第三章 五大聖獣の昼ドラ社内恋愛と、リーゼント聖獣のタイムカード
中庭の時空歪曲!? サークルクラッシャー朱雀と四神の洗濯物戦争
人間、どれほど過酷な修羅場を乗り越えても、朝が来れば腹が減るし、汚れた作業着は洗わなければならない。
華美なる悪臭都市ムーンキャピタルでの下水道インフラ大突貫工事と、超音速魔導バキュームカー百台による汚泥吸引・肥料化ミッションを完遂してから二日。
ポポロ村の朝は、驚くほど平穏なはずだった。
午前七時整。
俺――佐伯健太(四十二歳・戦闘力1馬力)は、愛用の作業着の袖をまくり、木造モルタル三階建て『ポポロ・コーポ』一階の管理人室で、湯気を立てる朝飯の膳を調えていた。
今朝の献立は、タローマートで仕入れてきた新鮮な平飼い卵と、米麦草のホカホカ炊きたて白飯。そこに、泥沼夫妻の農園から届いた肉椎茸の軸を細かく刻んで出汁を取り、薄切りにした豆腐と油揚げを浮かべた味噌汁。さらに小鉢には、ネギオから届いた聖葱剣『ネギカリバー』の小口切りを山盛りに添えた、素朴極まりない卵かけご飯セットだ。
卵を溶き、村特産の醤油草から引いた天然醤油を数滴垂らす。白飯の真ん中にくぼみを作り、黄金色の液体をとろりと流し込む。刻みネギカリバーを惜しみなく散らし、箸でざっくりとかき混ぜて一気にかき込んだ。
「……ん、美味い」
濃厚な卵の黄身のコクを、ネギカリバーの鮮烈なキレが完璧に引き締める。
味噌汁を啜れば、肉椎茸の滋味深いエキスが五臓六腑にじんわりと染み渡り、前世の社畜時代から引きずっていた胃の強張りなど綺麗さっぱり霧散していくようだった。
仕上げに、人肌温度(三十七度五分)に保たれた「ぬるい陽薬茶」を湯呑みからズズッと喉へ流し込む。
障子を開け放った中庭からは、心地よい秋風とともに、シャッ、シャッと軽快な箒の音が届いていた。
女子棟(B棟)二〇四号室に正式入居した元社畜令嬢エミリアが、清潔な綿の作務衣に身を包み、プラチナブロンドの髪を後ろで束ねて共用通路の落ち葉を掃いているのだ。
足元では、純白の聖獣コン太が「きゅぅ〜ん(朝飯のあとの日向ぼっこはたまらんのう)」と満足そうに腹を出して転がっている。
五メートルの文通協定を結んだ氷血公爵ヴァルターも、今頃は帝都の精神魔導医の前で「一・五メートルのパーソナルスペース復唱訓練」に励んでいるはずだ。
すべてが平和で、すべてが順調。
胸ポケットに入れた天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』の小瓶も、今朝ばかりは出番がなさそうに見えた。
――そう、俺が洗濯籠を抱えて中庭へ足を踏み出す、その瞬間までは。
「……ん?」
管理人室の裏手、男子棟(A棟)と女子棟(B棟)に挟まれた広々とした共用物干し場。
サンダルを突っかけて敷居を跨いだ瞬間、俺の足元で、重力のバランスがぐにゃりと奇妙にねじれた。
まるで、エレベーターが急降下した時のような内臓の浮遊感。
空気がビリビリと静電気を帯びて肌を粟立たせ、視界の端が陽炎のように歪んでいる。
見上げれば――中庭に張られた共用物干しロープの上で、物理法則を完全に無視した怪奇現象が繰り広げられていた。
誰かが干した白いシーツが、風もないのにピンと真横に引っ張られている。
隣の物干し竿に掛けられたバスタオルは、局所的な高重力に押し潰されたのか、ペチャンコに圧縮されて板のようになっていた。
さらに足元の排水溝からは、水が重力に逆らって球体となってポコポコと宙へ浮き上がり、パチパチと青白い火花を散らしながら弾け飛んでいる。
「おいおいおい……なんだこの局所的な時空歪曲は」
前世のビルメン時代、漏水でエレベーターピットが水没したことはあったし、変電設備のショートでフロア全体が停電したこともあった。
だが、物干し竿の周辺で重力と磁場が同時に狂い、洗濯物が衛星軌道を描きかけている現場など、どこの建築基準法にも載っていない。
俺が呆気にとられて洗濯籠を抱えたまま立ち尽くしていると、箒を手に駆け寄ってきたエミリアが、顔面を真っ青にして叫んだ。
「さ、佐伯さんっ! 危ないです、近づいちゃダメですッ! また始まっちゃったんです……二階の『あの人たち』の、ドロドロの愛憎劇が……ッ!!」
「あの人たち……? 二階って、たしか神界の絶対調停機構とかいう……」
俺の言葉を遮るように、頭上――A棟二階のベランダのアルミサッシが、ガララッと音を立てて開いた。
現れたのは、息を呑むほど妖艶な美女だった。
燃えるような深紅の長髪をゆるやかに波打たせ、深紅のチャイナドレス調のネグリジェを身に纏っている。スリットから惜しげもなく覗く白い太ももと、豊満な胸元。背中には、陽炎のような淡い真紅の炎の翼がチラチラと揺らめいている。
A棟二〇三号室の住人、五聖獣が一角――『南天の朱雀』。
自らを「天界の華」と疑わない、悪名高き超ド級サークルクラッシャーである。
「ふぁぁぁ……よく眠れましたわぁん♡」
朱雀はこれ見よがしに両手を高く伸ばし、豊満なボディラインを強調しながらあざとく伸びをした。
そして、手にした真っ赤なレースのランジェリーと、自分の甘い香水が染み付いたシルクのシーツを、物干し竿へ向かってふわりと広げる。
その瞬間、彼女の視線が――向かい側、B棟二階のベランダへと妖しく向けられた。
長い睫毛を伏せ、流し目をスッと送る。
「あらぁ? 青龍様、白虎様……お二人とも、朝早くから熱心ですのねぇ♡ わたくしの干したシーツ、お日様の匂いがしてとっても気持ちよさそうですこと……ふふっ♡」
チュッと吐息交じりに飛ばされた投げキッス。
その一撃を、向かいのB棟二階で真正面から受け止めた二つの影があった。
「クッ……朱雀……! 今日の君は、朝露に濡れた睡蓮のように美しい……! そのシーツ、乾いたら私が丁寧に畳んで部屋まで届けてあげよう……!」
B棟二〇一号室のベランダから身を乗り出し、金縁の眼鏡をキラーンと光らせているのは、インテリ風の長身美男子――『東天の青龍』。
手にした魔導タブレットで株価チャートをスクロールしながら、口元にはキザな笑みを浮かべているが、その鼻の下はだらしなく三寸ほど伸びきっていた。
「抜かせ知性派気取りのトカゲ野郎! 朱雀のシーツを取り込むのはこの俺だ! おい朱雀、今夜は俺の部屋でタローマートの特上霜降りステーキを焼いてやるぜ! タンパク質を摂って俺の筋肉を愛でろ!」
隣のB棟二〇二号室のベランダで、タンクトップ一枚で自慢の上腕二頭筋をパンプアップさせながら吼えているのは、金髪短髪の武闘派ヤンキー――『西天の白虎』。
二柱の聖獣が、向かいのベランダへ向かってバチバチと火花を散らし合っている。
だが、本当の地獄はそこではなかった。
白虎のさらに隣――B棟二〇三号室の薄暗いカーテンの隙間から、ギチギチと爪を噛む不気味な音が響いてきたのだ。
「許さない……許さないよぉ……青龍も……白虎も……朱雀ちゃんに色目を使いやがってぇぇぇ……」
ボサボサの黒髪を顔半分まで垂らし、目の下にどす黒い隈を浮かべた痩身の青年――『北天の玄武』。
その手には、自らの重力障壁を凝縮した漆黒の数珠が握りしめられていた。
濁りきった瞳が、怨嗟の炎を宿してギョロリと血走る。
「朱雀ちゃんの柔軟剤の香りは……僕だけのものだ……! 僕が毎朝、あのシーツの繊維に染み込んだフェロモンを肺胞いっぱいに吸い込んでるんだぁぁ……! 邪魔をする奴は全員……重力特異点に沈んでブラックホールになっちゃえぇぇぇぇッッ!!」
ドゴォォォォォォォォンッッッッ!!!!
玄武の怨念が爆発した瞬間、中庭の重力が一気に三倍へと跳ね上がった。
物干し竿の鉄パイプがメキメキと音を立てて飴細工のように曲がり、エミリアが干していた作務衣が地面へと力任せに叩きつけられる。
さらに、青龍が「我が知性への侮辱か!」と青い電撃の嵐を放ち、白虎が「上等だオラァッ!」と金色の衝撃波をベランダから叩き込む。
赤、青、白、黒の四色の神聖オーラが中庭のど真ん中で激突し、激しいプラズマ放電と空間の亀裂を撒き散らし始めた。
「キャアアアッ! 洗濯物がぁぁぁッ!」
「きゅぅぅぅーッ!(アカン、昼ドラの怨念で時空が割れるぅぅ!)」
エミリアとコン太が悲鳴を上げて頭を抱える。
そこへ――ドォォンッ!とA棟二〇二号室のドアが内側から蹴破られた。
「貴様らぁぁぁぁッ! いい加減にしろと言っているのが分からんのかぁぁぁッ!!」
ベランダの手すりをへし折らんばかりに身を乗り出してきたのは、獅子の鬣のような黄金の長髪を振り乱した筋骨隆々の巨漢――五聖獣のリーダー、『中天のガオン』だった。
絶対調停機構『聖獣機神ガオガオン』のメインフレームを司る、本来ならば威厳と規律の塊であるはずの男。
……なのだが、その顔面は土気色に青ざめ、目の下には三重の隈が張り付き、右手には天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』の瓶が虚しく握りしめられていた。
「朱雀! お前はなぜそうやって社内の男という男に思わせぶりな態度を取るんだ! 青龍も白虎も、いい年して色香に惑わされて朝練をサボるな! そして玄武! 共用部に私怨で重力特異点を発生させるんじゃない! 貴様らがそんな痴話喧嘩を繰り広げているせいで、我らの合体シンクロ率は連日マイナス四〇〇パーセント! ガオガオンの機体起動コードすら通らんのだぞ! 胃が……胃が破裂しそうだぁぁぁッ!!」
リーダーの血を吐くような叫び。
だが、狂乱する四神の耳には、上司の悲鳴など一ミリも届いていなかった。
「あらぁ〜? ガオン様ったら相変わらずお堅いですのねぇ♡ わたくしはただ、みんなと仲良くお洗濯したいだけですのにぃ〜♡」
「黙れガオン! 今の私は朱雀の愛のポートフォリオを構築することで頭がいっぱいなのだ!」
「リーダー面すんな筋肉ダルマ! 男のケジメは拳で決めるんだよォォッ!」
「朱雀ちゃん……僕の重力の中で……永遠に一つになろうねぇぇぇ……♡」
ドガガガガガッ! ズズズズズッ!
中庭の空間がひび割れ、ポポロ・コーポの木造モルタルの外壁がメリメリと悲鳴を上げる。
配管は軋み、物干し竿はねじ切れ、中庭の敷石が重力異常で次々と宙へ浮き上がり始めた。
ガオンはベランダの手すりに突っ伏し、胃薬の粒をボロボロと地面にこぼしながら涙を流した。
「もう嫌だ……! こんな連中と魂を一つにして合体するなんて絶対に無理だ……! ストライキだ! 有給だ! 俺はもう二度と部屋から出んぞぉぉぉッ!!」
バァァァンッ!とアルミサッシを閉め、部屋へ引きこもるリーダー。
残されたのは、泥沼の社内恋愛バトルによって崩壊寸前の中庭だけだった。
その阿鼻叫喚の惨状の真ん中で――。
抱えていた洗濯籠を地面にコトッと置いた俺の額に、ピシリと青筋が一本浮かび上がった。
(……おいおいおい)
前世の総合商社時代、総務課長として最も頭を抱えさせられた最悪の不祥事トップ3。
第一位:役員の横領。
第二位:深夜の配管破裂。
そして――同率第一位に匹敵する最悪の現場破壊爆弾、それが『同部署内でのドロドロの痴情のもつれによる業務ボイコット』だった。
営業部のエースと事務の看板娘が二股をかけたせいで部署内の空気が氷点下になり、書類の決裁が二週間ストップしたあの悪夢の繁忙期。
他部署の人間がどれほど迷惑を被り、泥をかぶる羽目になったか。
しかも、ここは神界の戦場ではない。
俺が丹精込めて原状回復し、住人たちが汗水流して稼いだ家賃で暮らしている、大切な木造集合住宅『ポポロ・コーポ』の中庭なのだ。
そこで私怨の重力異常を起こし、他人の洗濯物を泥まみれにし、建物の寿命を縮めるなど――昭和の管理人として、一億パーセント許容できる暴挙ではなかった。
「……エミリアさん」
「ひ、ひゃいっ!?」
「落ちた洗濯物を拾って、管理人室へ避難していなさい。泥がついた服は、後で俺が固形石鹸で洗い直してやる」
「さ、佐伯さん……? あの、お顔が……いつになく怖いです……っ!」
俺は作業着の胸ポケットから、天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』を取り出し、三粒をバリボリと音を立てて噛み砕いた。
そして――足元から、愛用の『厚底ゴム底・来客用便所スリッパ(抗菌・茶色)』を右手にサッと引き抜いた。
左手には、朝刊の『ルナミス新聞』をガチガチにきつく巻き上げた即席ハリセン。
スリッパをパチンと一度鳴らす。
その瞬間、俺の足元から、淡い白銀の幾何学模様が中庭全域を包み込むように展開した。
――ユニークスキル『管理人権限(共用部秩序維持プロトコル)』最大稼働。
――対象建造物:ポポロ・コーポ共用中庭物干し場。
――ポポロ・コーポ管理規約第3条:『共用部における私的闘争、騒音、および時空歪曲行為の全面禁止』。
――【敷地内絶対平穏&重力異常強制リセット(ハウス・ルール)】を執行します。
カチリッ、と空間が凍りつくような音が響いた。
刹那――宙に浮いていた水球がパシャリと地面に落ち、ねじ曲がっていた重力場が一瞬にして一気圧・一Gの日常へと引き戻された。
ベランダから放たれていた四神の闘気と魔力が、まるで換気扇のファンに吸い込まれるようにシュウウゥと霧散していく。
「な……ッ!? わたくしのフェロモン熱風が……消えた……!?」
「私の電撃演算が遮断されただと!?」
「重力が……僕の愛の重力が、ただの地球標準重力に戻っちゃったぁぁ!?」
呆気にとられてベランダから見下ろす朱雀、青龍、白虎、玄武の四神。
その真下の中庭に、くたびれた作業着姿の四十男が、仁王立ちで立っていた。
猫背をスッと伸ばし、右手に持った来客用便所スリッパを、二階のベランダへ向けてビシッと突きつける。
「おい、そこの二階の痴話喧嘩カルテット。……全員、ツラを洗って一階の管理人室へ降りてきなさい」
静かで、ドスの利いた、逃げ場のない中間管理職の現場指導ボイス。
「ポポロ・コーポ総務部による『社内恋愛および共用部マナー改善コンプラ面談』を即刻開始する。……一分遅刻するごとに、敷金を三割ずつ没収するぞ」
神話の聖獣たちを相手取った、昭和の管理人による「地獄の説教部屋」の幕が、いま静かに切って落とされようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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