EP 4
特注スーツの任侠邪神と、黒鉄のチャカを前にした出前配膳
ギィィィ……と、重々しい油の切れた軋み音を立てて、黒漆塗りの頑丈な引き戸が内側へと引き開けられた。
その瞬間、開かれた隙間から噴き出してきたのは、深淵ダンジョンの冷気など生ぬるいと感じるほどの、肌を刺すような極限の殺気と、濃厚な紫煙の匂いだった。
部屋の奥から漂ってくるのは、最高級のポマードと、血煙、そして火薬の焦げた香り。
背後に控えていた護衛部隊の息が、一瞬で完全に止まった。
「ひ、ヒィィッ……!」
「な、なんだこのプレッシャーは……! 息が……肺胞が押し潰されるっす……!」
フェイトとイグニスが、膝の震えを止められずにその場へペタンとへたり込んだ。
鍛冶ハンマーを握りしめたヒエンでさえ、ガチガチと奥歯を鳴らし、全身の毛穴から冷や汗を吹き出させている。
戦闘力数千馬力から一万馬力級の猛者たちが、ただ「扉が開いた」という事実だけで、本能的な死の恐怖に叩き落とされていたのだ。
だが――俺は背負子のバンドを軽く直すと、作業着の袖口を正し、ぺこりと会釈を一つした。
「ごめんください。ポポロ村役場兼、ポポロ・コーポ管理人の佐伯です。……出前ケータリングのお届けに上がりましたよ」
静寂。
開かれた扉の向こう、薄暗い事務所の奥から、カツ……カツ……と硬質な靴音を響かせて歩み出てきた影があった。
鏡面のように磨き上げられた漆黒のエナメル革靴。
寸分の狂いもなくアイロンが当てられたスラックスに、同色のベスト、そして仕立ての良さが一目で分かる濃紺のジャケット。
神気で精密に編み上げられた、最高級テーラー仕立ての濃紺スリーピーススーツを完璧に着こなした長身の男――
特級更生受刑者、元・惑星創造神にして終焉邪龍、邪神デュアダロスその人だった。
オールバックに撫で付けられた濡れ烏のような黒髪。
彫刻のように整った冷徹な美貌の持ち主だが、その切れ長の双眸の奥には、数万の星々を滅ぼしてきた本物の捕食者だけが宿す、底知れぬ狂気と暴力の闇が渦巻いている。
胸ポケットには純白のシルクチーフが挿され、ネクタイピンの真珠が妖しく光っていた。
そして――男の右手には、鈍い黒光りを放つ無骨な鉄塊が握りしめられていた。
ガシャァァァンッッッッ!!!!
男は事務所の中央に据えられた、樹齢数千年の大樹から切り出された黒漆塗りの一枚板デスクの上へ、手にした『黒鉄の旧式自動拳銃(魔導チャカ)』を力任せに叩きつけた。
空間を穿孔する神気が銃身からバチバチと火花となって飛び散り、事務所の空気がピキピキとガラスのようにヒビ割れる。
「……あぁん? 誰じゃワレェ」
地獄の底から響いてくるような、ドスの利いた重低音。
デュアダロスはデスクの上の革張り社長椅子にドスンと腰を下ろすと、長い脚を組み、三白眼の冷徹な眼光で俺を睨みつけてきた。
「ルチアナのクソ尼公かと思えば……なんやそのツラは。くたびれた作業着に、安物の腕カバー……! 戦闘力測定値、たったの『1馬力』のド底辺のおっさんやないかい! フレアの小娘はどうしたんじゃコラァ! 俺をコケにしとるんかワレェェェッッ!!」
ドンッ!と机が蹴飛ばされ、銃口がスッと俺の眉間へ向けられた。
トリガーにかけられた指先一つで、山脈ごと素粒子に分解されるレベルの神威の圧迫。
背後のフェイトが「ひぃぃっ! 佐伯さん、逃げてぇぇぇ!」と泡を吹いて倒れかけている。
――だが、俺の心拍数は、一拍たりとも乱れていなかった。
前世の総合商社時代、総務部危機管理課長として、暴力団まがいの総会屋や、ドスの利いた声で応接室の灰皿を叩き割る悪質クレーマーを相手に、何十回、何百回と修羅場を踏んできたのだ。
怒鳴り散らし、凶器をチラつかせ、相手を威圧して主導権を握ろうとする手口など、昭和のクレーマーのテンプレ中のテンプレである。
こういう手合いに対して最もやってはならないのは「怯えること」と「反論すること」。
必要なのは――事務的な礼儀正しさと、相手の要求を上回る完璧な段取りの提示だけだ。
「フレアさんは、長年のワンオペ調停業務による過労で今朝倒れました。現在はポポロ村の診療所およびアパートの自室にて、絶対安静の療養中でございます」
「……あぁ?」
「そのため、本日はポポロ・コーポ管理人兼、村役場総務の私、佐伯が代理として差し入れのケータリング業務を引き継ぎました。……三週間もの長きにわたり、定期便が滞りましたこと、管理責任者として深くお詫び申し上げます」
俺は直角四十五度の完璧なビジネスお辞儀をピシリと決めた。
相手が惑星を滅ぼす邪神だろうが、クレーム対応の第一声は「不手際に対する誠心誠意の謝罪」に限る。
デュアダロスの眉が、ピクッと微かに動いた。
銃口を向けられ、一万馬力の邪龍オーラを浴びせられながら、平然と名刺大の礼儀正しさで頭を下げてくる四十男の姿は、神話の凶悪犯にとっても完全に想定外だったらしい。
「……謝罪やと? 口先だけの謝罪で、この三週間の飢えと渇きがチャラになると思うとんのか、オッサン」
「滅相もございません。ですので――言葉ではなく、現物で誠意をお示しいたします」
俺は背負子から、保冷魔導結界を施した特大の木箱をスッと下ろし、畳の上に静かに置いた。
そして、作業着の袖をまくり上げると、淀みのない流れるような所作で作業を開始した。
「ヒエン君、卓上七輪の炭に火を熾しなさい。イグニス、換気扇の魔導ファンを回せ。フェイト、折りたたみテーブルを拭いてクロスを敷け」
「「「へ、へいっ!!」」」
呆気にとられていた三人が、俺の現場監督ボイスに弾かれたように動き出す。
俺は木箱の中から、手早く道具と食材を取り出していった。
まずは、タローマン特製の極厚ドンガン耐熱鉄板を七輪の上へセット。
そこへ、保冷紙に包まれた極上のブロック――高原の純白バッファローの生乳を三年熟成させた、幻のハードチーズ『ドンガン・パルミジャーノ』を惜しげもなく極厚に切り分け、鉄板の上へ並べた。
ジュワワワワワワワッッッッ!!!!
刹那――事務所の中に、暴力的なまでの香ばしい香りが立ち込めた。
表面が強火の遠火で瞬時にきつね色に焼き固められ、カリカリの焦げ目を形成していく。
さらに俺は、携帯用の小型魔導バーナーを右手に構えると、チーズの上面へ向かって細く絞った青い火炎を一気に吹き付けた。
ボオォォォッ! パチパチパチッ!!
焦がしチーズ特有の、ナッツを燻製にしたような濃厚で甘やかなアロマ。
表面はカリッカリのクリスピー、そして内側からは、熱によってトロットロに溶け出した純白のミルクの脂が、マグマのようにぷくぷくと泡を噴き上げて溢れ出してくる。
「な……っ!?」
デュアダロスの喉仏が、ゴクリと音を立てて上下した。
だが、俺の手は止まらない。
隣のコンロに小さな鋳鉄鍋を乗せ、村特産のオリーブ草から引いたピュアオイルを注ぎ入れる。
そこへ、道中で採取したばかりの無臭スタミナニンニク『ガーリッ君』の薄切りと、泥沼農園の肉厚な肉椎茸、そして奇樹ネギオから届いた聖葱剣『ネギカリバー』の極太スライスを惜しみなく投入した。
仕上げに、先ほど岩肌の割れ目から摘み取ってきた野生の『醤油草』をパラパラと散らし、ドンガン岩塩をひとつまみ。
グツグツグツグツッ……!! ジュワァァァッ!!
オイルの海で踊る、肉椎茸とネギカリバー。
キノコの濃厚な出汁エキスとネギの甘みがオイルに溶け出し、ガーリッ君の香ばしさと醤油草のキレのある塩気が合体して、抗いようのない「夜の酒のアヒージョ」が完成していく。
「……お待たせいたしました、デュアダロス様」
俺は黒漆デスクの上に、耐熱敷布を敷き、熱々の焼きチーズ皿と、グツグツと煮え立つ肉椎茸のアヒージョ鍋をコトッと置いた。
さらに、木箱の底から取り出したのは――
ルナミス帝国北部で百年以上熟成された、幻のフルボディ赤ワイン『グラン・ルナミス・レセルバ』のボトル。
ソムリエナイフで手早くコルクを抜き放つ。
ポンッ、と心地よい開栓音が響き、濃密なカシスとオーク樽の芳醇なブーケが立ち上った。
俺は持参した大ぶりのワイングラスへ、深紅の液体をとろりと注ぎ分け、ボトルのラベルを正面へ向けてスッと差し出した。
「ご指定の、百年熟成フルボディ赤ワインにございます。……冷え切った身体に、まずは一杯どうぞ」
「………………」
デュアダロスは無言のまま、机の上の自動拳銃から手を離した。
細長い指先が、グラスの脚を静かに包み込む。
グラスを軽く回し、香りを確かめると、そのまま口元へ運び、ゆっくりと喉へ流し込んだ。
ゴクリ……。
「………………ッッッ!!!!」
一口含んだ瞬間、邪神の眉間の険しい皺が、ふっと消え去った。
重厚なタンニンと、三百年分の怨嗟すら洗い流すような芳醇な果実味。
すかさず、デュアダロスはフォークを伸ばし、表面がキツネ色にカリカリに焦げたドンガン・パルミジャーノを一切れ千切り、口へ放り込んだ。
ハフッ……もぐっ……。
「………………ッッッッッ!!!!」
噛み締めた瞬間、カリッ!とした心地よい食感とともに、中から濃厚極まりないミルクの旨味と塩気が、津波のように口いっぱいに広がった。
熟成されたチーズのアミノ酸の結晶が舌の上でジャリッと弾け、赤ワインの重厚な渋みと悪魔的なマリアージュを奏でる。
続いて、スキレットから熱々の肉椎茸とネギカリバーをオイルごとすくい、口へ運ぶ。
ジュワッッッッッ!!!!
キノコとは思えない、分厚いハラミ肉のようなジューシーな弾力。
野生の醤油草が油っぽさを完璧に引き締め、ネギカリバーの甘みが後味を爽快に駆け抜けていく。
たまらず、再び赤ワインをゴクリと煽る。
「……ぷはぁっ」
深紅のワインを飲み干したデュアダロスは、グラスを机の上にカツンと置いた。
その顔から、先ほどまでの荒れ狂うような殺気は完全に霧散していた。
胃袋を満たす圧倒的な美味と温もりの前に、数千年の怨念を抱えた邪神の毒気が、綺麗さっぱり抜け落ちていたのだ。
「……おい、オッサン」
「はい、何でしょうデュアダロス様」
「……名前は、何ちゅうたんや」
「佐伯健太と申します。ポポロ・コーポの管理人室におります」
俺が淡々と答えると、デュアダロスは口元をフッと不敵に歪めた。
だが、その瞳の奥には、確かな敬意と満足の色が宿っていた。
「佐伯、言うたんか。……見事な手際やないかい。この俺の喉元にチャカを突きつけられて、眉一つ動かさんと熱々のチーズとワインを完璧な温度で出してきよった。……大したタマやぞ、ワレ」
「恐縮です。……ですがデュアダロス様、おもてなしはこれだけではございませんよ」
俺は背負子の中から、分厚い革張りのバインダーを両手で恭しく取り出した。
そして、黒漆デスクの上へ、ドンッと丁寧に差し出した。
「過去三週間分の『ルナミス新聞』競馬欄全レース結果、ならびに各レースの血統・展開・オッズ推移の分析スクラップ帳にございます。……赤ペンで、注目馬の脚質と次走への見解を書き添えておきましたので、ワインのお供にどうぞ」
「な……ッ!?」
バインダーの表紙をめくった瞬間、邪神デュアダロスの黄金の瞳が、今日一番の衝撃で見開かれた。
そこに並んでいたのは、ただ新聞を束ねただけではない――
昭和の現場課長が深夜の残業で培った、完璧なインデックスとグラフ、そして赤ペンでビッシリと書き込まれたプロ顔負けの競馬予想データだったのだ。
「こ、これは……ッ!?」
任侠邪神の喉から、歓喜と感嘆の呻きが漏れ出ようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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