EP 8
時速80kmの関西弁トカゲと、冷え切った廃棄弁当の救済
神界のリモート会議が平和裏に終わり、地下深淵の任侠邪神デュアダロスが木造モルタルアパート『ポポロ・コーポ』の「遠隔防犯顧問」へ就任した翌朝のことである。
午前十一時整。
晩秋の風が黄色く色づいたポポロ山の木々を揺らし、心地よい秋晴れの青空が広がっていた。
俺――佐伯健太(四十二歳・戦闘力1馬力)は、愛用の作業着の袖をまくり、管理人室前の濡れ縁に腰を下ろして、出勤簿と設備点検表に目を走らせていた。
ちゃぶ台の上には、先ほど淹れたばかりの人肌温度(三十七度五分)の「ぬるい陽薬茶」と、胸ポケットから取り出した天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』。
二粒をポリポリと奥歯で噛み砕き、ぬるい茶で喉へ流し込む。
五臓六腑へじんわりと温もりが染み渡り、連日の気苦労で強張っていた胃壁がふっと解けていく。
左胸のポケットの中では、ウサギ村長キャルルから託された『人参柄刺繍ハンカチ』が、俺の安定した心音を感知して、トクン……トクン……と規則正しい穏やかな微振動を伝えてきていた。
「……よし。大浴場の薪ボイラーの水圧よし、排水溝の落ち葉清掃よし。今日も定時退勤コースだな」
俺が青箱のハード煙草にジッポライターでカチリと火をつけ、紫煙を燻らせた――その時だった。
キコキコキコキコッ! ギィィィィィィィッッッ!!
静かな街道の彼方から、耳を劈くようなチェーンの回転音と、ゴムタイヤがアスファルトを削り取る甲高いスキール音が響いてきた。
続いて、ポポロ村の境界ゲートを警備していた自警団詰所の魔導拡声器から、慌てふためいた悲鳴が轟く。
『け、緊急警報! 帝都方面より、未確認の単眼型高速移動物体が急接近! 移動速度……時速八十キロ!? 馬車どころの騒ぎじゃありません、爆走ママチャリです! コーポの正門へ直進中ッッ!!』
「……あ?」
俺が立ち上がった瞬間、コーポの前庭の砂利を豪快に跳ね飛ばしながら、一台の緑色のママチャリが急制動をかけて滑り込んできた。
ズッギャァァァァァァンッッッッ!!!!
猛烈な土煙の中から姿を現したのは、全身を緑色の硬質な鱗で覆い、黒いフード付きパーカの上に『ルナ・イーツ』の蛍光ロゴ入りジャンパーを羽織った、二足歩行のトカゲ人だった。
背中には、保温魔導断熱材がギチギチに仕込まれた巨大な四角いデリバリーリュック。
額にゴーグルを跳ね上げ、肩で息を切りながら、コテコテの関西弁で怒鳴り声を上げた。
「ハァッ……ハァッ……! ど、どえらい遠いわボケェッ!! なんやねんこの限界集落! 帝都のタローソン本店から三時間ぶっ飛ばしてチャリ漕がせるとか、発注者の正気疑うわ! 受取人の『自称・永遠の十七歳アホ毛天使』はおるかいッ!?」
「あー、ロードさん、お疲れ様です〜☆」
女子棟(B棟)の二階ベランダから、ピンク色のツインテールとアホ毛を揺らしながら顔を出したのは、月収二億円の脱走天使メガゴッドチューバー・キュララだった。
スマホ画面でGodTubeの生配信を繋ぎっぱなしにしたまま、ヘラヘラと手を振る。
「リスナーのみんな〜、帝都の激レア限定スイーツ『タローソン特製・神聖ダブルクリームエクレア』と廃棄直前メガ盛りカツ丼、無事に届いたよ〜♡ ロードさん、代金とチップはルナPayで満額送金しといたから、適当に玄関に置いといて〜☆」
「誰が『置いといて』じゃアホ垂れがぁぁッ!!」
トカゲ人の配達員――ロードが、血管を浮き上がらせてリュックの蓋を乱暴に開けた。
「こちとら時速八十キロで峠越えしてきとんのじゃ! エクレアの生クリームが分離せんように重力制御しながら走る配達員の苦労も知らんと、他人の投げ銭でぬくぬく贅沢し腐って! チップ弾んでへんかったら今すぐチャリの前輪で顔面轢き倒しとるぞワレェッ!」
吐き捨てながら、キュララの注文の品を玄関の置き配スペースへ叩きつけるように置く。
……なのだが。
その瞬間、ロードの全身のトサカが――ピキィィィィンッ!と逆立ち、緑色の鱗が一瞬にして真っ白に褪色した。
(……待て。なんや、このプレッシャーは……!?)
ロードの細長い瞳孔が、恐怖で真円に拡大する。
彼の正体は、ただのしがないデリバリー配達員ではない。
太古の神話大戦において、星の因果律と時間を司り、世界を震撼させた生ける伝説――十万馬力超の絶対覇者『始祖竜クロノ』その人である。
大宇宙管理局の監査アラートを逃れるため、出力を数万分の一に絞り込んで世を忍ぶフリーター生活を送っているはずの彼が、いま、全身の細胞を総毛立たせていた。
(ひ、左手のA棟一〇一号室から漂う、この暴力的なまでの灼熱の豚骨神気……竜王デュークやないかい! 隣の一〇二号室の襖の隙間から聞こえるパチンコの騒音と銀色の闘気……狼王フェンリルの駄犬やんけ! さらには女子棟の一〇一号室、あの燃え尽きかけた炭のような紅蓮マナは……不死鳥フレアのオカン……!?)
ガクガクと膝が震え、ロードの愛車のママチャリがガラガラと情けない音を立てて倒れかけた。
(なんでや……なんでこんな家賃三万円の木造ボロアパートに、太古の大戦を生き残った三巨頭が全員一階に固まって住み着いとるんやぁぁぁッ!? 混ぜるな危険の極致やろが! 神界の惑星核融合実験場かここはぁぁッ!!)
心臓が縮み上がり、今すぐ時速百二十キロのフル加速で逃走しようとペダルに足をかけかけた――その刹那だった。
「はい、配達ご苦労さん。遠いところ大変だったな」
トボトボと歩み寄ってきたのは、くたびれた作業着に腕カバーを着け、足元に茶色い便所スリッパを突っ掛けた、どう見ても戦闘力1馬力の中年男だった。
俺――佐伯健太である。
「ヒエッ……!?」
ロードが飛び退いた。
だが、その男の手から差し出されたのは、湯気を立てる素朴な湯呑みと、タローソンの白い紙袋だった。
「長距離を走って、喉がカラカラだろ。……人肌に温めた『ぬるい陽薬茶』だ。それと、さっき蒸しあがったばかりのタローソンの肉まん。……冷たい風を受けながら走ってきた身体には、まず内臓を温めるのが一番効くぞ」
「……え?」
ロードは呆然と、差し出された湯呑みを見つめた。
立ち上る、薬草の素朴で優しい香り。
殺気も、打算も、十万馬力の始祖竜に対する恐怖や利用しようという下心すら、一片たりとも混ざり合っていない。
ただ純粋に、汗を流して荷物を届けに来た「現場の労働者」を労わる、昭和の総務課長の温もりだけがそこにあった。
「……い、いただくわ」
ロードは震える爪先で湯呑みを受け取り、おずおずと口をつけた。
ズズッ……ズズズッ……。
「………………ッッッ!!!!」
熱すぎず、冷たすぎない、絶妙な三十七度五分の人肌温度。
時速八十キロの冷風で凍りついていた喉と食道を通るたびに、張り詰めていた神経の結び目が、ふわりと音を立てて解けていく。
続いて、渡された熱々の肉まんにかぶりつく。
ハフッ!と薄皮を突き破ると、中から溢れ出すオーク豚のジューシーな肉汁と、ネギカリバーのシャキシャキとした甘み。
「う……うまい……! なんやこれ、五臓六腑に染み渡るやないか……」
「腹が減ってちゃ、帰りのペダルも重くなるからな。……そうだ、受領のサインが必要だろ。端末を貸しなさい」
俺は作業着の胸ポケットから、愛用のワンタッチ認印(インク内蔵式三文判)を取り出すと、ロードの配達端末の液晶画面へ、迷いなくポンと押し込んだ。
ポンッ。
――ユニークスキル『管理人権限(最上位受領決裁)』執行。
――神界統括OS『SELESTIA-CORE』へ直結登記。
――事象:ルナ・イーツ配達伝票【配達完了およびチップ承認(金貨一枚加算)】を因果律確定。
ピロリ〜ン♪と、端末から神聖な確定音が鳴り響いた。
画面に表示されたのは、帝都の法廷監査すらパスする最上位承認印のログと、健太のポケットマネーから支払われた破格の特別チップ。
「な……ッ!? ガオガオンの法廷認証コードに……金貨一枚のチップやと……!?」
ロードの顎が外れそうになる。
「おっちゃん……あんた、一体何者や!? 戦闘力測定値はたったの1馬力……それやのに、竜王や狼王をアパートの店子に従えて、神界の法廷コードをハンコ一本で叩き出しよった……!?」
「ただの管理人ですよ、ポポロ・コーポの佐伯です」
俺は苦笑し、煙草の灰を携帯灰皿へトントンと落とした。
「遠くまで届けてくれたんだ、これくらいのチップは当然の手間賃ですよ。……おや、ロードさん、そのリュックの底に入ってるのは何です?」
「え? あ、これか……」
ロードが配達リュックの底から引っ張り出したのは、タローソンの値引きシールがベタベタと貼られた、プラスチックの弁当容器だった。
中に入っているのは、時間が経って油が白く固まり、ご飯がカピカピになった『照り焼きチキン&ハンバーグ弁当』。
「今日のワテの昼飯用や。タローソンの裏口で店長から貰った廃棄寸前の見切り品なんやけど……朝からぶっ飛ばして走っとったから、すっかり冷え切って脂がカチカチになってもうてな。まあ、冷たいまんま胃袋に流し込むしかないわ……」
しょんぼりと肩を落とすトカゲ人。
その姿を目にした瞬間――前世の総合商社時代、激務の合間にコンビニの冷え切った弁当を掻き込み、胸焼けと胃痛に耐えながら午後の営業へ向かっていた若手時代の俺の記憶が、鮮烈に蘇った。
「ロードさん。……冷え切った固い飯をそのまま食うのは、胃壁に対する明白な虐待だぞ」
「へ?」
「ちょっとその弁当を貸しなさい。現場の総務として、冷飯の放置は見過ごせん」
俺は作業着の袖をまくり上げ、ロードの手からプラスチック容器を受け取ると、管理人室の濡れ縁に置いてあった卓上七輪へ向かった。
「ヒエン君から貰った鋼鉄の万能包丁と、小さなフライパンがある。……ちょっと手を加えれば、冷えた見切り品弁当だって立派な極上飯に化けるんだよ」
俺はフライパンを七輪の炭火にかけ、自生オリーブ草のオイルを薄く引いた。
カピカピになったご飯をパラリとほぐして投入し、泥沼農園から届いた新鮮な肉椎茸の角切りと、ネギオの『ネギカリバー』の小口切りをドサッと合わせる。
さらに、固まっていた照り焼きチキンを一口大に切り分け、天然醤油草の生醤油と、料理酒代わりの太陽芋蒸留酒『イモッカ』を回し入れた。
ジュワワワワワワワッッッッ!!!!
刹那――七輪の上から、焦がし醤油とチキンの香ばしい脂の香りが、爆発的な湯気となって立ち上った!
木べらで手早く煽ると、米の一粒一粒が肉椎茸のエキスを吸い込み、ふっくらと黄金色に輝きを取り戻していく。
仕上げに、七輪の網でハンバーグをサッと炙り直し、表面を香ばしく焼き固めた。
「はいお待ち。『見切り品チキンと肉椎茸の焦がし醤油焼き飯、炙りハンバーグ乗せ』だ。……熱いうちに食いなさい」
どんぶりに山盛りにされた、湯気を立てる熱々の焼き飯。
ロードはゴクリと喉を鳴らし、震える手でスプーンを握りしめた。
山盛りの焼き飯をすくい、口へ放り込む。
ハフッ……もぐっ……。
「………………ッッッッッ!!!!」
噛み締めた瞬間、ロードの全身の鱗が、ブワッ!と心地よい熱気で逆立った!
冷えてパサついていた米が、肉椎茸の濃厚な出汁とネギカリバーの甘みをまとって、まるで炊きたてのようにジューシーに弾ける。
焦がし醤油の香ばしさがチキンの甘辛ダレと完璧に絡み合い、炭火で炙られたハンバーグからは、ジュワッ!と熱い肉汁が溢れ出してくる。
「う……うみゃあぁぁぁぁぁッッ!! なんやこれ! 廃棄寸前の冷えピタ弁当が、王宮の鉄板焼き飯より美味くなっとるやないかいッ!!」
「美味い飯ってのはな、値段じゃないんだよ。温かいものを、腹を空かせた時に食う。それが一番の贅沢さ」
俺が微笑むと、ロードは涙をボロボロとこぼしながら、夢中でスプーンを動かした。
あっという間にどんぶりを空にし、ぬるい陽薬茶を喉へ流し込むと、深い、魂の底からの長い息を吐き出した。
「……ふぅぅぅぅっ。生きてる心地がしたわ……」
ロードは空のどんぶりを置き、トサカをポリポリと掻きながら、まっすぐな瞳で俺を見上げた。
「佐伯のおっちゃん……あんた、ほんまもんの神様やな。……決めたわ。ワテ、これから帝都で旨いもんの注文が入ったら、最優先でこのポポロ村へ時速百キロで届けに来たる! ルナ・イーツの特急指名料もタダでええわ!」
「はは、それは頼もしいな。スピード違反で自警団に捕まらない程度にしてくれよ」
俺とロードが笑い合い、固い握手を交わしたその時――
ガタガタガタッ! ドォォォォンッ!!
中庭の向こう、A棟の共用階段から、頭にタオルを巻いた竜王デュークと、目を真っ赤に充血させた狼王フェンリルが、飯の匂いに釣られてドカドカと降りてきた。
「おい健太! いい醤油の匂いがするぞ、我にもその焼き飯を一杯くれ!」
「オッサン! パチンコで負けて腹ペコなんだよ、一口食わせろぉ!」
「ヒエッッッッッ!?!?!?」
ロードが悲鳴を上げて跳び上がり、倒れていたママチャリを掴んでサドルに飛び乗った!
「ほ、本物の怪獣が二匹も出てきよったぁぁぁッ! 佐伯のおっちゃん、ごちそうさん! ワテ、命が惜しいから逃げるわぁぁぁッッ!!」
キュルルルルルッ!とタイヤを激しくスピンさせ、時速九十キロの爆走で村のゲートへ向けて逃走していくトカゲ人配達員。
俺は青箱のハード煙草をくわえ直し、丸めたルナミス新聞で、押し寄せてきた竜王と狼王の頭をペシッ!ペシッ!と叩いて迎撃した。
「はいはい、騒がない! フェンリルさんは家賃の天引き労働が先! デュークさんは換気扇のフィルターを洗ってからにしなさい!」
秋晴れのポポロ・コーポに響き渡る、いつも通りの騒がしくも温かな怒号と笑い声。
こうして、十万馬力の始祖竜クロノまでもが、昭和の総務課長の「ぬるいお茶とアレンジ炒飯」によって、胃袋を完全に掌握されたのだった。
――だが、その平和な空の下。
ポポロ村の境界線の外側、街道の木陰から、冷酷な眼差しで村の防衛網を観察している二つの怪しい影があった。
全身を純金のメッキ鎧で固め、十五センチのシークレットブーツを履いた男と、怨嗟の泣き声を放つ妖刀を腰に差した剣客。
炎上神ワイズの放ったマッチポンプ劇団の魔の手が、ついにポポロ村のすぐそこまで迫っていたのである。
読んでいただきありがとうございます。
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