクピクと愛らしく震え、俺の左胸の鼓動へと吸い寄せられるように傾く。
ドクン……ドクン……と規則正しく刻まれる、四十男の穏やかで、一片の打算も下心もない静かな心音。
作業着の胸ポケットの中では、キャルルから託された『人参柄刺繍ハンカチ』が、その鼓動を受け止めて、トクン……トクン……と優しく温かな共鳴を返してきていた。
「……健太さんの心臓の音、ぜんぜん乱れてない……。すっごく強くて、あったかいよ……♡ 絶対に無茶しないでね? あの子……地下牢で泣いてるあの子を、助けてあげて……!」
「ええ、任せておきなさい。……リバロンさん、捕虜の監視と、村の防犯ドームの維持を」
「御意にございます、佐伯殿。道中、どうかご無事で」
リバロンが深々と一礼し、キャルルが胸元で両手を握りしめて見送る。
俺は作業着の胸ポケットから天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』を取り出し、二粒をポリポリと噛み砕き、保温水筒の人肌温度(三十七度五分)の「ぬるい陽薬茶」で胃袋へと流し込んだ。
そして――ママチャリの後部荷台(タローマン製クッション付き座布団装備)へ、どっこいしょ、と腰を下ろした。
「よし、段取り完了だ。……頼むぞ、ロードさん」
「がってん承知や! 佐伯のおっちゃん、舌噛まんように気張りやぁぁぁッ!!」
キィィィィィィンッッッッ!!!!
ロードがペダルを踏み込んだ瞬間、ママチャリの前輪から、時空の歪みを切り裂く超絶の推進力が解き放たれた!
ズッバババババババババッッッッ!!!!
時速百二十キロ。
ゴムタイヤが農道を白煙とともに焼き焦がし、緑のママチャリはポポロ村の境界ゲートを音速の突風となって跳び越えた!
帝都へ続く山岳街道を、ガードレールをかすめながら猛スピードで爆走していく!
荷台の俺は、ヘルメットのシールドを下ろし、暴風の中で青箱のハード煙草にジッポライターでカチリと火をつけ、紫煙を後方へとたなびかせた。
*
一方――同刻、帝都の鬱蒼とした私有林の奥深くに聳え立つ、アルバード侯爵邸。
大理石の暖炉の前で、最高級クリスタルグラスに注いだ白ワインを優雅に傾けていた侯爵リアク(二十五歳)は、冷酷な嘲笑を浮かべていた。
「……フフ、終わったね。地下牢のあのガキ(シアン)に少し強い電圧を流して泣かせてやった。……これで世界は一週間前へとリセットされ、ポポロ村の防衛網も、奴らの警戒も、すべて白紙に戻ったはずだ。我が完全犯罪は、何度でもやり直せるのだよ……!」
リアクは満足げにグラスを煽ろうとした。
――だが。
チリンチリ〜ン♪
キコキコキコキコッ! ギィィィィィィィッッッ!!
「……ん?」
リアクの眉根がピクリと動いた。
侯爵邸の前庭、厳重に閉ざされた樹齢五百年の銘木で作られた巨大な正門扉の向こうから、信じられないほど気の抜けた、だが常軌を逸した速度の金属回転音が近づいてくる。
「な、何だ……? 自転車のベルの音……?」
リアクが怪訝な顔で立ち上がった、まさにその刹那だった!
ドガァァァァァァァァァァンッッッッ!!!!
銘木の巨大正門扉が、内側へ向けて粉々に爆発四散した!
吹き荒れる白煙と木片の嵐!
そのど真ん中を、時速百二十キロの急ブレーキでテールを横滑りさせながら、スキール音を響かせて滑り込んできたのは――
一台の緑色のママチャリだった!
「ルナ・イーツやボケェェェッッッッ!!!!」
黄色い安全ヘルメットを被ったトカゲ人の巨躯が、スタンドを力任せにガチャンと蹴り立てて仁王立ちする。
そして――そのママチャリの後部荷台から、茶色い便所スリッパをパタパタと鳴らしながら、くたびれた作業着姿の中年男が、何食わぬ顔でトボトボと降りてきた。
手には、バインダーに挟まれた『不法侵入・児童虐待・および因果律改ざんに関する現場立ち入り検査通知書』。
「……ごめんください。ポポロ・コーポ管理人兼、村役場総務の佐伯です。……アルバード侯爵リアクさん、現場の抜き打ち監査に伺いましたよ」
「な……っ!? な、何なんだ貴様らはぁぁぁッ!?!?!?」
クリスタルグラスを取り落とし、ワインで純白の絨毯を汚しながら絶叫する美貌の侯爵。
時間を巻き戻して完全犯罪を謳歌していた冷血貴族の鼻先へ、昭和の現場総務課長と本物の始祖竜による、逃げ場のない「鉄拳監査」が突きつけられようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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