EP 15
人参柄の刺繍ハンカチと、ポポロ村の夜は更けて
三大国のゴルゴン要塞守備隊司令官とルナリア総合病院長が、感涙にむせびながら最敬礼で去っていった後の村長公邸。
厨房からは、甘辛い醤油と出汁の香ばしい湯気が立ち上っていた。
大鍋でぐつぐつと煮込まれているのは、要塞守備隊から「軍事衛生向上への感謝の貢物」として先行納入された、最高級の霜降り軍用牛肉。
薄切りにした牛肉に、透き通るまで炒めた玉ねぎ、そしてネギオから届いた『ネギカリバー』の白い茎の部分を贅沢に放り込む。村特産の醤油草から引いた天然醤油、料理酒代わりのイモッカ、少量の砂糖を合わせ、強火でサッと煮詰めた特製の牛丼の具だ。
「ほら、できたぞ。熱いうちに腹に入れなさい」
丼にふっくらと盛られた米麦草の白米の上へ、煮汁ごとたっぷりと牛肉と玉ねぎをかけ回し、仕上げに刻んだネギカリバーの青葉を散らす。
公邸の客間へ盆を運ぶと、長椅子の上で毛布にくるまっていたキャルルが、ピクリと純白のウサギ耳を揺らした。
「うう……ぐすっ……。健太さん……わたし、こんな豪華なご飯、食べる資格なんてないよぉ……。示談書で丸く収まったって言っても、私が満月の夜に正気を失って暴れた事実は消えないもん……。病院の壁も、要塞の兵舎も、私がぶっ壊しちゃったんだよぉ……」
パジャマ姿のまま、膝を抱えて丸くなる村長。
超聴覚で周囲の心音を拾いすぎてしまう繊細な少女にとって、「自分が周囲に恐怖や損害を与えた」という罪悪感は、毒のように胸を蝕むのだろう。
前世の総合商社時代にもいた。入社一年目で大きな発注ミスをやらかし、上司や先輩が総出でリカバーした後に「私が全部悪いんです、会社を辞めます」と給湯室の隅で泣き崩れていた新入社員が。
そういう時に必要なのは、小難しい説教でも、空疎な気休めでもない。
「資格なんてものは、腹が減ってる時にはいらんのだよ」
俺は作業着のポケットに手を入れた。
胃薬の小瓶の隣から引っ張り出したのは、タローマートのレジ横で買っておいた、茶色いセロファンに包まれた素朴な飴玉――『ポポロ珈琲飴』だ。
包み紙を指先で器用に剥き、キャルルの目の前へ差し出す。
「ほら、口を開けなさい」
「ふぇ……? あ、あめ……?」
「糖分を摂らないと、脳みそはネガティブな妄想ばかり生産する。はい、あーん」
ぽかんと開いた小さな口へ、ポポロ珈琲飴をポンと放り込んでやった。
コロンと舌の上で転がった飴玉から、ほろ苦い珈琲の香りと、練乳のような優しい甘みがじんわりと広がっていく。
「…………っ。あ、甘い……。ちょっと苦くて……すっごく、優しい味……」
「キャルル村長、よく聞きなさい。あんたが壊した壁や兵舎の修繕費は金貨千百枚だったが、あんたが救った患者や兵士の命の価値は、金貨四千三百枚以上だ。差し引きで、あんたは三千枚分以上、世界をプラスにしたんだよ。誰が何と言おうと、結果として誰も死なず、全員が笑って帰っていった。総務の帳簿上、あんたの昨夜の行動は『大黒字』だ。胸を張りなさい」
俺は再び、彼女の白銀の柔らかい髪に手を乗せ、クシャリと優しく撫でてやった。
その瞬間――キャルルの耳がピンと直立し、全身がビクンと小さく痙攣した。
月兎族の神話級超聴覚。
頭上に置かれた俺の掌の皮膚を通して、胸の奥で打つ鼓動が、彼女の鼓膜を直接震わせる。
ドックン……ドックン……ドックン……。
一点の乱れもない、どこまでも穏やかで、打算も欺瞞も一片も混じっていない、澄み渡るような凪の波形。
口いっぱいに広がる珈琲飴の甘さと、頭頂部から伝わってくる大人の男の温もり。
キャルルの琥珀色の瞳から、ポロポロと透明な大粒の涙が零れ落ちた。
だが今度は、絶望の涙ではない。
二十年間、孤独に村の重荷を背負い、満月の呪いに怯え続けてきた小さな少女が、生まれて初めて「全肯定された」ことへの、魂の歓喜の涙だった。
「健太、さん……っ。あう……あぅぅ……っ。あったかいよぉ……。健太さんの心音、世界で一番……優しくて、あったかい……♡」
「よしよし、泣き止んだら牛丼を食いなさい。冷めたら脂が固まるぞ」
「うんっ! 食べる! 健太さんが作ってくれたご飯、全部食べるぅぅ……!」
キャルルは木匙を握りしめ、ガツガツと牛丼を掻き込み始めた。
そして最後の一粒まで綺麗に平らげると、ふぅーっと満足そうに息を吐き、やおらパジャマのポケットから何かを取り出した。
それは、四隅に可愛らしい人参の刺繍が施された、真っ白な手縫いのシルクハンカチだった。
「あのね、健太さん……。これ、私の手縫いなの。いつも村のために働いてくれる健太さんに、お礼として……受け取ってほしいの♡」
「お、ハンカチか。ありがたいな、現場作業で汗を拭くのにちょうどいい」
「ううん、汗を拭く用じゃないよ? はいっ、ここに入れててね♡」
キャルルは愛らしい笑顔のまま、俺のくたびれた作業着の左胸ポケット――ちょうど心臓の真上のポケットへ、そのハンカチを自らの手でギュッとねじ込んできた。
ぎゅう、と押し込まれた瞬間、ふわりと野イチゴのような甘い香りが鼻腔をくすぐる。
だが――俺の背筋を、名状しがたい強烈な悪寒がチリチリと駆け抜けた。
(……ん? なんだこの、骨の髄にロックオンされたような感覚は……?)
健太の知る由もないことだったが、そのハンカチはただの布地ではなかった。
月兎族の秘術により、キャルル自身の体臭フェロモンと神聖闘気が極限まで編み込まれた、神話級の追跡呪物――『全自動体臭GPS&マーキング魔導具』だったのだ。
これを身につけている限り、健太が大陸のどこへ逃げようと、キャルルにはその位置、体温、心拍数、さらには「半径五メートル以内に他の女が接近したかどうか」までが、二十四時間リアルタイムで筒抜けになる仕組みである。
「えへへ……♡ これで、ずっと一緒だね……健太さん♡」
キャルルの琥珀色の瞳の奥に、昏く、甘く、底なしの愛が宿っていた。
ウサギの耳がピコピコと幸せそうに揺れている。
「昼間は村役場で私の隣のデスク、夜はコーポの管理人室……。健太さんの心音が聞こえないと、私、呼吸ができなくなっちゃうから……♡ 一生、死ぬまで、私のそばで管理人をしてね……? 絶対に、どこにも逃がさないから……♡♡」
「……? ああ、契約期間中はしっかり勤め上げるよ」
やけに重たい忠誠心(?)に若干首を傾げつつも、俺はビジネスライクな笑顔で応じた。
客間の扉の隙間からその様子を盗み見ていた人狼執事リバロンが、「……我が主が、完全に獲物を巣穴に引きずり込んだ雌ウサギの顔をしておられる……佐伯殿、南無三……」と震えながら十字を切っていたが、やはり俺の知る由ではなかった。
*
その日の午後、ポポロ村は前代未聞の熱気に包まれていた。
街道沿いには、三大国合同軍が運んできた「公式感謝の貢物」――特上軍用牛肉三十頭分、最高級赤ワイン百樽、さらには大量の小麦粉や乾燥豆を満載した大型輸送馬車の車列がずらりと並んでいた。
村役場の金庫前では、三毛猫耳のCFOニャングルが、金算盤をパチパチと狂ったように弾きながら歓喜の絶叫を上げている。
「勝った……! 勝ったでぇぇぇッ!! 前村長の負債は帳消し、三大国への納税義務は永久免除、おまけにタダで手に入った高級食材と酒の資産価値を合わせたら……ポポロ村の財政、一晩で黒字転換どころか過去最高益の大爆発やぁぁぁッ!! 健太のおっちゃん、あんたほんまに福の神や!!」
役場の外では、九九式魔導ライフルを担いだ農民たちや自警団員たちが、手を取り合って歓声を上げていた。
そして夕暮れ時――木造三階建てアパート『ポポロ・コーポ』の中庭で、村人総出の盛大な祝勝会が幕を開けた。
「はいよっ! 極上ロックバイソンの豚骨ラーメン、バリカタ一丁お待ちぃッ!」
中庭の中央に屋台『竜の髭』を引っ張り出してきたのは、一〇一号室の竜王デュークだった。
白いねじり鉢巻きを締め、腕まくりをしたイケオジ竜王が、平ザルで見事な湯切りを披露する。
寸胴から注がれた白濁スープに、米麦草の細縮れ麺。
上には、今朝ネギオから届いたばかりの『ネギカリバー』が山盛りにトッピングされ、食欲をそそる芳醇な香りが中庭いっぱいに立ち込めた。
「うめぇぇぇッ! なんだこのスープ、骨の髄まで染み渡るぜ!」
「親父、今日は換気扇のフィルター掃除をちゃんとしたから、スープのキレが段違いだな!」
二〇一号室の鍛冶青年ヒエンが丼を抱えて啜り、広場テントから駆けつけた竜人イグニスがハフハフと麺を頬張る。
一〇二号室の狼王フェンリルは、日雇い労働のノルマを終えてビール片手に「ガハハ! タダ飯とタダ酒は最高じゃオラァ!」と肉椎茸の串焼きを貪り食っていた。
みかん箱の上では、極貧人魚姫リーザが「だっぷんだぁ〜おじさん〜♪」の即興凱歌を熱唱し、天使キュララが「同接二百万人突破〜☆」と魔導突撃銃を空へ掲げてスパチャの山に狂喜乱舞している。
「佐伯さぁぁぁんっ!!」
ドタドタドタッ!と蹄の音を響かせ、顔を真っ赤にした自警団長マンミアが、両手に赤ワインの満ちた大ジョッキを抱えて突進してきた。
鹿毛の馬胴を引き締め、赤褐色のポニーテールを揺らしながら、俺の前で急ブレーキをかける。
「佐伯さん! 村を救ってくださって、本当にありがとうございました! あの……ホットミルクのお礼も、まだちゃんと言えてなくて……!」
「マンミアさん、飲みすぎだぞ。ジョッキからワインがこぼれてる」
「こぼれてもいいんですっ! 佐伯さん、私……決めました! 私のこの頑丈な背中、いつでも佐伯さんにお預けしますから! 荷物だけじゃなくて、佐伯さんご自身を……私の背中に乗せて、いつでもどこへでも連れて行ってあげますからねっ! ……あ、教会でも役場でも、どこでも直行できますからぁぁッ!!」
「いや、役場へは歩いて行けるから大丈夫ですよ」
耳まで真っ赤にして蹄をパタパタ鳴らすケンタウロス団長を軽く宥めつつ、俺は苦笑いを零した。
大騒ぎの宴の輪から少し離れ、俺は管理人室の前の縁側に腰を下ろした。
ちゃぶ台の上には、炭火でこんがりと炙った肉椎茸のステーキ。
表面にパラリとドンガン岩塩を振り、ネギカリバーを散らしただけのシンプルな一皿だ。
そして、手元のグラスには、ニャングルが届けてくれた『イモッカ・ブラックラベル』のソーダ割り。
シュワシュワと心地よい炭酸の泡が弾け、芳醇な芋の香りが夜風に溶けていく。
肉椎茸を一切れ箸でつまみ、口へ運ぶ。
ぷりっとした弾力とともに、濃厚なキノコの肉汁がじゅわっと溢れ出した。すかさず冷たいイモッカ・ソーダを喉へ流し込む。
「……ぷはぁ。美味いな」
胸ポケットから青箱のハード煙草を取り出し、ジッポライターで火をつけた。
紫煙をくゆらせながら、満天の星空を仰ぎ見る。
戦闘力はたったの1馬力。
神話のドラゴンや魔王、音速で暴走するウサギ村長に、重武装の農民たち。
トラブル続きで、胃薬を手放せない毎日だが――
「……まあ、悪くないか」
前世の冷え切ったビルメンの夜勤や、理不尽に怒鳴られるだけの商社時代に比べれば、ここは遥かに人間味――いや、人外味に溢れている。
美味い飯と、冷たい酒、そして温かいサウナがある。
管理人として現場を守り抜く価値は、十分にありそうだ。
*
その頃――雲上の彼方、天界の神格統括オフィス。
無機質な白光が照らす執務室で、一人の男がマイタンブラーのソイカプチーノを啜りながら、神格ノートPC『エンジェル・ブック・プロ』のモニターを睨みつけていた。
仕立ての良いブランドスーツを着込み、眼鏡の奥で冷酷な光を宿す男――GOD大宇宙管理局アルゴリズム特待枠、炎上神ワイズである。
「……何だ、この異常な数値は?」
ワイズの指先がキーボードを叩く。
画面に映し出されていたのは、アナステシア星区の観測データ。
本来ならば、過労死枠の1馬力地球人が野垂れ死に、三大国の戦争によって消滅するはずだった最果ての吹き溜まり――『ポポロ村』のPV(注目度)と経済指数が、垂直上昇のロケットのように急上昇していたのだ。
「前村長の横領、三大国の徴税査察、さらには月兎族の満月暴走……本来なら確実に壊滅炎上シナリオへ転がり落ちるはずのイベントが、すべて完璧に調停され、莫大な黒字へ変換されている……? 中心にいるのは……佐伯健太? 戦闘力1馬力の元総務課長だと……?」
ワイズは不快そうに眉根を寄せ、カプチーノのカップを机に置いた。
「気に食わないね。僕の緻密なバズ・アルゴリズムを無視して、泥臭い昭和の実務論で平穏を保つなど、天界のエンタメに対する冒涜だ。……いいだろう。近々、とびきりの劇薬を送り込んでやるよ」
さらに、別の神格モニターの前では、豪奢な十二単を纏った月の女神カグヤが、高級シャンパンを片手に美の都『ムーンキャピタル』の防犯カメラ映像を眺めながら、不快そうに扇子を鳴らしていた。
「おのぼりエルフや豚骨トカゲどもめ……。わらわの愛するムーンキャピタルにまでポポロ村の悪評が届いておるぞ。近々、下水道の臭気クレームを口実に、徹底的に査察を入れてやるわ……」
地上の狂騒と、天上からの不穏な視線。
だが、そんな神々の思惑など露知らず、健太は縁側で静かにイモッカのグラスを傾け、心地よい夜風に目を細めていた。
魔境ポポロ村の雇われ管理人の、本当の戦いとスローライフは、まだ始まったばかりだった。
読んでいただきありがとうございます。
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