第03話 知らない人
木々の暗がりの中、二つの赤い光がゆっくりと開いた。
「……っ」
呼吸が完全に止まる。
あの赤い目が、私たちを正確に捉えていた。
――グルルルルル……。
腹の底を揺さぶるような低い唸り声とともに、茂みが大きく揺れる。
最初に見えたのは、不気味に黒光りする太い前足だった。
あれは、犬なんかじゃない。
地面を踏みしめる爪は、一本一本が私の指ほどもあり、先端が刃物のように鋭く尖っている。
やがて茂みから完全に姿を現したそれを目の当たりにして、私の頭の中は真っ白に焼き切れた。
狼だ、おそらく、狼に似た獣なのだろう。
だが、あまりにも大きすぎた。
背丈だけでも、私の胸のあたりまである。
漆黒の剛毛に覆われた巨体は熊のように分厚く見えるし、開かれた口から覗く牙は不気味なほど白く長く尖っていた。
「ね、ねえちゃん……っこわいよ……」
奏太の手が、私の服の裾をぎゅっと掴んで離さない。
「――大丈夫、だいじょうぶだから」
強張る声をどうにか絞り出し、私は持っていた美羽をそっと地面へ下ろした。
「陽太」
「……うん」
「美羽をお願い」
「ねえちゃんは?」
「すぐ戻るから」
「い、いやだっ!」
陽太が私の服にしがみついてきた。
強く握りしめ、放そうとしない。
「ねえちゃんもいっしょがいい!」
「陽太」
「また、ぼくだけ……置いていかないで……!」
「お願い、ね?」
震える手を抑え込み、なるべく優しい声で言い聞かせる。
そして再度陽太を見た。
「奏太と美羽を守ってあげて」
「……っ!」
「陽太にしか、頼めないの」
私の言葉に、陽太は小さな唇をぎっと噛み締めた後、ゆっくりと私から離れてくれた。
泣きじゃくりたい顔のまま、それでも彼は美羽の小さな手を力強く握りしめてくれた。
私は三人の前へと一歩踏み出す。
足がガタガタと震えて止まらないし、全身の傷が疼き、焼けるように痛む。
陽太、本当はね、お姉ちゃん怖いんだ。逃げだしたい。
けど、後ろにはあなた達がいる。
私が退いたら、この牙から三身を守るものは何もない。
周りに目を向けながら、武器になりそうなものなんて、ここには何一つ――。
「あ……」
少し離れた足元に、手頃な太さの折れた枝が落ちていたので、迷うことなく拾った。
太さは、私の腕より少し細いくらいだ。
こんな木の棒で、あの化け物のような獣にどうにかなるなんて思っていない。
それでも、素手でいるよりはましだった。
両手でしっかりと枝を握り締める。その衝撃で、脇腹の裂けた傷口から激痛が走った。
「っ……!」
駄目だ、今は痛いなんて考えている暇はない。
一歩、目の前の獣がこちらへ距離を詰めてきた。
私も負けじと枝を構える。
「おねがい、こないで……!」
掠れた、震えた声が森に響く。
こんな獣に、人間の言葉なんて通じるはずがない、分かっているのに。
「こないでっ!」
叫んだ瞬間、獣が地を蹴って、素早い動きで飛びかかってきた。
「ねえちゃんっ!」
陽太の悲鳴が重なる。
巨大な黒い影が視界を覆い、臭い立つような生暖かい息とともに、大きな口がこちらに向かってくる。
私は目を閉じなかった。
折れた枝を握りしめたまま、三人の盾になるように踏み止まる。
せめて、せめて私がこの牙に引き裂かれている間に逃げてくれれば……。
「逃げて……っ!」
三人のために叫んだその刹那。
――ザンッ!
凄まじい風とともに、何かが目の前の空気を切り裂いたのだ。
「…………え?」
生温かい赤い飛沫が、私の頬に少しかかる。
跳躍していた黒い獣の身体が、空中で不自然にガクリと傾き、そして――。
ドサッ――!
地響きのような重い音を立てて、巨大な巨体が無様に地面へと叩きつけられた。
「……うそ……」
動かない。
あんなに不気味に光っていた赤い目から、すうっと光が消えていく。
何が起きたのか、わからない。
ただ、その動かなくなった黒い巨体の向こう側に、静かに佇む『影』があった。
そして、そこから現れたのは、巨大な人間の男だった。
「団長!」
鋭い男の声が、静まり返った森を切り裂く。
「一頭だけではありません! 周囲の木立からも多数の魔力反応があります!」
「ディートリヒ、直ちに周囲を警戒・索敵しろ」
「はっ!」
「第三隊は東側の退路を塞げ!残りは……子どもたちの周囲を厳重に固めろ」
それは、低く、圧倒的な威圧感を含んだ声だった。
次から次へと、森の影から人間が現れる。
一人、二人、いや、もっといる。
現れたのは、全員が大人の男たちだった。
統一された重々しい鎧を着て、腰にはそれぞれ剣がある。
何人かの男は、巨大な馬に跨っていた。
目の前で展開されている光景が、私には理解の範疇を超えていた。
魔力?団長?騎士?
そんなファンタジー小説のような言葉よりも、目の前の男たちに対する恐怖が脳内を支配してきた。
だって、あの男と同じ大きな男たちの姿だ。
私はただ、怖い――それだけしかなかった。
「……ねえちゃん」
背後から、陽太が私の服の裾を怯えた手つきで引きずる。
「大丈夫だから……」
私は震える手で枝を構え直してみる。
目の前に立つ男は、常軌を逸したほど大きかった。
おそらく、身長は二メートル近い。
頑強な肉体を鎧で包み込み、引き締まった顔の横には古い深い傷跡がある。
手には、さっきまで化け物の血を滴らせていた大剣が握られていた。
――脳裏に、あの家の記憶がフラッシュバックする。
薄暗い廊下で、ドスドスと近付いてくる重たい足音、逃げるなと怒鳴りつけるあの男の声が。
「っ……!」
喉が締め付けられ、息が全く吸えなくなった。
違う、あの男じゃない。
頭では分かっているんだ。顔も、声も、纏う空気も全く違う。
ここは家なんかじゃない、知らない森の中だ。
それなのに、私の身体は恐怖で勝手に痙攣し、制御を失っていた。
「……おい、怪我はないか」
団長と呼ばれたその大男が気遣うようにゆっくりと一歩、こちらへ歩み寄ってきた。
「こ、来ないでっ!」
私は反射的に叫んでいた。
男の巨体が、ぴたりと動きを止める。
「……」
「お、お願い……こ、これ以上、来ないでください!!」
震える木片の先端をその男に向ける。
両手で必死に支えているのに、恐怖で腕の力が抜けて先端が大きく揺れてしまう。
「ひより、ねえちゃん……」
「大丈夫、だから……後ろにいて」
三人を必死に背後へ庇い隠す。
怖い……怖い、怖い、怖い!!
今すぐここから逃げ出したい。
だけど、逃げ場所なんてどこにもない。
私がここで折れたら、後ろにいる三人にあの脅威が伸びてしまう。
「団長……」
近くにいたもう一人の男が何かを諫めようと口を開いたが、大男は片手を上げてそれを制した。
「……分かった」
「……え?」
「これ以上は近づかない」
男の声は低く、驚くほど落ち着いていた。
そして、私の敵意を真っ直ぐに受け止めながら持っていた大剣をゆっくりと下げた。
刃にこびりついた魔物の血を払って重厚な金属音を立てながら、それを背中の鞘へと収める。
カチン、と硬質な音が森に響いた。
その音にびくっと私の肩が大きく跳ねる。
男の鋭い目が、ほんのわずかに細められた。
そして――彼はその場で、音もなく膝をついた。
「……?」
威圧感の塊だった巨体が、一瞬にして低くなる。
それでもなお恐怖が消えることはなく、私は武器代わりの木の枝を下ろすことができなかった。
「俺は、アルベルト・ヴァレンシュタイン……この領地の騎士団を預かる者だ」
きしだん?
やっぱり、現実味のない単語が耳を通り抜ける。
「そこにいる者たちも、全員俺の部下だ」
周囲に控える男たちを、視線で示す。
誰も武器を抜かず、私たちに危害を加える素振りは見せない。
「この森で急激な魔力の乱れを検知したため、調査と掃討に来た」
「……」
「お前たちを脅かしたり、傷つけたりする意図はない」
そのように言ってきたけど、当然信用できるわけがなかった。
『大人』という生き物は、いつだって甘い言葉を並べる。
『何もしない』
『怒らないから安心しろ』
そう言って優しく近づいてきた直後、平気で裏切る。暴力の痛みを味あわせる。
「……嘘だ、そんなの」
「ん?」
「あなたの言ってること……信用、できません」
「ああ」
意外にも、アルベルトと名乗った男はそれを否定しなかった。
思わず、恐怖に歪んだ顔を上げる。
「今すぐ俺たちを信用しろとは言わん」
「……」
「そこから一歩も動かなくていい。こちらからもこれ以上は近づかない」
なんで……どうして、怒鳴らないの?
こんな風に子どもに刃を向けられて、生意気だと怒り狂うのが普通じゃないの?
なのに、この男は動かなかった。
私に木の枝を向けられたまま、ただ静かに地面に膝をついた姿勢を崩さない。
「……ねえちゃん」
足元から、奏太の小さな声が届く。
「このひと、さっきの化け物……やっつけてくれたよ……?」
「……分かってる、けど」
助けてもらった恩くらい、頭では理解している。
本当ならお礼を言わなくちゃいけないことも。
それでも、身体が、恐怖のせいで言うことを聞かない。
アルベルトと名乗った騎士団長が、じっと私を見据えている。
いや――その視線が、ふっと私の『下』へと移動した。
「……?」
私のお腹のあたり、そこから滲み出ている赤黒い染みへ、彼の目が釘付けになっていた。
「……っ」
反射的に、私は一歩後ろへ身を引く。
「見ないで……!」
「……その血は、今の魔物にやられた傷ではないな?」
「っ……!
アルベルトの声のトーンが、わずかに、しかし明確に変わった。
先ほどまでの落ち着いた低音ではなく、底冷えのするような凍てつく響きを含んでいた。
枝を握りしめる手に、さらに力が入り、それと同時に自分の服の裾に目をやった。
森の中を必死に歩き回ったせいで、一度は引き締まりかけていた脇腹の傷口が再び裂け、生暖かい血がとめどなく滲み出して広がっていた。
「……大丈夫、です」
必死に声を張り上げて否定するが、男の眉間に深い皺が寄っているのがわかった。
「……それを『大丈夫』と言っているのか」
「平気、だから……」
「そうは見えんが……」
「平気だから、これ以上——ぐふっ……」
近づかないで、そう続けようとした、その瞬間。
ぐらり、と足元から世界が大きく歪んだ。
それと同時に、口から血を出してしまった。
あ、これは本当に危ないと実感した。
「ねえちゃんっ!」
陽太が焦燥に満ちた声をあげる。
駄目だ、こんなところで、意識を手放しちゃいけない。
この人たちが本当に安全なのかなんてまだ分からないし、私がしっかりして、この子たちを守らなくちゃいけないんだ。
視界が白くチカチカと明滅する中、私は折れた枝を再び力任せに握り締め、震える足で必死に踏み止まろうとした。
すると、何かが私の体を支えてきたのに気づいて、精一杯の力で私は言った。
「お、おねがい……わ、わたしは、ど、どうなっても、いい、いいから……おとうと、たち……おねが……」
「――大丈夫だ」
その声は、膝をついていた男の声だ。
「お前たちは、必ず俺が助ける」
読んでいただきまして、本当にありがとうございます。
「面白い!」「続き読みたい!」など思った方は、ぜひブックマーク、下の評価を5つ星よろしくお願いします!
していただいたら作者のモチベーションも上がりますので、更新が早くなるかもしれません!
ぜひよろしくお願いします!




