EP 14
執事リバロンの医療費相殺ロジックと、管理人の最上位認印
午前四時十五分。
夜明け前の張り詰めた冷気が漂うポポロ村役場の一階、総務課デスク。
木製の事務机の上には、魔導通信機からカタカタと絶え間なく吐き出される感熱紙の束が、雪崩のように積み上がっていた。
すべて、近隣大都市のルナリア帝国第一総合病院と、三大国国境守備の要衝ゴルゴン要塞から緊急電送されてきた「超弩級・損害賠償請求書」の山である。
「……ううっ、ひっく……! ごめんなさぁぁぁい……! 私、全部壊しちゃったぁ……! 村の金庫を空っぽにするどころか、ポポロ村全体を売り払っても払えないよぉぉ……ッ!!」
デスクの脇で、純白のウサギ耳をぐったりと垂れ下げ、顔を両手で覆って号泣しているのは、他ならぬ第四十三代村長・キャルル(20)だった。
先ほど管理人室で温かい白湯を飲ませて寝かせたばかりだったが、満月のリミッターが完全に解除された反動と、己が音速巡航ミサイルと化してやらかした破壊の記憶が鮮明に蘇り、パニックを起こしてパジャマ姿のまま役場へ這い出してきたのだ。
「キャルル様、どうかお気を確かに……! このリバロン、たとえこの身が三大国の奴隷鉱山で骨になろうとも、主のお側を離れはいたしません……!」
漆黒の燕尾服を着た人狼執事リバロンが、悲壮な面持ちで膝をついている。
さらに奥の金庫前では、三毛猫耳のCFOニャングルが、金算盤を抱きしめたまま泡を吹いて卒倒しかけていた。
「あ、あかん……! 病院の強化ガラス扉とICUの弁償代で金貨三百枚……要塞の外壁破裂と半壊した兵舎の立て直しで金貨八百枚……! 合計金貨千百枚の損害賠償請求や……! こんなん破産宣告どころか、村ごと差し押さえられて更地やぁぁぁッ!!」
役場内を満たす、この世の終わりのような空気。
俺は作業着のポケットから天界指定の強精神性胃腸薬『ストマック・オメガ錠』を取り出し、三粒をガリボリと音を立てて噛み砕いた。
口いっぱいに広がる苦味を、台所で淹れてきた「ぬるい陽薬茶」で胃袋へと流し込む。
「おいおい、夜明け前から揃って通夜みたいな顔をするな。まだ始業前だぞ」
「さ、佐伯殿……! 呑気なことを言っている場合ではありません! 夜が明ければ、ルナリア病院の顧問弁護団と要塞の軍務法廷査察官が、連名で強制執行の赤紙を叩きつけに乗り込んできますッ!」
リバロンが焦燥に満ちた琥珀色の瞳で訴えてくる。
だが、前世の総合商社時代、子会社の下請け工場が深夜に薬品流出事故を起こし、翌朝一番に環境省と県警と近隣住民の怒号が殺到する中で示談書を組み上げた経験を持つ俺から見れば、現場の状況は極めてシンプルだった。
「リバロンさん、ニャングルさん。机の上の請求書をよく見なさい」
「……へ?」
俺は山積みの感熱紙から数枚をつまみ上げ、指先で弾いた。
「相手方が主張している被害の内訳は何だ? 『建物の物理的損壊』『ガラスの破損』『外壁の倒壊』……要するに、ただの器物損壊の原状回復費用だけだろう」
「ただの、って……佐伯殿、相手は三大国の正規軍と大都市の中核病院ですよ!? これ以上の重罪がどこに――」
「死者は出たのか?」
俺の静かな問いに、リバロンがピタリと言葉を詰まらせた。
「……いえ。死者は……ゼロです」
「重傷者は?」
「それも……ゼロです。というか、電報によれば……『怪我人が一人も存在しない』と」
「そうだろうな。キャルル村長が昨夜やったのは、暴動でもテロでもない。『全速力の往診』だ」
俺の言葉に、キャルルがピクッとウサギ耳を跳ね上げ、涙で濡れた瞳を丸くした。
「お、往診……? わたし、お医者さんごっこなんてしてないよ……? 殴り倒して、壁を突き破っただけで……」
「結果がすべてだよ村長。……リバロンさん、表計算魔導ボードを立ち上げろ。三大国の標準医療報酬規定と、宮廷魔導師ギルドの特級治癒魔法の相場表を引っ張り出すんだ」
俺の意図を察した瞬間、リバロンの背筋が凍りついたように直立した。
その鋭利な頭脳が、一瞬で超速の法的逆転シナリオを描き出したのだ。
「ま、まさか……! 佐伯殿、貴方は……!?」
「相殺だ。ビジネスの基本だろう。現場で負債が発生したなら、それ以上の債権を相手に対してぶつければ帳簿はプラスに転じる。……ニャングルさん、金算盤を構えろ。貸方と借方を叩き直すぞ」
「ひ、ひゃいっ!!」
夜明け前の執務室に、バチバチバチッ!と火花を散らす算盤の音と、魔導ボードを叩く爪の音がリズミカルに鳴り響き始めた。
*
「集計、出ましたッ!!」
リバロンが羊皮紙の集計シートを机の上に叩きつけた。
その瞳は、もはや恐怖ではなく、悪魔的なまでの興奮にギラギラと輝いている。
「ルナリア第一総合病院における診療実績!
集中治療室の急性心筋梗塞患者一名、整形外科の全身複雑骨折患者三名、隔離病棟の不治の奇病患者一名を含む、全入院患者四十八名の完全治癒!
帝国標準の神聖奇跡治癒報酬規定第8条に基づき換算すると――正規治療費、ならびに高額難病特効薬代の総額は、金貨千八百枚相当となります!」
「続いてゴルゴン要塞守備隊!」
ニャングルが身を乗り出し、金算盤の計算結果を突き出す。
「駐留兵士百二十名の古傷、慢性内臓疾患、および軍務不能レベルの後遺障害の完全根治!
三大国軍事恩給削減効果、および兵員再訓練コストの免除試算を合算すると――その軍事的経済価値は、金貨二千五百枚相当に達しますッ!!」
「……よし」
俺は青箱のハード煙草に火をつけ、紫煙を燻らせながら、完成した『満月事象における緊急医療介入ならびに損害相殺調停書』に目を通した。
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【借方:ポポロ村側の過失債務】
・病院施設ならびに要塞兵舎の損壊修繕費:金貨1,100枚
【貸方:ポポロ村側の正当医療債権】
・不治の難病および軍務後遺症の完全治療報酬:金貨4,300枚相当
【差引相殺結果】
・ポポロ村側の大幅黒字(純債権:金貨3,200枚)
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「な、なんやこれ……」
ニャングルが目を丸くして震え声を出した。
「弁償するどころか……差し引きで金貨三千二百枚、うちの村が病院と軍から毟り取れる計算になっとるやんけ……!」
「毟り取るんじゃない、正当な技術料の請求だ。……だが、金貨を全額払えと突っぱねれば相手もメンツがあるから紛争になる。落としどころを作るのが総務の役目だ」
俺は赤ペンを走らせ、追記事項をサラサラと書き加えた。
『付帯条件:ポポロ村は、発生した純医療債権金貨3,200枚の請求権を全面的に放棄・免除する。
その代償として、三大国軍部およびルナリア総合病院は、本件における一切の損害賠償請求を永久に破棄し、ポポロ村役場に対し「地域医療および軍事衛生向上への多大なる貢献」に対する公式感謝状、ならびに余剰食糧・物資の無償寄付を行うこと』
「……完璧です」
リバロンが感嘆のため息を漏らし、深々と頭を垂れた。
「相手の非を責め立てず、莫大な貸しを作ってメンツを保たせ、損害賠償の口を永遠に塞ぐ……。これ以上の外交示談調停案は、全大陸のいかなる老獪な宰相でも書けません」
「よし。じゃあ、決裁を通すぞ」
俺は作業着の胸ポケットから、愛用のインク内蔵式三文判(佐伯)を取り出した。
調停書の承認欄へ、躊躇なく押し込む。
ポンッ。
朱肉の混じった鮮烈な赤インクが、羊皮紙の上に「佐伯」の二文字を刻みつけた。
その瞬間――
キィィィィィン……ッッッ!!!!
調停書全体が、目も眩むような純白の神聖幾何学光を放ち始めた。
執務室の窓ガラスが共鳴し、天井を突き破るような不可視の因果律の柱が天へと昇っていく。
――ユニークスキル『最上位稟議決裁』直結執行。
――聖獣機神ガオガオン・基幹法廷OS『LEX-LUCIANA』へ瞬時同期。
――【示談条項を全宇宙の確定真理として登記・永久保全】。
「ぐ……っ!?」
リバロンがその超常の威圧に思わず膝をついた。
ただの認印ひとつで、天上の絶対法廷を動かし、三大国の司法をも上書きする不可逆の契約を結んでみせたのだ。
そして――ちょうど東の空から朝日が差し込んできた、午前七時整。
村役場の前に、砂煙を上げて軍用魔導四輪車と救急馬車が乗りつけてきた。
飛び込んできたのは、包帯だらけのルナリア病院長と、眉間に青筋を立てたゴルゴン要塞の司令官だった。
「ポポロ村の責任者を出せッ! 昨夜の暴挙、断じて許容できん! 全損害の賠償を――」
「はい、示談書はこちらになります。どうぞお目通しください」
俺は湯呑みに入った「ぬるい陽薬茶」を二つの前にスッと差し出し、三文判の押された調停書の正本を手渡した。
二人は憤怒の形相で書類に目を落とし――
「……な」
「な……なんじゃとォォォッ!?」
病院長と軍司令官の顔面が、一瞬で真っ青から真っ赤、そして土気色へと目まぐるしく変色した。
紙面から立ち上るガオガオン法廷OSの絶対確定シグナル。
反論の余地など一文字も存在しない、完璧すぎる貸借対照表。
さらに、金貨三千二百枚の債権を「感謝状一枚」で免除してやるという、あまりにも寛大すぎる恩情措置。
ぬるい陽薬茶を喉に流し込んだ二人は、胃袋の奥から緊張の糸がプツリと切れ、その場でガタガタと震えながら直立不動の敬礼を決めた。
「か、感謝いたしますぅぅぅッ!! 当院の難病患者をすべて無償で救ってくださった上に、損害賠償を全額免除してくださるなど……ポポロ村長閣下は現世に舞い降りた聖女様ですッ!!」
「我ら要塞守備隊一同、生涯この大恩を忘れません! 直ちに軍の備蓄から高級牛肉三十頭分と、ドンガン産最高級赤ワイン百樽を感謝の貢物としてお届けいたしますッッ!!」
二人は深々と最敬礼を繰り返し、脱兎のごとく去っていった。
後に残されたのは、完全なる静寂と、ポポロ村役場の歴史的大勝利だった。
「勝った……。損害賠償ゼロどころか、最高級の肉と酒が山ほど手に入ってもうた……!」
ニャングルがへたり込み、リバロンは静かに胸元で十字を切った。
「さて……一件落着だな」
俺は腕をまくり直すと、デスクの脇で呆然と立ち尽くしていたパジャマ姿の少女の前へ歩み寄った。
キャルルはまだ信じられないといった様子で、赤く腫らした目をパチクリとさせている。
「健太、さん……? わたし……牢屋に入らなくて、いいの……? 村のみんなに、迷惑かけずに済んだの……?」
「ああ、済んだよ。誰も傷ついてないし、むしろみんな助かって感謝してる。……満月の力に振り回されて一番怖かったのは、あんた自身だろうに」
俺はくたびれた作業着の袖から手を伸ばし、少女の白い頭の上にポンと掌を置いた。
そして、前世で泣きじゃくる部下の新入社員を宥める時のように、優しく、ゆっくりと撫でてやった。
「よく頑張ったな、キャルル村長。あんたは立派にポポロ村の看板を背負ってるよ」
「…………っ!!」
キャルルの華奢な身体が、ビクッと跳ね上がった。
ウサギの長い耳が、ピンと真上に向かって直立する。
月兎族の超聴覚。
頭上に置かれた健太の掌を通して、彼の胸の奥から響いてくる「心音」が、ダイレクトにキャルルの鼓膜と脳髄へ流れ込んできた。
ドックン……ドックン……ドックン……。
一点の乱れもない、静かで、どこまでも温かい凪の波形。
そこには「村長に取り入って出世してやろう」という打算も、「若い娘の身体に触れてやろう」という下心も、何一つ存在しなかった。
ただひたすらに、過失に怯えて泣きじゃくる小さな少女を慈しみ、守ってやりたいという、純度百パーセントの無私の優しさと深い包容力だけが脈打っていた。
(あ……あぁ……っ)
キャルルの胸の奥で、何かが『カチリ』と音を立てて外れた。
全身の血液が、沸騰するように熱を帯びる。
二十年間、人の嘘と欺瞞の心音ばかりを聞き続け、孤独と恐怖に震えていたウサギの少女の心に、絶対不可逆の狂気的な執着の楔が打ち込まれた瞬間だった。
(この人だ……! 私の魂の、たった一つの安らぎ……! 世界中の誰も信じられなくても、この心音だけは、絶対に私を裏切らない……!!)
キャルルの琥珀色の瞳の奥に、怪しく、昏く、甘美な光が宿った。
好感度メーターなどという生ぬるい数値ではない。
天井を突き破り、全宇宙の数式を消し去るほどの、超弩級ヤンデレ好感度カンスト。
「……健太さん♡」
キャルルは俺の手のひらにすり寄るように頬を寄せ、蕩けるような甘い吐息を漏らした。
「あったかい……健太さんの手、すっごくあったかいよぉ……♡ ふふ……あは……♡ もう、絶対に離さない……。誰にも渡さないから……♡ 昼は村役場で私の隣、夜はコーポの管理人室で……ずーっと、一生、死ぬまで私のそばにいてね……?♡」
「……ん? ああ、契約期間中はしっかり勤めるよ」
俺は妙に熱を帯びた少女の視線に微かな悪寒を覚えつつも、仕事熱心な村長からの信頼の証だと解釈し、軽く頷いた。
背後でその光景を見ていたリバロンが、「……主の瞳が、完全に獲物を巣穴に引きずり込む上位捕食者のそれになっている……」と戦慄して後退りしていたが、俺の知る由ではなかった。
「よし! 厄介な示談も片付いたことだし、朝飯にするか。軍から届いた最高級牛肉で、牛丼でも作るぞ」
「わぁい! 健太さんの手料理ぃ〜♡ 私、一生健太さんの胃袋の奴隷になるぅ〜♡」
パジャマ姿のまま俺の腕にぴたりとしがみついてくるキャルルを引き連れ、俺は清々しい朝の光が差し込む厨房へと向かった。
大混乱の満月の夜は明け、ポポロ村に再び平和な日常が戻ってきたのだ。
読んでいただきありがとうございます。
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