EP 2
三巨頭の密集する木造モルタルと、時速80kmの胃袋掌握
木造モルタル三階建てアパート『ポポロ・コーポ』の敷地内に、晩秋から初冬へと向かう澄み切った冷気が満ちていた。
午後九時前。
愛車である深緑色のママチャリをコーポの来客用駐輪スペースにガチャンと停めたトカゲ人の青年――ルナ・イーツのトップ配達員ロードは、額のゴーグルを押し上げたまま、文字通り指先一本動かせずに固まっていた。
(……あ、あかん。ホンマにあかん……。ワテの爬虫類としての本能が、全神経をすり減らして警報を連打しとる……!)
ロードの正体は、太古の神話大戦において星の時間を統べ、数多の神仏を震撼させた生ける伝説――十万馬力超の絶対覇者『始祖竜クロノ』である。
大宇宙管理局の監査アラートを逃れるため、出力を数万分の一に絞り込んで帝都のフリーター生活を満喫しているはずの彼だったが、いま、全身の硬質な緑色の鱗がチリチリと逆立っていた。
視線を左手へ向ければ、A棟一〇一号室のすりガラス越しに、赤黒い炎熱の竜気がメラメラと漏れ出している。頑固一徹に寸胴鍋で二十四時間豚骨を煮込み続ける、あの竜王デュークの気配だ。
そのすぐ隣、一〇二号室からは、パチンコ台のけたたましい電子音とともに、氷雪の闘気が襖の隙間から漏れ聞こえてくる。確変を追って家賃を滞納し続ける、あの狼王フェンリルである。
さらには中庭を挟んだ向かい、女子棟(B棟)の一〇一号室からは、燃え尽きかけた炭のように微弱ながらも、触れれば魂ごと灰燼に帰す不滅の紅蓮マナ――不死鳥フレアの残火が揺らめいている。
(なんでやねん……! なんで大陸の均衡を保つはずの三巨頭が、家賃三万円の木造ボロアパートの一階にぎゅうぎゅう詰めで住み着いとるんやぁぁぁッ!?)
心臓が破裂しそうなほどの恐怖。
大宇宙の核融合実験炉のど真ん中へ、ママチャリ一つで飛び込んでしまったような絶望感に、ロードの膝がガクガクと音を立てて震え上がっていた。
今すぐにでも時速百二十キロのフル加速で逃走を図ろうと、ペダルに足をかけ直した――その時だった。
「おいおい、そんなところで立ち止まってちゃ身体が冷えるぞ。……はい、これでも飲んで暖まりなさい」
トボトボと歩み寄ってきたのは、くたびれた作業着に腕カバーを着け、足元に茶色い便所スリッパを突っ掛けた中年男だった。
俺――佐伯健太(四十二歳・戦闘力1馬力)である。
「ヒェッ……!?」
ロードが跳び退いた。
だが、俺の手から差し出されたのは、湯気を立てる素朴な湯呑みと、タローソンの白い紙袋だった。
「帝都から峠を三つも越えて、冷たい夜風を受けっぱなしだったんだろ。……人肌温度(三十七度五分)に温めた『ぬるい陽薬茶』だ。それと、タローソンの蒸し器から買ってきたばかりの肉まん。……冷えた身体には、まず内臓を温めるのが一番効くからな」
「……え?」
ロードは呆然と、差し出された湯呑みを見つめた。
立ち上る、素朴で優しい薬草の香り。
殺気も、打算も、十万馬力の始祖竜に対する恐怖や利用しようという下心すら、一片たりとも混ざり合っていない。
ただ純粋に、夜遅くまで汗を流して荷物を届けに来た「現場の労働者」を労わる、昭和の総務課長の温もりだけがそこにあった。
「……い、いただくわ」
ロードは震える爪先で湯呑みを受け取り、おずおずと口をつけた。
ズズッ……ズズズッ……。
「………………ッッッ!!!!」
熱すぎず、冷たすぎない、絶妙な人肌温度。
時速八十キロの冷風で凍りついていた喉と食道を通るたびに、張り詰めていた自律神経の結び目が、ふわりと音を立てて解けていく。
続いて、渡された熱々の肉まんにかぶりつく。
ハフッ!と薄皮を突き破ると、中から溢れ出すオーク豚のジューシーな肉汁と、ネギカリバーのシャキシャキとした甘み。
「う……うまい……! なんやこれ、五臓六腑に染み渡るやないか……!」
「腹が減ってちゃ、帰りのペダルも重くなるからな。……そうだ、受領の確認が必要だろ。端末を貸しなさい」
俺は作業着の胸ポケットから、愛用のワンタッチ認印(インク内蔵式三文判)を取り出すと、ロードの配達端末の液晶画面へ、迷いなくポンと押し込んだ。
ポンッ。
――ユニークスキル『管理人権限(最上位受領決裁)』執行。
――神界統括OS『SELESTIA-CORE』へ直結登記。
――事象:ルナ・イーツ配達伝票【配達完了および深夜特別チップ(金貨一枚加算)】を因果律確定。
ピロリ〜ン♪と、端末から神聖な確定音が鳴り響いた。
画面に表示されたのは、帝都の法廷監査すらパスする最上位承認印のログと、健太のポケットマネーから支払われた破格の特別チップ。
「な……ッ!? ガオガオンの法廷認証コードに……金貨一枚のチップやと……!?」
ロードの顎が外れそうになる。
「おっちゃん……あんた、一体何者や!? 戦闘力測定値はたったの1馬力……それやのに、竜王や狼王をアパートの店子に従えて、神界の法廷コードをハンコ一本で叩き出しよった……!?」
「ただの管理人ですよ、ポポロ・コーポの佐伯です」
俺は苦笑し、作業着の胸ポケットから天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』を取り出して二粒ポリポリと噛み砕いた。
「夜遅くにこんな山奥まで届けてくれたんだ、これくらいのチップは当然の手間賃ですよ。……おや、ロードさん、そのリュックの底に入っているのは何です?」
「え? あ、これか……」
ロードが配達リュックの底から引っ張り出したのは、タローソンの黄色い値引きシールが何重にも貼られたプラスチックの弁当容器だった。
中に入っているのは、時間が経って油が白く浮き、ご飯がカピカピになった『照り焼きチキン&ハンバーグ弁当』。
「今日のワテの夜食用や。タローソンの裏口で店長から貰った廃棄寸前の見切り品なんやけど……帝都からぶっ飛ばして走っとったから、すっかり冷え切って脂がカチカチになってもうてな。まあ、冷たいまんま胃袋に流し込むしかないわ……」
しょんぼりと肩を落とすトカゲ人。
その姿を目にした瞬間――前世の総合商社時代、激務の合間にコンビニの冷え切った弁当を掻き込み、胸焼けと胃痛に耐えながら深夜残業をこなしていた若手時代の俺の記憶が、鮮烈に蘇った。
「ロードさん。……冷え切った油の固まった飯をそのまま食うのは、胃壁に対する明白な虐待だぞ」
「へ?」
「ちょっとその弁当を貸しなさい。現場の総務として、冷飯の放置は見過ごせん」
俺は作業着の袖をまくり上げ、ロードの手からプラスチック容器を受け取ると、管理人室の濡れ縁に置いてあった卓上七輪へ向かった。
「半神のヒエン君から貰った鋼鉄の万能包丁と、小さなフライパンがある。……ちょっと手を加えれば、冷えた見切り品弁当だって立派な極上飯に化けるんだよ」
俺はフライパンを七輪の炭火にかけ、自生オリーブ草のオイルを薄く引いた。
カピカピになったご飯をパラリとほぐして投入し、泥沼農園から届いた新鮮な肉椎茸の角切りと、ネギオの『ネギカリバー』の小口切りをドサッと合わせる。
さらに、固まっていた照り焼きチキンを一口大に切り分け、天然醤油草の生醤油と、料理酒代わりの太陽芋蒸留酒『イモッカ』を回し入れた。
ジュワワワワワワワッッッッ!!!!
刹那――七輪の上から、焦がし醤油とチキンの香ばしい脂の香りが、爆発的な湯気となって立ち上った!
木べらで手早く煽ると、米の一粒一粒が肉椎茸のエキスを吸い込み、ふっくらと黄金色に輝きを取り戻していく。
仕上げに、七輪の網でハンバーグをサッと炙り直し、表面を香ばしく焼き固めた。
「はいお待ち。『見切り品チキンと肉椎茸の焦がし醤油焼き飯、炙りハンバーグ乗せ』だ。……熱いうちに食いなさい」
どんぶりに山盛りにされた、湯気を立てる熱々の焼き飯。
ロードはゴクリと喉を鳴らし、震える手でスプーンを握りしめた。
山盛りの焼き飯をすくい、口へ放り込む。
ハフッ……もぐっ……。
「………………ッッッッッ!!!!」
噛み締めた瞬間、ロードの全身の鱗が、ブワッ!と心地よい熱気で逆立った!
冷えてパサついていた米が、肉椎茸の濃厚な出汁とネギカリバーの甘みをまとって、まるで炊きたてのようにジューシーに弾ける。
焦がし醤油の香ばしさがチキンの甘辛ダレと完璧に絡み合い、炭火で炙られたハンバーグからは、ジュワッ!と熱い肉汁が溢れ出してくる。
「う……うみゃあぁぁぁぁぁッッ!! なんやこれ! 廃棄寸前の冷えピタ弁当が、王宮の鉄板焼き飯より美味くなっとるやないかいッ!!」
「美味い飯ってのはな、値段じゃないんだよ。温かいものを、腹を空かせた時に食う。それが一番の贅沢さ」
俺が微笑むと、ロードは目から大粒の涙をポロポロとこぼしながら、夢中でスプーンを動かした。
あっという間にどんぶりを空にし、ぬるい陽薬茶を喉へ流し込むと、深い、魂の底からの長い息を吐き出した。
「……ふぅぅぅぅっ。生きてる心地がしたわ……」
ロードは空のどんぶりを置き、トサカをポリポリと掻きながら、まっすぐな瞳で俺を見上げた。
「佐伯のおっちゃん……あんた、ほんまもんの神様やな。……決めたわ。ワテ、これから帝都で旨いもんの注文が入ったら、最優先でこのポポロ村へ時速百キロで届けに来たる! ルナ・イーツの特急指名料もタダでええわ!」
「はは、それは頼もしいな。スピード違反で自警団に捕まらない程度にしてくれよ」
俺とロードが笑い合い、固い握手を交わしたその時――
背後の濡れ縁の障子が、スッと音もなく開かれた。
「健太さん、夜食のいい匂いがしますね……♡」
中庭の敷石を静かに渡ってきたのは、純白のウサギ耳を揺らす第43代村長キャルルだった。
その長い耳がピクピクと動き、俺の左胸の鼓動へと吸い寄せられるように傾く。
ドクン……ドクン……と規則正しく刻まれる、四十男の穏やかで打算のない心音。
作業着の胸ポケットの中では、キャルルから託された『人参柄刺繍ハンカチ』が、その鼓動を受け止めて、トクン……トクン……と優しく温かな微振動を返していた。
キャルルは俺の作業着の袖にすり寄ると、ふと、街道の彼方の夜空へ視線を向け、眉根を微かに寄せた。
「……ねぇ、健太さん。帝都の方角から、なんだか変な波が届いてるよ?」
「変な波? 風向きか?」
「ううん、違うの。……時計の秒針が、一秒進んで、半秒戻って、また進んでるみたいな……すごく気持ちの悪い『音のズレ』が、夜風に乗って聞こえてくるの」
超聴覚を持つ月兎族の村長が捉えた、極めて微小な世界の不協和音。
その言葉を聞いた瞬間、満足げに腹をさすっていたトカゲ人配達員ロードの瞳孔が、再び鋭く細められた。
「……時間のズレ、やと……?」
十万馬力の始祖竜クロノの記憶の奥底で、かつて自らが遺したはずの「因果の欠片」が、不気味に共鳴を始めていた。
深夜のポポロ・コーポに吹き抜けた一陣の冷風は、帝都を蝕み始めた不可解な事件の前兆を、静かに告げていたのである。
読んでいただきありがとうございます。
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