第一話 雨の日の魔女
(あぁ今夢から覚めるんだ)
そんなことを思いながらぼんやりと瞼を開く。いつもの住み慣れた我が家の様子が目に入ってきた。ベッド横の窓からはひっきりなしに打ちつける雨音がしている。部屋の中の空気は湿気をはらんで重たく、ひんやりと感じる。ガラス窓についた雨垂れが部屋の中に歪な光を生んで、いつもの家なのに違う空間のように感じる。
(…一体何時?)
はっきりしない頭のままサイドテーブルの小さな置き時計を見ると、朝9時7分を回ったところらしい。何も予定のない日だし、このままもう一度昼まで寝てしまおうかと思い瞳を閉じるけれど中途半端に覚醒した頭は入眠に集中しない。枕元に置いた大きな熊のぬいぐるみを抱き枕がわりにしようと布団に引き摺り込んだけど、冷えたその表面に体温を奪われるだけだった。
(仕方ない、何か温かいものを飲もう)
名残惜しい気持ちは十分に持ちながら、しかし思い切って掛け布団を捲りベッド下に昨晩押し込んだバブーシュに足を入れる。革製のそれは朝履いた時に体温が奪われないようウールの中敷を入れている。ペタペタと音をさせながら、掛け布団の上に寝る前に放っていたターコイズカラーのシルクローブを引っ掛ける。友人の海外旅行土産のそれは織り込まれた金糸と縫い付けられたビーズが雨の日の薄明かりを拾って鈍く光った。
そんな素敵な羽織もののウエストリボンをゆるく結びながらキッチンに向かう。お気に入りの濃紺の琺瑯にうさぎのシールがついた薬缶に水を入れ、ガスコンロに載せて火をつける。お湯が沸くまで今朝の茶葉を物色する。棚に並ぶ缶を眺める。黒いもの。小さな家の形のもの。ターコイズブルーに花模様のもの。桜の木で作られた筒。毎朝見ているはずなのに、少しだけ嬉しくなる。
(今朝は寒いから、スパイスティーにでもする?
生姜、桂皮、カルダモン、丁子あたり?煮出してチャイにする?もしくは濃いめに入れてミルクティーがいい?…起き抜けで空腹にいきなりスパイスは負担かもしれない。まずはミルクティーかな?)
戸棚から目当ての茶葉の缶を取ると、今度は食器棚から白いまあるい紅茶のポットとティーカップを取り出す。本日のカップ&ソーサーは古い国産のもので、白地に鮮やかな東洋風の花唐草柄が可愛い。お湯の沸いた音でガスを止め、ミトンをはめた手で茶葉を入れる前のポットとカップに少しお湯を注ぐ。そういえば、食器類を使う前にお茶で洗うのはどこの国の地域だったかしら?などと思いながら茶器を温めると、ガスを使ったことで周りの空気が少し温まり、先ほどまで感じていた空気の冷たさは少し和らいでいることに気づく。キッチンの壁側に並んで育てているハーブ達が心なしか葉を揺らして緊張を緩めたように見えた。好き放題に枝を伸ばしたミントは隣の鉢に届こうかというところだ。
(晴れたら少し日差しに当ててあげなくてはね)
茶器のお湯を捨て、銀の茶匙で缶から茶葉をポットへと移す。温まったポットに入れた茶葉がふんわりと静かに香る。茶匙二杯分を入れたポットをティーマットに載せ、熱い湯を注ぎ、蓋をしてティーコゼーを被せる。今日のティーコゼーはセーターのようなケーブル編みで、自ら手編みして作ったものだ。キッチンタイマーのスタートボタンを押す。冷蔵庫に貼り付けたキッチンタイマーはふらりと立ち寄った雑貨屋で見つけた、食パン型をしているもの。砂時計を使う場合もあるけれど、今日はミルクティー用に少し長めに置いて濃く淹れたいのでキッチンタイマーにした。そのまま流しに寄りかかりながら取り止めもないことを一つ二つ考えながら待っていても良いのだけど、折角なら一緒に腹ごしらえもしようと買い置き入れのラタン籠を覗いてみる。ちょうど先日いただいた、大きめのフィナンシェを二つ発見。なんでもバウムクーヘンで有名なお店のものらしいとのこと。これをくれたのは甘いものに目がない人なんだけれど、家にあるだけ食べてしまうのでついに家族から禁止令が出たんだそう。家にあると食べてしまうので、と、複数人で譲り受けた次第。
フィナンシェをガラスのお皿にいい具合に盛り付けた!と喜んでいたら、ミルクティーにするのに肝心のミルクを温めていなかったことに気づく。慌てて冷蔵庫から牛乳を出し、耐熱ガラスの小さなミルクピッチャーに注ぎ入れて数十秒電子レンジへ。そうこうしているうちにキッチンタイマーが鳴り、お茶をカップに注ぐのと電子レンジも加熱の終わりを知らせる電子音が鳴り一気にキッチンが忙しくなる。慌ただしく朝のお茶の準備を終えると、木製トレイにレースのランチマットを乗せた上に今朝のお茶とミルク、フィナンシェを乗せた皿とカトラリーをもっていそいそとダイニングテーブルへ。お菓子があるからミルクティーにはあまり糖分はいらないのだけど、全くないと味気ないのでほんの少しだけ砂糖を入れる。溶け切ったところでミルクも注ぎ入れる。暖かな湯気に包まれながら、ふーっと息を吹きかけてから火傷をしないよう恐る恐る口をつけた。
(あぁなんて幸せな味!)
ひとつ息を吐き出して、体の中を熱いお茶が駆けていくのを感じる。お供のフィナンシェにも手を伸ばす。外はカリッとしていて中はしっとりと重たい。口内を満たすバターの芳醇な香りに、小さくガッツポーズをしながら喜びの味を噛み締める。
部屋の中にあった静かな緊張感は緩み、植物達はよりみずみずしく青々しい葉を広げている。ダイニングに飾った芍薬は、硬く閉じていた蕾も綻んで満開を迎えようとしている。昨晩少し話し相手になった甲斐があったのかもしれない。
(さて、今日は何をしようか)
カップを片手に立ち上がると、窓に近付き閉めたままにしていたリビングのカーテンを開けて外を臨む。どんよりとまだ厚い灰色の空からは雨が降り続いているが、先ほどまでの勢いはない。遠くに霧のように広がる小雨。おそらく晴れ間はもう直ぐ。
(晴れたらひとまず窓を開けて植物達の世話をしなくては。あとは一通りの掃除と、冷蔵庫の二十日大根をピクルスにしたい。)
ぼんやり外を眺めてカップを持ちながら、やりたいことを考える。先日友人と物々交換した二十日大根は、甘酢漬けにしたい。ガラス瓶の中で赤く染まったそれを想像する。新玉ねぎの酢漬けやにんじんの蜂蜜マリネと一緒に並べれば、きっと宝石箱みたいになる。そう考えると思わず口角が上がった。鮮やかに彩られた一皿はきっと目にも美味しい。
(アボカドもそろそろ食べなくてはいけない。鶏肉を焼いて添えようか。ミントを摘んでやって――。)
そこまで考えて、思わず笑う。
(まだ朝なのに夕飯の献立だなんて。)
ゆっくりとカップの中のミルクティーを飲み干しながら、キッチンでの作業について思いを馳せる。
(まぁ、何をするにしてもまずは顔を洗って着替えるところから。)
身支度を整え、「今日のやることリスト」を消していく。フローリングの床にモップをかけていると、リビングの窓から陽が差し込んできたことに気づく。見上げると、厚い雲が徐々に居場所を無くし、ところどころ青い空が見え始めている。そろそろ外の空気を入れてもいいかもしれない。
リビングの窓を開けようと近づいた。
(あら、虹。)
まだ雲の残る空にすっと綺麗にかかる橋。雨が上がった時にしか見ることができないそれが、途切れずに色濃く掛かっている。思わず窓を開け、そのままベランダに出た。雨の匂いを残した風が頬を撫でる。洗われたばかりの空気はひんやりとして心地良かった。
(これはこれは。植物達を外に出してあげよう。)
しばらくその美しい光景に見惚れていたが、あたりが少しずつ眩しくなっていく。日差しが強くなりすぎる前に陽に当てたい植物を動かさなくては、と部屋の中に戻ろうと虹に背を向けたところで太陽を遮られたように急に影が差す。
それとともに大きな羽ばたきの音が聞こえた。
思わず振り返ると、ベランダの柵に停まる大きな一羽のカラス。
「ごきげんよう主。綺麗な虹ですね。」
「ごきげんよう。素敵な虹だけれど、きみの羽も輝いているよ。」
初めて投稿するお話です。
雰囲気や世界観を気に入っていただける方がいたら嬉しいです。
8月中は毎日一話ずつ公開を予定しています。




