EP 9
極熱ロウリュとマイナス茄子水風呂! サウナの中で結ばれる実務者不戦条約
どれほど強大な軍事力を誇る大国の首脳陣であろうと、大陸の富を牛耳る守銭奴の怪獣商人であろうと、身に纏う豪奢な衣服を脱ぎ捨て、腰巻きタオル一枚になってしまえば、ただの「胃と肝臓を痛め抜いた中年男」に過ぎない。
午後八時整。
秋の冷たい夜風が吹き抜けるポポロ・コーポ一階、併設大浴場。
脱衣場の棚には、ルナミス帝国の漆黒トレンチコート、獣人王国のハンティング革ジャケット、アバロン魔皇国の豪奢な貴族服と四天王の溶岩胸当て、そしてゴルド商会オロチ会長の純金箔織りスーツが、行儀よく並んで収められていた。
洗い場で入念に身体を洗い流した五つの影が、湯気をかき分け、浴場の最奥に鎮座する重厚な丸太小屋へと吸い込まれていく。
ギィ……と木製の扉を開けた先。
元・氷魔将軍スアイが開拓村のノウハウを注ぎ込み、ドンガン重工製の頑丈な耐熱レンガで組み上げた、本格フィンランド式薪サウナ小屋。
室温、きっかり九十四度。
薪ボイラーの炉の中で、ポポロ山の赤松の薪がパチパチと爆ぜ、心地よい木の薫香が充満している。
「……ふぅぅぅぅぅっ」
上段のベンチに腰を下ろしたのは、帝国のオルウェル内務官と、獣人国のサイラス内務官。
下段には、魔皇国のルーベンス宰相と、二本の猛々しい黒角を持つ炎魔将軍グレン。
そして中央の特等席には、突き出たビール腹にタオルを乗せたゴルド商会のオロチ会長が、ドスンと胡坐をかいていた。
それぞれが自国では「冷酷な秘密警察の鬼」「研ぎ澄まされた猟犬」「怜悧な冷血宰相」「一万馬力の破壊神」「経済怪獣」と恐れられているはずの面々である。
だが今、彼らの顔にあるのは、連日の激務と無理難題の板挟みで擦り減った、隠しようもない中年男の疲労と哀愁だけだった。
「……オルウェル殿」
サイラスが黒い犬耳を熱気でペタリと伏せ、低い声で呟いた。
「……何だ、サイラス殿」
「貴殿のその背中……肋骨のあたりに、紫色の痣が三つあるな。……帝都の暗殺部隊との死闘の痕か?」
「フッ、買い被るな。……先週、マルクス皇帝陛下が『自省録』の新しい解釈を思いついたとて、深夜二時に執務室へ呼び出されたのだ。睡魔に耐えかねて舟を漕いだ瞬間、陛下の振り回した分厚い革装丁本が直撃した跡だ……。貴殿のその左腕の引っ掻き傷こそ、敵対部族の魔獣の爪痕か?」
「……獣王アーサー様のプロテインの粉末を買いに走った際、筋肉バカの親衛隊どもと『どの銘柄が一番上腕二頭筋に効くか』で掴み合いになった名誉の負傷だ。……情けなくて涙も出ん」
ボソボソと言葉を交わす二人のエリートの額から、じっとりと大粒の汗が滲み出してくる。
そこへ、下段のグレンが分厚い胸板を撫で下ろし、深いため息を吐いた。
「二人とも、まだ物理的な打撃で済んでいるだけマシだぞ。……我が主ラスティア様など、地球のアイドル朝倉月人君の限定生配信を見るためだけに、魔王城の通信回線の帯域を九割占拠しおったのだ。財務省のサーバーが落ち、決済処理がストップして泣き叫ぶ部下たちを前に、私がどれほど電卓を叩いて胃酸を吐いたか……」
「グレン、その話はやめてください。……思い出すだけで、私の十二指腸が再び痙攣を始めます……」
ルーベンスがモノクルの外れた涼やかな目元を押さえ、苦悶の声を漏らす。
その横で、オロチ会長が首の肉を揺らしながら、太い溜息を吐き出した。
「どいつもこいつも、上の無茶振りに殺されかけとるがね……。わしもだて。帝都の貴族どもに金貨を貸し付けりゃあ踏み倒されそうになり、ゴッドチューブのアルゴリズムが変わるたびに流通在庫の山を抱え……毎晩、魔導拳銃を枕の下に敷いて寝とるんだわ。金はあるのに、ちっとも安眠できやせん……」
室温九十四度の密室に充満する、五つの国家と組織を裏で支える者たちの、救いようのない本音と怨嗟。
――その時だった。
ガチャリ。
サウナ小屋の扉が開き、腰に白いタオルを巻いた四十男が、木製の桶と柄杓を手に静かに入ってきた。
俺――佐伯健太(四十二歳・戦闘力1馬力)である。
「皆さん、いい感じに温まってますね。……そろそろ行きますよ」
「お、佐伯さん……! それ、何の桶だしゃん?」
オロチが目を丸くする。
俺が抱えてきた木桶に満たされているのは、今朝、奇樹ネギオから届いたばかりの芳香薬草液だった。
聖葱剣『ネギカリバー』の先端から抽出した清涼な芳香成分と、ポポロ山特産の陽香草をブレンドし、天然の地下水で煮出した特製のアロマ水である。
「ロウリュですよ、ロウリュ。……男の愚痴ってのはな、言葉で吐き出すだけじゃ足りないんです。全身の毛穴から、濁った汗と一緒に強制排出するのが一番効くんですよ」
俺は柄杓にアロマ水をすくい、ストーブの上で赤々と熱されたサウナストーンの山へ、迷いなく注ぎかけた。
ジュワワワワワワワァァァッッッ……!!
刹那――爆発的な蒸気の白煙が立ち昇り、サウナ小屋の天井を舐めるようにして旋回した。
ミントと柑橘を足したような、鮮烈にして力強い薬草の香気。
そして――
――ユニークスキル『管理人権限(温浴施設衛生環境保全プロトコル)』発動。
――事象:サウナ室内の疲労物質および精神的毒素の【超速蒸散・代謝促進】を執行します。
俺は持参した特大の乾いたバスタオルを両手で構えると、頭上でブンッ!と回し、男たちへ向けて力任せに振り下ろした。
バサァァァッッッ!!
熱波の暴風が、五つの巨躯を真正面から直撃した。
「ぐほぉぉぉぉぉっっ!?」
「あ、熱い……! だが……何だこの熱気は……ッ!?」
「毛穴が……毛穴という毛穴が全開になって、ドス黒いヘドロのような汗が噴き出してくるぅぅぅッ!!」
オルウェルが、サイラスが、ルーベンスが、グレンが、そしてオロチが、揃って悲鳴にも似た歓声を上げた。
容赦なく叩き込まれる百五十度の体感熱波。
だが、ただ熱いだけではない。
ネギカリバーのエキスを含んだ蒸気が皮膚から浸透するたびに、徹夜で硬直していた僧帽筋が、電卓を叩きすぎて強張っていた指先が、そして何百回と胃薬を流し込んできた胃壁の芯が、熱によってドロドロに融解していくのが分かる。
「どえりゃあ効くがねぇぇぇッ!! 身体の中の悪銭が、全部汗になって流れ落ちていくようだてぇぇぇッ!!」
オロチ会長が叫び、滝のような汗がベンチの床を濡らす。
十二分計の砂時計が、サラサラと音を立てて最後の砂を落としきった。
「……よし、全員限界だな。水風呂へ行くぞ! 掛け湯を忘れるなよ!」
「「「「「うおおおおおおおおっ!!」」」」」
サウナ小屋を飛び出した男たちは、掛け湯で汗をしっかりと流すと、露天スペースに設えられた巨大な岩風呂へと雪崩れ込んだ。
*
夜風が吹き抜ける露天風呂エリア。
そこにある岩風呂の水面には、濃紺に光る巨大な怪異作物がゴロゴロと浮かんでいた。
元・氷魔将軍スアイが開拓村で栽培した、熱吸収魔導器官を持つ極冷作物――『マイ茄子(氷点茄子)』である。
水温、きっかり十一度。
ポポロ山の雪解け地下水が常に掛け流され、茄子の超冷気によってキンキンに冷却された、男たちの天国への入り口。
「いくぞ! 飛び込めぇッ!」
ザパァァァァァァァンッッッッ!!!!
五つの巨躯が一斉に水風呂へ肩まで浸かった。
「………………ッッッッッッッッ!!!!」
誰一人、言葉を発することができなかった。
火照りきった皮膚の表面を、一瞬で純白の氷の羽衣が包み込む感覚。
狂ったように波打っていた心拍数が、十秒、二十秒と経つごとに、大地の鼓動と同じ静寂なリズムへと減速していく。
気管の奥底へ、透き通った夜の冷気がスーッと通り抜けていく。
マイ茄子の放つマイナスイオンが、過負荷で焼き切れかけていた五人の脳のシナプスを、一片のノイズも残さず急速冷却していく。
――一分後。
水風呂から上がった男たちは、ふらつく足取りで露天スペースのウッドデッキに並べられた、木製のととのい椅子へと深く身体を沈めた。
サァァァァッ……と秋の夜風が、濡れた肌を優しく撫でていく。
頭の奥が、ポワァァァァン……と温かい黄金の光に包まれるような圧倒的浮遊感。
手足の先がジンジンと心地よく脈打ち、視界に広がる星空が、まるで万華鏡のように優しく瞬いていた。
――完全なる、ディープ・リラックス。
世界を動かす実務トップたちが、人生で初めて体験する「至高のととのい」だった。
「……あ」
オルウェルが、虚空を見つめたまま呟いた。
「……帝国が……どうでもよくなってきた……」
「……わかる」
サイラスが椅子にだらしなく沈み込み、尻尾をだらりと垂らした。
「……プロテインの予算など……どうでもよい……。私は今……風と……星と……一体になっている……」
「……魔王城の書類も……燃えてしまえばいい……」
ルーベンスが口元から魂の抜け殻のような泡を吹き、グレンは二本の角から微かな湯気を上げながら「佐伯殿……ここが天界かしゃん……」とオロチの名古屋弁をうつされていた。
その五人の横へ、湯上がりの作業着ズボンと半纏を羽織った俺が、ガラガラと木製ワゴンを押して歩み寄ってきた。
「はい、お疲れさん。……水分補給ですよ」
ワゴンに乗せられていたのは、氷をギチギチに詰めた特大の陶器ジョッキと、茶色のボトル。
ポポロ村特産の太陽芋蒸留酒『イモッカ』を、タローソン特製の強炭酸水で割り、仕上げにネギオの『ネギカリバー』の極薄輪切りと、レモンハーブを浮かべた――『極冷イモッカ・ネギソーダ』である。
シュワシュワシュワ……と弾ける気泡が、サツマイモの香ばしいアロマを夜風に乗せて運んでくる。
さらに、つまみとして運んできたのは、七輪の炭火でこんがりと炙った肉厚な肉椎茸の素焼き。
ドンガン岩塩をパラリと振り、醤油草の天然醤油を数滴垂らしただけの、シンプル極まりない一皿だ。
「ほら、乾杯しましょう。ととのった後の最初の一口は、どんな高級酒よりも美味いぞ」
五人は夢遊病者のように椅子から起き上がり、震える手で冷え切ったジョッキを掴み取った。
「「「「「かんぱーーーーいっッッ!!!!」」」」」
ゴツンッ!と重厚な陶器がぶつかり合う。
男たちは迷わず、ジョッキに口をつけて一気に喉へと流し込んだ。
ゴクリ、ゴクリ、ゴクリ、ゴクリ……ぷはぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!
「………………ッッッッッ!!!!」
サウナで極限まで水分を絞り出し、マイ茄子水風呂で研ぎ澄まされた五臓六腑へ、強炭酸の刺激と力強いアルコールの旨味がダイレクトに染み渡っていく。
ネギカリバーの清涼な苦味がアルコールの角を完全に消し去り、後味は驚くほど爽やかだ。
すかさず、箸で熱々の炙り肉椎茸を口へ放り込む。
ジュワッッッッッ!!!!
噛み締めた瞬間、口の中でキノコの濃厚な出汁エキスが決壊した。
肉厚な弾力はまるで上質なロース肉のようで、岩塩と焦がし醤油の香ばしさがその旨味を限界まで引き立てている。
たまらず、冷えたイモッカ・ソーダで追いかける。
「う、うみゃあ……!! なんちゅう美味さだてぇぇぇッ!!」
オロチ会長がジョッキを握りしめ、ボロボロと大粒の涙をこぼした。
「サウナで汗かいて……冷たい水に入って……星空の下でこんな美味い酒とキノコを食う……! わしは……わしは何のために今まで金を数えてきたんや……! この一杯のために生きてきたんやにゃあか……ッ!!」
「……全くだ」
オルウェルが眼鏡を外し、涙で濡れた目元を拭った。
「帝国の陰謀も、領土の拡張も……このジョッキの泡の前には、あまりにも矮小で下らん茶番に思えてくる……」
「うむ……」
サイラスも、ルーベンスも、グレンも、深く、心底からの納得の息を吐き出していた。
そこへ、燕尾服を着た人狼執事リバロンが、銀のトレイに一枚の分厚い羊皮紙を乗せて音もなく歩み寄ってきた。
手帳の銀時計をパチンと閉じ、完璧な笑みを浮かべる。
「皆様、最高にととのわれたようで何よりでございます。……さて、身体の毒気が完全に抜けたところで、先ほど合意いただいた条約の正式調印といたしましょう」
テーブルの上に広げられたのは、正式名称――『三大国実務責任者間における恒久的情報共有・不可侵協定、およびポポロ村サウナ定例利用規約』だった。
【条約要旨】
一、ルナミス帝国、レオンハート獣人王国、アバロン魔皇国は、ポポロ村の絶対中立および永久不可侵を承認する。
二、締結各国は、上層部の理不尽な命令や予算流用による破綻を防ぐため、本協定に基づく相互情報共有と裏ロンダリング調整を行う。
三、締結各国実務トップは、毎月二十五日(給料日翌日)にポポロ・コーポ大浴場サウナへ集結し、愚痴を吐き出し合いながら晩酌を共にする義務を負う。
四、ゴルド商会は、本協定の円滑な運営のため、全大陸ライブコマース事業の利益から所定のサウナ維持管理基金を永久拠出する。
五、本条約に違反し、ポポロ村の平穏を乱した国家・組織に対しては、三大国実務機関およびゴルド商会が総力を挙げて『書類の無限差し戻し』および『経済制裁』を発動する。
「……どうです、皆さん。異存はありますか?」
俺が青箱のハード煙草に火をつけ、紫煙を夜空へ燻らせながら問いかけると、五人の男たちは揃って力強く頷いた。
「異存などあるはずがない! 帝国の実務を司る者として、全霊をもって遵守しよう!」
「我が保安局の印も喜んで捺印する! 来月のサウナが今から待ち遠しいぞ!」
「魔皇国の全予算をもって、このサウナの薪代を永久保証いたします!」
「わしの商会が、最新の魔導製氷機を寄贈したるがね! 水風呂は常にキンキンにしてちょうよ!」
オルウェル、サイラス、ルーベンス、グレン、そしてオロチが、競うように羽ペンを走らせ、真っ赤な公印と血判を叩き込んでいく。
最後に――俺は作業着の胸ポケットから、愛用のワンタッチ認印(インク内蔵式三文判)を取り出した。
承認欄の中央へ、迷いなく力強く押し込む。
ポンッ。
――ユニークスキル『管理人権限(最上位稟議決裁)』執行。
――神界統括OS『SELESTIA-CORE』および基幹法廷OS『LEX-LUCIANA』へ直結登記。
――【大陸胃痛持ち実務者協議会・ポポロ不戦条約】を全宇宙の不可逆確定真理として登録完了。
キィィィィィン……ッッッ!!!!
契約書が眩い白銀の神聖光を帯び、天と地の理にガチリと刻み込まれた。
大陸全土を巻き込むはずだった三大国の軍事的緊張と、巨大資本による経済侵略は――
昭和の総務課長が仕掛けた「極熱ロウリュ」と「マイナス茄子水風呂」、そして一杯のイモッカ・ソーダによって、歴史上最も強固で平和な『サウナ同盟』へと生まれ変わったのだ。
「よし、決裁完了だな。……さあ皆さん、身体も冷えてきたでしょう。内湯の天然温泉で温まり直して、今夜はとことん飲み明かしましょうや」
「「「「「おおおおおっっ!!」」」」」
男たちの歓声が、秋の夜空に木霊した。
俺の作業着の左胸ポケットの中で、ウサギ村長キャルルから託された『人参柄刺繍ハンカチ』が、俺の誇らしげな心音を感知して、トクン……トクン……と優しく、温かな微振動を刻み続けていた。
だが――平和な夜の帳の向こう、アパートの女子棟からは、新たな「嵐の予感」が微かに漂い始めていたのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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