第21話: 朝練、新しい出会い
次の日。
まだ静まり返った早朝の校舎に、私は足を踏み入れた。
オープンスクールの曲に、コンクールに向けての練習。覚えなければいけないことは山積みだ。
だけど、これから先の手間を考えたら
――少しでも自分でピアノを弾いて音取りができたら、どんなに楽だろう。
樺音に迷惑をかけることもなくなる。
(練習するしかない……!)
私は朝の会が始まる前の時間を使って、自主練をすることにした。
樺音に教えてもらったイメージを頭に叩き込み、まずは校歌を弾けるようになるのが目標だ。
目指すは、樺音が教えてくれた七階の奥にある防音室。
静かな廊下を進み、ドアを軽くノックした。
「誰かいますか~……?」
恐る恐る声をかけてみたけれど、返事はない。中は誰もいないようだ。
(よしっ……!)
息を呑んでピアノの前に腰を下ろす。
これまでの人生で、自分がピアノに向き合う姿なんて想像できただろうか。
なんだか不思議な感覚だ。
(まずは楽譜を解読するところからだな)
校歌の楽譜を開き、いざ鍵盤に手を置く。
音階のカタカナを振った楽譜を使っているから分かっているのに、指が全くついてこない。
もどかしさで頭がパンパンになり、集中力を極限まで高めて鍵盤を見つめていた、その時。
――ガチャッ。
突然ドアが開き、誰かが入ってきた。
入ってきたのは、整った顔立ちに少し明るい茶髪の男子生徒だった。
うつむき加減で入ってきた彼は、私に気づくとピタッと足を止めた。
「……えーと、ごめん。俺、荷物置いてたんだけど」
慌てて室内を見渡すと、窓側のスペースに楽譜やペンなどの私物が散らばっていた。
「……っ!? ご、ごめんなさい! ピアノばかり見てて気づかなくて……!」
焦って楽譜をまとめ、退室しようとする。
「いや、いいよ。俺、もう練習終わってピアノ使わないと思ってたから。そのまま使ってて。荷物取ったら出ていくし」
彼はゆっくり歩み寄ると、自分の荷物をまとめ始めた。
(じゃあ……お言葉に甘えてもいいのかな……?)
ゆっくり腰を下ろし直し、再びピアノに向き合う。
楽譜をじっと見つめ、一つひとつ音を辿ろうとしたけれど――最初の音からすでにつまずきそうだった。初心者には校歌すら難易度が高すぎる。
すると急に、後ろから手が伸びてきた。
ピアノの上にあったメトロノームのスイッチが入る。
「これつけないと、テンポ分からないよ」
私の楽譜を後ろから覗き込みながら、男子生徒が言った。
樺音から「メトロノームを使いな」と言われていたのに、完全に忘れていた。
「もしかして……ピアノ初心者?」
「あ、はい! 初心者なんです……。合唱部に入ったんですけど楽譜が全然読めなくて、自分で弾けるようになりたくて……それでっ」
急に話しかけられてパニックになり、聞かれてもいないことまで一気に喋ってしまった。
「……っていうか、たぶん同級生だよね?」
彼が私の制服のリボンを指さした。椿学園の高校生は学年ごとにリボンとネクタイの色が分かれている。彼も私と同じ色のネクタイを緩く締めていた。
「何組?」
「私は……五組です」
「だからか。俺一組だから知らなかったんだ」
彼はメトロノームから手を離すと、どこからかチョコレートを取り出した。
(あれ……あのチョコレートって……)
見覚えのあるパッケージ。小さく『ルミエール』とロゴが入っている。
この前、お父さんからもらった新作のチョコと同じだ。
「そのチョコレート……ルミエールの?」
「ここのチョコとケーキ、マジで美味いんだよね。好きすぎて毎日買いたいレベル」
「それ……うちの父親のお店なんだ」
「えっ……マジで!?」
目を丸くする彼を見て、なんだか急に親近感が湧いてきた。
少しチャラそうな見た目の人とは話すのが苦手だったけれど、思っていたよりずっと話しやすい雰囲気の人だ。
彼が驚きながらチョコレートを食べる姿を見て、思わずふふっと吹き出してしまった。
改めて彼の顔をよく見て――ハッとした。
(あ……思い出した! 軽音部の見学に行ったとき、いた……!)
「えっと……確か軽音部だよね? 見学のとき見かけた気がする」
「そう。俺、キーボード担当。たまにここのピアノで練習してる」
「私、ここでこれから朝練しようと思ってたんだけど……毎日使ってる?」
「毎日ではないかな。たまに。ピアノ使わないで居座ってるときもあるから、使いたいときは声かけて」
「じゃ」と彼は短く言い残し、自分の荷物を持って去っていった。
ふと窓側を見ると、彼が置いていってしまった楽譜の端に『小林』と名前が書かれていた。
――昼休み――
「……小林!?」
教室で葵に小林という軽音部の部員を知っているか尋ねると、葵は目を丸くした。
「軽音部ではめちゃくちゃ有名人だよ! たぶん他のクラスの子もみんな知ってると思う」
「私もクラス違うけど知ってるよー。女子たちがよく噂してるし」
お弁当を広げていた緑も会話に入ってきた。
(えっ……知らなかったの私だけ……!?)
「何でそんなに有名人なの……?」
「一年生のバンドグループの中で一番上手い…いや先輩達と比べても上手いかも。
特にギターとキーボードがズバ抜けててさ。ギターの土屋 大我と、キーボードの小林 橙真が中心メンバー。特に小林くんはイケメンだから超有名! 土屋くんはうるさいので有名だけどね。」
「へぇ……そうなんだ……」
「……で、何かあったの?」
緑が声をひそめて身を乗り出してきた。
「いや、なんで小声……?」
「そりゃあ、小林くんのファンクラブに殺されちゃうからだよ!」
「いや……少し話しただけだよ!」
「まあ、話したのがウチらで良かったね。
私は田辺 寛みたいな濃い顔が好きだから別に興味ないけど~」
葵が今日も購買のパンを頬張りながら言う。
「何そのどうでもいい情報……」
緑が冷ややかにツッコむ。
(そっか……有名人なんだ。ファンクラブに刺されないように、ひっそり練習しなきゃ……。
まあ、もう会うこともないよね)
急な出会いに驚いたが、午後の授業を終えて、放課後は音楽室に向かう。




