EP 7
逆ギレ朱雀の烈火翼と、廊下火気厳禁のスリッパ一閃
男連中の再教育と現場労働への投入を完了し、胃潰瘍寸前だったリーダー・ガオンへ特製の『肉椎茸とすりおろし大根の月見雑炊』を差し入れた、その夜のことである。
午後八時過ぎ。
ポポロ・コーポ一階の管理人室では、七輪の炭火がパチリと小さな火花を散らしていた。
網の上でじっくりと炙られているのは、泥沼農園から届いた肉椎茸の軸を細かく裂き、タローマートの有塩バターと村特産の醤油草から引いた天然醤油を垂らしたアルミホイル焼きだ。
ジュワジュワと立ち上る焦がし醤油とバターの香ばしい匂いが、六畳間に満ちていく。
手元のグラスには、タローソンで仕入れた強炭酸水と、最高級芋蒸留酒『イモッカ』を注ぎ、氷を浮かべた黄金色のソーダ割り。
「……よし、いただきますか」
箸で椎茸の軸をひとつまみし、口へ運ぶ。
噛み締めた瞬間、繊維の隙間からバターのコクをまとったキノコの濃厚な出汁エキスが、ジュワッと舌全体へ広がった。
弾力のある歯ごたえは、まるで極上の貝柱のようだ。
すかさず、冷えたイモッカ・ソーダを喉へ流し込む。
シュワシュワと弾ける強炭酸の刺激と、芳醇なサツマイモの香りが鼻腔を抜け、五臓六腑の疲れを綺麗に洗い流していく。
「ぷはぁ……。美味いな」
胸ポケットから青箱のハード煙草を取り出し、ジッポライターで火をつけた。
紫煙を燻らせながら、障子を開けた縁側から夜空を見上げる。
青龍は役場の過年度伝票を無心で仕分けし、白虎は側溝の泥を掻き出し、玄武は崖崩れの巨岩を浮かせ、男連中は全員クタクタになって泥のように眠っているはずだ。
だが――俺の左胸のポケットの中で、キャルルから託された『人参柄刺繍ハンカチ』が、先ほどからチリチリと不穏な熱を帯び続けていた。
月兎族の神聖闘気が編み込まれた生体センサー。
それが微弱な警戒信号を発しているということは、アパートの敷地内で「何らかの危険な熱源」が燻っている証拠だった。
(……やっぱり、大人しく寝てはくれんか)
俺が天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』を二粒ポリポリと噛み砕き、ため息を吐き出した――まさにその時だった。
ドォォォォォォォンッッッッ!!!!
二階の廊下を揺るがす、爆竹を束ねて破裂させたような衝撃音。
続いて、鼻腔をツンと刺す焦げ臭い煙と、耐熱モルタルが激しく軋む不穏な熱波が、階段を伝って一階へと雪崩れ込んできた。
「やってられませんわぁぁぁぁぁぁッッ!!」
ヒステリックな女の絶叫が、夜の静寂を暴力的に引き裂いた。
A棟二〇三号室の扉が内側から吹き飛び、廊下の壁に真っ赤な炎の火の粉がバチバチと飛び散っている。
「な、なんの音ですの!? 火事ですの!?」
「きゃああっ! 廊下が燃えてるぅぅ!」
隣室の見習い神リリスや、女子棟から顔を出したエミリアが悲鳴を上げる。
俺はすかさず愛用の『厚底ゴム底・来客用便所スリッパ(抗菌・茶色)』を右手に引っ提げ、階段を二段飛ばしで駆け上がった。
*
A棟二階の共用廊下。
そこは、まるで火山の火口付近のような灼熱地獄と化していた。
熱源の中心に立っていたのは、深紅の長髪を怒髪天のごとく逆立たせた南天の朱雀だった。
昼間の面談で俺が着るよう命じたタローマン製の白い割烹着は、足元で無惨に黒焦げの灰となって燻っている。
スリットの深いチャイナドレス調ネグリジェを身に纏い、その背中からは、廊下の天井を焦がさんばかりの巨大な「南天の烈火翼」が、ゴオォォッと猛烈な業火を噴き上げながら展開されていた。
単体推定八千馬力。
神話の火の鳥が、その魔力を隠すこともなく剥き出しにして逆ギレしていたのだ。
「なによ割烹着って! なによ火曜と金曜だけの洗濯制限ってぇぇぇッ!! 天界一の美貌を誇るこのわたくしが、なんであんな給食のおばちゃんみたいな布切れを着て、下賤な管理人のおっさんに指図されなきゃいけませんのよぉぉッ!!」
朱雀の瞳が、侮辱と怒りで深紅に燃え盛る。
「男どもが勝手にわたくしの魅力に狂って争っただけじゃない! わたくしは悪くありませんわ! 悪いのは、男を骨抜きにするこの美貌と、わたくしの価値を理解できない無粋なアパートのルールですわぁぁッ! こんなボロアパート、丸ごと焼き払って灰にしてやりますわぁぁぁッッ!!」
ゴオオォォォォォッ!!
朱雀が烈火の翼を羽ばたかせた瞬間、廊下の壁紙がチリチリと炭化し、蛍光魔導管が熱で破裂した。
放たれる熱量は千五百度オーバー。
普通の人間なら、近づくだけで肺胞が焼け爛れて即死する超高温の火炎旋風だ。
だが――
ズッ、ズッ、ズッ……。
その猛烈な火炎の嵐を真正面から切り裂いて、廊下の奥から悠然と歩み出てきた巨大な影があった。
パタパタと便所サンダルを鳴らし、上下金色のジャージの裾を翻す男。
カチカチにポマードで固められた黄金の巨大リーゼントの先から、バチバチバチッ!と凄まじい紫電をスパークさせた、第6の聖獣・麒麟ことリキ兄貴(陸奥騎麟)だった。
「あぁん? 誰がボロアパートを焼き払うってぇ……? 耳の穴をかっぽじって、もういっぺん言ってみな、姐御ぉ」
ドスの利いた、地獄の底から響くような重低音。
リキ兄貴の右拳に、数万ボルトの神聖紫電が超高密度で凝縮されていく。
――【第6の聖獣・麒麟の絶対喧嘩殺法】起動。
――事象:聖雷・鉄拳制裁の威圧展開。
バチィィィィィィンッッッッ!!!!
廊下に満ちていた千五百度の業火が、リキ兄貴の放った一筋の紫電の威圧によって、まるで目に見えない巨大なハエ叩きで叩き潰されたかのように、一瞬で四方へと押し戻された。
空気が凍りつくほどの殺気。
「ひ、ヒィッ……!? り、陸奥……!?」
「ガオンが胃薬噛み砕きながら部屋で泣いてんのも、青龍や白虎が泥だらけになって反省してんのも、全部テメェが撒いた火種だろうがよ!」
リキ兄貴が一歩踏み込むたびに、廊下の床がミシミシと軋んだ。
三白眼の瞳が、獰猛な雷獣の光を宿して朱雀を射抜く。
「それを反省するどころか、夜中に火炎放射器気取って逆ギレだぁ? 同じ屋根の下で暮らすダチの安眠を妨害する奴はなぁ……聖獣だろうが絶世の美女だろうが、俺の雷撃ナックルでそのトサカごとへし折って、近所のドブ川に逆さ吊りで沈めてやるのが『下町の仁義』ってもんだぜオラァッ!!」
「な、なによ野蛮人! 近寄らないでぇぇぇッ!!」
恐怖に駆られた朱雀が、両手を突き出して火炎球を乱射しようとした、その刹那――。
リキ兄貴の巨躯の横から、くたびれた作業着姿の四十男が、何食わぬ顔でスッと間合いを詰めてきた。
戦闘力、わずか1馬力。
千五百度の熱波も、数万ボルトの紫電も、その男の足元に展開された白銀の幾何学模様に触れた瞬間、換気扇のフィルターを通したように綺麗さっぱり無害な微風へと減衰されていた。
――ポポロ・コーポ管理規約第1条:【共用廊下における火気厳禁および騒音禁止】適用。
――【敷地内絶対原状回復および消火プロトコル】発動。
俺は深くため息をつくと、右手に構えた『厚底ゴム底・来客用便所スリッパ(抗菌・茶色)』を、無駄のない流れるようなフォームで振り抜いた。
パッコーーーーーーーーーンッッッッ!!!!
澄み渡る乾いたゴムの破裂音が、二階の廊下に響き渡った。
スリッパの底が、逆立つ朱雀の額のど真ん中を、寸分の狂いもなくクリーンヒットしたのだ。
「ぶべらっ!?」
神話級の烈火の翼が一瞬でシュウウゥと鎮火し、火炎球は煙となって消え去った。
朱雀は白目を剥き、両手でおでこを押さえたまま、カクンと膝をついて廊下の床へ正座の形で崩れ落ちた。
額には、くっきりと四角いスリッパのゴム底痕が赤く焼き付いている。
「廊下で火を噴くなバカ野郎」
俺はスリッパをパチンと一度鳴らし、冷徹な目で朱雀を見下ろした。
「消火器の粉末をぶちまけられたいのか。共用部の壁紙が煤けて原状回復費用がいくらかかると思ってるんだ。火災報知器が鳴ったら、消防隊の代わりにマンミアさんがパイルバンカー構えて突っ込んできて、お前のそのチャイナドレスごと串刺しにされるところだったんだぞ」
「う……うぅぅ……! い、痛い……! な、なんで……なんでただのスリッパが、わたくしの神聖火炎結界を紙みたいに突き破ってくるんですのよぉぉ……ッ!?」
朱雀は涙目で俺を睨み上げようとしたが、俺の作業着の胸ポケットから覗く、インク内蔵式の三文判(佐伯)の冷たい光と、背後に仁王立ちするリキ兄貴の雷撃の圧力を視界に捉えた瞬間、ヒィッと息を呑んで首をすくめた。
「美貌がどうのこうの言う前に、まずは社会人としての基礎常識を身につけなさい。……朱雀さん」
「は、はいぃぃ……っ」
「罪状追加だ。深夜の共用部における放火未遂、ならびに器物損壊。……あんたには明日から一週間、アパート全館の消火器点検ボランティアと、この焦げた廊下の煤落としモップがけを命じる。もちろん、作業中はタローマンの新品の割烹着を着てもらうからな。袖をまくって、バケツを持って、汗を流して床を磨きなさい」
「モ、モップがけぇぇぇ……!? 天界の華たるわたくしが、雑巾がけですのぉぉ……!?」
「嫌なら今すぐ敷金全額没収の上、ポポロ山のイグニスの広場テントへ強制退去だ。あっちは火気厳禁だから、息をするだけで煙たがられるぞ」
「や、やります! モップでも雑巾でも何でもかけますわぁぁぁッ!!」
朱雀は床に両手をつき、完全に屈服して号泣した。
中庭の重力異常に続き、夜間の火炎テロも完全鎮圧。
リキ兄貴がガハハと豪快に笑い、金髪リーゼントをクイッと撫で付けた。
「相変わらずいい腕前だな、健太のオッサン! スリッパ一本で南天の火の鳥を雑巾がけメイドに仕立て上げちまうんだから大したもんだぜ!」
「褒めるなリキ兄貴。深夜の火気トラブルなんて、ビルメンにとっちゃ寿命が縮むだけの最悪の残業だぞ」
俺は首筋を回しながら深く息を吐き出し、胸ポケットから『ストマック・オメガ錠』を取り出してもう一粒噛み砕いた。
ようやくこれで、二階の痴話喧嘩カルテットの再教育と現場統制は完了した。
あとは明日、ガオンの出社復帰を見届け、ガオガオンの基幹OSを再起動させれば、ポポロ村の日常は完全に元通りになるはずだ。
――そう確信して、俺とリキ兄貴が階段を下りようとした、まさにその時だった。
トボ、トボ、トボ……。
夜の帳が下りたポポロ・コーポの前庭から、まるでこの世のすべての重荷を背負い込んだかのような、重苦しくて力のない足音が近づいてきた。
ジャリ……と砂利を踏みしめる音とともに、暗闇の中から姿を現したのは――
ヨレヨレに皺だらけになった安物のビジネススーツに身を包み、手にはくたびれたブリーフケースを提げた、見慣れない男だった。
ピカピカと眩い後光が差しているはずのスキンヘッドは、ストレスのせいか光度が落ちて鈍い蛍光灯のようになっており、その目の下には三重もの青黒い隈が張り付いている。
そして男の右手には――俺と同じ、天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』の業務用特大ボトルが握りしめられていた。
ボリッ、ボリボリボリッ……。
水もなしに、狂ったように胃薬を噛み砕く鈍い音。
アナステシア星区を統括する最高責任者でありながら、自由奔放すぎる女神たちや暴走する現場の板挟みになり、連日胃を痛め続けている苦労人中間管理職神――星区統括リーダーのオリンその人だった。
「うぅ……胃が……胃壁が炭酸水みたいにパチパチ溶けていく……。なぜだ……なぜ誰も私の業務連絡チャットに既読をつけないんだ……。ガオガオンの合体停止アラートが天界本部に鳴り響いて……私の今年度のボーナス査定が……もう……死にたい……」
虚空を見つめ、涙目でブツブツと愚痴をこぼしながらアパートの玄関へ向かってくるハゲ頭の神様。
その痛々しすぎる背中を目にした瞬間、俺の胸の奥底で、かつて決算期にタクシーの中で同じように胃薬を貪り食っていた前世の自分の記憶が、鮮烈にフラッシュバックした。
(……うわぁ。同年代の、完全に心が折れかけてる中間管理職のツラだ)
俺は作業着の袖をまくり直し、リキ兄貴と顔を見合わせた。
どうやら、四神の社内恋愛の後始末の次は、天界からやってきた「超弩級の胃痛上司」の現場ケアが必要になったらしい。
読んでいただきありがとうございます。
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