EP 5
正気に戻った氷血公爵と、赤字覚悟の自首相談
木造モルタル三階建て『ポポロ・コーポ』の敷地内に、静けさが戻った。
正門前に展開していた白銀の重装騎兵団百余騎は、鼻血を流して膝をついた総司令官ヴァルターの周りでオロオロと狼狽えながら、完全に攻めあぐねていた。
向かい合う俺は、右手に持った『厚底ゴム底・来客用便所スリッパ(抗菌・茶色)』をパチンと軽く手のひらで叩き、作業着のポケットから天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』を取り出してポリポリと噛み砕いた。
口の中に広がる生薬の苦味を舌先で転がしながら、俺は敷地境界線の足元へ視線を落とす。
淡い白銀の幾何学模様が、アスファルトの境界線に沿って薄く脈動している。
――ユニークスキル『管理人権限(敷地内絶対秩序維持プロトコル)』常時稼働中。
――事象:敷地内における『迷惑電磁波(絶対愛憐の過剰フェロモン)』の強制周波数スクランブル遮断。
――対象:半径三十メートル以内の全生体ユニットの精神状態を『平常時』へと強制減衰します。
ジジジ……と、まるで空間のノイズが晴れていくような電子音が鼓膜の奥で鳴り響いた。
エミリアの無意識のパニックによって大気に溶け込んでいた「男のIQを問答無用で一桁に叩き落とす桃色のバグ電波」が、ポポロ・コーポの防護結界に触れたそばから、エアコンの空気清浄フィルターを通したように綺麗さっぱり無害化されていく。
その瞬間――。
「………………はっ!?」
額にスリッパの四角いアザをつけ、鼻からツーッと一筋の血を垂らしたまま地面に突っ伏していた氷血公爵ヴァルターが、ガバッと顔を跳ね上げた。
青い瞳を激しく見開き、自らの白銀のガントレット(籠手)を戦慄の面持ちで見つめる。
その瞳から、あの狂気じみたハートマークの燐光が完全に消え失せていた。
「な……んだ……? 頭が……異様に、冷える……? 熱病が、嘘のように……引いていく……?」
「正気に戻ったか、公爵さん」
俺がスリッパを構えたまま淡々と声をかけると、ヴァルターは「ハッ!」と息を呑んで周囲を見回した。
そこにあるのは、辺境ののどかな木造アパート。
大浴場の煙突から立ち上る穏やかな薪の煙。
そして――何百名もの領民や部下たちを総動員して、たった一人の若い女性を軍靴で包囲している、客観的に見てどう考えても異常すぎる自分たちの布陣だった。
「ま、待て……。私は、何をしていた……? 北部方面軍の精鋭百騎を勝手に動員し……他国の緩衝地帯に無断越境し……!?」
「それだけじゃないぞ。被害届の要約を読み上げてやろうか」
俺は作業着の胸ポケットから、先ほどエミリアから受理した『被害届出書』を取り出し、老眼鏡を鼻先にかけながら淡々と読み上げた。
「『街のカフェの窓際で会話距離二センチまで詰め寄り、無言のまま十五分間顎クイを敢行』。『翌朝、愛馬ごと二階の高さまで滞空し、寝室の窓から薔薇の花束を投げ込み不法侵入未遂』。『公道で逃走する女性を時速五十キロで全軍突撃追尾』。……公爵さん、前世の俺のいた世界なら、一発で逮捕・勾留、懲戒免職のコンボ確定だぞ。社会人として何一つ弁解の余地がない」
「ぐ……ぐああああああああっっっっっっ!!!!」
ヴァルター公爵は突如、両手で頭を抱え、地面に額を激突させて転がり回った。
その顔面は、鼻血どころの騒ぎではない。
耳の先から首筋までが屈辱と羞恥で真っ赤に沸騰したかと思えば、次の瞬間にはサーッと血の気が引いて土気色になり、激しい過呼吸を起こしてガタガタと震え出したのだ。
「お、思い出した……! 私は……私は一体なんという奇行を……ッ!! あ、顎クイだと……!? 無言で十五分……!? しかも馬で二階の窓に浮遊だとぉぉぉッ!? 死にたい……! 穴があったらマントル層まで掘り進んで埋まりたい……ッ!!」
「ほほう、自分のやったことのヤバさを理解できる知能は残っていたようだな」
前世でもいた。
忘年会で泥酔して新入社員の頭にネクタイを巻き、「俺の若い頃はなぁ!」と熱弁を振るった翌朝、総務課の給湯室で「もう会社辞めます……樹海へ行きます……」と真っ青になって震えていた営業部の若手係長が。
正気に戻った後の羞恥心というのは、どんな物理攻撃よりも深く男の精神を抉るものだ。
「しょ、閣下……!? だ、大丈夫ですか閣下ぁぁッ!?」
慌てて駆け寄ろうとする側近の騎士たち。
だが、彼らもまた結界の減衰波を浴びたことで、頭の靄が晴れたらしく、自分たちの愚行に次々と気づき始めていた。
「ま、待て……俺達、なんで朝の演習をサボって他国の村を取り囲んでるんだ……?」
「軍規違反だ……! 軍事法廷送りで全員営倉行きだぞこれ……!」
ざわめき、動揺する兵士たち。
中庭の物陰から恐る恐る顔を出していたエミリアが、竹箒を抱きしめたまま目をパチクリとさせた。
「え……? あ、あの冷酷無比で絶対に人の話を聞かなかった氷血公爵が……地面にめり込んでのたうち回ってる……?」
「きゅぅ〜ん(アホや、完全に憑き物が落ちたアホの顔しとるわ)」
コン太が呆れたように前足を振る。
俺は作業着の袖をまくり直し、正門の敷居をゆっくりと跨いで、地面に突っ伏す公爵の前へと歩み寄った。
ヴァルターは震える手で地面を掻きむしり、涙目で俺を見上げてきた。
「管理人の……男よ……。頼む、いっそそのスリッパで、私の頭蓋骨を粉砕してくれ……。死んで詫びるしか……我がレプシウス家の名誉を保つ術がない……」
「死んで済むなら総務も警察もいらんのだよ」
俺はため息をつくと、作業着のポケットから清潔なティッシュを取り出し、ヴァルターの鼻先に放り投げてやった。
「鼻血を拭け。……公爵さん、あんたのその奇行、半分はあんた自身の女慣れしてない不器用さのせいだが、残りの半分はあの子の『絶対愛憐』っていうバグまみれのユニークスキルのせいだ。あんたの脳みそが強制的に恋愛ホルモンでショートさせられてたんだよ」
「ス、スキル……? 私が、精神干渉を……?」
「ああ。だから、死んで逃げる前に、まずは大人の落とし前をつけなさい。軍を下がらせて、正式に事情聴取と面談を受けるんだ」
俺が指差した先――アパートの玄関前には、いつの間にか村役場の重鎮たちがずらりと勢揃いしていた。
腕組みをして冷徹な笑みを浮かべる人狼執事リバロン。
純金とミスリルの金算盤をギラリと光らせるCFOニャングル。
そして、パイルバンカーのシールド『アグニ』を構え、「不法侵入者はいつでもミンチにしますよ」と殺気を放つ自警団長マンミア。
「ひ、ヒィッ……!」
「立て公爵。現場の泥は、大人が責任持って片付けるもんだぞ」
*
ポポロ・コーポ一階、共同集会所。
畳敷きの大部屋に、長机が対面で配置されていた。
片側には、平服に着替えさせられ、額と鼻に白い湿布を貼られたヴァルター公爵が、正座で小さく縮こまっている。背後には、青ざめた副官二名が直立不動で控えていた。
そして対面には――村役場総務補佐の俺、人狼執事リバロン、そしてCFOニャングルが陣取っていた。
机の上には、湯呑みに注がれた「ぬるい陽薬茶」がことりと置かれている。
「……まずは、このお茶をお飲みください、公爵閣下」
リバロンが慇懃無礼な笑みとともに勧める。
ヴァルターは震える手で湯呑みを持ち上げ、恐る恐る口をつけた。
ズズッ……。
「…………っ。ぬるい……が、頭の芯の軋みが、綺麗に消えていく……」
「緊張をほぐすための人肌温度ですからね。……さて、ヴァルター公爵。単刀直入に申し上げます」
俺は表計算魔導ボードをパッと机の上に広げた。
「エミリア・フォン・グランツさんは、本日付でポポロ村役場の商務補佐官として正式に雇用契約を締結し、当コーポの女子棟二〇四号室へ住民票を移しました。彼女に対するストーカー行為、接近、および連れ戻しの要求は、三大国緩衝地帯協定およびポポロ村条例に基づき、断固として拒絶します」
「う……うむ……異存はない……。すべては私の不明の致すところだ……。彼女の顔を見る資格など、今の私にはない……」
完全に心がポッキリと折れ、項垂れるヴァルター。
そこへ、すかさずニャングルが金算盤をバチバチッ!と火花を散らして弾きながら身を乗り出した!
「話が早くて助かるわ公爵はん! ほな、実務的な損害賠償の計算に入らせてもらおか!」
「そ、損害賠償……?」
「当たり前やろ! 無断越境による自警団緊急スクランブル出撃費用、コーポ敷地の結界稼働魔力代、エミリアちゃんの精神的慰謝料、それに健太のおっちゃんが朝飯を中断させられた迷惑料! ……締めて、金貨五百枚(約五千万円)になりますわ!!」
「ご、五百枚……!?」
副官たちが息を呑む。いくら公爵家とはいえ、個人の不祥事で即座にポンと出せる小遣い銭の額ではない。
だが、ニャングルの強気な請求に対し、俺はスッと手をかざして制止した。
「ニャングルさん、少し待ちなさい。……公爵さん、俺たちが本当に問題視しているのは、慰謝料の金額じゃないんだよ」
「……え?」
ヴァルターが湿布の貼られた顔を上げた。
俺は青箱のハード煙草に火をつけ、紫煙を燻らせながら、集会所の窓の外――北東の空を指差した。
「あんたが治めているあの街……『ムーンキャピタル』の惨状だ。キャラバンの道中で嗅いだが、ありゃ人間の住む場所じゃないぞ。側溝から汚水が逆流して溢れ返り、それを誤魔化すために市民に毎日高級香水をぶちまけさせているそうだな。街中が『薔薇の香りの肥溜め』になってるじゃないか」
「っ……! そ、それは……」
ヴァルターの表情が、苦渋に歪んだ。
今度は恥ではなく、領主としての無力感と悔しさに満ちた顔だった。
「……分かっている。あの悪臭のせいで、街の商業は衰退し、市民の呼吸器疾患は増える一方だ……。だが、ムーンキャピタルは月の女神カグヤ様の直轄都市。女神様が『景観を損ねる下水道工事は許さない』『汚水は香水で清めよ』と絶対の神託を下している以上、我々人間には……どうすることもできんのだ……!」
「神託を言い訳にして現場の汚泥から目を背けるなバカ野郎」
俺の容赦ない一喝に、ヴァルターが息を呑んだ。
「インフラの破綻を香水で隠すのは、粉飾決算と同じだ。隠せば隠すほど赤字は膨らみ、最後には街ごと破綻して市民全員が破滅する。……現場の安全と衛生を守るのが、上に立つ管理職の唯一にして絶対の責任だろうが」
「あ……っ……」
ヴァルターの青い瞳が、激しく揺れ動いた。
冷徹な軍人として育てられ、神々の理不尽な命令に唯々諾々と従うしかなかった男の胸に、昭和の中間管理職の泥臭い責任論が、杭のように深く突き刺さる。
「公爵さん。慰謝料の金貨五百枚は、全額免除してやる」
「なっ……!? 健太のおっちゃん、何言うとるんや!?」
ニャングルが飛び上がったが、俺は静かに首を振った。
「その代わりだ。あんたの領主権限を使って、ポポロ村の作業部隊がムーンキャピタルへ立ち入る許可証を出しなさい。……俺たちが、あの腐った下水道を根こそぎ大改修してやる」
「き、貴方たちが……あの街の下水道を……!? し、しかしカグヤ様の神託が――」
「神様のご機嫌取りなんざ、書類の書き方一つでどうとでもなる。総務の誤魔化し――いや、適切な名目変更を舐めるなよ」
俺はニヤリと笑うと、胸ポケットからインク内蔵式の三文判を取り出し、机の上の『都市衛生環境改善・業務提携基本合意書』へ、力強くポンと押し込んだ。
ポンッ。
――ユニークスキル『最上位稟議決裁』執行。
――事象:ポポロ村とムーンキャピタル間の『公衆衛生緊急包括協定』を確定。
「よし、契約成立だ。……公爵さん、あんたも手伝うんだぞ。エミリアさんに合わせる顔を作りたいなら、まずはスコップを握って、自分の街のドブさらいから始めなさい」
「佐伯……殿……」
ヴァルターは両手を畳につき、深々と頭を垂れた。
その肩は、もはや恐怖や羞恥ではなく、進むべき道を見出した男の覚悟に震えていた。
「感謝する……! このヴァルター、いかなる泥汚れも厭わん! 我が街の再生のため、貴殿の指揮下に入ろう……ッ!!」
こうして、ストーカー公爵包囲事件は、前代未聞の「都市インフラ大改修プロジェクト」へと発展した。
だが、その契約が成立した瞬間――。
天界の雲の上、豪奢な白大理石の宮殿で、最高級発泡神酒を優雅に傾けていた月の女神カグヤの神格スマートフォンが、けたたましい警告アラートを鳴り響かせたのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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