第4話: 人は何度でも始められる
「好きなところに座って待っててね。」
杏奈先輩と紬先輩はそう言い残すと、部員たちの輪の中へ戻っていった。
私は一番端の席に、ひっそりと腰を下ろす。
やがて、一人の生徒がスッと前に出た。
「ほな、時間になったんで合唱部の紹介始めまーす。学生指揮者をやってる、紺野凛です。よろしくな」
ここは宮城県だ。
テレビ以外で生で聞く関西弁は、初めてかもしれない。
紺野先輩は軽く部活の紹介を終え、まっすぐこっちを向いた。
「今日は春にちなんだ曲を2曲。気楽に聴いてな。」
紺野先輩が手を振り上げた瞬間。
想像もしなかった「音の圧」が、私の全身を貫いた。
(――っ!?)
学校の合唱祭や授業で聴くのとは、次元が違う。
女性の声だけで、どうしてこれほどまで重く、鋭い音が出るのか。
――『花は咲く 私は何を残しただろう』
2曲目の、『花は咲く』。
そのフレーズが、耳の奥で何度も繰り返される。
(……何を残しただろう、か)
中学時代、私は陸上にすべてを捧げていた。
雨の日も、足が痛む日も、ただタイムを削ることだけを考えて走り続けた。
けれど、本番で足がすくみ、結果を出せなかった。
必死に頑張っても、何も残せない。
あんなに苦しかったのに、手元には空っぽの自分しかいない。
またあんな風に、努力しても報われないかもしれない恐怖。
その事実が怖くて、私は何かに夢中になることから距離を置いてきた。
――でも、目の前で必死に声を合わせる部員たちの姿に、
がむしゃらに走っていた頃が重なり、なんとも言えない感情が流れ込む。
泥臭く、必死に、何かにしがみついている者だけが持つ、熱。
気づけば、演奏は終わっていた。
周りの1年生が動き出す中、私はパイプ椅子に座ったまま、動けずにいた。
「どうだった?」
ふいに、紬先輩が隣に座った。
「えっと……すごかったです。特に『花は咲く』。皆さんで歌うと、あんなに音の圧がすごいんですね」
絞り出すような私の言葉に、先輩は優しくうなずきながら聞いてくれていた。
少しの沈黙の後、私は震える声で問いかけた。
「……音楽経験がなくても、私、歌えるようになりますか?」
「もちろん、大丈夫だよ。ゆっくり練習していけばいいんだから」
「……でも、私、楽譜も読めないんです。それに……」
私は言葉を濁した。
一度逃げ出した人間が、やりきれるだろうか。私が混ざっても良いのだろうか。
紬先輩は、少しだけ目を細めて私を見た。
「……部活ってさ、何かが『できる』人が集まる場所だけじゃないと思うんだよね。」
先輩は、私の迷いを見透かしたように微笑む。
「何かに『なりたい』人が来てもいいんじゃないかな。だから、経験なんて関係ないよ。」
その瞬間、頭の中でブレーキが外れた音がした。
(……ここなら、もう一度頑張れるかもしれない)
「これで部活見学終わりです〜」と杏奈先輩の声が響いた。
「お土産ね」と笑って、紬先輩は私の手に数個のフルーツ飴を握らせてくれた。
退出していく1年生の列に混じりながら、私はもらった飴をぎゅっと握りしめた。




