第07話 目を覚ましたひより
最初に感じたのは、知らない匂いだった。
お日様に干した布みたいな匂いと、少しだけ甘い花の香りと、それから身体が沈み込んでしまいそうくらい柔らかな感触。
なんだろう、ここ。私、どこに――。
「……ん……」
重たい瞼をゆっくりと開く。
ぼんやりとした視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど綺麗な白い天井だった。
「……?」
全然、頭が上手く働かない。
ここは、家じゃない。
私たちが住んでいた部屋の天井には、こんな素敵な模様なんてなかった。
そもそも、こんなにふかふかなベッドで眠ったことなんて――すごく、気持ちよかった。
「――っ!」
次の瞬間、一気に記憶が戻ってきた。
知らない森に居て、大きな黒い獣に襲いかけられて、騎士と名乗った人たちがいて。
「陽太たちは……!?」
勢いよく身体を起こそうとした。
「――っ、あ……!」
全身に激しい痛みが襲い掛かってきた。
特に脇腹が酷かった。身体の奥を抉られたような痛みに息が止まり、そのままベッドへと倒れ込んだ。
「っ……は、ぁ……」
「いけません!」
聞き慣れない、上品な女の人の声が響く。
「……っ!」
反射的に身体が強張り、痛みに耐えながら必死に顔を向ける。
ベッドから少し離れた場所に、一人の女性が座っていた。
その人はとても綺麗な人だった。
淡い金色の長い髪に透き通るような白い肌をしてて、そして優しげな顔立ち。
着ている服も、絵本やお姫様のドレスみたいに上品だった。
でも、知らない人だ。
知らない人は何をするかわからないから警戒をしないといけない。
「だ、誰……?」
震える声が漏れる。
だけど、女性は立ち上がりかけたがすぐに動きをピタリと止めた。
私が怯えたことに気づいたのだろうか、それ以上は近づいてこない。
「驚かせてしまいましたね」
その声は、どこまでも柔らかな声だった。
「わたくしはエレオノーラ・ヴァレンシュタインと申します」
「ヴァレン……?」
「ここはヴァレンシュタイン侯爵家のお屋敷です」
「こうしゃく……?」
聞き慣れない言葉。
いや、知っている。
小説や漫画の世界では見たことがある。
でも、それが現実に出てくる意味なんて、分からない。
「アルベルト・ヴァレンシュタインという男性を覚えていらっしゃいますか?」
「アルベルト……」
その名前は聞いた事ある、あの背の高い大きな男の人事だ。
森で黒い獣を一撃で倒した騎士の人。
『お前たちは、必ず俺が助ける』
「……っ!」
そうだ、忘れてた。陽太たちがいない。
「陽太……っ!」
再び身体を起こそうとして、激痛に顔が歪んだ。
「よ、陽太と奏太と美羽は……!?」
「大丈夫ですよ」
「どこに!?」
「三人とも、無事です」
「どこにいるんですか……っ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「会わせて……ください!」
「もちろんです」
「……本当に?」
「はい」
「怪我してないですか?」
「大きな怪我はありませんよ」
「嘘じゃない……?」
「嘘ではありません」
どこまでも優しく答えてくれる。
だけど、駄目だ、駄目なんだ。
信じちゃ駄目だ、大人は平気で嘘をつく。
『大丈夫』だと言われて、本当に大丈夫だったことなんて今までに何回あった?
「……会わせて」
「ええ」
「今すぐ……お願いします」
声が泣きそうに震える。
「自分の目で……見ないと、分からないから……」
女の人――エレオノーラさんは、少しだけ悲しそうな顔をした。
彼女は笑った後、静かに頷いて答えた。
「分かりました」
彼女はそれだけを告げた。
怒鳴ったりもしなかった。どうして信用できないのかと問い詰めたりもしなかった。
「少々お待ちください、すぐに呼びますね」
そう言って、扉へ向かって歩き出す。
けれど、私はその背中から一瞬たりとも目を離せなかった。
本当に呼んでくれる?
今までこんなことなかったから、あっけにとられてしまった。
だけど、頭の中に、嫌な考えばかりが渦巻き、ぎゅっとシーツを握りしめた。
冷や汗で、指先がブルブルと震えていた。
「……陽太」
――怖い。
「奏太……美羽……」
お願い、無事でいて。
私が気を失っている間に、もし何かあったら。
もし、あの人たちに……。
「ねえちゃん!」
「――っ!」
静かな廊下から、よく知る声が響いた。
次の瞬間、勢いよく扉が開き、小さな人影が飛び込んでくる。
「ねえちゃん!」
「おねえちゃん……!」
「ねえねぇ……!」
「……っ!」
陽太、奏太、美羽——三人がいた、ちゃんと、そこに。
「ねえちゃんっ!」
真っ先に陽太がベッドへ駆け寄ってきた。
「陽太!」
「ねえちゃん、起きた……!」
「奏太!」
「ねえちゃん……っ!」
「美羽!」
「ねえねぇ……!」
三人が一斉にベッドにしがみつく。
私は痛む身体を無理やり動かし、震える手を精一杯伸ばした。
「ちょっと……顔、見せて」
「ねえちゃん?」
「いいから……いいから……」
陽太の体を確認する。
全身確認しながら、ケガしていないか、何もないか確認した。
「怪我は……?」
「ないよ」
「本当……?」
「うん、ほんと!」
「奏太は?」
「ぼくも、だいじょうぶ」
「どこか痛くない……?」
「いたくないよ」
「美羽……」
「ねえね!」
美羽の小さな身体にも手を伸ばす。
頭を撫で、頬に触れ、腕や足を確かめる。
血はないし、大きな傷もない。
三人とも、本当に、無事だ。
「……よかった」
喉の奥から、小さな声が零れ落ちた。
「よかったぁ……っ」
全身の力が、一気に抜けていく。
その瞬間だった、視界が急にぼやけ、熱いものが溢れ出した。
「……あれ?」
おかしい、安心したはずなのに。
「ねえちゃん?」
「なんでも、ない……」
慌てて目元を乱暴に拭おうとする。
けれど、一度あふれた涙はもう止まってくれなかった。
「なんでもないから……大丈夫、だから……」
「ねえちゃん、泣いてる」
「泣いてないよ……」
「泣いてるよぉ……!」
奏太まで、つられて泣き出した。
「ねえちゃん……っ」
「奏太まで泣かないでよ……」
「だ、だって、ねえちゃんがずっと起えなかったからぁ……!」
「……ごめんね」
「いっぱい呼んでも、おきなかったんだよ……!」
「ごめんね、ごめん……」
陽太がぐっと唇を噛み締めていた。
「ねえちゃんの、うそつき」
「……え?」
「すぐ戻るって、言ったじゃん……!」
「それは……ごめんね」
「大丈夫って、言った!」
「うん……」
「ぜんぜん、大丈夫じゃなかった……!」
「……本当に、ごめんね」
「ぼく……ねえちゃん、死んじゃうかと思った……っ」
陽太の顔が、くしゃくしゃに歪む。
そして、陽太は叫んだ。
「こわかったぁ……っ!」
「陽太……」
ああ、もう、我慢しなくてよかったんだ。
私は震える両腕を広げ、三人を受け止めた。
「おいで」
三人が一斉に私の胸へと飛び込んできた。
「ねえちゃん……!」
「ねえちゃん……!」
「ねえねぇ……!」
「っ……!」
きしむような傷の痛みが走る。
だけど、今だけは、そんな事どうでもよかった。
陽太の頭を抱きしめ、奏太の背中に腕を回し、美羽の小さな身体を胸に引き寄せる。
全部、ここにある。
温かい——みんな、生きている。
「よかった……」
涙がとめどなく溢れて止まらない。
「本当に……よかったぁ……っ」
怖かった、本当はずっと、怖くてたまらなかった。
あの薄暗い家から、光る床に落とされた時も怖かったし、バケモノが現れた時も怖かった。
知らない人達に囲まれて、痛いし苦しいし、それでもお姉ちゃんだから吐き出す事も出来なかった。
本当は、ずっと怖かった。
すごく、怖かったんだ。
でも、私が怖がったら、三人までもっと怖くなってしまう。
自分がお姉ちゃんだから、私がしっかりしなくちゃいけないんだと、そう言い聞かせるしかなかった。
「怖かったよぉ……っ」
気づけば、そんな弱音が口から零れ落ちていた。
「私も……本当は怖かったよぉ……っ」
つい、言ってしまった。
初めてだった、弟や妹たちの前で、素直に『怖い』と言ったのは。
ずっと大丈夫じゃなかったって、弱音を吐いたのは。
「ねえちゃん……」
「ごめんね……ごめんね……っ」
「ねえちゃん、悪くないよ……っ!」
陽太が泣きじゃくりながら首を振った。
「ねえちゃん、ぼくたちのこと守ってくれたもん!」
「……陽太」
「だから、もう……どこにも行かないでっ!」
「うん、行かない」
私は三人をさらに強く抱き締めた。
「どこにも行かないよ」
今度は、今度こそ、絶対に離さない。
「大丈夫……ずっと、一緒だから」
四人の泣き声が、広い静かな部屋に温かく響いていた。
少し離れた窓際で、エレオノーラさんが静かに佇んでいた。
彼女は余計な言葉をかけたりしなかった。
ただ、私たちを温かな眼差しで見守ってくれている。
ふと、視線が合ったので、私は少しだけ戸惑いながらも、絞り出すように言った。
「その……ありがとうございました」
小さな、掠れた声だった。
エレオノーラさんはふわりと驚いたような顔をした後、まるで母親のように優しく微笑んだ。
「いいえ」
ただ、それだけだった。
彼女は私たちから何も奪おうとせず、何も強要してこなかった。
そのことが、なぜだか胸に沁みた。
まだ完全に恐怖が消えたわけじゃないけれど、それでも、ほんの少しだけここなら息をしてもいいのかもしれないと――そんな風に思えた。
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