EP 10
5メートルの文通協定と、大浴場サウナの至福な終幕
白大理石の街並みを金色に染め上げていた夕陽が地平線の向こうへ沈み、群青の夜空に数多の星々が瞬き始めた頃。
ムーンキャピタル領主公邸の中庭テラスで行われていた打ち上げの宴は、ようやくお開きの時間を迎えていた。
霜降り牛と肉椎茸のサイコロステーキを平らげたポポロ村の作業部隊は、牽引車の荷台に機材やバキュームホースを手際よく積み込み、帰還の準備を整えている。
公邸の正門前、未舗装の街道へ続く白大理石の敷居の前で、俺は出勤鞄を小脇に抱え、平服に着替えた氷血公爵ヴァルターと向かい合っていた。
その間隔は――きっかり五メートル。
敷石の目地五枚分、互いに手を伸ばしても絶対に届かない、完璧かつ清々しいまでの「安全距離」だった。
「……佐伯殿。改修工事の完工、ならびに我が街への多大なるご尽力、重ねて感謝申し上げる」
ヴァルターは額と鼻に貼られた白い湿布を気にする風もなく、背筋をピンと伸ばして深々と頭を下げた。
かつての、あの狂気じみたハートマークの燐光や、会話距離二センチまでヌルッと間合いを詰めてくる変質者の気配は微塵もない。
瞳の奥に宿るのは、北部方面軍を束ねる名門貴族としての誇りと、己の不祥事を深く恥じる大人の理性だけだった。
「公爵さん、礼には及びませんよ。正当な対価と外貨は、ニャングルさんがキッチリ回収しましたからね。……で、カウンセリングの件はどうなりました?」
「うむ。帝都から著名な精神魔導医を招聘し、明日から『対人距離適正化プログラム』および『認知行動療法』の受講を開始することとなった。……まずは、鏡に向かって『初対面の相手とは一・五メートル離れる』という復唱訓練を毎朝百回行う予定だ」
「いい心がけだ。前世の職場でもな、距離感を履き違えたパワハラ上司やセクハラ社員は、総務のコンプラ室で反省文を書かせた後に再教育プログラムを受けさせたもんだ。自分の欠陥を素直に認めて直そうとする奴は、必ず成長する」
俺が頷くと、ヴァルターは視線を斜め後ろ――牽引車のステップの陰から恐る恐る顔を覗かせているエミリアへと向けた。
作務衣を着て、白狐のコン太を抱きしめた元社畜令嬢。
ヴァルターは決して前へ進み出ようとはせず、五メートルの境界線を厳格に守ったまま、静かに口を開いた。
「エミリア殿」
「は、ひゃいっ!?」
「……すまなかった。貴殿の心を踏みにじり、恐怖に陥れた私の浅慮と奇行、万死に値する。だが……貴殿がポポロ村で新しい人生を歩むという決断を、私は尊重したい。もう、軍を差し向けて追うような真似は決してせぬと誓おう」
「こ、公爵様……」
エミリアが蒼い瞳を瞬かせる。
ヴァルターは懐から、一通の封書を取り出した。
だが、自ら手渡そうとはせず、俺に向かってスッと差し出した。
「佐伯殿、これを彼女へ。……協定書に基づき、今後、私からエミリア殿への連絡は、すべてポポロ村役場を経由した『月一回の定期書簡(文通)』のみに制限する。面会を求めることはない。文字を通じて、まずは一人の友人として、真っ当な人間関係を築き直したいのだ」
「承りました。検閲の上、問題がなければ本人へ届けます」
俺が封書を受け取ると、エミリアは胸の前で手を組み、ホッと安堵の息を吐き出した。
五メートルの距離。
無言で十五分間顎クイをしてきた恐怖のストーカーが、自分を尊重し、距離を置いて誠意を示してくれている。
エミリアは作務衣の裾を小さく正し、ぺこりと頭を下げた。
「……ありがとうございます、ヴァルター公爵。お返事は……気が向いたら、書きますね」
「ああ……。健やかに暮らしてくれ、我が……いや、エミリア殿」
『小鳥』と言いかけて飲み込んだ公爵に、俺は思わず口元を緩めた。
完璧な更生への第一歩だ。
俺は牽引車の助手席へ乗り込み、窓から手を挙げた。
「公爵さん、街の下水道は定期的な高圧洗浄を忘れるなよ。半年ごとに監査に来るからな」
「承知した。佐伯殿、道中ご無事で!」
直立不動の敬礼で見送る公爵を背に、百台の超音速魔導バキュームカーと牽引車の一隊は、夜の街道をポポロ村へと向けて滑り出した。
*
ポポロ村の重厚な防衛ゲートが見えてきたのは、午後九時を少し回った頃だった。
街道の土埃を抜け、村の境界線を跨いだ瞬間――
待ち構えていたのは、闇夜を昼間のように照らし出す、無数の投光器の眩い白光だった。
「お帰りなさぁぁぁぁぁぁい、健太さぁぁぁぁんっっ!!」
ドォォォォォォンッ!と地響きを立てて突進してきたのは、純白のウサギ耳を大きく振り乱した村長キャルルだった。
パジャマの上にフリル付きの村長羽織を羽織り、満面の笑みで牽引車の助手席のドアへダイブしてくる。
俺がドアを開けてステップへ降り立つと同時に、キャルルは俺の腰回りへギュッとしがみついてきた。
「ふぇっ……!? ち、近いです村長!」
「ううん、近くないよ! 三日間も健太さんの心音が聞こえなくて、私、心臓が止まりそうだったんだからぁぁ……♡」
キャルルは俺の胸元――ちょうど左胸のポケットに押し込まれていた『人参柄刺繍ハンカチ』の上から、すりすりと頬を擦り付けてきた。
トクン……トクン……と打つ俺の鼓動を聞きながら、琥珀色の瞳を蕩けるように細める。
「ああっ……やっぱり、本物の健太さんの心音……世界で一番穏やかで、優しい波形……♡ ハンカチのGPSログで見てたよ? 悪い女に鼻の下伸ばしてなかったよね? ずっと現場で泥だらけになって、真面目に書類書いてたよね? えらい、えらいね健太さん……♡♡」
「……おいおい、GPSログの監視報告を笑顔で口にするな。背筋が凍るわ」
俺が苦笑しつつ彼女の頭を軽くポンポンと撫でると、キャルルのウサギ耳がパタパタと歓喜の微振動を刻んだ。
その後ろからは、出迎えの住人たちがゾロゾロと姿を現す。
手にした金算盤を「ガッポガッポや!」と誇らしげに掲げるニャングルの周りに、人狼執事リバロンが「お見事です、佐伯殿」と慇懃な一礼を捧げ、女子棟からは見習い神リリスや不死鳥フレアが手を振っている。
「さぁ、みんな無事に帰ってきたんだ。荷下ろしは明日の朝にして、今夜はとっとと風呂に入って寝るぞ!」
「「「「うおおおおおっ!! 風呂だぁぁぁッ!!」」」」
*
ポポロ・コーポ一階、併設大浴場。
男湯と女湯を隔てる板壁の向こうから、パシャァン!と盛大に湯を跳ね上げる音と、黄色い歓声が響いてきた。
「きゃあああっ! ひろぉぉぉいっ!! お湯が……お湯がすっごく澄んでて、木とハーブのいい匂いがするぅぅぅッ!!」
女湯から聞こえてくるのは、エミリアの涙混じりの絶叫だった。
「エミリアちゃん、驚くのはまだ早いで! その湯口から出とるの、ポポロ山の地下五百メートルから湧き出とる天然マナ温泉やからな! お肌ツルッツルになるでぇ!」
「ふふ、エミリアさん、背中を流して差し上げましょうか? あ、でも私のこの四本足の馬胴、浴場では少々場所を取ってしまいますけれど……っ」
「マンミアさん、気にしないでください! ああっ……清潔なお風呂……! ドブと香水の匂いがしないお風呂に入れるなんて、本当に人間界に戻ってこられたんだわぁぁぁッ!!」
女湯の壁越しに伝わってくる、元社畜令嬢の魂の快哉。
前世で激務に追われ、シャワーすら浴びずに泥のように眠っていた日々を思えば、彼女にとってこの清潔な大浴場は、天国以外の何物でもないのだろう。
一方――男湯の奥、太い丸太で組まれたフィンランド式サウナ小屋の中。
熱されたサウナストーンが敷き詰められたストーブの前に、俺は一人、腰巻きタオル一枚で静かに座っていた。
室温、きっかり九十度。
俺は手元の木柄杓で、ネギオから分けてもらった芳香薬草『陽香草』を煮出したアロマ水をすくい、熱々のサウナストーンの上へと静かに注いだ。
ジュワワワワワワワァァァッッッ……!!
立ち上る濃密な白煙と、爆発的な熱波。
柑橘とミントを足したような爽やかな薬草の香りがサウナ小屋いっぱいに充満し、全身の皮膚からドッと大粒の汗が噴き出してくる。
目を閉じ、深く息を吸い込む。
(……ああ、これだ。この熱気のために、現場で泥をかぶってるんだ)
突貫工事の疲労、公爵の相手、カグヤのクレーム処理。
張り詰めていたすべての神経が、熱波の圧力によってジワジワと溶け崩れていく。
十二分計の砂時計が落ちきったところで、サウナ小屋を出る。
汗を掛け湯で流し、そのまま隣の『地下水掛け流し極冷水風呂』へ、迷わず肩まで浸かった。
ザパァァァァンッ……。
「…………っっっ!!」
水温、十四度。
ポポロ山の雪解け水を引き込んだ純度百パーセントの地下水が、火照りきった皮膚をキュッと引き締め、毛穴という毛穴を瞬時に冷却していく。
気管の奥にスッと冷気が通り、脈拍が穏やかに減速していく。
一分間じっくりと冷やした後、水風呂を出て、露天スペースに置かれた木製のととのい椅子へと深く腰掛けた。
夜風が、肌を優しく撫でていく。
頭の奥が、ポワァァァン……と温かい光に包まれる感覚。
心臓の鼓動が、大地のリズムと完全に同調する。
――完全な、ディープ・リラックス。
いわゆる『ととのった』瞬間だった。
「……ふぅ。生きてるな、俺」
前世の総合商社時代なら、過労死寸前の午前三時にタクシーの中で白目を剥いていた時間だ。
それが今や、異世界の魔境アパートで、最高のサウナと最高の風呂を堪能している。
戦力1馬力だろうが何だろうが、この平穏がある限り、現場管理人の仕事は辞められそうにない。
*
風呂から上がり、清潔な作業着のズボンと半纏を羽織って管理人室へ戻る。
ちゃぶ台の上には、すでに至福の晩酌セットが整えられていた。
ニャングルがムーンキャピタルの特需から一本抜いて届けてくれた、最高級の長期熟成芋蒸留酒『イモッカ・ゴールドラベル』。
氷を満たしたグラスに黄金色の液体を注ぎ、タローソンで買ってきた強炭酸水を静かに注ぎ入れる。
シュワシュワシュワ……と心地よい気泡が弾け、芳醇なサツマイモの香りがふわりと立ち上る。
酒の肴には、泥沼夫妻からお礼として届いていた肉椎茸の素焼き。
七輪の炭火でこんがりと炙り、表面にドンガン岩塩をパラリと振り、ネギカリバーを刻んで乗せただけの極めてシンプルな一皿だ。
箸で肉椎茸をつまみ、口へ運ぶ。
ジュワッ……!と熱々のキノコ肉汁が口いっぱいに溢れ出す。
岩塩がその濃厚な旨味を極限まで引き立て、ネギカリバーの清涼な辛味が油感を完璧にリセットする。
すかさず、冷えたイモッカ・ソーダを喉へ流し込んだ。
「…………ぷはぁっ!」
喉を通る強炭酸の刺激と、胃袋へ染み渡るまろやかなアルコールの温もり。
五臓六腑が歓喜の悲鳴を上げている。
トントン、と障子が控えめにノックされた。
開けると、女子棟二階の作務衣姿に着替えたエミリアが、湯上がりの濡れたプラチナブロンドの髪を手拭いで拭いながら立っていた。
足元では白狐のコン太が「きゅぅ〜ん(部屋の畳、最高やったぞ)」と満足そうに伸びをしている。
「佐伯課長……あ、いえ、管理人さん。改めて、お部屋の鍵、ありがとうございました。女子棟二〇四号室、すごく静かで……畳の匂いがして、落ち着きます」
「気に入ったなら何よりだ。……ほら、エミリアさんも一杯どうだ? イモッカは度数が高いから、果実水で割ってあるぞ」
「わぁ、いただきます!」
縁側に並んで腰を下ろし、冷たいグラスを傾ける。
エミリアは夜空を見上げ、深く、満ち足りた息を吐き出した。
「信じられないです……。三日前まで、泥まみれで森を逃げ回って、うんこと香水の匂いに吐きそうになってたのに……。こんなに美味しいお風呂に入って、美味しいご飯を食べて、静かに星を見上げられるなんて……」
「生きてりゃ色々あるさ。……だが、飯を食って、温かい風呂に入って、ちゃんと寝床があれば、人間は大抵のやり直しがきく。明日からはポポロ村役場の商務補佐として、しっかり働いてもらうからな」
「はいっ! 私、死ぬ気でエクセル……じゃなくて、表計算魔導ボードを使い倒して、ポポロ村の特産品を大陸中に売り捌いてみせます!」
力強く拳を握りしめる元社畜令嬢。
その顔には、もう逃亡者の影は微塵もなかった。
俺は青箱のハード煙草に火をつけ、紫煙をポポロ村の澄んだ夜空へと燻らせた。
胸ポケットの中で、キャルルから託された『人参柄刺繍ハンカチ』が、俺の帰還を喜ぶように、トクン……トクン……と穏やかな微振動を刻んでいる。
東の空には、悪臭を脱ぎ捨てて近代衛生都市へと生まれ変わったムーンキャピタルの街灯りが、優しく輝いていた。
トラブル続きの毎日だが――まあ、悪くない。
明日もまた、定時退勤と美味い晩酌のために、この魔境のアパートを守り抜くだけだ。
俺は冷たいイモッカ・ソーダを飲み干し、夜風に目を細めた。
読んでいただきありがとうございます。
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