EP 3
バグまみれの絶対愛憐と、枯れたおっさんの出汁スープ
白大理石が敷き詰められた街道の真ん中で、張り詰めた冷気がピキピキと音を立てていた。
幌馬車のステップに立ち、右手に来客用便所スリッパを引っ提げたくたびれた四十男の俺。
そして五十メートル先で、漆黒の軍馬に跨り、氷のように冷徹な美貌を歪める北部方面軍総司令官、氷血公爵ヴァルター。
だが、俺の「その馬から降りてきなさい」という現場注意が届いた瞬間、事態は思わぬ方向へと大暴走を始めた。
「ヒィィッ……! や、やめてぇぇぇッ!!」
俺の背後で、幌にしがみついていたエミリアが、極限の恐怖から完全にパニックを引き起こしたのだ。
過呼吸気味に肩を上下させ、頭を抱えてしゃがみ込んだ瞬間――彼女の華奢な全身から、先ほどとは比べ物にならない濃密な桃色の燐光が、爆風のように四方八方へ噴き上がった。
――精神過負荷による強制暴走発動。
――対象:エミリア・フォン・グランツ。
――ユニークスキル『絶対愛憐(男が全員無条件で過剰溺愛し、顔面距離2cmまで迫ってくる呪いのバグ体質)』、出力最大解放!
ドッッッッッ!!!!
大気が一瞬でピンク色に染まった。
鼻腔を暴力的に麻痺させる、甘ったるい綿菓子と安っぽい薔薇の香水が混ざり合ったようなフェロモン嵐。
その瞬間、街道にいた男たちの瞳から、知性と理性の光がぷつりと音を立てて消え去った。
「おお……エミリア様……! ああ、なんて可憐なんだ……! 俺の全財産、この命、魂のすべてをあなたに捧げますぅぅぅッ!!」
今朝のコイントスで奇跡の「表」を出してステータス二倍だったはずのA級冒険者フェイトが、大剣を地面に放り出し、目をハートにして四つん這いで突進しようとした。
さらに、くしゃみ防止マスクを着けていた竜人族のイグニスまでもが、顔を真っ赤にしてヨダレを垂らし始めている。
「エミリアたん……ハァハァ……俺様の炎で、君の冷えたつま先を炙って温めてあげたいっすぅぅぅッ!!」
「貴様ら、我が小鳥に気安く触れるなァァァッ!!」
五十メートル先では、氷血公爵ヴァルターが完全に狂乱していた。
軍馬を飛び降り、白銀の甲冑をガチャガチャと鳴らしながら、常軌を逸したスピードで街道を疾走してくる。
その背後では、百騎以上の精鋭騎兵たちが「エミリア様ぁぁぁ!」と雄叫びを上げながら、互いの馬を押し合いへし合いして大混乱の将棋倒しを起こしていた。
ヴァルターの青い瞳は完全に据わり、唇を妖しく歪め、右手の親指と人差し指を「顎クイの構え」のまま固定して突っ込んでくる。
「ああ……エミリア……! 今すぐその愛らしい顎を持ち上げ、至近距離で私の吐息を吹き込んでやるからな……! 十五分と言わず、今度は三時間、無言で見つめ合おうぞォォッ!!」
「ぎゃああああああああっ!? きたぁぁぁぁぁぁッ!! 顎クイの悪魔が走ってくるぅぅぅぅッ!!」
エミリアが絶叫し、幌馬車の床で白目を剥いて痙攣した。
腕の中の白狐コン太も、「きゅぅぅぅ(アカン、この街の男は全員脳みそがプリンになっとる!)」と短い前足をバタつかせている。
男たちが全員、知能指数を一桁まで低下させてゾンビのように雪崩れ込んでくる地獄絵図。
だが――。
その狂乱の桃色フェロモンを全身に浴びているはずの、くたびれた作業着姿の四十男・佐伯健太の心拍数は、驚くほど一定だった。
ドックン……ドックン……ドックン……。
微動だにしない。
瞳の奥に宿るのは、色情でも狂気でもなく、ただの「深いため息」だった。
前世の総合商社時代、決算期の最終日にシステムエラーが起き、五日連続徹夜でエナジードリンクを過剰摂取した結果、真夜中の給湯室で「もうやだぁぁぁ! 全員消えろぉぉぉ!」と叫んでコピー用紙を撒き散らしていた新卒三年目の女性社員。
あの痛々しい姿と、目の前でパニックを起こしているエミリアの姿が、完全に重なって見えていた。
(……やれやれ。娘くらいの歳の若い子が、こんな山奥で神経をすり減らして暴走するまで追い詰められて……。周りの男どもも、仕事を放り出して何を集団ヒステリー起こしてやがるんだ)
枯れ果てた中年管理職のリアリズム。
性欲も下心も、とっくの昔に胃薬と残業の海へ洗い流されている。
俺は作業着のポケットから天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』を取り出すと、二粒をポリポリと噛み砕いた。
そして、白目を剥きかけているエミリアの頭の上に、作業着の袖から伸ばした掌をポンと置いた。
「よしよし。落ち着け、エミリアさん。大丈夫だ」
「ふぇ……?」
大きな手で、わしゃわしゃと優しく髪を撫でてやる。
前世で、泣き崩れる部下の背中をポンポンと叩いて宥めていた、あのやり方そのままに。
「息を吸って、吐きなさい。過呼吸になると脳に酸素が回らんぞ。ほら、すー、はー、だ。……大丈夫、ここはポポロ村の管轄内だ。変質者に指一本触れさせやしないよ」
「お、おじ……さん……?」
エミリアの蒼い瞳が、信じられないものを見るように見開かれた。
至近距離で全開の『絶対愛憐』を浴びているというのに、健太の瞳には狂気じみたハートマークも、ギラギラとした欲望も、微塵も浮かんでいない。
そこにあるのは、完全に「実家の頼れる父親」、あるいは「オフィスで一番仕事ができて優しい総務課長」の、暖かくて穏やかな眼差しだけだった。
頭頂部から伝わってくる、トクン……トクン……という一点のブレもない鼓動。
その圧倒的な精神的安定感に触れた瞬間、エミリアの暴走していた魔力が急速に鎮火し、桃色の燐光がシュウウゥと霧散していった。
「あ……あぁ……っ。効いて……ない……。私の呪いが、一ミリも効いてない……っ!」
エミリアの瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
異世界に転生してから、出会う男という男が全員、狂ったように自分を消費し、欲望の対象として距離感を壊して迫ってきた。
一人の人間として、対等に、適切な距離感で接してくれる相手など、この世界のどこにもいなかったのだ。
それが今、目の前のくたびれたおっさんは、きちんとしたパーソナルスペースを保ちながら、ただ純粋に自分の体調を心配してくれている。
「おじざまぁぁぁぁぁぁんッッ!!」
エミリアは俺の作業着の腰回りに抱きつき、子供のように声を上げて号泣した。
それは異性を誘惑する甘い抱擁などではなく、遭難者がレスキュー隊員の防寒着にしがみつくような、純度百パーセントの救命信号だった。
「はいはい、泣かないの。……さて、あっちの始末をつけるか」
エミリアのオーラが消えたことで、フェイトとイグニスは「ハッ!? 俺は何を……?」と我に返り、地面に突っ伏した。
だが、突進してきた氷血公爵ヴァルターだけは、惰性と執念で止まらない。
顔面距離二センチの「顎クイ」の指先を突き出し、あと三歩で幌馬車のステップへ到達するという、その瞬間――。
俺はスッと前に踏み出し、右手に持っていた来客用便所スリッパを、流れるような無駄のないフォームで振り抜いた。
――【敷地内交通安全および防犯条例】適用。
――事象:不審者による敷地内へのゼロ距離不法接近、および女性に対する威迫的顎クイ未遂。
パッコーーーーーーンッッッッ!!!!
澄み渡る乾いた打撃音が、街道の空気を引き裂いた。
スリッパの底が、時速五十キロで突進してきた公爵の額のど真ん中を、寸分の狂いもなくクリーンヒットしたのだ。
「ぶべらッ!?」
北方軍総司令官の誇る絶対冷気結界も、白銀の兜も完全に貫通した。
ヴァルターの身体は綺麗に「くの字」に折れ曲がり、運動エネルギーを完全に相殺されて、地面に尻餅をついた。
「な……な、何を……!? この私が……スリッパごときで……!?」
額に真っ赤な靴底の跡をくっきりと刻みつけ、目を白黒させる美形公爵。
俺はスリッパをパチンと鳴らし、胸ポケットからインク内蔵式の三文判を取り出して見せた。
「公爵さん、ポポロ村役場総務補佐の佐伯だ。先ほど、エミリア・フォン・グランツさんから正式な『ストーカー被害届』を受理した。このキャラバンの全車両は現在、ポポロ村暫定行政特区に指定されている。これ以上の接近は、公務執行妨害および不法侵入とみなすぞ」
「き、貴様……たかが辺境の荷駄隊の分際で、この北部方面軍司令官たる私に指図するか……! エミリアは私の運命の女だ! その女を奪う権利など誰にも――」
「他人が嫌がっているのに『運命』を押し付けるなバカ野郎。いい年した大人が、公道で若い娘を軍隊で追い回して恥ずかしくないのか。……大人の会話ってのはな、最低でも一メートル半、互いのパーソナルスペースを確保して行うもんだ。顔面距離二センチで十五分間も無言で見つめられたら、誰だって恐怖で心臓麻痺を起こすわ」
「……ぐっ、な、何だと……!?」
ヴァルターが息を呑んだ。
これまで周囲のイエスマンたちから「冷徹で隙のない美貌の貴公子」と持て囃され、エミリアの『絶対愛憐』のバグによって恋愛脳を暴走させていた彼にとって、真正面から「ただの気持ち悪い変質者」として正論で説教されたのは、人生で初めての経験だった。
「言いたいことがあるなら、軍を引いて、正式な行政書面をポポロ村役場へ提出しなさい。それまでは、エミリアさんの身柄は我が村が責任を持って保護する。……マンミアさん、牽引車を発進させろ! 村へ戻るぞ!」
「は、はいっ! 了解であります佐伯さん!」
マンミアが号令を下し、魔導牽引車のエンジンが唸りを上げた。
街道に残されたヴァルター公爵と騎兵団は、額を押さえたまま呆然と、遠ざかっていくポポロ村キャラバンの砂煙を見送るしかなかった。
*
数時間後――夕暮れ時のポポロ・コーポ、一階管理人室。
庭の木々を揺らす秋風が、縁側の障子から心地よく吹き込んでいた。
ちゃぶ台の上には、ガスコンロでことことと弱火で温められた土鍋が置かれている。
中に入っているのは、俺が手早く仕込んだ特製の『肉椎茸とネギカリバーの出汁スープ』だ。
昆布もどきの海草と、泥沼夫妻から分けてもらった肉椎茸の軸をじっくり煮出して取った、黄金色の澄んだ和風出汁。
そこへ、薄切りにした肉椎茸の肉厚な傘と、ネギオから届いた『ネギカリバー』の白い茎をふんだんに投入し、村特産の醤油草の天然醤油と、少量の生姜で味を調えてある。
余分な油は一切使わず、滋味豊かなキノコの旨味とネギの甘みだけを極限まで引き出した、疲弊しきった胃腸のための特効薬のようなスープだ。
「ほら、エミリアさん。熱いうちに飲みなさい」
陶器の深い椀にスープをよそい、仕上げに刻んだネギカリバーの青葉を散らして手渡す。
横には、タローマートの米麦草で握った、シンプルな塩むすびが二つ。
「あ、ありがとうございます……っ」
すでに大浴場で泥と汗を洗い流し、俺が用意した清潔な綿の作務衣に着替えたエミリアが、両手で椀を受け取った。
ボサボサだったプラチナブロンドの髪は綺麗に梳かされ、湯上がりでほんのり桜色に染まった肌は、二十二歳の年相応の瑞々しさを取り戻している。
椀に顔を近づけると、ふわりと立ち上る出汁と醤油の優しい香気。
エミリアは木匙を手に取り、澄んだスープを一口、口へ運んだ。
「はふっ……ちび……っ」
その瞬間、エミリアの身体がビクンと小さく震えた。
「………………っ!」
口いっぱいに広がる、暴力的なまでの奥深い旨味。
肉椎茸の分厚いエキスが、まるで最高級の地鶏出汁のように舌を包み込み、ネギカリバーの爽やかな甘みが鼻腔を抜けていく。
喉を通るたびに、冷え切ってガチガチに強張っていた内臓が、じわ〜っと内側から解きほぐされていくのが分かった。
「おいしい……。何これ、すっごく……優しい……。お出汁が、全身の血管に染み渡っていくみたい……」
続いて、薄切りの肉椎茸を口に含む。
ぷりぷりとした力強い弾力と、噛むほどに溢れ出す芳醇なキノコの肉汁。
エミリアは夢中で木匙を動かし、塩むすびを齧り、スープを啜った。
椀の底が見える頃には、彼女の目から再びぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
「うっ……ぐすっ……。私……東京で社畜やってた時も、終電で帰ってコンビニの冷たいお弁当ばかり食べてて……。こっちに来てからも、変な貴族の男たちに追われて、まともなご飯なんて一度も食べられなくて……。こんなに温かくて美味しいもの食べたの……何年ぶりだろう……っ」
「飯を食って、温かい風呂に入って、ちゃんと寝る。それが人間の基本だからな。……ほら、お代わりはあるぞ」
俺が鍋からもう一杯よそってやると、エミリアは涙を拭い、満面の笑顔で「いただきます!」と椀を受け取った。
ちゃぶ台の脇では、白狐のコン太が小皿に乗せられた肉椎茸の端切れをハフハフと食い散らかし、「きゅぅ〜ん(最高じゃねぇかこの村、俺もここに骨を埋めるぜ)」と満足そうに腹を出して転がっている。
「佐伯さん……私、決めました!」
二杯目のスープを飲み干したエミリアが、膝に手を置き、真っ直ぐに俺を見つめてきた。
「私、ポポロ村に住みます! このポポロ・コーポの空き部屋を借りて、村役場の雑用でも、畑の草むしりでも、何でもやります! あのうんこと香水にまみれたムーンキャピタルや、ストーカー公爵のところには絶対に帰りません! 佐伯さんのそばで、人間らしい生活を取り戻したいんです!」
「空き部屋なら女子棟の二階に空きがある。家賃は月額銀貨三十枚だが、村役場の商務補佐として働けば十分に払える額だ。……まぁ、うちのコーポの住人も、別の意味で混ぜるな危険の連中ばかりだがな」
「変質者より百倍マシです! 佐伯さんがいてくれるなら、私、どんな怪物相手でも耐えられます!」
エミリアは力強く拳を握りしめ、感激の面持ちで俺に頭を下げた。
完全に、頼れる上司と精神的実家を見つけた新入社員の顔である。
俺は青箱のハード煙草に火をつけ、紫煙を夜風へと燻らせながら、手元の『イモッカ』のロックグラスを傾けた。
氷がカランと心地よい音を立てる。
よし、これで転がり込んできた元社畜令嬢の保護と現場ケアは一段落だ。
明日からは彼女を役場に連れていき、正式な転入手続きを進めるとしよう。
だが――俺の左胸のポケットの中で、キャルルから託された『人参柄刺繍ハンカチ』が、ピピピピピ……と異常な高周波で熱を帯び始めていることに、俺はまだ気づいていなかった。
さらに天界の上空では、月の女神カグヤが、自分の直轄都市からヒロインが夜逃げした事実を知り、激怒のあまり高級発泡神酒のグラスを握り潰していたのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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