第七話 はじめての家出
入浴後、スキンケアなどの一連のケアを終えてから、キッチンへ。冷蔵庫から水を冷やしていたボトルを取り出し、炭酸水メーカーにセット。強めの炭酸になるようガスを充填し、作りたての炭酸水を氷を入れたグラスに注ぐ。弾ける泡が、蒸し暑くなってきた夜には気持ちが良い。
「っはぁーっ!生き返るねぇ!」
レモン汁を足したグラス一杯の炭酸水を飲み干して、思わず息を吐いた。
「やだなぁ、なんかそれおじさんっぽいよ。」
毛繕いを終えた金太郎が足元にやってくる。
「水分を欲している時の冷たい炭酸水は、生命の水だろう?」
「そう言うもの?僕炭酸飲めないからわかんなーい。」
猫舌ゆえ熱いものはもちろん苦手だが、金太郎は刺激物も苦手としていた。チャレンジしたことはあったが、どうにも舌に感じる刺激に慣れず、毎回毛を逆立ててしまって美味しいとは思えなかったようだ。
「私はお茶が飲めなくなるならせめて、炭酸水は飲めるようにしておきたいくらいだよ。」
以前はペットボトルの無糖炭酸を常備していたが、ゴミが嵩張るのと常備する場所を取るのが悩みだった。そこで家庭用炭酸水メーカーを導入したところ、快適に毎回入浴後の一杯を楽しめている。
「ちなみに魔法って炭酸水は出せないの?ちゃちゃっと出した方が早そうなもんだけど。」
器用に後ろ足だけで立ち上がり、前足を振って魔法を使うような仕草をする。
「何でもかんでも生活で魔法を使ってしまうのは、情緒に欠けるだろう?」
「え、それってできるけど、あえてやらないってこと?」
「世の中には不便益ってものがあるんだよ。あえて手間をかけるからこそ、得られるものがある。」
「へぇ〜。なんでも便利になればいいってわけでも無いんだ。」
会話をしながら二杯目の炭酸水を飲み干すと、今度は冷凍室からカップアイスを取り出す。お気に入りの紅茶ブランドで出している、アッサムロイヤルミルクティー味。普段の夜はエネルギーを摂りすぎないよう入浴後は炭酸水だけ飲むことにしていたが、今日は昼間から気温が高かったことを理由に食べて良いことにした。
アイス片手にソファに腰掛けると、金太郎も座面に飛び乗る。
「主って、だいたいお茶飲んでるか、なんか食べてるイメージだよね。」
「あのねぇ、そこは事実だから否定はしないけど、一応私だって仕事はしてるんだからね?」
アルミ製のスプーンが手の温度を伝えるから、硬いアイスにも柔らかく刺さっていく。舌の上で溶けて喉を通る冷たさと、濃厚な香りが鼻に抜けて行くのが良い。
今夜はまだ窓を開けたままだ。時折カーテンを揺らす夜風が、室内の温度を下げて行くようだ。ところどころに置いたアンティークランプやランタンが照らす間接的な灯りと、グラススピーカーから流れるスタンダードジャズが、間も無く今日の終わりを知らせていた。
外からは犬の遠吠えが聞こえる。鳴き声から1匹ではなく2匹いるようだった。
「ん?犬?」
金太郎がソファーを飛び降りて、開いたままの窓へと向かう。
「金太郎?」
それを追いかけるようにベランダに向かうと、そう遠く無い場所で鳴いているであろう、遠吠えがまた聞こえた。
「……僕、みてくる。」
そう言うが早いか、金太郎はベランダの柵を飛び越えて、壁伝いにぴょんぴょんと飛び跳ねながら下まで降りて行った。その軽技に思わず「おぉ!」と、感嘆の声が漏れた。
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「こんなに鳴いて、大丈夫かなぁ〜?」
兄グルグと共にこっそりと家を出て、主人の家の近くまでやってきた。そのまま直接家まで向かおうとしていたところ、立ち止まった兄が突然遠吠えを始めた。
『金太郎〜!ちょっと出てきて〜!』
『えぇ?!そんな大声で呼ばなくてもぉ!』
『金太郎ぉ〜!』
『兄ちゃん、声が大きいよぉ〜!』
兄の声を抑えようとユエがオロオロしているところで、2頭のすぐ近くに黒い影が降りてきた。
「お前たち、こんな時間に何やってるわけ?」
街灯が照らすのは真っ黒い猫。ピンと伸びた尻尾が警戒を示している。
「お、久しぶり!金太郎は相変わらず小さくて可愛いなぁ。」
グルグは全く気にした様子もなく、金太郎に近寄って行く。しかし金太郎はさらに毛を逆立てて怒る。
「お前たちは図体だけデカすぎるんだよ!」
「仕方ないだろう、俺たち狼なんだからさ。」
黒い体に挨拶代わりに鼻を近づけようとして、思わずパンチを喰らう。しかしグルグはそれを軽く受け止めて、鼻先で金太郎の体をつついた。
「で、2人揃って何しにきたんだよ?」
耳を後ろに寝せて、体を小さくした金太郎が唸るように聞く。
「あ、うん。俺は付き添いなんだけど、魔女様にちょっと一晩ユエの事を、お願いできないかと思って。」
「は?なんだそれ。」
「まぁちょっとうちで色々あってさぁ……な?」
「う、うん……色々、あって。」
いつもは元気に能天気さ丸出しで喋るユエが、今は兄の後ろで小さくなっているのを見て、金太郎は怪訝な顔をした。
「まぁ詳しいことはお邪魔してから話すよ。魔女様はまだ起きてるよな?」
「うん。主は起きてるけど……なんだそいつ、本当にユエか?なんか変なものでも食べたのか?」
「えぇっ?!おれ、おれだよっ?なんにも食べてないよぉっ!」
「その喋り方はバカ犬で間違いなさそうだな。……とりあえず、ここじゃ何だから行くぞ。」
着いてこいとばかりにさっさと歩き始めた金太郎。それを見てグルグはにこっとユエに笑いかけ、2頭は一緒に後をついて行った。
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「ただいまぁ。」
「ただいまぁ〜。」
「お邪魔しまーす。」
今度はベランダからではなく、玄関から。それぞれ挨拶をして入ってくるのを迎える。
「誰かと思えば珍しいね。グルグ、久しぶり。」
「こんばんは、魔女様。こんな遅くにすみません。」
「ユエもどうしたんだい?2人だけ?」
「あ、えっと、そうなんです。」
「こいつら、主に話があるんだって〜。」
珍しく緊張した様子のユエに何かを察し、そのまま部屋へと招き入れる。揃って玄関に用意されたマットで丹念に足を拭く。我先にと金太郎はリビングへと進み、我が物顔で揺り椅子の上に飛び乗って香箱座りをする。続いてリビングに入った2頭はソファーを薦められ、大人しく座る。
「グルグにユエ、何か飲むかい?とは言っても選択肢はお茶か炭酸水とかなんだけど。……あぁ、嫌いじゃなかったら梅シロップもあるよ。炭酸でも水割りでも。」
「わぁ!俺梅シロップ飲みたいです!炭酸割りで!」
「お、おれも!」
2人と自分用に梅シロップの炭酸割り、金太郎の前には水出しで淹れてあったジャスミンティーをローテーブルに用意した。いつのまにか人型になっていた2頭は「いただきます!」というと、それぞれストローを咥えた。グルグは美味しそうに飲んでいるが、ユエは炭酸に驚いたのか、一口飲むごとに目を丸くして大きく見開くのを繰り返している。
ダイニングから持ってきた椅子に腰掛けたところで、準備が整った。
「それで、話というのは何だい?ユエにいつもの元気が無いのと関係しているのかな?」
まだおっかなびっくりといった様子でストローを咥えていたユエは、話をふられてあたふたしている。それをグルグがフォローするように話し始めた。
「簡単に言えば、家出をしてきまして。」
「ほぅ、家出。それはどちらが?」
「ユエです。俺はここまで無事に辿り着くための付き添いってやつで……こんな時間にお願いするのもどうかとは思うんですが、一晩ユエをここに置いてもらえませんか。」
お願いします、とグルグは頭を下げる。その横でユエは戸惑った様子で兄と主人を交互に見た。金太郎は揺り椅子の上でじっと目を閉じている。
「それは全く構わないのだけど、事情は話してくれるかい?ユエ?」
声をかけられて、泣きそうな顔で兄を見る。グルグは頷くと、弟の背をさすってやった。
「……今朝の、新聞の記事を母さんも見たって言ってて、でも、あれがおれの言葉じゃ無いって、わかってくれなくて……違うって言ったんだけど、上手に答えられたって褒められて、それで……でも、おれじゃ無いのにって思ったら、なんか悲しくなっちゃって……」
俯きながら、ポツポツと、言葉を絞り出すように話す。いつもの太陽のような元気さはそこには無かった。
「……そうか、ユエ自身の言葉だとイリスは誤解しているんだね。」
「……母さんは、違うよって言っても、聞いてくれなくて、兄ちゃんたちは、違うって気づいてくれたのに、金太郎だって、ジョージだって、あるじも……みんな、わかってくれたのに……」
そこまでいうと、金色の目から大粒の涙が零れ落ち始める。
「……母さんだけ、ぜんぜん、きいて、くれなくって……」
ついにしゃくり上げて泣き始めてしまう。それは見ている方も胸が痛くなる泣き方だった。
横にいるグルグは黙って弟の頭を撫でてやる。
「今回はちょっとこいつが可哀想って言うか、見ていられなくて。母さんが俺たちに期待してるのはわかるんですけど、でも母さんの思うユエと、ユエらしいユエってちょっと違うって言うか。」
「……そうだね。この子はわかりやすい形にはまっていない方が、伸びる子だよ。イリスは狼らしい狼や、使い魔らしい使い魔であることが良い事だと思っているんだろう。それが間違いとは言えないけれど、ユエの個性はそれでは消えてしまう。」
実際にユエの話した言葉は、彼の笑顔と共にあった。しかし実際に文章として掲載されたものには、あの弾ける笑顔の面影さえ残っていない。奪われたのは言葉だけではなく、彼の尊厳とも言えた。
「イリスはお前たちのことを思っていることは、わかるね?」
「はい。母さんなりに、俺たちに良かれて思って色んなことをしてくれてるのは、理解してるつもりです。」
「それなら良い。きっと、イリスの中ではまだ赤ん坊の時と変わらないイメージなんだろう。だから、ユエが自分の言葉で主張できる程に成長していることを、理解する必要がある。……そうだね?ユエ。」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながらも、両手で乱暴に涙を拭って顔を上げる。目元も鼻も真っ赤になってしまっている。
「っ、はいっ。」
「……お前の言葉はお前のもので、誰にも奪わせてはいけないよ。」
「はいっ!」
ぶんぶんと首が取れそうなほどの勢いで、ユエは何度も頷いた。
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その後、ユエが落ち着いたのを見計らうとグルグは送り届けるのが役目だからと、その夜は帰宅することにした。
「グルグ、これをイリスに渡してくれるかい?」
帰る直前、彼が渡されたのは片手に乗るほどの小さな紙袋だった。鼻を近づけると草花の香りがどことなく漂っており、ハーブティーが入っているのだと教えられた。
「多分今夜はイリスも落ち着かないだろうから、これを飲むように伝えておくれ。」
ラベンダーとカモミールをメインにブレンドされたそれは、魔女のお手製ブレンド。緊張をほぐしてリラックス効果を高め、安眠に導くものだった。
「ありがとうございます。一応、母さんの説得は兄さんたちに任せたんですけど、ちょっと不安だったんで助かります。」
「なんなら一緒に飲んだっていいよ。お前も疲れただろう?」
「俺は大丈夫です。明日も朝から走らなきゃいけないし。」
そう言ってピースサインと共に笑う姿が頼もしい。
「グルグ兄ちゃん……」
ニュクスの横から不安そうな顔で声をかけるユエの頭をわしわしと撫でてやる。
「お前は心配すんな。帰ったらハティ兄ちゃんが、父さんに先に話をしてくれてるはずだから。明日は父さんが来てくれるはずだから、それまでしっかり寝ておくんだぞ。」
「……うん。」
「じゃあ、おやすみなさい。」そう声を掛け合って、グルグは帰って行った。閉まった扉を見るユエは、夜1人で外にいることに今更ながら不安を感じ始めたようだった。
「あるじぃ、おれ、居てもい〜い?大丈夫かなぁ?」
人型なのに耳が垂れているのがわかるほど、不安そうな顔で問いかけるから、思わずふわふわの頭を撫でてしまう。
「当たり前だよ。私の使い魔なんだ。ここに居ていいに決まってる。」
「……うん!」
主人の言葉に、目元は赤いままだったが、ようやくいつものような笑顔を浮かべた。そして、いつもの調子が戻ってきたようで。
『ぐ〜』
思わず顔を見合わせる。
腹の虫まで元気に返事をするものだから、思わず夜だというのに大きな笑い声をあげてしまった。




