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『戦力1馬力のおっさん管理人、魔境の村で静かに暮らしたい〜ぬるい茶と三文判で神や竜王を手懐けていたら世界の黒幕に〜』   作者: 月神世一


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EP 4

氷血公爵のコーポ包囲網と、来客用スリッパの境界線

 翌朝、午前七時半。

 木造モルタル三階建て『ポポロ・コーポ』の敷地内には、どこか落ち着かない、だが平和な朝の空気が流れていた。

 女子棟(B棟)二〇四号室の空き部屋へ無事に引っ越しを済ませた元社畜令嬢エミリアは、昨晩の『肉椎茸とネギカリバーの出汁スープ』と大浴場で完全に英気を養ったらしく、泥と涙で汚れていたペールブルーのドレスから、俺がタローマートで仕入れてきた動きやすい綿の作業用作務衣へと着替えていた。

 プラチナブロンドの髪を後ろで一本に束ね、竹箒を手にした彼女は、中庭の落ち葉をシャッ、シャッとリズミカルに掃き清めている。

 足元では、白狐のコン太が「きゅぅ〜ん(飯食ったら日向ぼっこに限るわい)」と腹を出して転がっていた。

「おはようございます、佐伯さん! コーポの共用廊下と階段、雑巾がけ終わりました! 次は何をすればいいですか!?」

「おはようエミリアさん。朝から精が出るな。だが、まだ試用期間中なんだから、そんなに根を詰めなくていいぞ。ほら、朝飯にしよう」

 俺は管理人室の前の濡れ縁に、湯気を立てるお盆を運んだ。

 今朝の献立は、米麦草の炊きたて白飯と、薄切りにした肉椎茸とワカメの味噌汁。そして、タローソンで調達した新鮮な生卵を落とした納豆もどきの発酵豆に、ネギオから届いた『ネギカリバー』の小口切りをたっぷりと散らした小鉢だ。

 箸を割り、発酵豆をかき混ぜて熱々の白飯の上へ滑り込ませる。

 エミリアは目を輝かせ、両手を合わせた。

「いただきます! はふっ……もぐっ……! んん〜っ! ネギのシャキシャキ感とお豆のコクが最高です……! 朝からこんなちゃんとした日本の朝ごはんが食べられるなんて、夢みたいです……!」

「しっかり噛んで食いなさい。今日も村役場に顔を出して、転入届と商務補佐の雇用契約書をニャングルさんに通さなきゃならんからな」

 俺はぬるい陽薬茶をズズッと啜り、青箱のハード煙草に火をつけようとした――まさにその時だった。

 ズズズズズズズッ……!!

 地鳴りのような重低音が、ポポロ・コーポの木造モルタルをビリビリと震わせた。

 中庭の敷石の隙間から、パリパリと白い霜が猛烈な勢いで広がっていく。

 気温が急降下し、吐く息が一瞬で白く凍りついた。

 コン太がガバッと跳ね起き、毛を逆立ててコーポの正門を睨みつける。

「きゅ、きゅぅぅぅッ!?(来やがった! あの執念深いストーカー野郎だ!)」

「……っ! 嘘でしょ……!? もう追いついてきたの!?」

 エミリアの手から茶碗が滑り落ちそうになり、顔面から血の気がサーッと引いていった。

 コーポの正門前、未舗装の砂利道。

 そこには、昨日の街道での屈辱を晴らすべく、完全武装を施した白銀の重装騎兵が百騎以上、アパートの敷地を完全包囲するように整列していた。

 中央に立つのは、漆黒の巨大な軍馬から音もなく飛び降りた男。

 帝国北部方面軍総司令官、氷血公爵ヴァルター(二十八歳)。

 その額には、昨日俺が叩き込んだ『来客用便所スリッパ』の四角いゴム底の痕が、いまだにくっきりと真っ赤なアザとして残っていたが、本人は至って真剣な冷徹美形モードを崩していなかった。

「朝の挨拶にしては、ずいぶんと物騒な人数だな」

 俺はタバコを胸ポケットに戻し、作業着のポケットから天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』を取り出して二粒ポリポリと噛み砕いた。

 そして、玄関の上がり框から、昨日大活躍した『厚底ゴム底・来客用便所スリッパ(抗菌・茶色)』を右手に引っ提げ、カツカツと砂利を踏みしめて正門前へと歩み出た。

「佐伯さん、危ないですッ!」

 エミリアが悲鳴を上げるが、俺は片手を上げて制止する。

 正門の敷居――コンクリートの境界線の手前で、俺は立ち止まった。

 向かい合うのは、単体推定五千馬力、帝国屈指の冷気魔術の使い手である公爵。

 ヴァルターは長い前髪を指先でかき上げ、青い瞳を妖しく細めると、周囲の大気を凍らせながら一歩、前へ踏み出してきた。

「……また貴様か、貧相な作業着の男よ。昨日は不覚を取ったが、我が軍の総力を挙げた包囲網からは逃れられん。……エミリア、そこを出て私の元へ来い。こんな吹き溜まりのボロアパートなど、君のような気高き花が咲く場所ではない。さあ、我が胸へ飛び込んでくるがいい……」

 朗々と響き渡る、無駄に甘美なバリトンボイス。

 だが、中庭の物陰から顔を覗かせたエミリアは、作務衣の袖を握りしめて全力で拒絶の叫びを返した。

「嫌ですぅぅぅッ!! 誰があなたの胸なんかに飛び込みますか! ここのお風呂はすっごく綺麗だし、ご飯も美味しいし、何より佐伯さんは適切な距離感を保ってくれるんです! あなたみたいに顔面距離二センチで無言十五分顎クイしてくるホラー怪異のところになんて、死んでも帰りませんッッ!!」

「……フッ、照れるな。私の前で強がるその瞳こそが、たまらなく愛おしいのだ……」

「会話が通じないィィィッ!! 日本語(大陸共通語)を喋ってぇぇぇッ!!」

 頭を抱えてしゃがみ込むエミリア。

 完全に『絶対愛憐』のバグによって、拒絶の言葉すら「愛の照れ隠し」として脳内自動翻訳されている状態だ。

 ヴァルターは口元に薄笑いを浮かべたまま、スーッと音もなく間合いを詰めてきた。

 その右手の親指と人差し指は、すでに獲物の顎を捉えるべく「クイの構え」で固定されている。

 目指すはエミリア――ではなく、その進路を塞ぐように立っている俺だった。

「退け、下賤な管理人。貴様ごときが、この私と運命の小鳥の愛の語らいを遮るなど――」

 ヴァルターが、ポポロ・コーポの敷地境界線を跨いだ、その刹那――。

 俺の足元から、淡い白銀の幾何学模様がカチリと音を立てて展開した。

――【ポポロ・コーポ管理規約第2条:不法侵入および共用部秩序維持】適用。

――事象:部外者による無許可立ち入り、威圧的接近、および住人に対するストーカー行為未遂。

――【敷地内絶対パーソナルスペース防護結界(ソーシャルディスタンス・ルール)】を執行します。

 スッ……と、ヴァルターが俺の顔面距離五十センチまで踏み込もうとした瞬間。

 ピタァッッッ!!

 まるで目に見えない分厚いゴムの壁に激突したかのように、ヴァルターの身体が空間の途中で完全に静止した。

 どれだけ踏ん張ろうとしても、脚が前へ進まない。

 突き出された「顎クイの手」は、俺の鼻先からきっかり一・五メートルの位置で、まるで糊付けされたようにピクリとも動かなくなっていた。

「な……ッ!? か、身体が……動かん!? 何だこの不可視の障壁は……!? 私の絶対零度の魔力すら凍りつかせるだと……!?」

「凍らせてない、距離を取らせてるんだよ」

 俺はため息をつき、右手の来客用便所スリッパをパチンと鳴らした。

「公爵さん、言ったはずだぞ。大人の会話の基本は、互いのパーソナルスペース――最低でも一・五メートルの距離感を保つことだ。うちのアパートの敷地内で、許可なく他人の顔面至近距離にヌルッと間合いを詰める行為は、規約違反として物理的に遮断される仕組みになっている」

「き、貴様……たかが木造アパートの分際で、この北部方面軍の覇者たる私を阻む気か……! 全軍突撃! このふざけた結界ごと、アパートを更地に――」

 ヴァルターが後方の重装騎兵団へ号令を下そうとした、まさにその時だった。

「……おいおいおい、朝っぱらからうちの表庭で何ギャーギャー喚いとんじゃワレェ」

 ドスの利いた重低音が、男子棟一階から響いてきた。

 ガラガラッと音を立てて姿を現したのは、一〇一号室の住人、竜王デュークだった。

 頭に白いねじり鉢巻きを巻き、肩にはスープ仕込み用の巨大なロックバイソンの大腿骨を担いでいる。その身から漏れ出す黄金の竜気は、推定一万馬力。

 さらに、隣の一〇二号室のベランダからは、万年床の毛布を被り、ジャラジャラとパチンコ玉を弄びながら狼王フェンリルが顔を出した。

「あぁん? なんだあのピカピカした鎧のガキ共は。俺様の朝の二度寝の邪魔しやがってよぉ。健太のオッサン、あいつら全員噛み殺して骨の髄まで啜っていいか?」

「駄目だフェンリル、敷地内での流血沙汰は清掃が面倒だから禁止だ。大人しくしてろ」

「ちぇっ、ケチくせぇな」

 神話級の怪物が二体、朝の寝起き姿で平然と愚痴をこぼしている光景。

 それだけではない。

 三階の窓からは、ケンタウロス団長マンミアが、パイルバンカー式刺突盾『アグニ』の照準をヴァルターの眉間にピタリと合わせ、シリンダーからプシューッと怒りの蒸気を吹き上げていた。

「佐伯さんのお住まいに軍靴で踏み込もうとする不届き者め! 我が処女の背中にかけて、一歩でも進めば脳天から杭を打ち込んでミンチにして差し上げますッ!!」

「ヒエッ……!? り、竜王デュークに、狼王フェンリル……!? それにあのケンタウロスは帝国を離反した武神マンミアか!?」

 後方に控えていた精鋭騎兵たちが、一瞬でガタガタと震え上がり、手にした槍を取り落としかけた。

 だが、当のヴァルター公爵だけは、脳内の『絶対愛憐』の狂気によって、恐怖センサーすらバグり散らかしていた。

「退かぬ……! たとえ神話の魔獣が立ち塞がろうと、私はエミリアの元へ行く……! 彼女の顎をクイッと持ち上げ、無言で愛を伝えるまでは……ッ!!」

 ガガガッ!と不可視の結界を力任せに押し破ろうとする公爵。

 そのあまりの執念深さと、救いようのないストーカー精神に、俺は心底からの深い溜息を吐き出した。

「……やれやれ。話を聞かない不審者には、現場の物理教育が必要だな」

 俺は作業着の袖をまくり上げ、右手に持った来客用便所スリッパを、スッと正面上段に構えた。

「公爵さん。他人の敷地に無断で踏み込み、嫌がる女性を追い回す行為を、世間一般では『ただの犯罪』と呼ぶんだよ。……反省しなさい」

 パッコーーーーーーーーーンッッッッ!!!!

 澄み渡るゴムの破裂音が、早朝のポポロ村の空へ突き抜けた。

 不可視の結界越しに振り下ろされた俺のスリッパが、五千馬力の冷気結界を紙のように貫通し、ヴァルターの鼻っ柱を真正面からクリーンヒットしたのだ。

「ごばッ!?」

 美形公爵の整った鼻から、鮮血がツーッと一筋垂れ落ちた。

 額の四角いアザに加え、今度は鼻の頭に綺麗な楕円形のスリッパ痕が刻み込まれる。

 衝撃で膝をつき、両手で鼻を押さえて目を白黒させるヴァルター。

 俺はスリッパをパチンと鳴らして下ろすと、胸ポケットからインク内蔵式の三文判を取り出し、懐から広げた『ポポロ・コーポ管理規約違反・立入禁止警告書』の決裁欄へ、力強くポンと押し込んだ。

 ポンッ。

――ユニークスキル『最上位稟議決裁(ハンコ・アプルーバル)』執行。

――基本法OS『LEX-LUCIANA』へ直結登記。

――【対象者:ヴァルター・フォン・レプシウスに対する『半径十メートル接近禁止命令』を因果律固定】。

 キィィィン……と、ヴァルターの足元の地面に、赤い警告サークルが焼き付けられた。

 これ以上アパートへ近づこうとすれば、天界の法廷レーザーが尻を直撃する絶対防護圏の完成だ。

「警告書は発行した。これ以上騒ぐなら、公務執行妨害で自警団に突き出すぞ。……軍を連れて、とっとと自分の街へ帰りなさい」

 俺の冷徹な通達に、鼻血を押さえたヴァルターは、信じられないものを見るように俺を見上げた。

 痛みと屈辱。

 だが、その青い瞳の奥に宿っていたあの狂気じみたハートの残滓が、スリッパの強烈な衝撃によって、ほんのわずかに揺らいでいた。

「お、覚えていろ……! 私は……私は諦めんぞ、エミリア……ッ!」

 捨て台詞を残し、ヴァルターは騎兵たちに抱き起こされながら、這々の体で軍馬へと戻っていった。

 砂煙を巻き上げて遠ざかる包囲部隊の背中を見送りながら、俺は大きく肩を回した。

「ふぅ……朝からくだらん体力を使わせるな」

 スリッパの砂埃を手で払い、中庭へと振り返ると、エミリアが竹箒を胸に抱きしめ、涙をボロボロと零しながら俺の元へ駆け寄ってきた。

「佐伯さん……! あ、あの氷血公爵を、スリッパ一本で追い払っちゃうなんて……! やっぱり佐伯さんは、私のヒーローですぅぅぅッ!!」

「ヒーローじゃない、ただの管理人だ。……ほら、パーソナルスペース」

 俺がスリッパの先をスッと差し出すと、エミリアは「はっ、すいません!」と行儀よく一・五メートル下がって直立不動になった。

 この礼儀正しさ、実に教育のしがいがある新入社員だ。

「さぁ、朝飯の続きを食って、村役場へ行くぞ。公爵を追い払ったところで、あの街の根本的な『スメルハザード』とエミリアさんの呪いが解決したわけじゃないからな」

「はいっ! 喜んでお供します、佐伯課長!」

 元気よく返事をするエミリアを連れ、俺は管理人室へと戻った。

 冷めかけた味噌汁を温め直し、イモッカのソーダ割りを夜の楽しみに取っておきながら、俺たちの本格的な反撃の準備が始まろうとしていた。

読んでいただきありがとうございます。

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