第10話 お腹はすいていません
夕ご飯は、私の部屋で食べる事になった。
まだベッドから起き上がることすらできない私のために、陽太たちの分も一緒にこちらの部屋へ運んでくれるという。
「失礼いたします」
静かにノックの音が鳴り、扉が開く。何人かのメイドたちが銀色のワゴンを押して部屋へ入ってきた。
ふわりと、鼻をくすぐる豊かな匂いが広がる。その手にあるものを見た瞬間、私は思わず声を漏らした。
「……え?」
料理だった。
一つ。二つ。三つ——真っ白なクロスの敷かれたテーブルの上へ、次々と豪勢な皿が並べられていく。
表面が香ばしく焼かれ、艶やかなソースがたっぷりとかかった肉料理。籠にこんもりと盛られた、見るからにふかふかの白いパン。とろけるようなチーズが乗った卵料理に、湯気を立てる濃厚なポタージュスープ。
色鮮やかに煮込まれた野菜の横には、宝石のようにきらきらと光る新鮮な果物まで添えられている。
「わぁ……」
「いっぱい……」
奏太が目を丸くして、テーブルに身を乗り出した。
陽太も信じられないものを見るように固まっている。
美羽だけは、美味しそうな料理が次々と並ぶたびに、「わぁ!」と嬉しそうに小さな声を上げていた。
ふと、陽太が不安そうに振り返り、私を見る。
「これ……」
「ぜんぶ、ごはん?」
「……みたいだね」
「ぼくたちの?」
「そう……なのかな」
多すぎる――こんなに贅沢で温かいモノを、私たちのようなモノが食べていいのだろうか?
そもそも、これ本当に全部私たちのものなのだろうか?
誰か偉い人の食事と間違えているのではないかと、胸がざわついた。
「お口に合わないものがございましたら、遠慮なく仰ってくださいね」
メイドの一人が、私たちの戸惑いなど気にも留めない様子で優しく微笑んだ。
「えっと……これ、食べていいんですか?」
恐る恐る聞いたのは奏太だった。じっとメイドの顔色を窺っている。
「もちろんですよ」
「ぜんぶ?」
「ええ、どうぞ」
「おかね……」
陽太が、ぎゅっと自分の服の裾を握りしめて小さく呟いた。
「おかね、ないよ?」
メイドが一瞬、驚いたように目を丸くする。
だが、すぐに泣き出しそうな陽太の不安を拭い去るように、穏やかに笑いかけた。
「お金なんて必要ありませんよ」
「……だいじょうぶ、なの?」
「はい。ですから、冷めないうちにたくさん召し上がってくださいね」
陽太と奏太が、信じられないというように顔を見合わせる。
私は目の前に並んだ豪華な料理に目を向ける。
こんなにあるなら、三人の腹ぺこなお腹も十分に満たせるはずだ。
「陽太、こっちのお肉食べる?」
「え?」
「奏太はスープがいいかな。美羽は……お肉は小さく切ってあげたほうがいいよね」
私はシーツに手をつき、皆を取り分けようと無理に身体を起こそうとした。
「――っ」
途端に、まだ塞がりきっていない脇腹の傷に鋭い激痛が走った。思わず顔をしかめ、息を呑む。
「ねえちゃん!」
「大丈夫……」
心配して駆け寄ろうとする陽太を手で制し、痛みを堪えてゆっくり動こうとする。
「お皿を……」
「ヒヨリ様」
いつの間にか部屋へ入ってきていたのだろう?
顔を上げると、落ち着いた、優しい声を出してくれたエレオノーラさんの姿があった。
「もしよろしければがお手伝いしましょうか?」
「でも……」
「もちろん、ご自分でしたければ止めません……ですが、せっかく塞がりかけた傷が開いてしまうと大変ですから」
「……」
「どうなさいますか?」
ああ、まただ。
この人は、必ず私の意志を聞いてくれる。
「では、その……お願いします」
「はい、承知いたしました」
エレオノーラさんは静かに微笑むと、手際よく、温かい料理を取り分けてくれた。
「陽太はお肉を少し多めでいいですか?」
「はい、分かりました」
「奏太は……お野菜も食べられる?」
「うん」
「美羽の分は細かく切ってくださいね」
「ええ、かしこまりました」
一人ずつ、いつも私がしているように様子を確認しながら進めてくれる。
三人が自分の力でちゃんと食べられるように。ちゃんとお腹いっぱいになるように。
「ヒヨリ様は、こちらをどうぞ」
私の前にも、一つだけ小さな器が置かれた。
「……これ、は?」
みんなの並ぶ豪勢な料理とは明らかに違うものだった。
くたくたになるまで柔らかく煮込まれたお粥のようなものと、胃に優しげな透き通った色のスープに見える。
「ロイド先生から、まだ普通のお食事は控えるようにと言われておりますので」
「あ、そ、そうなんですね」
「数日もすれば同じものが食べられるようになりますから、今は少しずつ、無理のない範囲で召し上がってください」
「はい」
小さく返事をして、スプーンを持つ。
でも――。
「おいしい!」
陽太の弾んだ声が部屋に響いた。
顔を上げると、目をキラキラと輝かせ、口の周りにソースをつけながら笑っている。
「ねえちゃん! これ、すごいよ! お肉、とろける!」
「本当?」
「うん、すっごく美味しい!」
「喉に詰まらせないように、ゆっくり食べてね」
「分かってる!」
奏太も、ちぎった柔らかなパンをスープに浸しながら夢中で口に運んでいる。
「おいしい……」
「スープもちゃんと飲んでね」
「うん」
「美羽、熱くない?」
「おいち!ねぇね、おいちぃよ?」
「そっか」
よかったーー三人とも、あんなに美味しそうに食べている。
温かい部屋で、ちゃんとした食事を、お腹いっぱい。
「ヒヨリ様」
「はい?」
「もしかして、お口に合いませんでしたか?」
エレオノーラさんに指摘されて、ハッと手元を見る。
私の器の中身は、さっきからほとんど減っていなかった。
「……食べてますよ?」
「そうですか」
「はい」
慌ててスプーンで一口だけすくい、口に運ぶ。
次の瞬間、温かくて、じんわりと出汁の効いた優しい味が広がった。
確かに美味しい——とても美味しいはずなのに、私の胃はぎゅっと縮こまっていて、これ以上食べ物を受け付けそうになかった。
でも、自分が食べるよりも、三人が夢中で頬張っているのを見ている方が、ずっと胸がいっぱいになって安心したのだ。
「ねえちゃん、それだけ?」
陽太が、私の手が止まっている事に不思議そうに気づいた。
「うん、私はいいの」
「なんで?」
「お腹、そんなに空いてないから」
「でも、ずっとなんにも食べてないよ」
「大丈夫」
いつもの癖で、咄嗟にその言葉が出かけた。
「私は、その……大丈夫だから」
言いながら、私は反射的にエレオノーラさんの顔色を窺っていた。
もしかしたら、もっと食べなさいと強制されると思ってしまった——せっかく用意してもらったのに残すなんて、贅沢だと叱られるかもしれない。
怒鳴られて、またあの理不尽な暴力が飛んでくるかもしれない、思わず身体が微かにこわばる。
だけど、反応は違っていたんだ。
「そうですか、無理はなさらずに」
返ってきたのは、拍子抜けするほど穏やかな声だった。
「……食べなくても、怒らないんですか?」
「お加減が悪いのですよ、ヒヨリ様……今は無理をして食べる必要はありません」
「でも……残したら、もったいないです」
「では、またお腹が空いた時にその都度新しく温かいものをご用意いたしましょう」
まるで、息をするのと同じくらい当たり前のことのように告げられる。
「……また?」
「はい」
「また、作ってくれるんですか?」
「もちろんです。あなたが食べられる時にいくらでもお作りしますよ」
私は言葉を失い、シーツの上でぎゅっと手を握りしめて黙り込んだ。
変だ――残しても怒られない。食べられなくても、責められない。
それどころか、お腹が空いたらまたいつでも新しく作ってくれるという。そんな世界が本当に存在するのだろうか。
「ねえちゃん」
陽太が、大きなパンを片手に持ってこちらを見た。
「これ、すごくおいしいよ」
「うん」
「ねえちゃんも、早く元気になったら一緒に食べようね」
「……うん」
「いっしょにね」
奏太も、口の端に少しポタージュをつけながら小さく頷く。
「おねえちゃんも、今度は一緒に食べようね」
美羽まで、小さな両手で果物を握りしめながら、
「ねえね、いっちょ!」
末っ子の彼女は満面の笑みで言った。
「……うん」
ずっと冷え切って固まっていた胸の奥が、ふわりと温かいもので満たされていくのが分かった。
私はもう一度、スプーンを手に取り、一口。そして、もう一口。
たくさんは食べられなかった。目の前の器には、まだ食事が半分以上残っている。
でも、それでももったいないと、攻める姿の大人たちはいなかった。
テーブルにはまだ湯気を立てる料理が並んでいる。陽太たちは笑顔を交わしながら、無邪気に笑い合いながら食べている。
誰も私たちの皿を途中で取り上げたりしない。誰も早く食べろと怒鳴り散らさないし、食べ終わったあとに、理不尽な労働を強要されることもない。
ただ、純粋に温かいご飯を食べている。
それだけの事なのに、ひどく泣きそうな気分だった。
私は、丁寧に煮込まれたスープを、もう一口だけゆっくりと飲み込んだ。
自分のお腹が本当はどれくらい空いているのか、私自身まだよく分からない。
だけど――弟たちと一緒に笑いながら囲むこのご飯は、少しだけ、とても美味しかった。
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