EP 3
帝国オルウェルの潜入捜査と、獣人国サイラスの研ぎ澄まされた嗅覚
どれほど国家の存亡を揺るがす外交危機が迫っていようと、秋の朝に干したばかりの白いシーツを取り込む時間は、何者にも邪魔されてはならない。
午後二時整。
木造モルタル三階建てアパート『ポポロ・コーポ』の中庭で、俺――佐伯健太(四十二歳・戦闘力1馬力)は、愛用の作業着の袖をまくり、カラリと乾いたシーツを物干し竿から外していた。
秋風に乗って漂ってくるのは、太陽の匂いと、先ほど管理人室の台所で仕込んできた「ポポロ珈琲飴」を煮詰める香ばしい苦味。
女子棟(B棟)二階の物干し場では、タローマン製の割烹着を着せられた南天の朱雀が、すっかり大人しくなってレースのカーテンの埃をハタキで叩き落としている。
昨晩、アバロン魔皇国の四天王筆頭グレンと交わした「サケスキーの陽薬茶割り」と「電卓ダコの熱き連帯」のおかげで、魔王ラスティアの推し活暴走による巨額使途不明金問題は、すでに帳簿上での完璧なロンダリング――もとい、合法的な特別研修費への科目振替が完了していた。
今頃グレンと宰相ルーベンスは、女子棟一〇三号室の扉の前で「ラスティア様! 観念してサインをなさい!」と正座で待ち伏せしているはずだ。
「……よし、これで共用部の点検はひと段落だな」
俺は取り込んだシーツを小脇に抱え、作業着の胸ポケットから青箱のハード煙草を取り出してジッポライターで火をつけた。
紫煙を青空へと燻らせながら、縁側の段差に腰を下ろす。
ちゃぶ台の上には、魔法瓶から注いだ人肌温度(三十七度五分)の「ぬるい陽薬茶」。
そして、小皿にはタローソンで仕入れてきた素朴な塩えんどう豆。
豆を二、三粒口へ放り込み、適度な塩気とともにぬるい陽薬茶をズズッと喉へ流し込む。
胃袋の奥底からじんわりと温もりが広がり、午前中の伝票整理で凝り固まった肩がふっと軽くなっていく。
――平和だ。
左胸のポケットの中で、ウサギ村長キャルルから託された『人参柄刺繍ハンカチ』が、俺の安定した心音を感知して、トクン……トクン……と規則正しい穏やかな微振動を伝えてきている。
今日という一日を、俺は何の憂いもなく、夕暮れの大浴場サウナと冷たいイモッカの晩酌へ向けて消化するつもりだった。
――しかし、世の常として。
ポポロ村の境界線というものは、国家レベルの胃痛を抱えた中年男たちを磁石のように引き寄せる特異点らしい。
ジャリ……ジャリ……。
カツ……カツ……。
ポポロ・コーポの正門前、未舗装の砂利道から、極めて対照的な二つの足音が近づいてきた。
一つは、軍用の編み上げブーツ特有の、歩幅から靴底の接地圧まで一切の狂いがない冷徹な行進音。
もう一つは、肉球の気配を殺しながらも、獲物を逃すまいと神経を張り詰めた、鋭利な獣の忍び足。
「……ん?」
俺が煙草をくわえたまま門前に目をやると、そこには、街道の左右から示し合わせたかのように同時に姿を現した、二人の四十代半ばの中年男が立っていた。
左手から歩いてきたのは、仕立ての良すぎる漆黒のトレンチコートを羽織り、銀縁のスクエア眼鏡の奥で氷のような灰色の瞳を光らせる男。
ルナミス帝国・情報統括局内務官、オルウェル(四十五歳)。
帝国の暗部をすべて掌握し、皇帝直属の秘密警察を束ねる冷酷無比の官僚――のはずだが、その口元は不規則に引き攣り、左手には分厚い『ポポロ村・異常経済推移調査調書』が、指先が白くなるほど強く握りしめられていた。
そして、そのコートのポケットからは、俺も見慣れた天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』の業務用ボトルが、チャリチャリと情けない音を立てて覗いている。
「……信じられん。帝国の全情報網を駆使しても、このポポロ村の資金源が完全に割り出せんとは。悪徳徴税官の撃退、北部軍ヴァルター公爵の謎の軟化と文通協定、さらには天界法廷機神の異常稼働……。この限界集落の裏で、三大国を欺き、糸を引いている『絶対の黒幕』が必ず潜んでいるはずだ……。くっ、胃が……連日の徹夜分析で、胃壁に穴が開きそうだ……ッ!」
ボリボリッ!と水もなしに胃薬を噛み砕くオルウェル。
一方、右手から砂利を踏んで歩いてきたのは、擦り切れた革のハンティングジャケットを羽織った、筋骨隆々のドーベルマン獣人だった。
レオンハート獣人王国・国家保安局主席内務官、サイラス(四十五歳)。
大陸全土の犯罪者を匂いだけで追いつめると恐れられる「研ぎ澄まされた嗅覚」の持ち主。
だが、そのピンと立った黒い犬耳の先は激しいストレスのせいかピクピクと痙攣し、充血した琥珀色の瞳の下には、濃い青隈がくっきりと刻まれていた。
手にした黒革の手帳には、赤ペンで「矛盾」「計算不能」「狂気」の文字がびっしりと殴り書きされている。
「フン……フン……。嗅ぎ慣れぬ匂いだ。大理石を溶かす魔導バキュームカーの排気熱、ドラゴンの濃厚な豚骨出汁、それに……月兎族の極限のフェロモンと、神話の火の鳥の燃え殻……!? 何だこの村は! 混ぜるな危険の爆発物が、平然と一つのアパートに密集しているではないか! 獣王アーサー様からは『一週間以内に全容を解明せねば免職だ』と詰め寄られ……我が鼻腔と胃袋は、とっくに過負荷で限界だぁぁッ!」
ボリッ! ボリボリボリッ!!
サイラスもまた、ポケットから取り出した『ストマック・オメガ錠』を三粒まとめて口へ放り込み、牙でゴリゴリと噛み砕いた。
互いに視線を交わした瞬間、二人の超エリート内務官の間に、ピキピキと殺伐とした火花が散った。
「……ほう。帝国のネズミ捕り頭、オルウェル内務官か。貴様のような大物が、なぜ緩衝地帯の田舎アパートを嗅ぎ回っている?」
「それはこちらの台詞だ、獣人国の猟犬サイラス殿。貴殿が国境を越えてここにいるということは……貴国もまた、この村の『見えざる統治者』の脅威に怯えている証拠だな」
バチバチと睨み合い、コートの下の魔導銃と懐のミスリル短剣へ手を伸ばしかける二人。
単体推定三百馬力と四百馬力。
国家の命運を左右する二大情報機関のトップが、一触即発の睨み合いを繰り広げている。
だが――
その殺気に満ちた二人の間へ、くたびれた作業着姿の四十男が、両手に持った湯呑みを掲げながら、実に間抜けな足音でトボトボと割り込んできた。
「はいはい、そこまでそこまで。お二人とも、正門の真ん中で睨み合わないでください。夕方に生協の配送トラックが入ってこれなくなりますから」
「……なっ!?」
オルウェルとサイラスが、同時に息を呑んで後退りした。
気配が、一切なかった。
どれほど歴戦の暗殺者であっても、これほどの至近距離に接近すれば、大気の揺らぎや魔力の波長で察知できるはずだ。
それなのに、目の前の男は――まるで最初からそこに生えていた街路樹のように、何の殺気も敵意もまとわずに、二人の間合いのど真ん中へスッと入り込んできたのだ。
(何者だ……!? この男……魔力波形が、完全に『ゼロ』……!?)
(バカな……! 我が研ぎ澄まされた嗅覚が、至近距離までコイツの足音すら嗅ぎ取れなかっただと……!?)
戦慄する二人の情報官。
俺は二人の険しい顔を見上げ、作業着のポケットから自分の『ストマック・オメガ錠』の小瓶をチラリと見せて、苦笑いを浮かべた。
「ポポロ・コーポの管理人兼、村役場総務の佐伯です。……お二人とも、遠方からのご出張ご苦労様です。外で立ったまま胃薬をボリボリ噛み砕いてちゃ、胃粘膜が荒れる一方ですよ。……ちょうどお茶が入ってますから、談話室で一服していきませんか?」
差し出されたのは、人肌温度(三十七度五分)に保たれた、湯気を立てる二つの湯呑み。
そして、前世の総務課長時代、来客した取引先へ差し入れとして常備していた、素朴な茶色いセロファン包みの「ポポロ珈琲飴」だった。
「お、お茶……? 毒殺の罠か……?」
「フン、フン……いや、待て……この香りは、ただの野草茶……? だが、なぜだ……胃の腑の痙攣が、この湯気を嗅いだだけで微かに鎮まっていくような……?」
毒物探知の魔導レンズを構えようとするオルウェルと、鼻をひくつかせるサイラス。
俺はそんな二人の警戒をまるっきり気に留めず、背中を向けてサンダルをパタパタ鳴らしながら、コーポの玄関へ歩き出した。
「靴の泥はマットで落として入ってくださいね。今朝ワックスをかけたばかりですから」
無防備極まりない、猫背の背中。
だが、その背中を見つめる二人の情報機関トップの脳内では、すでに常軌を逸した「深読みと誤解」の歯車が、猛烈な勢いで回転し始めていた。
(背中を……完全に晒している……!? 帝国最強の暗殺術を持つ私に対し、一片の隙すら見せず、無防備を装うことで『貴様の刃など届かん』と無言で威圧しているのか……!?)
(クソッ……匂いが、透き通っている……! 打算も、恐怖も、野心すら微塵も感じられん……! これほどの怪物を従える黒幕が、完全に無欲の虚無だと……!? 底が……底が知れなさすぎる……ッ!!)
二人は冷や汗をダラダラと流しながら、顔を見合わせた。
そして、警戒を解かぬまま、だが抗いがたい「胃の安らぎ」の気配に引き寄せられるように、ポポロ・コーポの引き戸をくぐっていった。
*
ポポロ・コーポ一階、共同談話室。
長テーブルを挟んで、異様な光景が広がっていた。
片側には、トレンチコートを脱ぎ捨ててネクタイを緩め、青ざめた顔で正座する帝国内務官オルウェルと、革ジャケットを脱いで耳を伏せる獣人国内務官サイラス。
そして対面には――作業着姿の俺が、老眼鏡を鼻先にかけて、二人の身分証を検めながら座っていた。
「……なるほど。ルナミス帝国の内務省と、レオンハート王国の保安局ですか。公務でのご視察、ご苦労様です。……どうぞ、お茶が冷めないうちに」
俺が勧めると、二人は恐る恐る湯呑みを持ち上げ、唇をつけた。
ズズッ……ズズズッ……。
「………………ッッッ!!」
一口啜った瞬間、二人の背筋がビクンと跳ね上がった。
熱すぎず、冷たすぎない、絶妙な三十七度五分の人肌温度。
口内に広がる薬草の素朴な甘みと、喉を通るたびに、キリキリと引き攣れていた胃壁をまるで温かい蒸しタオルで包み込んでいくような圧倒的な鎮静作用。
「あ……温かい……。胃の奥の、あの鉄の棒で抉られるような激痛が……消えていく……?」
「美味い……! 我が研ぎ澄まされた嗅覚が、一片の毒素も検知できん……! ただ純粋に、弱り切った胃の腑を労わるためだけに調合された、奇跡の処方だ……!」
二人は貪るように湯呑みを干すと、深く、心底からの長い長い溜息を吐き出した。
連日の激務で張り詰めていた自律神経の結び目が、プツリ、プツリとほどけていく。
そこへ、談話室の奥の引き戸がガララッ!と音を立てて開いた。
「おい健太のオッサン! 頼まれてたタローソンの肉まん、蒸したてを買ってきたぜ!」
入ってきたのは、黄金ジャージに巨大な金髪リーゼントを反らせた、第6の聖獣・麒麟ことリキ兄貴だった。
その背後からは、白銀の装甲を外して平服に着替えた五聖獣のリーダー・ガオンが、「佐伯さん、午後の畑の土壌改良の件ですが――」と書類を持って現れる。
さらに、廊下の向こうからは、タローマンの割烹着を着た朱雀が「健太さぁん、モップの替えのバケツはどこですのぉ?」と甘ったるい声を響かせ、外階段からは竜王デュークが「おう健太、今夜の賄いチャーシューの試食を頼むぜ」と寸胴のフタをパカパカ鳴らしていた。
「ヒエッッッッッ!?!?!?」
オルウェルとサイラスが、椅子から転がり落ちて床にへたり込んだ。
神話の聖獣・麒麟。
絶対調停機構の主幹・ガオン。
南天の火の鳥・朱雀。
そして、三大国を恐怖に陥れた伝説の竜王デューク。
世界を滅ぼせる神話級の怪物たちが、作業着の四十男の周囲に集まり、まるで工場の主任に現場の進捗を報告するかのように、自然体で従っているのだ。
「り、竜王に……麒麟……!? それに五聖獣が……アパートの雑用を……!?」
「バカな……! この男の戦闘力は、間違いなく1馬力……! 武力ではなく、純然たる『精神の絶対支配』によって、神獣たちを平伏させているというのか……!?」
二人の顔面は、今度は恐怖と畏怖で真っ白に染まった。
だが、当の俺はといえば、入ってきた連中に向かって丸めたルナミス新聞をペシッと振るだけだった。
「リキ兄貴、肉まんはテーブルに置いといてくれ。ガオンさん、土壌改良の稟議書は後で見ます。朱雀さん、バケツは給湯室の下だ。……いま、大切なお客様の対応中だから、静かにしなさい」
「「「「へーい!」」」」
神話の怪物たちが、素直に頷いて部屋を出ていく。
その光景を見届けたオルウェルとサイラスは、もはや恐怖を通り越して、魂の底から震え上がっていた。
「……さて、オルウェルさん、サイラスさん」
俺は青箱のハード煙草に火をつけ、紫煙を燻らせながら、二人の前へスッと湯呑みを置き直した。
「本題に入りましょうか。……帝国と獣人国が、このポポロ村の何をそんなに怯えているのか。同世代の中間管理職同士、腹を割って話を聞かせてもらえますかね」
冷徹にして穏やかな、昭和の総務課長の眼差し。
三大国の裏を牛耳る冷酷な内務官二人が、完全にその空気の前に呑み込まれ、ガタガタと震えながら深く頭を垂れた瞬間だった。
読んでいただきありがとうございます。
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