第二話 パンケーキと泥だらけの狼
「虹に惹かれて外に出たものの、まだ少し降っている中を飛んでしまったようです。」
低くよく通る声だった。舞台役者のようによく響き、思わず耳を傾けたくなる。
「そのまま待っていて。タオルをあげようね。」
主人が部屋に戻る姿を見送ると、柵の上で大きな翼を広げた。雨粒を纏った羽は何色ともいえず輝き、神々しくさえ見える。
「烏の濡れ羽色とはよく言ったものだなぁ。」
折角の輝きにタオルを被せてしまうのは少し勿体無い。手にしたタオルを広げると、カラスはおとなしく身を任せるままに包まれる。包んで抱き上げると、共に部屋の中に戻って水滴を拭いてやる。
「さて、これくらいで大丈夫?」
「充分ですよ、主。」
乾き具合を確認するのに羽を広げたかと思った瞬間、その姿は大人の男性に変わる。
「さて、今朝の食事はすでにお済みですか?」
肩にかかったタオルを無造作に払う。深い皺の刻まれた目元が笑った。若者にはない落ち着きと余裕がある。
「さっき目覚めのミルクティーとフィナンシェをいただいたよ。」
「それはそれは……。相変わらずでいらっしゃる。」
少し眉を顰めてかけられた言葉に、落ちたタオルを拾いながら肩をすくめた。
「どうせ、フィナンシェは食事ではありません、と言いたいのだろう?」
「よくお分かりで。それなら食事はしっかり召し上がっていただきたいものだ。糖分ばかりではお気に入りのドレスが着られなくなります。」
「全く…いつも耳が痛いことばかり言うんだから。」
「それは主人の健康を維持するのも立派な使い魔の勤めだからですよ。」
苦笑する主人に対し、年季の入ったウィンクを一つ返してみせた。そのまま勝手知ったるキッチンへと進むと、棚のエプロンを当たり前のように身につける。
「では、昼も近いのでブランチにパンケーキなどはいかがですか?サラダやベーコンと共に食事系で。もちろん、お望みならば厚めのものを重ねた上にクリームとフルーツを乗せても。」
戸棚からガラスのボウルを出し、手際良く必要な道具を揃え始める。
「ドレスが着られなくなるから甘いものは控えろと言わなかったかい?」
手際良く作業をこなしていく様子を、キッチンの入り口に寄りかかりながら眺める。
「そればかりではいけない、そう申し上げたのです。」
卵の殻を割る音が響く。続けて小気味良く泡立て器がボウルにぶつかる音が続いていく。
手元は相変わらず無駄がない。そして白髪の混じった横顔は穏やかだった。
「まぁ、折角だからいただくよ。うちの使い魔は主人の返事も待たずに作り始めてしまっているからね。」
「おっと、これは失礼。他のものがよろしいですか?」
「いいや。特に希望もなかったから構わないさ。」
目を丸くしてこちらを見た姿に思わず笑ってしまう。了承の返事を受けると、また楽しそうに生地を混ぜ続ける。
(人のことなど関係なく、最初から自分が食べたかったんだろうに。)
あえてそれは口に出さず、腕を組んだまま澱みなく進められていく工程を見守った。
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「お待たせしました。どうぞ、お召し上がりください。」
満面の笑みで自らもダイニングの向かいに座り、テーブルの上を掌で示す。ふんわりと焼けた厚手のパンケーキは2段に重なっている。大きめの皿には他に真っ白いクリームと苺、ブルーベリーもソースと共に載せられている。
「美味しそうだけれど、もうひと推し……そうだ。」
キッチンからミントの葉を何枚か摘んで持ってくると、こんもりと盛られたクリームの一番上に載せてやる。白い丘にちょこんと鎮座するそれは全体を引き締めるいいアクセントになった。
「ちょうど良い具合に色彩が締まりましたね。」
「これで完成だね。さぁ、いただこう。」
互いにふんわりとした生地にナイフをいれようとした。そこで
「ただいまぁ〜」
なんとも拍子抜けする声が玄関から響く。
「あら、あの子はもう帰ってきたのかい?」
「遊びに出ていたにしては早い帰りですね。私が行きましょう。主はそのまま食事を。」
玄関から聞こえた声に腰を浮かせたが、改めて座り直す。応対は彼に任せ、先にあたたかいこの柔らかさを味わおう。ナイフがその重みで沈み、簡単に一口大に切ることができる。一緒にクリームと、ブルーベリーを一粒刺して口内に放り込む。甘味と酸味のバランスに感激していると、玄関先から何やら固い声が聞こえてきた。
「おかえりな、……ユエ」
「えっと、えっと、ちょっと楽しくなっちゃって、つい…」
「まさか、下のホールもそのままの姿で通ってきたのですか?」
「えっと、えっと…えへへっ」
姿を見なくとも、対応に出た彼の渋い顔が目に浮かぶ。どうやら今帰ってきたばかりなのにすでにお説教確定らしい。
「共用部分のお掃除は必須ですが、まずはそこから動かないでください。」
「え、おれ、お家入れないんですかぁ!?」
聞こえた固い声と情けない声に思わずカトラリーを置いて、玄関まで出てみる。
「…ユエ」
「あ!あるじ!ただいまぁ!!」
そこには泥だらけの狼が一頭。そして予想通り渋い顔で頭に手を当てて佇む男が1人。
「ジョージ」
「…心得ております。仕方ありませんが、焼きたてはまたの機会に。」
「なになに?あ、お家の中とってもいい匂いがするよ〜。ジョージまたパンケーキ焼いたの?おれの分もある?ジョージの作るパンケーキ美味しいよねぇ!匂い嗅いだらお腹すいてきちゃった!!」
泥だらけの獣は家の中に漂う甘い香りに気付いたようだ。いっそ沈痛な面持ちの大人たちの前、目を輝かせて無邪気に喋る。
「 ユ エ 」
その名を呼ぶ。声に力を込めて、意図を持って。
途端に玄関先で無邪気に喋り倒していた泥だらけの狼は、その耳をぺたりと倒し、尾を股の間で丸めた。その場でしょんぼりと伏せる。
「これは何事?」
問い掛けると、右手を心臓の位置に置き、しゃんと立ち直した男が答える。
「楽しかったそうです。」
「…そうなの?」
「は、ハイ。楽しかったです!」
「…そう。」
腕を組んで1人と一匹を見やる。使い魔達の緊張した様子に、ふふ、と笑いが溢れた。
「それは、良かったね。」
その笑いを許しと取った狼が勢いよく顔を上げる。しかしその途端、ついていた泥が周りに跳ねた。他の2人の顔にも。
「…ジョージ。」
「もちろん、今すぐに始末いたします。」
「あ、あ、ごめんなさいあるじ!ジョージ!お顔に飛んじゃった!」
一瞬解かれた緊張感だったが、更にそれが増した。この日一番怖かった瞬間だと後に狼は語っている。
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その後即行で風呂場に放り込まれ、同じ使い魔のカラスに豪快に洗われた狼。なかなか落ちない泥を丁寧に洗ってもらっていると言うのに「烏の行水なんて嘘っぱちですねー」などと発言したせいで、かなり荒っぽい仕上がりだったことに本人は気づいていない。
「せっかくの焼き立てが、すっかり冷めてしまいました。」
狼一頭を洗うと言う大仕事から帰ってきた男は、ダイニングの上ですっかり冷めてしまったパンケーキを見て肩を落とした。クリームも少し溶け崩れてしまっている。
「先にご馳走様。うちのシェフは今日もいい仕事をしていたよ。」
お気に入りの揺り椅子に腰掛け、お茶のカップを目線に持ち上げる。
「食事の準備に"洗濯"と"掃除"もこなす、マルチな活躍は見事だね。」
「お褒めに預かり光栄ですが、できれば後者は遠慮させていただきたいところですね…」
改めてダイニングの椅子に座り冷めたパンケーキを食べ始める。いつも柔和な彼の目元には、疲労感が漂っている。
「お疲れ様。想定外の働きに、主人自らお茶を淹れようじゃないか。」
椅子の揺れを抑え、改めてお湯を沸かすべく立ち上がる。
「これはこれは。僥倖…と、申し上げたいのですが、もう一杯飲みたいだけですよね?」
「バレたか。」
「いいえ、ついででも構いません。主の淹れるものならば、何だって。」
(さっき私は指摘しなかったんだけどな。)
窓の向こうを見ると、いつのまにか外の虹は消え、しかし晴れ渡った空からは西陽が指している。すっかり部屋の中も温まり、朝よりも随分と家全体の雰囲気が明るく感じられた。
「そういえば、ユエはどこに?」
思えば明るい空気の要因のひとつである、狼の姿が見えない。
「共用部分の掃除をした後、外に干していた洗濯物や布団をしまうよう言いました。大人しく仕事中でしょうか?」
「ユエが、大人しく、仕事。」
「すみません、それは無いですね。」
「ジョージ。」
(いくらなんでもとは思うけれど、否定はできない。)
他の部屋にいるのだろう、とリビングを出てみる。洗濯物であればクローゼットだがそこにはいないようだった。ならば、寝室か。
「おやまぁ…」
寝室の扉を開けると、大きなベッドの上に干したての布団と洗って乾かしたばかりの狼が眠っていた。泥遊びではしゃいだ後、荒っぽく洗われ、更に広範囲の掃除と体力を消耗したのだろう。干した布団は太陽の香りがして、更に眠気を誘われたと見えた。
(こうしていると、大きなぬいぐるみみたい。)
寝息を立てて呑気に寝ている様に、こちらも肩の力が抜ける。しっかり洗って乾かされた毛並みは、豪快にブラッシングされていたがフワフワとしている。思わずその頭に手を伸ばし、背に向かって撫でた。
「むにゃむにゃ…もう食べられませんよぅ…」
見ている夢が平和なようで何より。
このままふわふわの毛並みを撫でるのを堪能させてもらうことにしよう。




