第09話 父上、ヒヨリを俺にください【ルーカス視点】
父上が深い森の奥から四人の子どもを保護し、連れて帰ってきた。
屋敷中がにわかに騒がしくなる中、最初に母上から聞かされたのは、そのうち一番上の少女が重傷を負っているという事だけだった。
俺と双子の弟のノエルは、慌ただしく立ち働く使用人たちに混じって治療室や客室の準備を手伝ったが、少女――ヒヨリとはまだまともに顔を合わせていない。
運び込まれた時に人混みの隙間から遠目に見ただけだ。
小さい、それが最初の印象だった。
酷く血に汚れた服と、あまりにも細い手足。父上からは十歳ほどだと聞いていた。
それなのに、あの華奢な体で三人の弟妹を必死に守り抜いたらしい。
「兄上」
「……なんだ?」
「ヒヨリが目を覚ましたって」
「そうか」
「……それだけ?」
「ああ」
無表情に答えると、ノエルが大げさに呆れた顔を作った。
「心配じゃないの?」
「そもそも、ロイドが診ている」
「そういう意味じゃないんだけどなぁーまぁ、兄上らしいけど」
ノエルの言いたいことがよく分からない。
医療の知識がない俺たちにできる事はないし、ならば専属医であるロイドにすべて任せるべきだ。
「ねぇねぇ、様子を見に行こうよ」
「邪魔になる」
「もう治療は終わってるって。弟たちも一緒にいるらしいよ」
「……そうか」
「行く?」
「……どちらでも構わない」
「じゃあ行こう!」
何故『行く』に変換されるのか分からなかったのだが、特に断る理由もない。
俺は軽い足取りのノエルについて、廊下を歩き出した。
あてがわれた客室の前まで来ると、少しだけ開いた重厚な木の扉の隙間から声が聞こえた。
すすり泣く声だった。
「ねえちゃん!!」
「ごめんね……」
ノエルと顔を見合わせる。
「……入って大丈夫かな?」
「待て」
中を覗き見するつもりはなかった。
ただ、震える声のした方へ自然と目が向いただけだ。
——見えた。
大きな天蓋付きのベッドの上に、小さな少女がいる。
夜のような黒い髪に血の気を失った白い顔。包帯が痛々しく巻かれた細い身体。
その少女が、自分よりもさらに小さな三人の子どもたちを、庇うように強く抱き締めていた。
「大丈夫、ずっと一緒だからね」
掠れているが、とても優しい声だった。
彼女自身も泣いている——全身傷だらけで、立っているのもやっとのはずなのに。
それでも怯える弟たちを安心させるように、己の痛みを堪えて必死に抱き締めている。
その姿を見た瞬間だった。
「……」
胸の奥で、何かが大きく鳴った。
どくん、と。
心臓がかつてないほど激しく脈打つ。
それは剣の修練で限界まで追い込まれた時とも違う、未知の鼓動だった。
「……?」
思わず、無意識のうちに胸へ手を当てていた。
痛くはないし、病のように苦しくもない。
なのに、視線を外せない、目が離せない。
――この子だ。
突然、雷に打たれたようにそう思った。
何が『この子』なのか、自分でもまったく論理的な説明がつかない。
今日まで会ったこともない相手、先ほど名前を聞いただけの存在なのに。
それなのに、生まれてからずっと欠けていて、探し続けていた半身をようやく見つけたような——そんな酷く熱くて妙な感覚が全身を駆け巡っていた。
「兄上?」
「……」
「どうしたの?」
「……なんでもない」
「いや、すごい顔してるけど、長年弟やってるけど、見た事ないよそんな顔!?」
「いつもと同じだ」
「いや、同じじゃないから!」
大きな声を出しながら、叫んでいるノエルを無視しながら、俺は小さく息を吐き、もう一度だけ部屋の中を見る。
ヒヨリはまだ弟妹を抱きしめながら、静かに涙を流している。
それを見るたび、胸の奥がひどくざわつく。
——泣かせたくない。
強くそう思った。
何故、赤の他人の涙を見てそこまで心が揺さぶられるのかは、やはり分からなかった。
▽
夕食の席についてからも、その光景が頭から離れなかった。
――ヒヨリ。
艶やかな黒い髪に涙に濡れた顔。
そして、弟たちを抱き締めていた、折れてしまいそうなほど細い腕。
「兄上、さっきから全然食べてないけど」
「食べている」
「手が止まってるんだけど」
ノエルに指摘され、手元を見ると、確かにナイフとフォークを持ったまま完全に動きが止まっていた。
皿の上の肉は冷めかけている。
「考え事か?」
グラスを置いた父上が尋ねてくる。
「……はい」
「珍しいね。兄上が食事中に上の空なんて」
ノエルが面白がるように余計な事を言う。
「何を考えている?」
「……」
父の言葉に、俺は改めて考えた。
扉の隙間からヒヨリを見た瞬間に感じたモノ、雷に打たれたようなあの衝撃は何だったのか。
分からない――だが、俺は昔から、考えても答えの出ないことを延々と思考し続けるのは好きではない。分からないなら、素直に行動すればいいだけだ。
「父上」
「なんだ」
「ヒヨリを俺にください」
次の瞬間、食堂が静まり返った。
父上の手が止まり、持っていたフォークがカチャリと音を立てて皿に落ちる。
母上はふわりと優雅に瞬きをし、ノエルに至っては口を半開きにしたまま完全に石化していた。
「………………俺の聞き間違いか?今、なんと言った?」
「ヒヨリを俺にください」
「聞き間違いじゃなかった!!」
なら、なぜ聞き返したのだろうか、変な父親だ。
「兄上……」
ノエルがわなわなと震えながら俺を見る。
「お前……自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「はい」
「分かってないだろ!」
「分かっています」
「何が分かってるんだ!」
「ヒヨリを妻にしたいという話です」
「ぶっ……!」
とうとうノエルがスープを吹き出した、汚い。
「お前は今日初めてあの子の顔を見たんだろうが!」
「はい」
「話したことは!?」
「ありません」
「それでなんで結婚の話になる!」
「分かりません」
「分からんのか!」
「ですが、ヒヨリだと思いました」
「何がだ!」
「分かりません」
「さっきから分からんしか言ってないだろうが!」
父上がとうとう両手で頭を抱え込んだ。
俺はそんなにおかしな事を言っているのだろうか、純粋な事実を述べているだけなのだが。
「――ルーカス」
静観していた母上が、穏やかな声で呼ぶ。
「はい」
「ヒヨリ様を見て、どう思ったのです?」
「……」
己の中の感情を言語化するために、少し考える。
「守りたいと思いました」
「あら」
「もう二度と、あんなふうに泣かせたくないとも」
母上の口元に浮かぶ笑みが、さらに深くなった。
「そう、なるほど」
「エレオノーラ、そこで納得するな!」
「素敵ではありませんか」
「どこがだ!」
父上がバッと顔を上げ、険しい目で俺を睨む。
「いいか、ルーカス。ヒヨリはまだ子どもだぞ!」
「俺も十五歳です」
「そういう問題じゃない!」
ゴンッ!
「痛い」
叫ぶ声と同時に、遠慮のない拳が頭に落ちてきた。
「何をするんですか?」
「親として当然の指導だ!」
「暴力はいけません」
「お前が言うな!」
「ははっ……!はははははっ!」
父上と俺のやり取りを見て、とうとうノエルが耐えきれなくなったらしい。
「兄上……っ、駄目……面白すぎる……!」
「何がおかしい」
「だって……今日会ったばっかりなのに……!」
「会ってはいない、遠目から見ただけだ」
「なおさらもっと悪いよ!」
腹を抱えてテーブルに突っ伏し、ヒィヒィと笑っている。本当に失礼な弟だ。
すると、 父上がビシッと俺の鼻先を指差す。
「とにかくだ!この話を、絶対にヒヨリ本人の前でするな!」
「なぜです?」
「いきなりそんなことを言われたら怖がらせるからだ!」
「……」
それは困る――彼女に俺を見て怖がられるのだけは、絶対に嫌だった。
「分かりました」
「妙なこともするな!」
「しません」
「本当だろうな?」
「はい」
俺が真顔で頷くと、父上は今日一番の深いため息を吐き出した。
ノエルはまだ腹を抱えて笑い転げており、母上だけが、この騒ぎを劇でも見るかのように楽しそうに微笑んでいた。
結局——胸を打ったあの熱い感覚が何なのかは、分からないままだった。
ただ一つ、確かなことがある。
もう一度、ヒヨリに会いたい——強く、そう思った。
今度は扉の外から盗み見るのではなく、ちゃんと彼女の目の前に立って、自分の口から自分の名前を伝えたい。
そして、できることならもう無理をして泣き笑いしている顔ではなく、心からの安堵に包まれた顔を見てみたいと思った。
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