第9話: 新しい出会いは、新しい自分との出会いである3
杏奈先輩の声で、新入生たちはそれぞれ帰りの準備を始めた。
先輩方は残って、明日の部活について熱心に話し合っているみたいだった。
邪魔にならないように、早めに退散したほうがいいのかな……。
荷物をまとめて、すぐに音楽室を出ていってしまう子もいた。
一人でささっと帰ってしまう子。二人組になってドアへ向かう子。
私は五組だし、部活内に同じクラスの友達はいない。
(……誰かと帰っておいたほうがいいのかな。でも……)
帰りの準備をしながら考えていた、その時だった。
「ねぇ、途中まで一緒に帰らない?」
「えっ?」
声のほうに、ぱっと顔を上げる。
「紫ちゃん……だよね?」
「そうそう! 萌ちゃんも、教室ぶり〜」
紫ちゃんは、私の隣で帰り支度をしていた萌ちゃんにも人懐っこい笑顔で声をかけていた。
「そっか、二人は一緒の一組だっけ?」
「そうだよ〜。でも席が遠いから、まだあんま話せてなかったんだよね」
「うん、うん」と、萌ちゃんも小さく頷いている。
「私、地下鉄で帰るんだけど、みんなは?」
「わ、私も地下鉄……っ」
萌ちゃんに続いて、私も手を挙げる。
「私、今日はちょっと寄るところがあるんだけど、地下鉄の駅の近くまで一緒にいい?」
「もちろん!」
紫ちゃんの快い返事で、私たちは三人で帰ることになった。
校門を出て、夕暮れの道を並んで歩く。
真っ先に口を開いたのは、やっぱり紫ちゃんだった。
「それにしても、明日のパート分けは緊張するね」
「そ、そうだよね……。学生指揮者の先輩二人の前で、一人で歌わなきゃいけないんだもんね。緊張しちゃう……」
隣を見ると、萌ちゃんは今にも吐きそうな顔を浮かべていた。
本当に、見ているこっちまで胃が痛くなりそうなほどの怯えようだ。
「二人は合唱、初めてだもんね。それは緊張するよ」
「紫ちゃんは元合唱部だもんね。色々教えてもらうかもしれないけど、よろしくお願いします」
「そんなかしこまらないでよ! あと、もう呼び捨てでいいよ。
私のことも『ゆかり』って呼んで。私も『あかね』『もえ』って呼んでいい?」
「もちろん!二人のことは私も『もえ』と『ゆかり』って呼ぶね」
「わ、私も!よ、よろしく……」
紫はとにかくすごく話しやすい雰囲気。
コミュニケーション能力が、めちゃくちゃ高いんだろうな。
「紫はさ、中学の時はパートはどこだったの?」
「私はね、ソプラノだったよ。でも『女声合唱』は初めてだから、どうなるか分かんないな~。
前の学校では男子もいる『混声合唱』だったからさ。メゾソプラノとか、私も初めてなんだよね。まあ、あとは先生と二人の先輩方がどう判断するかだよね」
「合唱の経験者って、紫と美空ちゃんだよね。大会とかで会ったことあるの?」
何気なく訊ねた私の言葉に、紫の足が少しだけ緩んだ。
「それはもう……アケビ中学校は超強豪校だから、よく覚えてるよ。私の中学校はそんなに強くなかったから、雲の上の存在みたいだった。だけど……」
紫が、ふっと言葉を濁した。
「うちらが三年の代の時に、あっちの部活でトラブルがあったっていうのは聞いたことあって……。正直、その代はあまりいい噂を聞かなかったんだよね」
言いにくそうに声を潜める紫を見て、私はそれ以上は聞かないでおいた。
「……萌、大丈夫? さっきから全然喋ってないけど」
見ると、萌は真っ白な顔で固まっていた。
「も、もう……緊張して気持ち悪くなってきた……っ」
「あはは、大丈夫だって! 早く帰って寝よ!」
私と紫見合わせ、声を揃えて萌を励ましながら、賑やかに帰り道を歩いた。
「じゃあ私、ここで用事があるから」
地下鉄の駅の近くで、二人と手を振って別れた。
(とりあえず、話しやすい子たちがいて良かったな。
二人と同じパートになれたら、すごい楽なんだけど……)
そんな淡い期待を抱きながら、私は商店街のメイン通りを少し外れた。
目指す先は、一本路地に入ったところにある、小さなケーキ屋。
白漆喰の壁に、お洒落な文字で『Lumiere』と書かれた看板が掲げられている。
私は店の裏側に回り、裏口の重い鉄扉を決まったリズムで叩いた。
トントントントン――。
しばらくして、カチャリと内鍵が外れ、扉が開いた。
「お、茜じゃん」
「おじさん、久しぶり。お父さんいる?」
「兄ちゃん、茜来てるよー!」
出迎えてくれたのは、私の叔父である五十嵐紅也おじさんだ。
そして、奥の広い厨房で、熱心に作業しているのが、五十嵐朱憲――私の父親だ。
「お、来たか? 前のお客さん用の入り口開けるから、そっちから入ってくれ」
言われた通りに一度路地へ戻り、看板の下にあるガラスドアから店内に入った。
甘いバターとバニラの香りが、優しく鼻腔をくすぐる。
「全然時間取れなくてごめんな」
少しやつれた顔をしながら、父が厨房から出てきて話しかけてきた。
今年の一月にオープンした、父とおじさんの新しいお店。
最初はお客さんがなかなか来なくて、本当に大変だったらしい。
父は朝から晩まで働き詰め、家に帰ってくるのは夜遅くというのが当たり前だった。
やっと最近リピーターもついてきて、落ち着いてきたという話だけど、顔を見るとまだ相当忙しそうだ。
「こっちこそ、忙しいのにごめん。お母さんに『自分で部活のこと話してきなさい』って言われたから」
そう。
部活の入部届の証明書にサインをもらう時、母が出した条件が
「サインはするけど、必ずお父さんに直接報告すること」だったのだ。
「いやー、それにしても合唱部か。びっくりしたねぇ」
おじさんが淹れてくれた紅茶をすすりながら、父はさっぱりとしたリアクションを返した。
「……止めたりはしないの?」
少しだけ、意地悪っぽく聞いてみる。陸上をあんな形で辞めてしまった私だから。
「いや、茜はお父さんに似て頑固だからな。一回言い出したら聞かないだろ?」
「確かに」
父の言葉に、私は少しだけ笑ってしまった。
私から見て、おじいちゃんとおばあちゃんは、最初は父がパティシエになることを猛反対していたらしい。そこを押し切って専門学校へ進み、有名ホテルのベーカリーに就職。そこから血の滲むような修行を積んで、おじさんと二人でこの店を開いた。
『成功するまで、絶対に実家の敷居は跨がない』という強い心持ちだったらしい。
そして念願叶って持った、自分の店。
フランス語で『ルミエール』。日本語に訳すと、――灯り。
自分の娘たちである、私と姉の名前から取った店名だ。
「自分がやってみたいかも、とか、チャレンジしてみたいって思ったことは、できるうちにやっといた方がいい。歳を取っていくとともに、好きとか好奇心だけで何かに挑戦することや、それを継続していくことは難しくなっていくからな。茜が少しでもやってみたいと思う気持ちがあるなら、お父さんは全力で応援するよ」
「いや、それにしても大丈夫なんか? うちの家系に、音楽を真面目にやってた人間なんて一人もいないだろ」
おじさんが横から声をかけてくる。
「まあ、俺たちも行き当たりばったりで店を開いたんだ、なんとかなるさ」
父が笑う。
「ただ……絶対に、無理だけはしないようにな」
その時だけは、父は少し真面目な顔をして、母と全く同じセリフをこぼした。
私が一度、限界まで自分を追い詰めて壊れてしまったことを、誰よりも知っているからだ。
「うん。じゃあ、帰るね」
と立ち上がろうとした。
「あ、茜」
父が後ろから呼び止め、私の手のひらに、小さな包みを握らせてきた。
「これ、新作のチョコレート。帰って食べて、感想聞かせてな」
「オッケー」
パティシエの娘でいると、こうやって試作品をたまに貰えるのが唯一の特権だ。
陸上を辞めた後は、これのせいでたびたび太ってしまって焦った思い出がある。
「今日、お父さんは帰ってこれるの?」
「今日中には帰れるように、努力するよ」
苦笑いする父の顔を見て、私は手を振って店を後にした。




