第15話: 野中樺音
「……痛い。はぁ……」
大きくため息をつきながら、野中樺音はぼんやりと青い空を見上げていた。
合唱部がこんなにハードなトレーニングをするなんて、聞いてない。
校舎裏の冷たい水道で、血がにじみ、砂まみれになった膝の傷口を洗い流す。水がしみるたびに、傷口がズキズキと痛む。
歩くたびに少し痛むし、今日は日差しが強くて頭がぼーっとする。
(……最悪だ。保健室、開いてるかな……)
母親は有名なピアノの先生、父親はピアノの調律師。
そんな音楽一家に生まれた私は、物心つく頃から、常に音楽に囲まれて育ってきた。
母親の姿を見て、自分も大人になったらこうなるものだと、なんとなくピアノを始めた。
もともと手先が器用だったこともあって、ピアノはすぐに上達した。
私の子供時代はそれだけだった。
朝から晩まで鍵盤に向かい、友達と放課後に遊ぶことなんてほとんどない。運動らしい運動も、これまでの人生で一切してこなかった。
コンクールに出れば、いつも一番。両親からの期待はどんどん膨んでいった。
でも、表彰式で首に下げられるメダルやトロフィーとは裏腹に、私の心は少しも色づいていないように感じていた。
(……なんで私、ピアノ弾いてるんだろ)
そんな私の世界が変わったのは、小学四年生のとき。
いつも一番だった私が、コンクールで初めて負けた。
綺麗に束ねられたポニーテールに、真っ直ぐな姿勢。そして、あふれ出る圧倒的な自信。
その子の奏でる演奏は、言葉にできないほど美しかった。
悔しさよりも先に強い興味が湧いて、私は思わずその子に声をかけていた。
「なんで、あんなに上手に弾けたの?」
するとその子は、私を真っ直ぐに見つめてこう言った。
「音楽が好きだから」
曇りのない真っ直ぐな視線。
ずっと一人でピアノと向き合ってきた私の中で、何かが変わるきっかけだった気がする。
それから、ピアノのコンクールで顔を合わせるたびに、私たちは少しずつ話をするようになった。
その子は自分のことを「みっちゃんでいいよ」と言ったから、私もそう呼んでいた。
小学生の頃の思い出だ。もう五年も前のことだから、今となっては本名すら思い出せない。
そんなみっちゃんが、小学六年生になったばかりの頃、突然言った。
「私、今日でもうピアノ最後なんだ」
「え……? やめちゃうの?」
「うん。私、ピアノは音楽の基礎を学ぶためにやってただけだから」
「じゃあ、次は次は何をやるの?」
尋ねる私に、みっちゃんは言った。
「次やれるとしたら、合唱かな。吹奏楽はもうやってるしね。いろんな種類の音楽をやると、すごく面白いんだ。ピアノは一人で色々とアレンジできて楽しいけど、吹奏楽はメンバーと楽器の音を合わせて、やっと一つの音楽が出来上がる。合唱は、自分の声と他人の声を重ね合わせる音楽。音楽って一つ取っても色んな種類があって、私はそれを全部やりたい」
時折見せる、みっちゃんの強く真っ直ぐな視線。
そこには、なんとなくで同じピアノの世界に浸り続けていた私には見えていない広い世界が見えているようで、本当に羨ましかった。
(私は、ピアノ一つに執着する必要があるのかな……?)
(違う種類の音楽に触れれば、私も変われるのかな?)
毎日、そんな自問自答を繰り返した。
そして私も、小学六年生の終わりをもってピアノをやめた。
当然、両親は戸惑ったけれど、何とか説得して中学では吹奏楽部に入部した。
中学の吹奏楽部に入部した。
当時はサクソフォンを担当することになった。
指の使い方に慣れるまでは難しかったけれど、自分が新しいものに挑戦する感覚が楽しかった。
(楽譜以外に、新しく覚えることがたくさんある……)
ただ――
ずっと一人で練習してきた私にとって、「集団行動」という壁はあまりにも高すぎた。
『今の演奏について、思ったことを言ってみて』
学年が上がってくると、パート練習のときに当時の先輩や同級生から、必ず意見を求められるようになった。お世辞や遠回しな言い方を知らない私は、特に言うべきことが見つからないときは「特にないです」と答えていた。
それでも『何でもいいから言ってみてよ』としつこく促されるから、
私は見たままの事実を率直に指摘した。
「〇〇さんの何番目の音が違いました。あと、〇〇さんの音、高音が綺麗に決まっていません。慌てすぎです、もうちょっと落ち着いたらどうですか?」
良かれと思って言ったことだった。なのに、裏ではいつも陰口を叩かれた。
『もっと言い方考えてよ』『あれ、本気で言ってるの? 気が強すぎて無理』
(……本当によくわからない)
今までピアノの鍵盤としか向き合ってこなかった私にとって、人の心というものはあまりにも難解だった。相手のご機嫌を取るような嘘をついてもその人のためにはならないし、かと言って、その人のためを思って事実を言うと人を傷つけてしまう。
本当に、人間の関係なんてよくわからない。
けど、楽器を吹くこと自体は楽しかったから、
私は「まあ、周りのことなんて気にしなければいっか」と割り切ることにした。
そして椿学園に入学して、吹奏楽部と書いた入部届を提出した。
しかし、それを受け取った担任の先生は、困ったように苦笑いを浮かべた。
「野中さん、ちゃんと部活見学行った?
あのね、言いづらいんだけど……この高校、吹奏楽部はないのよ?」
「……え?」
吹奏楽部なんて、どこの高校にも当たり前にあるものだと思い込んでいた。
特に部活の下調べもせずに入試の学力だけで高校を決めてしまったせいで、私もうちの両親も、全員がその事実にまったく気づいていなかったのだ。私たちのこういう抜けているところは、本当に血筋だと思う。
呆然とする私に、先生が慌てて提案してくれた。
「すぐに音楽がやりたいなら、合唱部ならあるけど……これならどうかしら?」
合唱部――。
その言葉を聞した瞬間、脳裏にみっちゃんが浮かんだ。
(合唱は自分の声と人の声を重ね合わせる音楽――)
(もしかしたら、合唱部に入れば、またみっちゃんに会えるかもしれない)
「じゃあ、それでお願いします」
そんなこんなで入部してみた合唱部だったけれど、いきなり外を走らされるハードなトレーニングはあるし、何より、楽譜すら読めない完全な初心者までいる。
私は、同じメゾパートになった子の顔を思い浮かべた。
名前は確か、茜って言ったっけ。
『楽譜も読めないで合唱部に来たの?』
(……なんとなくだけど、あの時の私の言葉遣い、間違ってた気がする)
客観的に振り返れば、かなり冷たい言い方だった。これで無視されたって、文句は言えない。
はぁ、と今日何度目かわからないため息をつき、そろそろ職員室へ向おうと腰を上げかけた、その時だった。
「――見つけた……っ」
少し息を切らしながら、茜が、目の前に立っていた。
「……っ?」
私が驚いていると、言葉を遮るように、茜が一気にまくしたてた。
「大丈夫? 足、怪我したんでしょ……めっちゃ血が出てるじゃん。傷口は水で洗ったんだよね? 先に止血した方がいいな。あ、このハンカチもう使わないから、これで縛っちゃうね。歩くと痛む?」
「……痛い」
「そっか……肩かそうか? それとも、おんぶする? 私、体力には無駄に自信あるから、遠慮しないで」
ぐいぐいと距離を詰められて、私は完全に困惑していた。
少し圧倒されながらも、「……肩だけ、貸してほしい」となんとか声を絞り出す。
「わかった。保健室は今日、土曜日だから閉まってるはず。三階の職員室まで行こう。相沢先生のところなら、きっと救急セットがあるはずだから」
茜は私の体を支えるように、肩を貸してくれた。
「……なんで、来てくれたの?」
私はこの子に対して、お世辞にも良くしていかったはずだ。大して喋ったこともないのに、わざわざ探しに来るなんて。
私がきょとんとした顔で横顔を見つめていると、私の視線に気づいた茜が微笑んだ。
「だって、戻ってこないから何かあったら大変だし。それに、樺音ちゃんには同じ一年生として、同じパートとして、色々と教えてもらったしね。私、音楽の知識も何もないし、今はこんなことしかできないけど……これから一緒に頑張っていきたいなって思ったの」
その真っ直ぐな言葉が、頑なだった私の心を少しだけ揺らす。
私はずっと気になっていた疑問を、口にしていた。
「なんで……楽譜も読めないのに、合唱部に入ったの?」
私の問いかけに、茜は少しだけ間を置いて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私さ、ずっと小さい頃から姉の影響で陸上競技をやってたんだよね。種目は長距離だったんだけど……途中で大きな怪我をしちゃって。一年くらい必死にリハビリして大会に挑んだんだけど、全然ダメだったの。そこからさ、『もう努力しても意味ないのかな』って思っちゃって。高校では、大会とか順位とかがない、平和な部活に入ろうって思ってたんだ」
茜は寂しそうに苦笑いをして、言葉を続ける。
「でもね、心のどこかで『それってただの逃げなんじゃないか』って思う自分もいて。
だけど上手く一歩を踏み出せなくて……自分が臆病で、言い訳ばっかりしてた。
そんな時に合唱部の見学に来て、紬先輩が言ってくれたんだよね。
『何かになりたい人が来てもいい場所』だって。それを聞いたとき、こんな自分でも何か変わることができるのかな、あの必死に努力する感覚をもう一度思い出せるのかなって、思ったんだよね」
――何かになりたい人が来てもいい場所。
茜の言葉を聞きながら、自分がなぜピアノをやめて、違う音楽の道を歩もうとしたのかを、もう一度思い出していた。
(違うことをしてみたら、私も変われる――)
小学生ながらに、ぼんやりとそんな希望を抱いていた記憶。
そっか……。
確かに吹奏楽部にいた頃の私は、違う音楽に触れて楽しかった。けれど、みっちゃんが言っていた「人と音を合わせる」ということは、正直言って何一つできていなかった。
一人で孤独にピアノに向き合っていた頃と、根本的な部分は何も変わっていなかったのだ。
他人との関わりを「面倒くさいもの」だと決めつけて避け、
楽器の技術だけに逃げ込んでいた私は、あの頃から一歩も進めていなかった。
相手の話をちゃんと聞こうともせず、なぜその人がそう思ったのかを知ろうともしなかった。
相手の過去も知らないくせに、
「経験者じゃないから」と煙たく思って、突き放してしまっていたのは私の方だ。
(変わるなら……今しかないかもしれない)
私は小さく息を吸い込み、隣を歩く彼女を見つめた。
「……樺音でいいよ」
「え?」
「これからは呼び捨てで、樺音って呼んで」
茜は少しびっくりしたように丸い目をしたけれど、すぐに笑みを浮かべた。
「わかった。じゃあ、樺音。私のことも、茜でいいよ」
他人の声と、自分の声を重ね合わせる音楽。
これから、それが分かる日が待っているのだろうか。




