第16話: 響合
三階の職員室で相沢先生に事情を話すと、樺音は応急処置をしてもらって少し休むことになった。
「じゃあ、私はそろそろ行くね。先輩たちには伝えておくから」
出て行こうとする私の背中に、樺音がぽつりと声をかけた。
「……茜」
「え?」
「来てくれて、ありがとう。助かった」
「ううん。じゃあ、また後でね」
私は手を振って職員室をあとにした。
廊下を歩きながら、ふっと心が軽くなっていることに気づく。
(……なんか、さっきは樺音とギクシャクせずに喋れたな)
胸の中に小さな達成感を抱きながら音楽室に戻り、杏奈先輩に事の経緯を報告した。
「そっか、教えてくれてありがとう。無事でよかったー」
杏奈先輩がホッとしたように声をかけてくれる。
見回すと、他の先輩や一年生、中学生たちは、外周走のダメージのせいか
ヘロヘロになって床に転がっていた。
「はいはい、もうすぐ白井先生がいらっしゃるから。
水飲む人は飲んで、汗拭く人は拭いといてねー」
凪先輩がパンパンと手を叩きながら全体に声をかける。
「茜もありがとうね。発声練習始めるから準備しちゃって」
「はい」
返事をしてタオルで汗を拭き、水分を補給してからメインホールに向かう。
部員全員が息を整え、メインホールに集まったまさにその瞬間――ガチャッとドアが開いた。
顧問の白井先生が入ってくる。
「今日は全員揃っているかしら?」
白井先生が杏奈先輩に尋ねた。
「今、メゾソプラノの一年生が一人、トレーニング中に転んでしまって……職員室で休んでいます」
「休んでいる子の名前は?」
「野中樺音です」
紬先輩が答えた。
「野中さんね。まあ、今のところ全体に大きな影響はないでしょう」
白井先生は独り言のように呟くと、パンと手を叩いた。
「はい、じゃあ発声練習を始めます。全員、隣の人とぶつからない程度に広がって」
指示に従い、部員たちが一定の間隔をあけて広がる。
「今日は私が直接指導します。学指揮の二人も練習に入りなさい」
「はい」
凛先輩と琴音先輩も輪の中に入った。
白井先生がピアノに向かい、鍵盤を叩く。
音が上がり、パート分けの時にやった発声練習が始まった。
一通り音階を昇り降りしたところで、白井先生がピアノの手を止めた。
「高校二年生は高校一年生と、中学三年生は中学一年生とペアになりなさい。人数が合わない部分はグループでも構いません」
「はい」
先輩たちがサッと動き始める。
ポンと肩に手が置かれ、振り返ると紬先輩が微笑んでいた。
「茜ちゃん、一緒にペア組もうか」
「よろしくお願いします」
「はい、ペアが組めたら向き合って。発声練習再開します」
再び白井先生がピアノを奏でる。
目の前に紬先輩がいて少し照れくさかったけれど、音階に合わせて声を出していく。
(……紬先輩、本当に声が綺麗だなあ)
間近で聴く先輩の声は、透き通っていてどこまでも響くようだった。
(あ、そうだ……肩の力、抜かなきゃ。
……それにしても、紬先輩、すごい笑顔で歌ってる。
そういえば合唱って、笑顔で歌うのが基本だった気がする。なんだっけ、表情筋を使うんだっけ……?)
見よう見まねで、私も口角を上げて歌ってみる。
音が止み、白井先生が告げた。
「はい、先輩たちはそれぞれ下級生にアドバイスしなさい」
次の瞬間、紬先輩の手が伸びてきて、私の両頬をむにゅっと引っ張った。
「びっ……!? い、いた……」
思わず間抜けな声が出た。紬先輩がくすくす笑う。
「茜ちゃん、顔がガッチガチだよ~。もっと笑顔を意識して歌ってみて。
あと、やっぱり肩に力が入ってるから、一回ぶらぶらーって揺らして力抜こうか」
「は、はい……」
紬先輩に言われた通り肩を揺らし、自分でも頬をぐるぐると揉みほぐしてみる。
そこへ、白井先生の声が響いた。
「新入生。先輩たちを見たら分かると思うけれど、全体的に表情が硬すぎます。
口角を上げて、軟口蓋――上顎の奥の柔らかい部分を引き上げて歌いなさい。口角を上げるのと上げないのとでは、音の響きとピッチが全く違ってきます」
白井先生が鍵盤で『ソ』の音をポーンと一つ鳴らした。
「例えば……口角を上げずに歌うと、こう」
先生が暗い表情でボソッと「そー」と発声する。少し音がぶら下がって、重たく聞こえた。
「そして、口角をしっかり上げて、響きを前に飛ばすと――」
同じ『ソ』の音なのに、今度はパーンと明るく、ホール全体に響きわたるような美しい声が広がった。
音の高さは同じはずなのに、響きの華やかさがまるで違う。
「口角を上げている人と上げていない人が混ざると、それだけでハーモニーのまとまりが完全に崩れます。一年生は特に、表情作りを徹底しなさい。」
「はい」
その時、ガチャッと後方のドアが開いた。
樺音が入ってくる。
「遅れてすみません。練習に入ります」
樺音は小さく頭を下げると、静かにメゾの輪の中へ入っていった。
白井先生も頷き、発声練習が再開された。
――それから十分ほど、みっちりと発声練習が行われた。
白井先生が杏奈先輩に目配せをすると、
杏奈先輩が全体に向かって声を張り上げた。
「はい、発声練習終わり! それじゃあ校歌の合わせに入ります。
全員楽譜を持って、メインホールに集まってください!」
初めて部員全員で声を合わせるんだ…。一体どんな響きになるんだろう。
指揮台に白井先生が立ち、静かに両腕を振り上げる。
「まずは出だしの和音。ハミングで合わせます」
白井先生の合図とともに、先輩たちが「ん――」と息を揃えて声を響かせた。
慌てて私も真似をしてハミングで声を出す。
各パートの声が次々と重ね合わさり、ひとつの巨大な響きになって音楽室を包み込んだ。
声が綺麗にハモった瞬間、自分の体の中心がビリビリッと電気を帯びたように震えた。
ただ隣で聴いているのとは違う。『輪の中』にいると、全身が振動するような不思議な感覚がする。
「じゃあ、一通り通しで行きます」
白井先生の指揮棒がしなやかに空を切った。
校歌の合唱が始まる。
メゾソプラノは、ソプラノとアルトに挟まれた真ん中のパートだ。
右と左からそれぞれ違うメロディや和音が飛び交い、油断するとすぐに自分の音が釣られそうになる。
先輩たちの声を必死にガイドにして、自分の音を保とうと声を絞り出した。
一番を歌い終えた瞬間、白井先生の手がピタッと止まった。
静寂。
誰も息を吸う音すら立てられないような、重い空気が音楽室を支配する。
白井先生が、私たちを見回した。
「……今年も同じね」
小さく呟いた。
「ソプラノ。声が出ているのは結構だけれど、周りの音をもっとよく聴きなさい。自分さえ上手く歌えばいいというものではありません。自分の声を主張する前に、他のパートの声の色を伺うこと」
「はい……」
「アルト。こちらも声は出ていますが、低音がブレています。腹筋で支えられていないのが丸分かりです。それに、低音の時の『声の質感』がバラバラ。次からのパート練習で声色の統一を徹底しなさい」
「はい……」
「そして――最後、メゾソプラノ」
白井先生の視線が、私たちメゾに注がれた。
「弱い。圧倒的に声量が足りない」
「あなたたちが真ん中で支えることで、ハーモニーに厚みが出るの。周りに合わせることも大切だけれど、もっと自分の声を芯から張っていきなさい。……これじゃあまるで、具のないサンドイッチよ」
(ぐ……具のないサンドイッチ……!)
その瞬間、以前琴音先輩が言っていた言葉が頭をよぎった。
『今、メゾは猫の手も借りたいくらい人が欲しいからね!』
(あの言葉って、ただ人数が少ないってだけじゃなくて……
他のパートに比べて圧倒的に声量が足りないって意味かも…)
「それから、一年生」
白井先生の言葉は終わらない。
「もう少しピッチ、音程を意識しなさい。音を外している子が何人もいて、ハーモニーを濁らせています」
「……はい」
一年生から、弱々しい返声が漏れる。
「もう一度! 返事は!?」
「「はい!!」」
全員の引き締まった声が揃う。
たった一曲、校歌を歌っただけでこれだけの修正点が飛んでくるなんて。
白井先生は止まることなく次々と問題点を挙げ、指示を出していく。
私は慌てて楽譜と鉛筆を取り出し、言われたことをメモしていった。
楽譜の余白は、あっという間に黒い文字で埋まっていく。
(これを……オープンスクールまでに完璧にしなきゃいけないんだ……)
やるべきことは山積みで、気が遠くなりそうだった。
だけど――楽譜にぎっしりと書き込みをしながら、私は不思議と「逃げ出したい」とは思わなかった。
なんとか食らいついて、やるしかない。
隣で同じように楽譜に書きこんでいる樺音の横顔を見ながら、私は強くペンを握りしめた。




