EP 7
怪奇農作物「メロロン」の誘惑と、仮面夫婦の食卓
山賊の残党を自警団詰所へ突き出し、ようやく昼飯の炒飯にありつけると思った矢先だった。
息を切らしながら村役場から駆け込んできたニャングルに作業着の袖を引かれ、俺は村の東側に広がるビニールハウス地帯へと連行されていた。
三毛猫の耳をペタリと伏せ、手にした金算盤の珠をパチパチと神経質に弾きながら、村の最高財務責任者(CFO)は涙目で愚痴を吐き散らす。
「健太のおっちゃん、ほんま堪忍してぇな! うちが預かっとる村の特産品農業振興基金から、毎年たんまり補助金が出とる優良農家の泥沼夫妻がやな……今期に入ってから出荷実績がほぼゼロなんや! それどころか、二人とも目が虚ろで、お互いに口も利かんようになって家庭崩壊寸前やっちゅう噂で……! もしこのまま破産でもされたら、うちの銀行の焦げ付きが銀貨二百枚を超えてまうねん!」
「家庭崩壊の仲裁まで総務の仕事なのか? 俺はアパートの管理人兼村役場の雑用係のはずなんだが」
「雑用の範囲内や! 公金が絡んどる以上、立派な現地行政監査やで! それに、健太のおっちゃんは前世で倒産寸前の下請けとか、ややこしい労務問題ばっかり片付けてきた百戦錬磨の中間管理職なんやろ? 頼むから知恵を貸してぇな!」
拝み倒すニャングルに大きな溜息を返しつつ、俺は胸ポケットから胃薬の小瓶を取り出してポリポリと二粒噛み砕いた。
思えば前世の商社時代にもあった。
長年連れ添った夫婦で切り盛りしていた町工場の社長と専務が、熟年離婚の泥沼裁判を始めたせいで工場のラインが完全にストップし、俺が毎晩のように社長宅の台所に上がり込んで冷え切った惣菜をつつきながら愚痴の聞き役をさせられた悪夢のような日々が。
異世界に来てまで、他人の夫婦喧嘩の後始末をさせられる羽目になるとは夢にも思わなかった。
*
ポポロ村の東外れ、日当たりの良い斜面に立ち並ぶ巨大な魔導温室群。
その一角にある『泥沼農園』の母屋は、立派な瓦葺きの日本家屋風の建築だった。
だが、玄関先に近づくにつれて、何とも言えない陰鬱な空気が漂ってくる。
庭先の手入れは完全に放置され、郵便受けにはタローソンのチラシや新聞がパンパンに詰まり、干しっぱなしの洗濯物は雨風に晒されてパリパリに干からびていた。典型的な「生活機能が麻痺した家」の光景だ。
「ごめんください。村役場総務の佐伯ですが、泥沼さん、いらっしゃいますか」
引き戸を開けて声をかけると、奥からギシ……ギシ……と重苦しい足音が近づいてきた。
現れたのは、五十がらみの農夫だった。
泥沼源蔵。日に焼けた浅黒い肌に、頑丈そうな体躯。だが、その頬はげっそりとこけ落ち、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。
何より異様なのは、その目つきだった。焦点を結ばず、どこか虚空を彷徨うような、重度の依存症患者特有の濁った光を宿している。
「……あぁ? 役場の人間か……。ニャングル支店長も一緒か……。今さら何の用だ……。補助金の返済なら、もう少し待ってくれ……。今はあの子……クイーンちゃんのために、もっと肥料を買わなきゃならねぇんだ……」
「クイーンちゃん……? 源蔵さん、何をおっしゃってるんですか? 奥様の恵さんは?」
俺が問いかけると、源蔵は忌々しそうに顔を歪め、舌打ちを一つ零した。
「恵だと……? あんな色気のないクソババアのことなんざ知るか! あいつは一日中、裏のハウスで『プリンス様ぁ〜♡』とか抜かしてニヤニヤしてやがるんだ! 俺の飯の支度一つしねぇ! あんな女とはもう終わりだ、離婚だ離婚!!」
「なによそれッ! こっちのセリフよッ!!」
突然、廊下の奥から甲高い怒声が飛んできた。
ドタドタと足音荒く現れたのは、妻の泥沼恵(45)だった。
かつては村一番の美人農婦と謳われたらしいが、髪はボサボサに乱れ、エプロンには土の染みがべったりとこびりついている。
そしてその両目もまた、夫と同じように妖しい陶酔の色で濁りきっていた。
「あんたこそ、何よその態度! 自分だって表のハウスで、あの安っぽい緑色の泥棒猫に鼻の下を伸ばしてるくせに! 『今日も綺麗だねクイーンちゃん』だの『俺のなけなしのマナを全部吸っておくれ』だの、気持ち悪い声で囁いちゃって! それに比べて、私のプリンス様は……ああ、なんて気品があって甘美な香りなの……♡ あんたみたいな泥臭いおっさんとは魂の格が違うのよッ!」
「誰が泥臭いおっさんだ! 俺が稼いだ金でマナ液を買い漁ってるくせに偉そうに抜かすなッ!」
「私の実家からの持参金も全部使い込んだくせに、よくそんな口が利けるわねッ!」
ギャーギャーと互いの喉笛に食ってかかる勢いで罵声を浴びせ合う二人。
ニャングルが「ヒエッ……! ま、前にも増して険悪になっとる……!」と俺の背中に隠れて震え上がった。
俺は二人の怒声を聞き流しながら、上がり框から台所と茶の間の様子をそっと覗き込んだ。
(……これは、酷いな)
ダイニングテーブルの上には、食事の痕跡らしきものが残されていた。
だが、そこに並んでいたのは料理と呼べる代物ではなかった。
どんぶりに盛られた、吸水も加熱もされていない「カチカチの乾燥生米」。
そして、ガラスコップに注がれただけの「ぬるい水道水」。
それだけだ。
おかずの皿も、味噌汁の椀もない。
生米を数粒口に放り込み、水道水で無理やり胃袋へ流し込んだ形跡がある。
互いに相手のために火を使うことすら拒絶し、生命維持の最低限のカロリーだけを生米と水で補給しているのだ。
まさに、外見だけは夫婦の形を保ちながら、中身は完全に腐敗しきった「仮面夫婦」――いや、この村の作物を捩るなら、救いようのない『マスクメロン状態』だった。
「あの……泥沼さん。お二人とも、朝食や昼食はいつもあんな感じなのですか?」
俺が静かに尋ねると、源蔵はフンと鼻を鳴らした。
「当たり前だ! あんな女の作った飯なんざ毒が入ってるかもしれねぇから食えるか! 生米を噛んでりゃ腹は膨れる! 俺の愛のすべては、クイーンちゃんに捧げるんだ!」
「私だって同じよ! こんな不潔な男と同じ鍋のものなんて食べたくもないわ! プリンス様の吐息があれば、水道水だって極上のシャンパンに変わるのよ!」
二人揃ってそっぽを向き、完全に意思疎通を拒絶している。
普通なら匙を投げて家庭裁判所へ案内するところだ。
だが、俺の鼻腔は、家中に充満している「異常な果実臭」を捉えていた。
脳の奥を甘く痺れさせるような、濃厚極まりない麝香に似た香り。
胸ポケットに入れていた胃薬の小瓶が、微かな共鳴音を立ててチリチリと揺れている。
「ニャングルさん。二人が入れあげている『クイーン』と『プリンス』っていうのは、一体何者なんだ?」
「……人間やないよ、おっちゃん」
ニャングルが耳を伏せ、声を潜めて耳打ちしてきた。
「ポポロ村の特産品、高糖度魔導果実『メロロン』や……。本来は三大国の貴族たちが高値で買い取る最高級デザートなんやけど……たまに栽培過程でマナ濃度が暴走して、精神汚染作用を持つ『変異種』が実をつけてしまうんよ。それが、夜の街の魔性を宿した『クイーンメロロン』と『プリンスメロロン』や……!」
「果物が……夜の街の魔性?」
「百聞は一見に如かずや。裏のビニールハウスを見に行ってみぃ……。あんなもん、完全に違法風俗営業やで……!」
*
母屋を出て、敷地の左右に分かれた二棟のビニールハウスへと向かった。
まずは夫の源蔵が管理しているという、向かって左手の第一温室。
二重扉のファスナーを開けて足を踏み入れた瞬間――俺は自分の目を疑った。
「……な、なんだここは……?」
そこは温室などではなかった。
天井からは魔導ブラックライトの紫色の怪しい光が降り注ぎ、ムード満点のジャズ調の魔導BGMがどこからともなく低く流れている。
畝の上には、ふかふかのベルベット調の赤い布が敷き詰められ、そこに鎮座しているのは――バスケットボール大の、妖艶な網目模様を纏った巨大な果実だった。
『あ〜ん♡ 源蔵さぁ〜ん、いらっしゃぁ〜い♡ 待ってたのよぉ〜♡』
果実の網目がフルフルと官能的に蠢き、メロンのヘタの部分がまるでカールした巻き髪のように揺れている。
そこから発せられているのは、完全に「歌舞伎町の高級キャバクラのナンバーワン嬢」の甘ったるい媚声だった。
『もう、遅かったじゃないのぉ〜♡ クイーン、寂しくて皮の網目がひび割れちゃうところだったんだからぁ♡ ねぇ、今日もあの美味しい特濃マナ堆肥、たっぷり注ぎ込んでくれるんでしょ? 源蔵さんだけが、クイーンの本当のパパなんだからぁ……ちゅ♡』
「ひ、ヒィッ!? 喋った! メロンが喋って営業かけてきよった!!」
ニャングルが尻尾をピンと立てて飛び退いた。
横を見ると、源蔵が「クイーンちゃぁぁん! 今いくよぉ! 俺の命のマナを全部あげるからねぇぇ!」とヨダレを垂らしながら、高価な魔導栄養アンプルを抱きしめて突進しようとしている。
俺は咄嗟に源蔵の襟首を掴み、後ろへ引き倒した。
「落ち着け源蔵さん! 相手はただの果物だ!」
「放せぇ! 果物なもんか! クイーンちゃんは俺の運命の女なんだぁぁッ!!」
狂乱する源蔵をニャングルに押さえさせ、俺は足元に転がっていた『管理人スリッパ』を右手に構えた。
だが、クイーンメロロンはその妖しい緑の果皮を艶めかしくくねらせ、俺に向かって蠱惑的なフェロモン香を吹きかけてきた。
『あらぁ〜? 見かけないおじ様ねぇ♡ くたびれた作業着なんて着ちゃって……お仕事大変そう♡ クイーンのお膝元で、日頃のストレスを全部忘れちゃわない? 定時退勤なんて言わずに、朝までクイーンと甘いシロップに溺れましょ……♡』
甘い、甘い香りが脳髄を直接撫で回してくる。
前世で幾度となく接待で連れて行かれ、若いキャバ嬢たちの営業トークに疲弊し切っていた俺の脳内に、甘美な幻覚が立ち上りかけた。
だが――。
(……ふん、甘ったるいな)
四十過ぎの中間管理職の胃袋を舐めるな。
俺が求めているのは、甘っちょろいシロップ漬けの幻覚などではない。
熱いサウナと、冷たい水風呂、そして塩気と脂の効いた晩酌だけだ。
俺の足元で、淡い白銀の幾何学模様がスッと広がった。
――【敷地内風紀維持】自動待機。
――事象:農作物による無許可風俗営業および精神汚染チャーム。
「おい、そこのメロン」
『え……? メ、メロン……?』
「源蔵さんにマナを貢がせるのは勝手だがな、家庭の食卓を生米と水道水だけにするような営業は、夜の街の風紀としても三流以下だ。太客を長持ちさせたければ、まず客の健康管理と家庭環境に配慮するのが一流のキャストだろうが」
『な、何をわけのわからない説教を……!? クイーンの超極上チャームが……効いてないのぉ!?』
驚愕するクイーンメロロンを背に、俺は一度ハウスのファスナーを閉めた。
そして今度は、妻の恵が籠もっているという右手の第二温室の扉を開けた。
案の定だった。
こちらにはシャンパンゴールドの華やかな照明が灯り、棚の上には銀色のネットを気取った角度で纏ったメロンが、キザなヘタをトサカのように尖らせて鎮座していた。
『やあ、恵……。今日も君の瞳は、朝露に濡れた僕の表皮のように澄んでいるね……。あの愚鈍な夫のことなんて忘れて、僕の芳醇なアロマに包まれるといい……。さあ、僕をもっと輝かせるための『ゴールドマナ液(特級シャンパン)』を注いでくれないか……?』
完全に「新宿歌舞伎町のナンバーワンホスト」だった。
恵はその前に跪き、「ああっ、プリンス様! 今すぐ、今すぐ最高級の液肥を開けますわぁ!」と手にした高価な瓶の栓を抜こうとしている。
「……なるほどな。夫婦揃って、別々の色情農作物に骨抜きにされてるわけか」
俺は深くため息をつき、くたびれた作業着のポケットから青箱の煙草を取り出そうとして、温室内火気厳禁を思い出して思いとどまった。
外から吹き込んできた風が、母屋の食卓に残された「カチカチの生米」の乾いた匂いを運んでくる。
胸がキリキリと痛んだ。
泥沼夫妻のあの生気のない顔。
かつては手を取り合ってこのポポロ村の荒れ地を開墾し、泥だらけになって笑い合いながら、温かい飯を分け合っていたはずの二人。
それが、怪異作物の放つインスタントな快楽と甘言に溺れ、互いを傷つけ合い、冷え切った食卓で飢えに震えている。
「ニャングルさん」
「な、なんや健太のおっちゃん……! もう打つ手なしやろこんなん! 村の除霊師か自警団呼んで、ハウスごとパイルバンカーで吹き飛ばすしか――」
「いや、壊したら農家の借金が残るだけだ。現場の修繕と再建こそが、管理人の腕の見せ所だからな」
俺は作業着の袖を肘までまくり上げ、鋭く目を細めた。
「まずはあの生意気なメロンどもに、大人の世界の冷酷な『塩対応』ってやつを叩き込んでやる。……ニャングルさん、村の倉庫から粗塩を一俵、大至急運んできてくれ」
「し、塩……!? 塩をどうする気なんや!?」
「決まってるだろ。無許可風俗営業の強制摘発だ。……ついでに、母屋の台所も借りるぞ。あんな冷え切った仮面夫婦の食卓、元総務課長として見過ごすわけにはいかんからな」
俺のポケットの中で、インク内蔵式の三文判が静かに赤く熱を帯び始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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