第七章 時速80kmの関西弁配達員と、侯爵邸の「時間リセット」事件
時速80kmの爆走トカゲ配達員と、深夜の超弩級マシマシ豚骨テロ
どれほど神界のエリートが仕掛けた大掛かりな炎上プロモーションであっても、現場で働く人間が一人また一人と額に汗を流し、壊されたブロック塀を積み直していけば、日常というものは驚くほどあっさりと元の静けさを取り戻す。
午後八時半を回った頃。
晩秋から初冬へと移ろいゆく冷たい夜風が、木造モルタル三階建てアパート『ポポロ・コーポ』の敷地を通り抜けていた。
俺――佐伯健太(四十二歳・戦闘力1馬力)は、愛用の作業着の袖をまくり、管理人室の濡れ縁で本日の業務日報に目を通していた。
日報の端には、村役場から回ってきた開墾進捗のメモ。
元・契約勇者ゼロスは、十五センチのシークレットブーツを脱ぎ捨てて安全地下足袋を履き、竜人族イグニス先輩の指導のもとで泥だらけになってスコップを振るい、本日のノルマを無事故で達成。元・過激派ネフィリムの剣客ミラースも、奇樹ネギオの廃工房で黙々と薪を三百束割り終え、ちゃんこ鍋屋の魚捌き用の和包丁をピカピカに研ぎ上げていたという。
現場で汗を流して飯を食う。
それだけで人間、余計な虚栄心や邪念は消え去るものなのだ。
「……よし、労災ゼロ、規約違反ゼロ。今日も平和裏に定時退勤だな」
俺は作業着の胸ポケットから天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』を取り出し、二粒をポリポリと奥歯で噛み砕いた。
口いっぱいに広がる生薬のほろ苦さを、保温水筒から注いだ人肌温度(三十七度五分)の「ぬるい陽薬茶」で胃袋へと流し込む。
じんわりと温もりが五臓六腑へ染み渡り、一日中外回りで冷え切っていた内臓がふっと解けていく。
左胸のポケットの中では、ウサギ村長キャルルから託された『人参柄刺繍ハンカチ』が、俺の規則正しい心音を感知して、トクン……トクン……と優しく、穏やかな微振動を返してきていた。
青箱のハード煙草にジッポライターでカチリと火をつけ、紫煙を満天の星空へと燻らせる。
――キコキコキコキコッ! ギィィィィィィィッッッ!!
突如として、夜の静寂を切り裂いて、街道の彼方から狂気じみた金属チェーンの超高速回転音と、アスファルトを力任せに削り取る耳障りなスキール音が響いてきた。
続いて、村の境界ゲートの自警団詰所から、魔導拡声器を通じた悲鳴のような警報が夜空に木霊する。
『け、緊急警報! 帝都街道方面より、未確認の単眼型超音速移動体、ポポロ村の境界ゲートを突破! 移動速度……時速八十キロ!? 馬車じゃありません、爆走ママチャリです! コーポの正門へ一直線に突っ込んできますッッ!!』
「……あ?」
俺が咥えタバコのまま立ち上がった瞬間、コーポの前庭の砂利を派手に跳ね飛ばしながら、一台の緑色のママチャリが急制動をかけて滑り込んできた。
ズッギャァァァァァァンッッッッ!!!!
巻き上がる猛烈な砂煙。
中から姿を現したのは、全身を緑色の硬質な鱗で覆い、黒いパーカの上に『ルナ・イーツ』の蛍光反射ジャンパーを羽織った、二足歩行のトカゲ人だった。
額に跳ね上げたゴーグル、肩で激しく切る息。
背中には、厳重な保温魔導断熱材が仕込まれた特大の四角いデリバリーリュックを背負っている。
スタンドをガチャンと立てるや否や、トカゲ人はコテコテの関西弁で怒鳴り声を張り上げた。
「ハァッ……ハァッ……! ど、どえらい遠いわボケェッ!! なんやねんこの山奥の限界集落! 帝都の駅前通りから峠を三つ越えてチャリ漕がせるとか、発注した奴の頭のネジ飛んどるやろ! 受取人の『アホ毛手羽先天使』はおるかいッ!?」
「あー、ロードさーん! 待ってました〜☆」
女子棟(B棟)の二階ベランダから、ピンク色のツインテールとピンと立ったアホ毛を揺らしながら顔を出したのは、月収二億円の脱走天使メガゴッドチューバー・キュララだった。
手元のスマホ画面でGodTubeの深夜生配信を繋ぎっぱなしにしたまま、ヘラヘラと両手を振る。
「リスナーのみんな〜、帝都で連日大行列の超凶悪ジャンクラーメン『豚神屋』の全マシ特盛ラーメン、ついにポポロ村へ着弾したよ〜♡ ロードさん、代金と特急深夜チップはルナPayで満額送金済みだから、玄関前に置き配しといて〜☆」
「誰が『置き配』じゃアホ垂れがぁぁッ!!」
トカゲ人の配達員――ロードが、額に血管を浮き上がらせてリュックのバックルを乱暴に外した。
「こちとら時速八十キロでカーブ曲がりながら、スープの乳化が分離せんように重力制御魔法全開で走ってきたんじゃ! アブラマシマシ野菜チョモランマのスープを零さんようにチャリ漕ぐ配達員の血と汗の苦労も知らんと、他人の投げ銭でぬくぬく肥え太り腐って! チップ弾んでへんかったら今すぐ前輪でそのアホ毛ごと轢き倒しとるぞワレェッ!」
吐き捨てながら、ロードは特大の保温容器をリュックから引っ張り出し、女子棟の玄関脇の置き配ラックへとドンッと置いた。
容器の隙間から漏れ出てくるのは――ニンニクの暴力的なまでの刺激臭と、極限まで煮詰められた豚骨と背脂の濃厚極まりない獣臭だった。
……なのだが。
荷物を置いたその瞬間、ロードの全身のトサカが――ピキィィィィンッ!と針金のように逆立った。
緑色の鱗が、目に見えてサーッと真っ白に褪色していく。
(……ま、待て。なんや……なんやこの、肌が粟立つようなプレッシャーは……!?)
ロードの細長い瞳孔が、恐怖で真円に拡大した。
彼の正体は、しがないフリーター配達員などではない。
太古の神話大戦において、星の因果律と時間の流れを司り、数々の神々を戦慄させた生ける伝説――十万馬力超の絶対覇者『始祖竜クロノ』その人である。
大宇宙管理局の監査アラートを逃れるため、出力を数万分の一に絞り込んで世を忍ぶド底辺アーバンライフを満喫しているはずの男が、いま、全身の毛穴から冷や汗を吹き出させていた。
(ひ、左手のA棟一〇一号室から漂う、この寸胴を睨みつけるような灼熱の殺気……竜王デュークの頑固ジジイやないかい! 隣の一〇二号室の襖の隙間から漏れるパチンコの確変音と銀色の闘気……狼王フェンリルの駄犬やんけ! さらには女子棟の一〇一号室、あの炭火のように温かくも恐ろしい紅蓮マナは……不死鳥フレアのオカン……!?)
ガクガクガクッ!と膝が震え、愛車の緑のママチャリがガラガラと情けない音を立てて倒れかけた。
(なんでや……なんでこんな家賃三万円の木造モルタルアパートに、太古の大戦を生き残った三巨頭が全員一階に固まって住み着いとるんやぁぁぁッ!? 混ぜるな危険の極致やろが! 神界の惑星核融合実験場かここはぁぁッ!!)
心臓が縮み上がり、今すぐ時速百二十キロのフル加速で逃走しようとサドルへ飛び乗ろうとした――その刹那だった。
「はい、配達ご苦労さん。遠いところ大変だったな」
背後から、あまりにも気の抜けた声がかかった。
トボトボと歩み寄ってきたのは、くたびれた作業着に腕カバーを着け、足元に茶色い便所スリッパを突っ掛けた、どう見ても戦闘力1馬力の中年男――俺だった。
「ヒエッ……!?」
ロードが飛び退いた。
だが、俺の手から差し出されたのは、湯気を立てる素朴な湯呑みと、タローソンの白い紙袋だった。
「夜道、冷えただろ。……人肌に温めた『ぬるい陽薬茶』だ。それと、タローソンの蒸し器から買ってきたばかりの肉まん。……冷たい夜風を受けながら走ってきた身体には、まず内臓を温めるのが一番効くぞ」
「……え?」
ロードは呆然と、差し出された湯呑みを見つめた。
立ち上る、素朴で優しい薬草の香り。
殺気も、打算も、十万馬力の始祖竜に対する恐怖や利用しようという下心すら、一片たりとも混ざり合っていない。
ただ純粋に、夜遅くまで汗を流して荷物を届けに来た「現場の労働者」を労わる、昭和の総務課長の温もりだけがそこにあった。
「……い、いただくわ」
ロードは震える爪先で湯呑みを受け取り、おずおずと口をつけた。
ズズッ……ズズズッ……。
「………………ッッッ!!!!」
熱すぎず、冷たすぎない、完璧な三十七度五分の人肌温度。
時速八十キロの冷風で凍りついていた喉と食道を通るたびに、張り詰めていた自律神経の結び目が、ふわりと音を立てて解けていく。
続いて、渡された熱々の肉まんにかぶりつく。
ハフッ!と薄皮を突き破ると、中から溢れ出すオーク豚のジューシーな肉汁と、ネギカリバーのシャキシャキとした甘み。
「う……うまい……! なんやこれ、五臓六腑に染み渡るやないか……」
「腹が減ってちゃ、帰りのペダルも重くなるからな。……そうだ、受領の確認が必要だろ。端末を貸しなさい」
俺は作業着の胸ポケットから、愛用のワンタッチ認印(インク内蔵式三文判)を取り出すと、ロードの配達端末の液晶画面へ、迷いなくポンと押し込んだ。
ポンッ。
――ユニークスキル『管理人権限(最上位受領決裁)』執行。
――神界統括OS『SELESTIA-CORE』へ直結登記。
――事象:ルナ・イーツ配達伝票【配達完了および深夜特別チップ(金貨一枚加算)】を因果律確定。
ピロリ〜ン♪と、端末から神聖な確定音が鳴り響いた。
画面に表示されたのは、帝都の法廷監査すらパスする最上位承認印のログと、健太のポケットマネーから支払われた破格の特別チップ。
「な……ッ!? ガオガオンの法廷認証コードに……金貨一枚のチップやと……!?」
ロードの顎が外れそうになる。
「おっちゃん……あんた、一体何者や!? 戦闘力測定値はたったの1馬力……それやのに、竜王や狼王をアパートの店子に従えて、神界の法廷コードをハンコ一本で叩き出しよった……!?」
「ただの管理人ですよ、ポポロ・コーポの佐伯です」
俺は苦笑し、煙草の灰を携帯灰皿へトントンと落とした。
「夜遅くにこんな山奥まで届けてくれたんだ、これくらいのチップは当然の手間賃ですよ」
――その時だった。
ガララッ! ドォォォォンッ!!
A棟一〇一号室の引き戸が、地鳴りのような音を立てて開け放たれた。
頭にタオルを巻き、右手に巨大な木杓子を握りしめた竜王デュークが、青筋を浮かべて玄関から踏み出してきたのだ。
その琥珀色の瞳は、置き配ラックから立ち上るニンニクと背脂のスメルハザードを鋭く睨みつけていた。
「……おい。誰だ、我が神域たるコーポの共用廊下で、このような下品極まりない化調とニンニクの異臭を放つジャンク豚骨を放置している不届き者は……? 埃と悪臭が我が寸胴に入ったら、魂ごと出汁にしてやるぞ」
「ヒエッッッッッ!?!?!?」
ロードが悲鳴を上げて跳び上がった!
本物の十万馬力の竜王の殺気。
だが、俺は眉毛一つ動かさず、足元の便所スリッパを脱ぐと、丸めたルナミス新聞でデュークの胸板をペシッと軽く叩いた。
「はいはい、デュークさん、夜中に騒がない。二階のリリスちゃんが起きるでしょうが。……これはキュララさんが注文した夜食ですよ。キュララさん! さっさと部屋へ持って上がりなさい! 廊下に匂いが充満するぞ!」
「はーい、健太さんごめんなさ〜い☆」
二階からキュララが慌てて階段を駆け下りてきて、ラーメンの容器を抱えて部屋へと逃げ帰っていった。
デュークはフンと鼻を鳴らし、「健太、後で換気扇のフィルターを点検しておけ」と呟いて部屋へ戻っていった。
その信じられない光景を、ロードは口をあんぐりと開けて見届けていた。
あの絶対覇者・竜王デュークを、新聞紙一枚で手懐けて自室へ引っ込ませる四十男。
「……お、おっちゃん……。あんた、ほんまもんの神様やな……」
「神様じゃないですよ、ただの管理人です。……ほらロードさん、身体が温まったら気をつけて帰りなさい。夜道はスピードを落とすんだぞ」
「……へ、へい! おおきに佐伯のおっちゃん! ワテ、また美味いもんの注文が入ったら、最優先で届けに来たるわ!」
ロードは深く一礼し、ママチャリのペダルを踏み込んで夜の街道へと滑り出していった。
その背中を見送りながら、俺はふと、ポケットの煙草に手を伸ばした。
――しかし。
この時の俺は、まだ気づいていなかった。
ロードが走ってきた帝都の闇の中で、原因不明の「時間の巻き戻り」と「デジャブのノイズ」が静かに広がり始めていることを。
そして、仮面の男たちが企む不気味なテロの影が、このポポロ村の平穏へと確実に照準を合わせ始めていることを。
夜風が冷たく、ポポロ・コーポの屋根を撫でて吹き抜けていった。
読んでいただきありがとうございます。
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