第26話: 無門
今日から、白井先生が指揮台の上に立ち、
コンクールの課題曲『無門』の全体合わせが始まろうとしていた。
校歌やイベント用の曲で全体で合わせる経験はあったけれど、
コンクールの曲を全員で声を揃えるのはこれが初めてだ。
パート練習の時は自分のパートのメロディしか聴いていないから、他のパートがどう動くのか全く分からない。一体どんな響きになるんだろう。
「じゃあ、早速合わせてみましょうか」
白井先生がすっと両腕を上げた。
全員が一斉に息を吸い込み、最初の音を待ち構える。
指揮棒が振り下ろされた瞬間――音が弾けた。
ソプラノ、メゾソプラノ、アルト。
三つのパートがそれぞれの楽譜に従って動き出す。交わり、重なり、ハモり、時には静寂が訪れ、また音が複雑に絡み合う。
(音に呑み込まれそう……!)
今まで歌ってきた歌とは全く違う。まるで音の波が怒涛のように押し寄せてくる感覚だ。
他のパートにつられて音程を外さないよう、私は隣の先輩や周りのメゾソプラノの子たちの声を必死で追いかけた。
なんとか最後まで歌いきったところで、白井先生の指揮がピタリと止まる。
少し間を置いて話し出す。
「まず大前提として、自分のパートの音とリズムを完璧に頭に入れていなければ話になりません。
パートリーダー、音が怪しい子がいたら必ず指摘すること。まずは何度も繰り返し歌って、演奏の形を作りましょう。前半と後半、区切りながらやっていきます」
「「はい!」」
そこから数日間、愚直な反復練習が始まった。
何度も何度も合わせを繰り返し、各パートが自分たちの音の動きに慣れてきた頃
――白井先生がパンと手を叩いた。
「だいたい各パート、音とハーモニーはまとまってきましたね。
……それでは、ここに『色』をつけていきましょう」
白井先生は部員たちを見渡して言った。
「最初にこの曲の作詞者である、淵上毛錢についてお話ししましたね。
それを踏まえて、各パートごとに『ここはどんな気持ちで歌うべきか』『作曲者はなぜこの詩にこのメロディをつけたのか』を話し合って発表しなさい。曲のイメージを固め、全員の認識を揃える作業に入ります」
言葉を一度区切り、先生は力強く告げた。
「歌というのは、機械的に音階を覚えてハーモニーを奏でるだけでは、当然ですが金賞なんて取れません。そこにどんな感情を乗せるのか、全員が同じ情景を思い浮かべて歌えているか
――それが一番大切なのです。それじゃあ、パートごとに話し合いを始めて」
渡されたプリントには、曲の元となっている毛錢の詩が印字されていた。
『風は、きらひといふものが ないのだらう。
道も 持つてゐないくせに、何処へでも行き、なんにでも触れて。
行つてしまつたあとは、月がさしたり、雨が降つたり、人間が泣いたりもする。
風はなにやら ぽかんとした、痩せっぽちの 僕なんかを、知りもしまい。
花が散つて、垣の外ではこどもが、
あんたが家は何処さ、肥後さ、肥後の何処さと、うたつゐてた』
パートごとに輪になり、パートリーダーの琴音先輩を中心に話し合いが始まった。
「まずは前半の風についての部分だね。作詞者はどんなことを考えてこの詩を書いたと思う?」
琴音先輩の問いかけに、紬先輩がぽつりと呟いた。
「……『憧れ』、かな」
「どういうこと? 」
「えっと……この詩を書いた淵上毛錢さんって、
すごくひどい病気で、若くして寝たきりだったんだよね。
身体はボロボロで苦しい中で、この詩を書いたんだと思う。自分は動くこともできなくて、外にもほとんど出られない。病室の窓から見える景色が、すべてだったんじゃないかな」
紬先輩は視線を遠くに向けながら続けた。
「だから……道なんて関係なくどこへでも行けて、何にでも触れられる風が、羨ましかったんだと思う。自由気ままにどこかへ行ってしまう風に対する、切ないくらいの憧れを感じるの」
(すごい……紬先輩……)
まるで詩人の心をそのまま代弁しているかのような言葉に、胸が締め付けられる。
「私もそう思います……」
樺音が頷き、私も大きく深く同意した。
「じゃあ後半の、子供たちの『あんたがたどこさ』のフレーズはどうかな?
窓の外で元気に遊ぶ子供たちを眺めているのかな?」
琴音先輩が投げかけると、中学生の女の子が小さく手を挙げた。
「あの……私は、走馬灯みたいな感じかなって思いました。病気の苦しみの中で意識が薄れかけている時に、自分が元気だった幼少期の楽しかった思い出が、幻聴みたいに聞こえているのかなって……」
「なるほど……! そういう捉え方もあるんだ」
話し合えば話しあうほど、同じ楽譜を見ていても一人ひとり抱くイメージに違いがあることが分かってくる。
この微妙なズレをすり合わせ、一つの大きな絵として完成させること
――それが白井先生の狙いなのだと理解できた。
♢
各パートの話し合いが終わり、まとまった解釈を全体で共有した。
白井先生がうなずき、指揮台に上がる。
「全員のイメージが揃いましたね。それでは冒頭の『風は』の部分。
ここは動けない病床からの『自由への猛烈な憧れ』を込めて歌いなさい。
風という言葉の『k』の子音を柔らかく、遠くへ届けるように。」
「そして後半の童謡の部分は、苦しみを知らない無邪気な子供たちの声です。
自分の重苦しい身体とは対比的に、軽やかに、浮遊感を持って音を抜きなさい。
……今のイメージを頭に描いて、もう一度」
白井先生の指揮が高々と掲げられる。
全員で深く息を吸い込み――再び歌い始めた。
――ッ!?
声を出した瞬間に鳥肌が立った。
さっきまでただの「音の固まり」だった響きが、一瞬にして色づいたのだ。
冷たく透明な風が部屋を吹き抜け、その向こうから儚い子供たちの歌声が聞こえてくるような、
圧倒的な立体感。話し合いでイメージを共有しただけで、ここまで景色が変わってしまうのか。
この部活に入ってから、今まで知らなかった合唱の奥深さに触れ、驚かされてばかりだ。
――もっと上手くなりたい。
胸の奥から、そんな感情がふつふつと湧き上がってくるのを、私は確かに感じていた。




