第23話: 雨音と鍵盤
梅雨に入り、雨の日が多くなってきた。
今朝も激しい雨音を聞きながら、傘をさして早めに家を出た。朝練をする気満々だったけれど
――最悪なことに、楽譜を音楽室に忘れてきてしまったのだ。
まずは音楽室のパート部屋へ楽譜を取りに向かう。
ガチャッ。
重いドアを開けて部屋に入った。
早朝だし誰もいないだろうと思って入ったのに――窓際に、紬先輩が座っていた。
「あれ、茜ちゃん? どうしたの?」
「あ……ごめんなさい! 今日ピアノの練習をしようと思って、楽譜を取りに来ました。
先輩も練習ですか……?」
問いかけながら近寄ると、紬先輩の傍に、
水筒と一錠だけなくなっている薬のシートが置かれているのが目に入った。
(薬……飲んでたのかな?)
「あの……先輩、大丈夫ですか? 具合悪かったりします……?」
「あー……これね」
紬先輩は苦笑いをして、間を置いて話始めた。
「最近、梅雨に入って雨すごいでしょ? 私、ひどい頭痛持ちでさ。
低気圧が来ると頭が割れそうになっちゃうの」
「あ……分かります! 私のお母さんも頭痛がひどくて、よく薬飲んでます」
「そうなの? 本当、この時期は参っちゃうよね」
「無理しないでくださいね……!」
「大丈夫、少し休んだら教室行くから。ダメそうなら保健室行くよ~」
「はい……じゃあ私、練習してきます!」
紬先輩に頭を下げ、私は防音室へと向かった。
ガチャッと防音室のドアを開ける。
すると――窓側のスペースに、小林くんが座っていた。
「あ……ごめん、使ってた?」
「いや、いいよ。あのさ……教室戻ると女子たちがうるさいから、ここにいていい?
練習の邪魔はしないし、音楽聴いてるだけだから」
彼はイヤホンを見せながら言った。
「え……まあ別にならいいけど。私、本当に初心者だから一からの練習を見せることになるよ?」
「別に大丈夫」
小林くんは荷物を窓側に広げ、すっかり自分の部屋のようにくつろぎ始めた。
(まあ……いっか)
雨音が聞こえる沈黙の中、私はキーボードの前に座り、校歌の楽譜を広げて鍵盤に指を置いた。
……けれど、やっぱり全然上手くいかない。音を辿るだけで指がもつれてしまう。
すると、しばらく黙っていた小林くんが声をかけてきた。
「……まだそれ弾くのは早いんじゃない?」
驚いて振り向くと、畳みかけるように質問が飛んできた。
「ちなみに楽譜読めるの? あとリズム。四分音符、八分音符、十六分音符とか、リズムの概念自体がよく分かってない気がするんだけど。まずはその基本から始めた方がいいんじゃない?」
「……実は本当に初心者で、楽譜すら読むの怪しいです……」
観念して正直に明かすと、小林くんは「やっぱりな」という顔をした。
「じゃあさ、最初はYouTubeの解説動画とか見るのが手っ取り早いよ。
あとは……『ド』の位置を覚えるところから始めて、片手ずつゆっくり音を弾く練習かな。
楽譜のカタカナじゃなくて、音符の形と鍵盤の位置を直接結びつける練習」
「ほう……なるほど……!」
思わず本気で感心してしまう。
それを見た小林くんが、ふっと口元を緩めて笑った。
「なんか……初めてピアノ触った小学生みたい」
「……小学生卒業できるように頑張りますっ」
私が返すと、また小林くんがふふっと声を漏らして笑った。
その瞬間――。
ガチャッ!
「おーい! 橙真、この譜面の部分について相談なんだけど――」
勢いよくドアが開いた。入ってきた男子生徒は、私と小林くんの姿を見るなり、驚いた顔をした。
「え……ど、どういうこと……!?」
彼は小林くんに詰め寄ると、オーバーに膝から崩れ落ちた。
「おいおいおい……! ついに彼女作ったのかよ俺より先に!
何の断りもなしに作るとか言えよ報告しろよぉぉぉっ!!」
「えっ!? あ、あのっ、違います! ピアノを教えてもらってただけで――!」
私が慌てて訂正するものの、パニックになった彼の耳には全く届かない。
見かねた小林くんが、彼の頭を叩いた。
「聞けって」
小林くんが淡々と経緯を説明すると、ようやく誤解が解けたようで、
その男子生徒はバツの悪そうな顔で私に向き直った。
「あー、騒いですんません! 俺、こいつと同じバンドの土屋 大我。
同じ学年だよね? どこのバンド所属なの? 俺、学年内の軽音部員は全員覚えてる自信あったんだけどな。ちなみに俺、アケビ中学出身!」
グイグイ質問してくる土屋くんも、少し明るい髪色で制服を着崩したチャラい印象があり、その見た目通りの感じだった。
「私、軽音部じゃなくて合唱部で……五十嵐 茜っていいます」
「えっ!? 合唱部なんだ……! 合唱部って、あの美人な桜ちゃんがいるとこだ!
なぁ茜ちゃん、連絡先教えてもらってもいい!?」
「おい……」
小林くんが呆れ顔で止めようとしたその時、予鈴が鳴り響いた。
「やッべぇ、行かなきゃ!」
私も小林くんも焦って荷物をまとめる。
三人でドタバタと防音室を飛び出した。
その時、大我君が声をかけてきた。
「そういえばさ、茜ちゃん。斎藤美空っているよね?
そいつ……なんていうか…うまくやれてる?」
「…え? うん! 経験者だしすごく練習も一生懸命だから、
同級生の間でもすごいねって噂になってるよ」
「そっか……ならいいんだけど。あ、もう本鈴鳴る! 橙真急げ! 茜ちゃん、バイバーイ!」
大我くんは小林くんの腕を引っ張りながら走っていった。私も急いで自分の教室へと向かう。
◇
廊下をダッシュしながら、土屋大我は隣を走る小林橙真にニヤニヤしながら話しかけた。
「珍しいじゃん、お前が女子とフツーに話すなんて。いつもならテキトーに流してるだろ。どういう風の吹き回し?」
「……なんか、他の女子と違って話しやすかっただけ」
「確かに! お前と喋れた女子ってキャーキャー金切り声あげてうるせぇもんな。てかお前が無駄にモテるからなんだけどさ!」
大我は悔しそうに言った。
小林は走るスピードを緩めず、少し考えるように呟いた。
「あとは……あれかな。自分と真逆の人間って感じがしたから」
「…ふーん? よく分かんねぇけど、頑張れよ!」
バシィィィン! と、大我がものすごい力で小林の背中を叩いた。
その鈍い音が、静かな7階の廊下に大きく響き渡る。
「……っ!!」
小林は声にならない悲鳴をあげて背中を押さえながら、二人で猛ダッシュで階段を駆け下りていった。




