第10話: 私たちは自分の中に、未知の宝物を持っている
「……光の中に、誇りを胸に、だっけ」
私は登校中も、休み時間も、ブツブツと中学校の校歌の歌詞を呟き続けていた。
そして放課後。
(……今日、初めて先輩たちの前で一人で歌うんだ。どうしよう、めちゃくちゃ緊張してきた)
心臓のバクバクを抑え込むように、深く息を吐いてから、思い切ってドアを開けた。
音楽室に入るなり、関西弁が鼓膜を震わせる。
「まつ毛も眉毛も、それからスカートの丈も、昨日あんなに言うたのに短いままやん!」
凛先輩が、仁王立ちで陽葵ちゃんのことを問い詰めていた。
「いやいや先輩! これでも昨日より一巻分長くしたんですよ? これ以上下げたら足が短く見えちゃうんで、マジで勘弁してください! あと、眉毛は全そりしてないんです! 書くのはセーフですよね? 書くのは!」
必死に抵抗する陽葵ちゃんの様子を、他の部員たちがクスクスと笑いながら見守っている。
昨日から陽葵ちゃんと一緒にいる桜ちゃんも、小さくため息をついていた。
先に到着していた紫の隣に滑り込み、声を潜めて訊ねる。
「ねぇ、今どういう状況?」
「ほら、今日先生が来るじゃない? だから昨日、琴音先輩たちが『メイクは薄く、スカートは長く』って注意してたんだけど、陽葵ちゃんがなかなか応じなかったらしくて」
「なるほど……」
「分かりました、分かりましたから! 眉毛だけは勘弁してください! 全剃りしてるんですー!」
陽葵ちゃんは涙目でスカートの裾をぐっと下に引っ張りながら懇願している。
それを見た琴音先輩が、眼鏡の奥の目を少し緩めた。
「……まあ、すっぴんに近いし、これくらいならギリギリ合格かな」
私も苦笑いしながらその様子を見ていたら、紫が「茜、校歌の練習はどう?」と話を戻してきた。
「私は……まあ、ぼちぼちかな。歌詞が飛ばないか心配…紫は、やっぱりソプラノ希望なの?」
「そうだね。中学の時もずっとソプラノだったから、やっぱりそこがいいな」
紫はそう言ってから、少し声を潜めた。
「正直言うと……メゾソプラノだけは難しそうだから、避けたいんだよね」
「えっ、そうなの?」
初心者の一番高い声がソプラノ、低い声がアルト、という大雑把な認識しかなかった私は、思わず聞き返してしまった。
「うん。メゾソプラノって一番真ん中のパートだから。簡単に言うと、ソプラノとアルトの間の音を狙って歌わなきゃいけないの。そうなると音程が取りづらいことが多いから、難しそうなんだよね…」
「はい、そろそろ部活始まるよ!」
杏奈先輩のハキハキとした声が響き渡り、私たちの会話は途切れた。
荷物を置いて、一番広いホールに集まる。
音楽室の左奥には、扉が一つある。
そこを開けて、杏奈先輩が誰かと話していた。
時計の針が夕方の四時を指すと同時に、杏奈先輩が再び全体に声をかける。
「はい、部活始めます!」
奥の扉から、二人の女性が出てきてホールの正面に立った。
「はい、では昨日、職員会議だったのでお話できていなかった私たちの顧問の先生についてお話しします。先生、お願いします」
私たちは床に座って、その話を聞く。
「はい。今年度から合唱部の顧問になりました、藍沢さやかです。皆さんのサポートを精一杯頑張りますので、一年間よろしくお願いします」
年齢は二十代後半くらいだろうか。可愛らしい、若い女性の先生だ。二年生の歴史を担当しているらしい。新入生になったばかりの私はまだ分からない先生だったけれど、先輩たちが昨日話していたような厳しい感じには到底見えなかった。
(優しそうな先生だ。じゃあ、先輩たちが焦ってたのって……)
そう思った直後、藍沢先生の後ろから、もう一人の女性が一歩前に出た。
白髪を綺麗にまとめた、一人の上品なおばあちゃん。
少し足が悪いのか、左足を引きずるようにしてゆっくりと歩く。
「白井月枝です。去年一緒だった皆さんはわかると思いますが、今年もよろしくお願いします。そして新入生の皆さん、私は週に何回か、みんなの合唱の指導をしています。また新しいメンバーになりますので、よろしくお願いします」
(……もしかして、こっちが先輩たちの言ってた先生かな)
合唱の指導をしているって言ってたし、間違いない。
でも、この先生も全然厳しそうには見えない。縁側でお茶を飲んでいそうなおばあちゃんだ。
「それでは本日は、新入生は一人ずつ、先生と学指揮二人の前で歌ってもらい、パート決めをしてもらいます。他の学年の生徒はオープンスクールの準備に向けて話し合いましょう。そこからは校歌の合わせかな」
杏奈先輩がテキパキと指示を出す。
「一年生はまず、アルト部屋に集まってもらって、一人ずつ呼ばれたらソプ部屋に行ってもらおうかな。じゃあ、始めようか!」
杏奈先輩の声掛けとともに、部員たちが一斉に動き出した。
音楽室の入り口近くにある三つの防音小部屋。
それぞれ「ソプラノ部屋」「メゾソプラノ部屋」「アルト部屋」の略で、先輩たちは『ソプ部屋』『メゾ部屋』『アルト部屋』と呼んでいるらしい。
一番手前にあるアルト部屋に、私たち新入生は集められた。
「それじゃあ、一人ずつ呼ぶから、呼ばれたらソプ部屋に向かってほしいんだけど、待っている人たちは一緒に発声練習しようか」
案内役の紬先輩が、部屋にあるピアノを弾き鳴らした。
心地いい音とともに、紬先輩が声をあげる。
「じゃあ、この音階に合わせて『マ』の発音でいってみようか。」
紬先輩が音階に合わせて声を上げていく。
(……すごく綺麗。紬先輩の声、ものすごく澄んでいて綺麗だ)
見よう見まねで、私たち新入生もその音階に合わせて発音をしていく。経験者の紫と美空ちゃんの声を筆頭にして、少しずつ音階が上がっていく。
「はい、もうちょっと肩の力抜いてね。」
紬先輩が途中で声をかけてくれた。
一通りその発生練習が終わった後、凛先輩が入ってきた。
「えーっと、斉藤美空、入ってきてー」
美空ちゃんが出て行った後も、残された私たちは発声練習を続けた。
次々と名前が呼ばれて、部屋を去っていく。
そして。
「――五十嵐茜」
「はいっ」
凛先輩の後に続いて、アルト部屋を出た。
ソプ部屋の扉を開ける。
部屋の中にはピアノがあり、その前には琴音先輩。
その奥の椅子に、白井先生が座っていた。
(……すごい緊張する。急にテストって雰囲気になってきて、心臓がバクバク言いはじめた)
私の緊張を察したのか、琴音先輩が声をかけてくれた。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だよ」
白井先生は何も言わず、眼鏡をかけて私の立ち姿をじっと見るようにしていた。
「ほなさっきもやったと思うけど、発声練習を一回見せて欲しいんや。さっきと同じ感じで行くから、音階に合わせて歌ってみて」
凛先輩の言葉に頷き、さっきと同じように声を出してみる。
(あ、ダメだ。上手く歌えない……)
緊張したからか、さっきの部屋での練習よりも上手く声が出ない。
一通り歌い終えると、凛先輩が「はい、ありがとう」と言った。
「えーっと、次は――」と次に進もうとした、その時。
「ちょっと待ってね」
白井先生が、ゆっくりと椅子から立った。
私の前に来ると、私の両肩に手を置いて、小さく揺らし始めた。
「はい、力抜いて。だらーんとしてね」
「あ、はい……」
肩を揺らされているうちに、ガチガチだった身体の力がすうっと抜けていくような感覚がある。
白井先生は私の目をじっと見つめた。
「五十嵐さん。高い音が出にくくなっているわね。声を出すとき、喉から出すんじゃなくて、高い音が『目と眉間の間』から出るようなイメージで歌ってみて」
「目と眉間の間……」
「そう。そこから音が飛び出すイメージ。はい」
慌てて琴音先輩が、もう一度同じ発声練習の音を弾き始めてくれた。
(喉じゃない。眉間から音が出るイメージ……!)
「そのまま続けて」と白井先生が声をかける。
と同時に、先生の手が私の肩に回った。
「姿勢が悪いから、もう少し触るよ」
肩の部分を、グッと後ろに引かれる。
その瞬間、声の出方が明らかにさっきよりも違くなった。
声量が何倍にも増して、部屋の壁にビンビンと響いているのが耳に伝ってくる。
(すごい……! 声って、こんなに変わるんだ……!?)
優しそうなおばあちゃん、なんてイメージは一瞬で吹き飛んだ。白井先生の指示は、的確で、キビキビとしていた。
「いい感じじゃない。じゃあ、次はお校歌にいこうか」
(姿勢を維持したまま、さっき受けたアドバイスを頭の中で繰り返して…緊張せずに、肩の力を抜いて)
今回はピアノの伴奏がない。静寂の中を、私の生声だけで歌わなければいけない。
大きく、大きく息を吸って、吐いて――。
「――光の中に、誇りを胸に」
歌い出した瞬間、自分でも驚いた。
さっきと声が全然違う。太くて、真っ直ぐな響きが部屋を包み込む。
(姿勢や力の入れ方だけで、こんなに歌い方が変わるんだ……!)
ほんの一瞬の出来事だったけれど、私は胸の奥から、ものすごい感動を覚えていた。
一番の歌詞をすべて歌い終えて、終了となった。
「ありがとうな。もうええで」
凛先輩が声をかける。
白井先生も、そこからは何も言わずに聴いていた。
部屋を出ても、まだ心臓がドキドキしている。
(自分の歌声って始めて意識したかも……)
入れ替わるように、ドアの前でガチガチに緊張した萌ちゃんが部屋に入ろうとしていた。
私は小さな声で「頑張って!」と言って、ソプ部屋を後にした。




