第4章:三大国「胃痛持ち実務者」極秘サミットと、ゴルド商会の名古屋弁怪獣
消えた魔皇国の道路舗装予算と、血相を変えた経理部長
どれほど強大な神話の怪物が住まう魔境であろうと、組織というものが存在する限り、最も恐ろしいのは外敵の軍勢でも天変地異でもない。
「トップの思いつきによる、巨額の予算流用」である。
これに勝る災厄を、俺は前世の四十余年のサラリーマン人生において見たことがない。
午前八時整。
秋晴れのからりとした風が吹き抜けるポポロ・コーポの裏庭で、俺――佐伯健太(四十二歳・戦闘力1馬力)は、愛用の作業着の袖をまくり、燃えるゴミの集積所の分別チェックを終えたところだった。
中庭の物干し場を見やれば、昨夜の五聖獣による『聖獣機神ガオガオン』再起動の余波もすっかり収まり、極めて平和な日常が戻っていた。
タローマン製の白い割烹着を着せられた南天の朱雀が、不満げに唇を尖らせつつも、おとなしく洗濯バサミでシーツを留めている。向かいのベランダからは、東天の青龍が金縁眼鏡越しに表計算魔導ボードの数値を几帳面に確認し、西天の白虎は大人しくトングで敷地周りの落ち葉を拾い、北天の玄武は村外れの崖崩れ現場へ向けてヘルメットを小脇に抱えて出勤していくところだった。
「……よしよし。ルールさえ厳格に線引きしておけば、神話の聖獣だろうが現場は円滑に回るもんだ」
俺は深く息を吐き出し、作業着の胸ポケットから青箱のハード煙草を取り出してジッポライターでカチリと火をつけた。
紫煙をくゆらせながら、管理人室の濡れ縁に腰を下ろす。
ちゃぶ台の上には、先ほど朝食で平らげたばかりの空の膳。米麦草のホカホカ炊きたて白飯に、泥沼農園から届いた肉椎茸の軸で取った出汁に刻みネギカリバーを散らした味噌汁、そしてタローマートの塩漬け白菜。
仕上げに、保温水筒から人肌温度(三十七度五分)に保たれた「ぬるい陽薬茶」を湯呑みに注ぎ、ズズッと喉へ流し込んだ。
胃袋の奥底からじんわりと温もりが広がり、五臓六腑が穏やかに目覚めていく。
――平和だ。
昨晩、後光ハゲの苦労人主神オリンから授かった『神界公認・最上位特級決済認可章』が、胸ポケットのインク内蔵式三文判の中で静かに馴染んでいるのを感じる。
左胸ポケットの『人参柄刺繍ハンカチ』も、村役場で執務中のウサギ村長キャルルが平穏無事であることを告げるように、トクン……トクン……と規則正しい穏やかな微振動を伝えてきていた。
女子棟二〇四号室のエミリアも、今日は村役場の商務補佐としてニャングルと一緒に新商品の販路計算に励んでいるはずだ。
すべてが予定調和、すべてが定時退勤コース。
今日という一日を、俺は何の憂いもなくアパートの雨樋の補修に費やすつもりだった。
――ガタガタガタッ! ドォォォォォンッ!!
突如として、ポポロ・コーポ女子棟(B棟)一〇三号室の引き戸が、内側から激しく震動した。
続いて漏れ聞こえてきたのは、安物のスピーカーから最大音量で垂れ流されるような、耳馴染みのある軽快な重低音ビートと、黄色い歓声だった。
『〜♪ 満員電車に揺られてサヨナラ〜! 月曜日の朝に隕石落ちろ〜! 僕らのハートは有給休暇中〜☆』
『キャァァァァァァッッ!! 月人くぅぅぅぅぅんッッ!! こっち向いてぇぇぇッ!!』
『ラスティア、ペンライトの振りが甘いぞ! サビのところはこう、手首のスナップを利かせて三連符で天を突くのよ! ほらハイ! ハイ! ハイハイハイッ!』
『は、はいルチアナ様! 月人君、尊い……ッ! 顔面国宝すぎる……ッ! この生中継アーカイブを観るために、余は魔皇国の現世に生まれてきたのだぁぁぁッ!!』
「………………」
俺は吸いかけの煙草をくわえたまま、深々と天を仰いだ。
女子棟一〇三号室。
この世界の創造主である小豆色芋ジャージ姿の世界神ルチアナが、天界から勝手にポポロ・コーポへ繋げた「不法転移直通部屋」である。
そこで響いているのは、地球の福岡ドームでミリオンセラーを連発している現役トップアイドル・朝倉月人の限定配信ライブ音源。
そして――ルチアナとともにペンライトを狂ったように振り回して絶叫しているもう一つの声は、三大国の一角、軍事大国アバロン魔皇国の頂点に君臨する絶対君主、魔王ラスティア(自称・永遠の十七歳ゴスロリ美少女)のものだった。
「朝の八時から、女子棟で他世界のアイドルの生配信鑑賞会かよ……。共用廊下の騒音防止規約に抵触してるんだが」
俺が注意しに行こうと立ち上がりかけた、まさにその時だった。
ドサリ……ドサリ……。
ズリ……ズリ……。
コーポの正門前、砂利の敷かれたアプローチから、この世の終わりのような重苦しい足音が近づいてきた。
立ち込めるのは、魔界特有の濃密な魔力――ではなく、徹夜続きのオフィスから漂う「酸化した安珈琲とタバコと湿布と、極限まで擦り減った胃液の臭い」だった。
「……ん?」
門前に目を凝らした俺の視界に飛び込んできたのは、二つの異様な人影だった。
先頭を歩くのは、漆黒の貴族服を着崩し、仕立ての良さそうなマントを泥水で引きずっている長身の美青年。
アバロン魔皇国筆頭宰相・ルーベンス(二十八歳)。
本来ならば怜悧な知性で軍事大国を動かす冷徹な美形宰相のはずだが、いまやその顔面は土気色を通り越して青白く透き通り、両目の下には漆黒の三重の隈がべったりと張り付いていた。瞳の焦点は完全に合っておらず、口元から虚ろな泡を垂らしながら、右手に握りしめた書類の束をボロボロと落としては拾っている。
「三徹……いや、四徹目か……? 数字が……魔導予算書の数字が、ゲシュタルト崩壊を起こしてダンスを踊っている……。なぜだ……なぜ我が国の国家予算から、銀貨十万枚単位の金が、一晩で『地球グッズ代行輸入』という使途不明金に消え失せているのだ……? 死にたい……もういっそ、光輪の海に飛び込んで死んでしまいたい……」
完全に過労死ラインを突破した男のうわ言。
そして、その背後から、ズシン、ズシンと大地を揺るがして歩いてきた巨躯。
身長二メートルを超える筋骨隆々の赤色筋組織、頭部から生える二本の猛々しい黒角。魔王軍四天王筆頭にして、軍団最強の破壊力を誇るはずの武神――炎魔将軍グレンだった。
だが、その身に纏っているのは歴戦の溶岩鎧ではなかった。
タローマンのロゴが入った作業用腕カバーを両腕に装着し、巨大な胸板の上からねじり鉢巻きならぬ「納期厳守」のたすきを掛け、右腕には分厚い『表計算魔導ボード』を小脇に抱え込んでいる。
右手の人差し指と親指の腹には、連日電卓を叩きすぎた者にしか形成されない、カチカチの分厚い「電卓ダコ」が痛々しく形成されていた。
「ルーベンス宰相、倒れるな! 現場で気絶すれば、誰が追加補正予算案に決済印を押すのだ! ……クソッ、胃が……胃壁が火炎ブレスを吐き散らかすように痛む……ッ!」
ボリッ! ボリボリボリッ!!
グレンは腰のポーチから、天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』の業務用ボトルを取り出すと、親指ほどもある錠剤を水もなしに五粒まとめて口へ放り込み、凄まじい音を立てて噛み砕いた。
その光景を目にした瞬間――。
俺の脳裏に、前世の総合商社時代、決算期の最終日に専務取締役が会社の交際費で銀座のクラブ通いを重ねた結果、億単位の使途不明金が発生し、経理部長と総務課長(俺)が血相を変えて役員フロアへ乗り込んだあの地獄絵図が、鮮烈にフラッシュバックした。
(……うわぁ。完全に、上がやらかした大赤字の尻拭いで死にかけてる現場の実務責任者のツラだ)
俺は作業着の胸ポケットから『ストマック・オメガ錠』を取り出し、二粒をポリポリと噛み砕いてから、縁側から立ち上がってサンダルを突っ掛けた。
カツカツと砂利を踏みしめ、二人の前へと歩み出る。
「……お疲れ様です。ポポロ・コーポ管理人兼、村役場総務の佐伯です。アバロン魔皇国の重鎮の方々とお見受けしますが、朝早くからどうされました?」
平穏極まりない俺の声に、ルーベンスがビクッと肩を跳ね上げ、焦点の定まらない瞳を俺に向けた。
「あ……貴殿が、噂の……ポポロ村の総務課長……佐伯殿か……? 頼む、教えてくれ……我が国の魔王陛下……ラスティア様は、このアパートにおられるのか……!?」
「ああ、いますよ。女子棟の一〇三号室で、ルチアナ様と一緒にアイドルのライブ音源を爆音で流しながらペンライトを振ってます。ちょうど注意しに行こうと思ってたところです」
「ぎゃああああああああああああっっっっっっ!!!!」
ルーベンスは突如、両手で頭を抱えて絶叫すると、その場に両膝をついて地面をバンバンと拳で殴りつけた。
青白い頬に、怒りと屈辱と絶望の涙がボロボロと溢れ出す。
「やっぱりだ……! やっぱりここにいたんだぁぁぁッ!! あの御方は……あの我儘ゴスロリ魔王はぁぁぁッ!!」
「佐伯殿、聞いてくれ!」
四天王筆頭グレンが、真っ赤な巨躯を震わせて俺の手元へ詰め寄ってきた。
その目には、現場で理不尽に耐え続けてきた中間管理職特有の、血走った殺気と怨嗟が渦巻いている。
グレンは抱えていた表計算魔導ボードをパッと起動させ、俺の目の前に真っ赤な赤字だらけの決算画面を突きつけた。
「今期、我が魔皇国が三大国合同開発銀行から融資を取り付け、血反吐を吐く思いで計上した『帝国〜魔皇国間・第一幹線道路舗装および魔導街灯整備特別予算』……金貨五万枚!!」
「ほほう、国家規模のインフラ整備予算ですね。それが?」
「全額……跡形もなく消滅したのだッッ!!」
グレンの絶叫が、早朝のポポロ村の空へ木霊した。
「内訳を洗ったらこれだ! 『地球・福岡ドーム公演プレミアム最前列VIPチケット(転売屋からの裏ルート買い取り枠)』に金貨一万枚! 『公式限定ペンライトおよび等身大アクリルスタンド全種コンプリート大人買い』に金貨五千枚! 極めつけは、昨夜行われたGodTube生配信での『朝倉月人君への限界カンスト・スーパーチャット赤スパ乱射祭り』に金貨三万五千枚だぁぁぁッ!!」
「ブッッッッッ!?!?!?」
俺は思わず喉の奥から変な声を漏らした。
国家のインフラ整備予算を、全額アイドルの推し活とスパチャにブチ込む最高権力者。
前世の悪徳ワンマン社長ですら、そこまで清々しい横領はやらなかったぞ。
「おかげで! 我が国の幹線道路は泥炭層が剥き出しのまま工事ストップ! 下請けのドンガン土木ギルドからは毎日怒号の督促状が届き、三大国の為替市場では我が国の国債がジャンク寸前まで暴落! それなのに当の本人は『余の推しが地球で一番輝いていたのだから、道路の舗装など砂利道で十分であろう!』と書き置きを残して魔王城から夜逃げ同然に姿を消したのだぁぁぁッ!!」
グレンは表計算ボードを抱きしめたまま、ゴリゴリと牙を鳴らして涙をこぼした。
電卓ダコのある右手が、悔しさに震えている。
そして地面に突っ伏したルーベンスは、白目を剥いて泡を吹きかけていた。
「もう嫌だ……。辞表を……辞表を魔導ポストへ叩き込んで、実家のカボチャ農家に帰るんだ……。誰がこんな女帝の下で内政などできるものか……」
痛い。
痛いほど分かる。
上層部の放漫経営のツケを払わされ、下請けに頭を下げ、深夜のオフィスで一人電卓を叩きながら胃薬を胃袋に流し込んでいたあの夜の俺自身が、まさに目の前の二人の姿だった。
戦闘力二十馬力や一万馬力の異世界の怪物であろうと、「中間管理職の胃の痛み」に種族の壁など存在しないのだ。
「……ルーベンスさん、グレンさん」
俺は静かに声をかけ、二人の肩にポンと手を置いた。
「よくここまで耐えてきましたね。……まずは、その冷え切った胃の腑を温めましょう。話はそれからだ」
「……え?」
二人が涙目で顔を上げた。
俺は作業着の袖をまくり直し、管理人室の引き戸をガラリと開け放った。
「リキ兄貴! エミリアさん! ちょっと七輪の火を起こしてくれ! ……同世代の苦労人たちが、極限状態で現場へ駆け込んできた。至急、『緊急胃壁修復セット』を用意するぞ!」
朝の光が差し込むポポロ・コーポで、国家の命運と中間管理職の尊厳を賭けた、前代未聞の「推し活予算奪還作戦」の幕が静かに上がろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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