第五章 深淵ダンジョンの任侠受刑者〜特注スーツの邪神に焼きチーズと競馬新聞を〜
ワンオペ調停ママの過労倒壊と、永遠の十七歳問診票
どれほど強大な神話の怪物が住まう魔境であっても、夜が明ければ朝のゴミ出し時間はやってくるし、過密スケジュールで働き続けた労働者の身体は、ある日突然プツリとブレーカーが落ちるように沈黙する。
午前七時整。
木造モルタル三階建てアパート『ポポロ・コーポ』の敷地内に、晩秋の凛とした朝風が吹き抜けていた。
俺――佐伯健太(四十二歳・戦闘力1馬力)は、愛用の作業着の袖をまくり、管理人室の濡れ縁で朝のルーティンをこなしていた。
まずは保温水筒から、人肌温度(三十七度五分)に保たれた黄金色の「ぬるい陽薬茶」を湯呑みにトクトクと注ぎ、ズズッと喉へ流し込む。
胃袋の奥底からじんわりと温もりが広がり、五臓六腑が穏やかに目を覚ましていく感覚。
続いて、作業着の胸ポケットから天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』を取り出し、二粒をポリポリと奥歯で噛み砕いた。
ちゃぶ台の上には、先ほど平らげた朝飯の膳。米麦草のホカホカ炊きたて白飯に、泥沼農園の肉椎茸の軸を刻んで出汁を取った豆腐と油揚げの味噌汁、そしてネギオから届いた聖葱剣『ネギカリバー』の小口切りを山盛りに乗せた卵かけご飯の器が、綺麗に空になっていた。
「……ふぅ。よし、今日も異常なしだな」
青箱のハード煙草にジッポライターで火をつけ、紫煙を青空へと燻らせる。
胸ポケットの中では、ウサギ村長キャルルから託された『人参柄刺繍ハンカチ』が、俺の安定した心音を感知して、トクン……トクン……と穏やかな微振動を伝えてきていた。
昨晩の女子棟での朝倉月人MV鑑賞会の大騒ぎも嘘のように、アパート全体は極めて静まり返っている。
三大国の胃痛持ち実務者たちとは月一回のサウナ定例協定を結び、ゴルド商会のオロチ会長とは対等なライブコマース契約を締結した。
現場の総務課長として、これほど段取り通りに物事が片付いた朝は前世のサラリーマン時代を通しても記憶にない。
今日こそは、午前中にアパートの外壁のモルタル補修をのんびりこなして、午後は定時退勤からのサウナ三昧といきたいところだった。
――ガタガタガタッ! ドォォォォォンッ!!
突如として、女子棟(B棟)一階の共用廊下から、床板が抜け落ちんばかりのけたたましい足音が響いてきた。
続いて、管理人室の引き戸が、ガララッ!と音を立てて力任せに開け放たれる。
「佐伯さぁぁぁぁぁんッッ!! た、助けてくれぇぇぇッ!!」
飛び込んできたのは、ポポロ・コーポA棟二〇一号室の住人、若き半神鍛冶師のヒエン(二十歳)だった。
普段は無口で実直、鍛冶仕事に命を懸ける硬派な好青年が、いまや顔面を土気色に染め上げ、目からボロボロと大粒の涙をこぼしながら俺の作業着の裾にすがりついてきたのだ。
「おいおいおい、どうしたヒエン君。朝っぱらから取り乱して……鍛冶場の炉でも吹き飛んだのか?」
「炉じゃねぇ! お袋だ……お袋が、部屋で真っ白になって倒れてんだよぉぉぉッ!!」
ヒエンの絶叫に、俺の眉根がピクリと跳ね上がった。
ヒエンの母親――B棟一〇一号室の住人にして、世界調停者の一角『不死鳥フレア』。
神話の三巨頭に数えられ、全身に消えることのない不滅の紅蓮炎を宿すはずの、あのワンオペママが倒れたというのか。
「……案内しなさい。すぐ行くぞ」
俺は吸いかけの煙草を携帯灰皿へねじ込むと、愛用の『厚底ゴム底・来客用便所スリッパ(抗菌・茶色)』をサンダル代わりに突っ掛け、工具箱と魔法水筒をひっつかんで女子棟へと走った。
*
女子棟一階、一〇一号室。
ドアを開けた瞬間、俺の鼻腔を突いたのは、焦げ臭い煙ではなく――過労死寸前のオフィス特有の、あの「焦燥と湿布と、極限まで焼き切れたマナの放電臭」だった。
「フレアさん!」
六畳間の万年床の上で、仰向けになって倒れていたのは、真紅の長髪を部屋いっぱいに散らした美女、不死鳥フレアだった。
普段なら全身から神々しいまでの紅蓮の炎をチラチラと立ち上らせているはずの身体から、まるで燃え尽きた炭のように熱気が完全に失われている。
顔色は青白く透き通り、両目の下には漆黒の三重の隈。
口の端からは「ぷしゅぅぅぅ……」と弱々しい灰色の煙が漏れ出し、頭頂部のアホ毛が力なくヘタリと折れ曲がっていた。
枕元には、大陸各地から届いた緊急調停要請の羊皮紙が数十通、そして飲み干された栄養ドリンク魔導アンプルの空き瓶が、山のように散乱している。
「母さん! しっかりしろ母さんッ!」
ヒエンが駆け寄り、フレアの冷え切った手を握りしめて叫ぶ。
「今朝、朝飯の雑炊を持って様子を見に来たら、この状態だったんだ……! 呼びかけても『太郎ぉ……もう無理ぃ……有給くれぇ……』ってうわ言を呟くだけで、全然起き上がらねぇんだよ!」
「……典型的な過労倒壊だな」
俺は作業着の袖をまくり、フレアの額にそっと手のひらを当てた。
体温が異常に乱高下している。過酷なワンオペ労働によって生体魔導炉がオーバーヒートを起こし、自律神経が完全に焼き切れていた。
――ユニークスキル『管理人権限(室内環境保全プロトコル)』発動。
――対象区画:ポポロ・コーポB棟一〇一号室。
――事象:入居者の極度衰弱に伴う【絶対室温安定および精神鎮静結界】を展開します。
キィィン……と淡い白銀の光が部屋全体を包み込み、乱れていた室内の空気が、春の陽だまりのような優しい温度(二十四度)へと整えられていく。
フレアの荒い息遣いが、わずかに落ち着きを取り戻した。
「ヒエン君、村の診療所のドクターへ往診の要請は出したのか?」
「だ、出した! 自警団の詰所経由で連絡して、問診票の用紙を渡されたんだが……っ!」
ヒエンが震える手で、一枚の公的書類を俺の目の前へ突き出してきた。
ポポロ村診療所指定の『緊急往診・生体カルテ事前問診票』である。
そこに並んでいた記載内容を目にした瞬間――俺の視界が、強烈な脱力感でクラリと揺らいだ。
【氏名】:フレア・フェニックス
【種族】:神鳥・不死鳥族
【主訴】:全身の倦怠感、精神疲労、燃焼不全、世界への絶望
【年齢】:17歳♡
「………………」
俺は老眼鏡を鼻先にかけ、赤ペンを構えたまま無言でヒエンを見つめた。
ヒエンは両手で頭を抱え、床をバンバンと殴りつけながら絶叫した。
「これだよ!! このふざけた問診票のせいで、ドクターが『おいおい、二十歳の息子のヒエン君がいるのに母親が十七歳ってどういう冗談だ? 書類不備で受理できんぞ』って受付を弾いて往診に来てくれねぇんだよぉぉぉッ!!」
「……息子の年齢が二十歳で、母親の自称が十七歳か」
「どう考えてもおかしいだろ!! 母さんの理屈だと、俺の方が三歳年上の先輩になっちまうじゃねぇか! なんで息子が母親を『フレア先輩』って呼ばなきゃいけねぇんだ! 親父が生きてた頃から『私は永遠の十七歳だから♡』って言い張って、三百年以上も年齢詐称を貫き通してやがるんだぞ!!」
泣きながら吠える孝行息子。
前世の総合商社時代にもいたのだ。社内運動会のエントリーシートで、どう見ても勤続三十年のベテラン女性社員が「二十四歳」と頑なに書き続け、人事部のデータ照合システムをフリーズさせていたあの地獄の光景と完全に一致している。
「うぅ……太郎ぉ……」
万年床の上で、フレアが意識を混濁させながら、虚空へ向かって弱々しく手を伸ばした。
「私……頑張ったよ……。西の森のスタンピードを一人で焼き払って……東の海竜の産卵期を宥めて……帝都の貴族の遺産相続の調停まで押し付けられて……。寝てないの……三週間、一睡もしてないのぉ……。誰か……誰か代わってぇぇ……」
神話の三巨頭と恐れられ、地上に降り立てば国が一つ平伏するレベルの最高位霊獣が、ただのブラック企業でボロボロになった派遣社員のように咽び泣いている。
竜王デュークは頑固にラーメンの豚骨を煮込み続け、狼王フェンリルはパチンコ屋で確変を追って自堕落に暮らし、五聖獣は社内恋愛の痴話喧嘩で出社拒否を起こしていた。
そのすべてのツケが、真面目で責任感の強いこの母親神の細い肩に、一手に押し付けられていたのだ。
「……ヒエン君」
「は、はいっ!」
「ドクターの問診票は、俺が役場の総務補佐官として『特例免除・公務災害認定』の裏書きをして通してやる。年齢欄は『不詳(神話級公務員特例)』で処理するから安心しなさい」
俺は作業着の胸ポケットからインク内蔵式の三文判(佐伯)を取り出し、問診票の欄外へポンと力強く押し込んだ。
白銀の光が走り、ガオガオン法廷OSの認可シールが焼き付けられる。これでもう、どこの役人や医師も文句は言えない。
「さあ、ヒエン君。台所へ行って、母さんのために消化のいい滋養食を作るぞ。空きっ腹のままじゃ、どんな高位ポーションも胃壁を荒らすだけだ」
「う、うすっ! 佐伯さん、俺、何を作ればいい!?」
「胃を温める雑炊だ。……泥沼農園の肉椎茸と、ネギオのネギカリバーを刻みなさい。炎の神鳥の胃袋を、内側から優しく再点火してやる」
*
三十分後。
一〇一号室の小さなちゃぶ台の上に、湯気を立てる素朴な漆塗りの椀が置かれた。
俺とヒエンが手分けして仕込んだ、特製の『肉椎茸とネギカリバーの鶏卵月見雑炊』である。
米麦草の白米を、肉椎茸の戻し汁と昆布草の出汁でコトコトと煮込み、すりおろした生姜をひと匙。
仕上げに、ネギカリバーの極太の白い茎を小口切りにして散らし、新鮮な平飼い卵をとろりと回し入れて半熟に蒸らし上げた一品だ。
立ち上る、暴力的なまでに優しい出汁と生姜の香気。
さらに、保温水筒から注ぎ分けた人肌温度(三十七度五分)の「ぬるい陽薬茶」が、湯呑みからふわりと素朴な薬草の湯気を立てている。
「フレアさん。……聞こえますか、フレアさん。飯ですよ」
俺が優しく声をかけ、ヒエンが背中を支えて上半身を起こしてやる。
フレアの焦点の合わない瞳が、ぼんやりと椀から立ち上る湯気を捉えた。
ヒエンが木匙にひと口すくい、フーフーと息を吹きかけて母の唇へ運ぶ。
はふっ……ちゅるっ……。
「………………ッッッ!!!!」
その瞬間、フレアの青白かった頬に、ポッと微かな紅潮が差した。
熱すぎず、冷たすぎない、完璧な人肌のぬるさ。
肉椎茸の滋味深いアミノ酸エキスが、すりおろし生姜の温もりとともに、干からびて冷え切っていた胃壁を優しく撫で下ろしていく。
とろりとした卵の甘みと、ネギカリバーの鮮烈なシャキシャキ感。
喉を通るたびに、張り詰めていた神経の結び目がほどけ、全身の毛細血管へと暖かなマナがスルスルと行き渡っていくのが分かった。
「あ……温かい……。お腹の奥が……ポカポカする……」
「母さん……!」
「ほら、お茶も飲みなさい。胃薬も後で飲ませてやるからな」
俺が差し出した湯呑みを受け取り、フレアは両手で包み込むようにしてぬるい陽薬茶を啜った。
ズズッ……ズズズッ……。
「ふはぁぁぁぁぁぁっ……」
深い、魂の底からの吐息。
折れ曲がっていた頭頂部のアホ毛が、ピコーンッ!と元気よく立ち直り、フレアの背中から淡く美しい紅蓮の神聖光がフワリと立ち昇った。
完全なる生命力の再点火。
フレアは椀を抱きしめたまま、ボロボロと大粒の涙を零した。
「う……うわぁぁぁんッ! 太郎ぉ……じゃなくて、佐伯さん……っ! 美味しいよぉぉぉ! こんなに温かいご飯食べたの、何年ぶりか分からないよぉぉぉッ!!」
「大袈裟だな。ただのあり合わせの雑炊ですよ。……フレアさん、あんたは仕事を抱え込みすぎだ。神鳥だろうがなんだろうが、飯を食って寝なきゃ死ぬのは人間と同じなんですよ」
「ぐすっ……うん、うん……っ」
フレアは泣きながら木匙を動かし、あっという間に雑炊の椀を空にした。
顔色には見違えるように血色が戻り、危険な脱水状態は完全に脱したようだ。
ヒエンが「よかった……本当によかった……!」と胸を撫で下ろす。
だが――現場の総務課長としての俺の仕事は、病人を看病して終わりではない。
本人が倒れたことによってストップしている「業務の滞留」を洗い出し、現場の穴埋めをすることこそが、真の危機管理だ。
「……さて、フレアさん」
俺は作業着の胸ポケットから手帳を取り出し、散乱していた書類の束を指差した。
「身体が少し楽になったところで聞きますがね。……あんたが倒れたことで、今日締切の業務や、滞っている現場はあるか? あるなら、俺が代理で片付けておくが」
「えっ……? だ、代わりって……佐伯さん、戦力1馬力なのに……?」
フレアが目を丸くして涙を拭う。
だが、その瞬間――フレアの表情が、ハッとしたように凍りついた。
顔面から、再びスッと血の気が引いていく。
「あ……あぁ……っ!! し、しまっ……忘れてたぁぁぁぁぁッッ!!」
「おいおい、なんだ? 何を思い出したんだ?」
フレアはガタガタと震え出し、敷布団の上で頭を抱えて縮こまった。
「き、金曜日……! 今日、毎週金曜日の朝は……あの人の……『定期差し入れ便』の納入日だったのぉぉぉッ!!」
「あの人……?」
ズズズズズズズズッ……!!
ドォォォォォォンッ! ドォォォォォンッ!
フレアの悲鳴と、完全にシンクロするように。
ポポロ村の背後にそびえる未踏山脈の地下深く――数千メートルの地底から、ポポロ・コーポの木造モルタルの基礎を激しく揺さぶる、凄まじい地鳴りが鳴り響いた。
窓ガラスがビリビリと激しく震え、部屋の蛍光魔導管がチカチカと点滅する。
そして――大気の底を伝って、ドスの利いた、怒髪天を衝く怒号の咆哮が、地響きとともに木霊してきたのだ。
『……おいフレアぁぁぁッ!! 飯はどうした! ルナミス新聞の競馬欄はどうなっとんじゃコラァァァッッ!!』
『ルチアナのクソ尼公! ワインと葉巻と焼きチーズを差し入れろとあれほど言っただろうが! 囚人の人権を無視する気かぁぁぁッッ!!』
「ヒエッッッッッ!?!?!?」
フレアは掛け布団を頭からすっぽり被り、震え声で絶叫した。
「邪神デュアダロス様だよぉぉぉッ!! 未踏ダンジョン最深部の特級更生受刑者……元・世界神のインテリヤクザ邪神!! 私、ここ三週間ずっと倒れてて差し入れに行けてなかったの! あの人、冷蔵庫が空っぽになって競馬新聞も読めなくなって、極度の禁断症状でダンジョンの結界を蹴っ飛ばして大暴れしてるんだよぉぉぉッ!!」
「……なるほどな」
俺は青箱のハード煙草を取り出し、ジッポライターでカチリと火をつけた。
紫煙を燻らせながら、大きく揺れる天井を静かに見上げる。
前世のビルメン時代にもいたのだ。
エレベーター点検の遅れで朝刊が届かなかっただけで、管理室のインターホンを狂ったように連打して怒鳴り込んできた、最上階の気難しい大口オーナーが。
「要するに……長期入居者のルームサービスが滞って、クレームの嵐になってるわけだな」
「る、ルームサービスなんて生易しい相手じゃないよ佐伯さん! 相手は星を一つ更地にできる惑星崩壊級の終焉邪龍なんだよ!? 神気仕立ての特注スーツを着た凶悪犯なんだよぉぉぉッ!!」
「どんな大物だろうが、腹が減って競馬新聞が読めなきゃ機嫌が悪くなるのは当たり前だ。……フレアさん、あんたは大人しく寝てなさい」
俺は煙草の灰を携帯灰皿へ落とすと、作業着の袖を肘までまくり上げた。
瞳の奥に宿るのは、理不尽なカスハラ客を数え切れないほど手懐けてきた、元・総務部危機管理課長の冷徹な光。
「ヒエン君、タローマートへ行くぞ。最高級の赤ワインと、極太のポポロシガー、それにこんがり炙った焼きチーズの材料を買い込む。……その特級受刑者とやらへ、昭和の出前デリバリーを叩き込みに行ってやる」
魔境ポポロ村の地下深く、最凶の任侠邪神が待ち受ける深淵ダンジョンへの「極秘慰問作戦」の幕が、いま静かに上がろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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