第11話 パンを隠した女の子
ヒヨリ様が目を覚ましてから、一晩が経ちました。
ロイドによれば、まだ安静は必要ですが、ひとまず最も危険な状態は脱したそうです。
その言葉に、私たちは胸を撫で下ろしました。
ですが、身体の傷が治れば、それですべて終わるわけではない。
あの子を見ていると、そう思わずにはいられませんでした。
「おはようございます、ヒヨリ様」
「あ、う、えっと……おはようございます」
翌朝——部屋を訪れると、ヒヨリ様はすでに目を覚ましておりベッドの上で静かに座っていました。
その傍らには、ヨウタ様たちの姿もあります。
昨夜は別室に寝台を用意したのですが、結局三人とも姉のそばを離れたがらなかったのです。
「姉ちゃん!おれ、おなかすいた!」
元気よく声を上げたのはヨウタ様でした。
「ぼくも……」
「ミウも!」
「ふふ……それでは、朝食にしましょうか」
今日もヒヨリ様はまだ自由に動けないため、四人分の朝食を部屋へ運ばせました。
今日の献立は焼きたてのパンに卵料理。
湯気の立つ温かなスープと、柔らかく煮込まれた野菜、そしてヒヨリ様には、昨日と同じく身体に負担の少ない食事が用意されています。
「いただきます!」
三人が嬉しそうに食べ始めるのを見つめながら、ヒヨリ様は自分の食事より先に弟妹たちの様子を確認していました。
「陽太、ゆっくり食べてね、奏太はあつくない?」
「分かってる!」
「だいじょうぶだよ」
「美羽、こぼさないようにしてね」
「はぁい!」
その姿が、まるで母親のようでした。
まだ幼い少女が、自分よりさらに小さな三人の弟妹をずっとそうやって守り、世話してきたのでしょう。
「ヒヨリ様も、召し上がってくださいね」
「はい」
返事は、してくれます。
けれど、やはりスプーンの動きは遅く、食事はなかなか減りません。
昨日よりは食べているはずなのに、それでもあまりにも少ない。
ですが、私は何も言いませんでした。
無理に食べさせる必要はないと、ロイドからも釘を刺されているからです。
「おかわり!」
ヨウタ様が元気よく手を挙げました。
「あら、パンでよろしいですか?」
「うん!」
「ぼくも……」
「奏太も?」
「うん」
私が合図すると、ほほえましい顔をしながら使用人が追加のパンを運んできます。
小さな籠に、香ばしい焼きたてのパンがいくつも並んでいました。
その時でした――ヒヨリ様が、その籠をじっと見つめている事に気づきました。
「ヒヨリ様も、パンを召し上がりますか?」
「……はい」
促されるまま、彼女は一つだけ手にとりましたが、食べません。
周囲をそっと窺い、誰も見ていないと思ったのでしょう。
素早く、しかし慎重に、そのパンを綺麗な布へと包みました。
そして、ベッド脇に置かれていた自分の服のポケットへと滑り込ませたのです。
「……」
私は何も言いません、そして見なかった事にしました。
なぜ隠したのでしょう?
後でお腹が空いたときに食べるためでしょうか?
それなら構いませんが、ヒヨリ様の表情が、どうしても胸に引っかかりました。
それは、イタズラがバレて怒られるのを恐れる子どもの顔ではありませんでした。
まるでもっと必死で、いつ訪れるか分からない飢えや過酷な明日に対して、必死に備えている者の顔でしたから。
▽
朝食が終わり、穏やかな時間が流れます。
ヨウタ様たちは、他の使用人たちに連れられて中庭の様子を見る事になりました。
もちろんヒヨリ様が心配するため、窓から見渡せる範囲だけです。
「ねえちゃん、いってくる!」
「遠くへ行きすぎちゃダメだからね」
「分かってる!」
「奏太、美羽の手をしっかり繋いであげてね」
「うん」
元気な声を残し、三人が部屋を出ていきます。
ヒヨリ様は、窓辺へ視線を向けてその小さな背中が見えなくなるまでじっと見守っていました。
私も静かに隣へ立ちながら、しばらくして静寂の中に声を落としました。
「……ヒヨリ様」
「はい」
「一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
その問いかけに、彼女の身体が僅かに強張りました。
たったそれだけの反応で、胸が痛みます。
「答えたくなければ、無理に答えなくても構いません」
「……はい」
「先ほどのパンの事ですが」
「――っ」
血の気がスーッと引くように、ヒヨリ様の顔色が変わりました。
すぐに分かりました。
彼女は今、『怒られる』と確信しているのです。
「ご、ごめんなさい……っ!」
ヒヨリ様が慌ててポケットへ手を伸ばします。
「返します! 食べてなくて……だから、その……!」
「ヒヨリ様」
「勝手に隠したりして、ごめんなさい!」
「私は、怒っていませんよ?」
「……え?」
怯える彼女を安心させるように、ゆっくりと言葉を重ねます。
「ただ、どうして隠したのか……その理由を知りたかったのです」
「……」
「お腹が空いた時の為、ですか?」
ヒヨリ様は固く唇を引き結び、しばらく黙っていました。
やがて、絞り出すような小さな声で答えます。
「…………陽太たちが夜になって、またお腹空いたって……言うかもしれないから
「……!」
「昨日はいっぱい食べたけど……今日も、お昼は食べられたけど……」
彼女はポケットの上から、パンの形を確かめるようにギュッと握りしめました。
「次の夜もあるか、どうか……分からないから」
その言葉に、胸が締め付けられそうでした。
「だから、一個だけでもあれば……三人で分けて食べられるし」
「では、ヒヨリ様の分は?」
「私は、大丈夫だから」
迷う事のない答えでした。
一体、どのような日常を送っていたのだろうか、そのように考えてしまいました。
そしてまた、あの言葉です。
「お腹が空いてもですか?」
「……慣れてるから」
あまりにも自然に、当たり前のこととして口にするものだから。
私は一瞬、言葉を失ってしまいました。
慣れている、まだ十二歳にも満たないような、守られるべき少女が、飢えや空腹に。
「……そうでしたか」
私はそれ以上、深い詮索はできませんでした。
可哀想だなどと同情の言葉を口にしたくはありません、そんな軽薄な言葉でこの子がこれまでに耐えてきた過酷な時間を勝手に括りたくなかったからです。
「そうですね……パンは、そのまま持っていて構いませんよ」
「……いいんですか?」
「ええ」
「返さなくて、本当にいいんですか?」
「もちろんです」
ヒヨリ様は戸惑いに満ちた顔で、私を見上げました。
「ですが、これだけは一つだけ覚えておいてくださいね」
「……はい」
「今日のお昼にも、温かいご飯はきちんとありますから」
ゆっくりと、一つひとつの言葉を置くように伝えます。
「夜にも、美味しい夕食がありますし、明日の朝にも、同じように用意します」
「……っ!」
ヒヨリ様が、さらに驚いたように目を見開きました。
「明日も……ですか?」
「ええ、当たり前です」
「本当に?」
「はい」
「陽太達の分も……?」
「もちろんです。全員分、しっかりと用意します」
何度でも、彼女が心の底から納得できるまで答え続けましょう。
「ヒヨリ様の分もありますよ」
「……私のもあるの?」
「ええ、あなたの分もです」
不思議です、何故でしょう?
その言葉を聞いた瞬間、彼女は今日一番の驚愕に満ちた顔をしました。
「……」
ヒヨリ様は震える手でポケットの上からパンを握りしめました。
それでも、すぐに取り出そうとはしません。
だから、私もそれを無理やり取り上げたりはしませんでした。
今はまだ、それをポケットに持っている事だけが、この子の唯一の安心材料なのですから。
「大丈夫ですから、持っていてくださいね」
「……はい」
「ですが、もし夜になってお腹が空いた時は——」
私は優しく微笑みました。
「パンをこっそり隠しておかなくても、私たちに『お腹が空いた』と伝えていいですからね」
「……」
私の言葉に、ヒヨリ様は何も答えませんでした。
ただ、それがどうしても信じられないものを見るような目で、じっと私を見つめていました。
多分ですけど、きっと、今日はこうして一度言われたくらいでは、彼女はまだ信じることはできないでしょう。
それなら――明日も、明後日も、その次の日も、ヒヨリ様が心配をせず、ポケットにパンを隠さなくても大丈夫なのだと心から確信できる日まで、何度でも、同じ言葉を重ねましょう。
それが、当たり前の日常として、温かい食事を用意し続けましょう。
いつの日か彼女が笑顔で私に。
「お腹がすいた!」
と、笑顔で言ってくれる事を願いながら。
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