EP 8
後光ハゲ管理職の緊急降下と、胃薬ボリボリ深夜面談
夜の九時半。
南天の朱雀が逆ギレして放った千五百度の業火テロを、俺の来客用便所スリッパ一閃とリキ兄貴の雷撃ナックルの威圧で完全に鎮圧した直後のことである。
焦げた壁紙を前に正座させられ、タローマン製の白い割烹着を着て涙目でモップを握りしめる朱雀を二階廊下に残し、俺――佐伯健太(四十二歳・戦闘力1馬力)は、リキ兄貴とともに一階の共同談話室へと戻ってきていた。
「うぅ……胃が……私の胃壁が、炭酸水に浸した角砂糖みたいにシュワシュワと溶けていく……。なぜだ……なぜ誰も私の公式チャットに既読をつけないんだ……」
談話室のパイプ椅子に、魂の抜けた泥人形のように腰掛けていたのは、先ほど前庭からトボトボと現れた見慣れない中年男だった。
ヨレヨレに波打った安物の量産型ビジネススーツ。手入れの行き届いていない革靴。
頭頂部は眩いばかりのスキンヘッドなのだが、放たれているはずの後光は電圧の足りないチープな蛍光灯のようにチカチカと点滅を繰り返し、目の下にはどす黒い三重の隈が張り付いている。
そしてその右手には――俺の愛用品でもある、天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』の業務用特大ボトル(千錠入り)が握りしめられていた。
ボリッ、ボリボリボリッ……。
水もなしに、まるで駄菓子のラムネのように生薬の錠剤を噛み砕く、乾いた鈍い音。
アナステシア星区を統括する最高責任者でありながら、自由奔放すぎる女神たちや暴走する現場の板挟みになり、連日胃を痛め続けている哀愁の中間管理職神――星区統括リーダーのオリンその人だった。
「……健太のオッサン」
隣で腕組みをしていたリキ兄貴が、金髪リーゼントをガリガリと掻きながら、呆れ果てたように眉をひそめた。
「このハゲ頭のオッサン、天界の主神サマのオリンだぜ。神界の偉い役職のくせに、いつもこうやって夜中に現場へフラフラ降りてきちゃあ、愚痴をこぼして帰っていくんだよ。見てみろよあの哀れな背中……完全にノルマ未達で詰められた支店長じゃねぇか」
「ああ、痛いほどよく分かるよ……」
俺は深くため息をつき、作業着のポケットから自分の『ストマック・オメガ錠』の小瓶を取り出した。
前世の総合商社時代、決算期の最終日にシステム障害が発生し、役員会から怒号を浴びせられ、下請けからは泣きつかれ、深夜のタクシーの中で同じように胃薬をボリボリ貪り食っていた自分自身の姿が、オリンのヨレたスーツの背中と寸分の狂いもなく重なり合っていた。
「オリン様、でしたね。……空きっ腹に薬ばかり流し込んじゃいけませんよ。胃粘膜が余計に荒れます」
俺はずかずかと長机の前へ歩み寄ると、備え付けの魔法水筒から、人肌温度(三十七度五分)に保たれた「ぬるい陽薬茶」を湯呑みに並々と注ぎ、オリンの目の前へコトッと置いた。
さらに、七輪で香ばしく炙っておいたアルミホイル包み――肉椎茸の軸のバター醤油焼きを小皿に盛り、割り箸を添えて差し出す。
「まずはこれを啜って、胃壁を温めなさい。……現場の泥をかぶる者の基本ですよ」
「……え?」
オリンがビクッと肩を震わせ、虚ろだった濁った瞳を恐る恐る上げた。
目の前に置かれた、湯呑みから立ち上る素朴な薬草の香気。
そして、バターと醤油が焦げた、暴力的なまでに食欲をそそるキノコの匂い。
オリンは震える両手で湯呑みを持ち上げ、恐る恐る口をつけた。
ズズッ……ズズズッ……。
「………………っっっ!!」
一口含んだ瞬間、オリンの後光がパッと一段階明るさを取り戻した。
熱すぎず、冷たすぎず、荒れ果てた食道から胃袋の底へとじんわり染み渡っていく優しい温度。
キリキリと鉄の針で刺されていたような胃壁の痙攣が、まるで温かい蒸しタオルで包まれたかのように、みるみるうちに解きほぐされていく。
「あ……温かい……。胃の奥のトゲトゲが、消えていく……? な、なんだこのお茶は……!? 天界の最高級エリクサーでも、こんなに優しく胃壁を撫でてはくれんぞ……!」
「緊張をほぐすための、ただのぬるいお茶ですよ。……ほら、椎茸も冷めないうちに食いなさい」
促されたオリンは、震える手で割り箸を割り、バター醤油をまとった肉椎茸の軸を一切れ口へ放り込んだ。
ハフッ……もぐっ……。
「………………っ!!」
噛み締めた瞬間、繊維の奥からジュワッと溢れ出す濃厚な出汁エキス。
バターの豊かなコクと、醤油草のキレのある塩気。
連日の心労で固形物を受け付けなくなっていたはずの胃袋が、歓喜の悲鳴を上げながら栄養を吸収していく。
オリンは一心不乱に箸を動かし、あっという間に小皿を空にすると、湯呑みのぬるい陽薬茶を一気に飲み干した。
そして――「ぷはぁっ!」と豪快な息を吐き出すと同時に、その両目から、大粒の涙がボロボロと畳の上に零れ落ちた。
「う……うわぁぁぁぁぁぁんッッ!!」
大の大人が、いや、一星区を統べる最高神が、机に突っ伏して子供のように号泣し始めた。
「佐伯君……! 君が……君が噂の管理人、佐伯健太君だね……っ! 優しい……! 神界に来て数千年、誰も私の胃壁を心配して温かいお茶など淹れてくれなかった……! みんな……みんな私を、ただの理不尽な要求を押し付けるためのサンドバッグとしか思っていないんだぁぁぁッ!!」
ダムが決壊したように溢れ出す、天界の中間管理職の悲痛な叫び。
俺は向かい側のパイプ椅子に腰を下ろし、青箱のハード煙草に火をつけながら、静かに頷いてやった。
「……話してみなさい、オリンさん。何があったんです?」
「聞いてくれよ佐伯君……っ!」
オリンは鼻をかみながら、ブリーフケースからクシャクシャになった羊皮紙の束を取り出し、机の上にぶちまけた。
「先週から、天界の基幹法廷システム『聖獣機神ガオガオン』の合体停止アラートが本部で鳴りっぱなしなんだ! 三大国の不戦条約も、貿易決済の登記ログも全部ストップして、上層部からは『今期の実績評価をマイナス二〇〇パーセントにするぞ』と脅威の査定を突きつけられ……! 慌てて現場の五聖獣に緊急招集をかけたら、返ってきた返答がこれだ!」
オリンが突き出した通信ログのプリント用紙。
そこには、目を覆いたくなるような現場からのボイコット通知が並んでいた。
・[A棟202号室・ガオン]:「精神的限界により現在出社拒否中。辞表はポストに入れました」
・[A棟203号室・朱雀]:「今週は美容週間のため出撃できませんわぁん♡」
・[B棟201号室・青龍]:「株価の乱高下に集中するため合体プロトコルを一時拒絶する」
・[B棟202号室・白虎]:「筋トレのパンプアップ中だから後にしてくれ」
・[B棟203号室・玄武]:「僕の重力を邪魔する世界なんて滅びちゃえばいいんだぁ……」
「ひどすぎる……! 誰も私の言うことを聞かんのだ!」
オリンは頭を抱え、薄くなった後光をペシペシと叩いた。
「それだけじゃない! 創世神のルチアナ様は小豆色の芋ジャージを着てコタツでみかんを食いながら『オリンさぁ〜、月人君のライブチケット代足りないから奇跡枠五十万ポイント上乗せしてくんない?』と無心してくるし! 月の女神カグヤ様は『私の美しい都に下水を埋めるとは何事ですの! 視覚的ハラスメントで訴えますわよ!』と怒鳴り散らしてくるし! 見習い神のリリス君に注意すれば『うわあああん(棒) パワハラ神だ〜(棒)』とわざとらしく泣き叫ばれ……! 後ろに控えるヴァルキュリア部長からは『声のデシベル基準を三デシベル超過しました。カスハラ部へ通報します』と聖槍グラニを喉元に突きつけられる……! 死にたい! 神格公務員になれば一生安泰だと……採用試験のパンフレットに書いた奴はどこのどいつだぁぁぁッッ!!」
机をバンバン叩いて号泣する最高神。
そのあまりに生々しすぎる職場の地獄絵図に、後ろで聞いていたリキ兄貴すら「うわぁ……マジで可哀想になってきたぜ……」とドン引きしてタバコをもみ消していた。
「……オリンさん」
俺は静かに呼びかけた。
「はいぃ……っ?」
俺は作業着の胸ポケットから、愛用のワンタッチ認印(インク内蔵式三文判)を取り出すと、机の上の書類の束をトンと整えた。
「安心しなさい。あんたが胃に穴を開けて怯えていたトラブルは……すべて、私が現場で処理を完了しましたよ」
「……え?」
オリンが涙で濡れた目を丸くした。
俺は出勤鞄から、夕方までにまとめた四通の書類――『五聖獣・労務改善および行動規範遵守誓約書』と、先ほど朱雀に書かせた『火気厳禁反省始末書』をスッと差し出した。
「五聖獣の社内恋愛バトルは、元凶だったルチアナ様の怪文書同人誌の在庫全三千部を私が職権で没収し、イグニスの火炎で完全焼却処分にしました。青龍と白虎と玄武の三人は、過年度伝票整理と側溝清掃、崖崩れの土砂撤去に投入して余計な性欲と魔力を完全に汗で代謝させました。サークルクラッシャーの朱雀さんには、来客用スリッパで一喝した上で、向こう一週間の割烹着着用とモップがけ清掃を義務付けてあります。……そして何より、リーダーのガオンさんには、特製の肉椎茸月見雑炊を振る舞って胃壁の修復を完了させました。明日朝イチでの出社復帰と、ガオガオンの基幹OS再起動を約束させてあります」
「な……」
オリンの手から、胃薬のボトルがコロンと転がり落ちた。
「な、なんだと……!? あの我が儘放題で、天界の誰も統制できなかった五聖獣を……! 同人誌の焼却と、雑巾がけと、雑炊一杯で……全員手懐けて職場復帰させただと……!?」
「手懐けたんじゃない、筋を通しただけですよ」
俺は苦笑し、青箱の煙草の灰を携帯灰皿へ落とした。
「現場が荒れるのは、ルールの線引きが曖昧で、上に立つ者が適切な環境を作ってやらないからです。感情論で怒鳴り合っても泥沼になるだけだ。物理的に距離を取らせ、適正な労働で汗を流させ、温かい飯を食わせる。……昭和の現場管理の基本ですよ」
「あ……ああ……っ」
オリンの顔面が、今度は歓喜と畏怖で激しく痙攣した。
薄暗かった後光が、まるで真夏の太陽のようにカァァァッ!と眩い黄金の神光を放ち始める。
「す、素晴らしい……! 完璧だ……! これなら……これなら明日の朝にはガオガオンが正常起動し、私のボーナス査定の減点も帳消しになる……! 佐伯君……いや、佐伯殿ッ!!」
オリンはパイプ椅子から転がり落ちるように立ち上がると、俺の作業着の両手をガシッと握りしめ、深々と頭を下げた。
「君こそ……君こそ我が星区の真の守護神、奇跡の総務課長だ……ッ! 頼む、何か私にお礼をさせてくれ! 神界の宝物でも、寿命の延長でも、何でも望むものを言ってくれ給え!」
「宝物なんざいりませんよ。置き場所に困るし、固定資産税がかかる」
俺は首を振り、机の上の書類を片付けながら、ポツリと呟いた。
「……そうですね。強いて言うなら、オリンさん。あんたのその胃痛、少しでもマシにして帰りたいなら……明日、少しだけ付き合ってもらえますか」
「え……? わ、私のかね……?」
「ええ。あんたの執務室の窓際にあるっていう、例の神樹のミニチュア盆栽……『心平』でしたっけ。あれの剪定と土壌改良、うちの村の奇樹ネギオから預かった特製の活力液を使って、手入れのコツを教えてあげますよ。……胃薬を噛み砕くより、緑の手入れをする方が、よっぽど心が安らぎますからね」
「…………っ!!」
オリンの瞳が、今度こそ完全に撃ち抜かれた。
誰にも理解されず、夜な夜な一人で涙を流しながら枝を整えていた、唯一の心の拠り所である盆栽のことまで、この四十男は見抜いて包み込んでくれたのだ。
「さ、佐伯君……ぅぅ……! 行く! 有休を取ってでも付き合うともぉぉぉッ!!」
談話室に、後光ハゲ管理職神の咽び泣く感謝の声が響き渡る。
背後で見ていたリキ兄貴が「ガハハ! 最高だなオッサン、神様まで完全に胃袋と人情で手懐けちまいやがった!」と腹を抱えて大笑いした。
こうして、夜更けのポポロ・コーポで繰り広げられた「中間管理職同士の極秘面談」は、前代未聞の温かな和解とともに幕を閉じたのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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